第九十八話 一つの恋は、当人の気付かぬ内に終わる
「ん……」
経験のない男なら、喘ぎ声とも受け取ってしまいそうな、艶やかな声を漏らして、ルネは目をゆっくりと開けた。
ぼんやりと目を半ば開けた半覚醒の顔は、思わず頭を撫でてやりたくなるような魅力を備えていた。きっとまだ意識の半分は夢の世界を楽しんでいるのだろう。
ふんわりとした動きで上半身だけ起こして、そこから何をするでもなく、のんびりと静止した後で、乾電池でも入れ替えたかのように目をパチリと開けた。
「いけない! 寝過ごしてしまいました。すぐに朝食の準備をしなければ、ご主人様に叱られてしまいますぅ!」
どうやら単に寝坊してしまったと思っているらしい。拉致された状況下でも、俺のことを第一に考えてくれていることは、心底感激するが、たまには自分の安全を最優先にしても罰は当たらないのではないかな。
だが、そんなルネも、すぐに自分の置かれている状況を痛感することになる。何故なら、ルネの寝ていたベッドごと、巨大な鳥かごの中に収められていたからだ。早い話が、ちょっと可愛い牢獄に捕らわれているのだ。
「あら……」
意識が覚醒するにつれて、自分が日常とは違う世界に隔絶されていくことを理解していく。ただ根が呑気なのか、それともこれまで波乱万丈な生活を送ってきたためか、未だルネは焦りだすことはなかった。
「ここは……、どこですか……?」
気味の悪いくらいに静まり返った室内に、ルネの不安げな声だけが頼りなく響く。部屋を見回すが、自分以外は物どころか、塵一つ確認出来ない。生命を感じないというより、存在することを許されていないという感じだ。
「はてさて。どうして私はこんなところにいるのでしょうか。確かホテルという宿屋の一室で、ご主人様の留守を任されていた筈です。それがどうしてこんなところで寝ているのでしょうか?」
記憶を整理して、自分がここにいる顛末を思い出そうとするが、答えが浮かんでこない。こんなに記憶力が乏しい訳はなかったのだがと、頭を捻る。
ルネ一人では答えの見いだせない問題に答えてやると言わんばかりに、室内に人の気配が発生した。
「どちら様……、ですか……?」
俯けていた顔を上げると、ちょうどルネから数メートルのところに、格子を挟んで幼女が一人たたずんでいた。金髪で、白い鍋蓋のようなお面を被っている。
「そんな……? 部屋に入ってきた音はしなかったのに、いつの間に……。あら? そういえば、この部屋……」
その時に気付いたのだが、この部屋にドアすらもない。それならルネは、どこから入って、そしてどこから出ていけばいいというのだろうか。
ルネ一人だったら答えなど出せそうもないが、幸い答えを知っている筈の人間は目の前にいる。警戒させないように笑顔を作って、質問をしようと幼女に向かって、ルネは身を乗り出した。その意思を悟ったのか、話をしやすいように、幼女は仮面を外して、後方へと投げ捨てた。
「シロ?」
この場に俺がいたら同じように、そう口ずさんでいたに違いない。露わになった幼女の顔は、シロに瓜二つだった。背丈も同じ。しかし、目の前で微笑む少女は、確実にシロより大人びていた。
「シロじゃないよ……。私の名前はアルル……」
身を乗り出さないと聞き漏らしてしまいそうなか細い声で、幼女は自分の名前を語った。
「このホテルの朝食って、ハムの焼き加減が良いですよね。程よい熱さで、のど越しもなかなかです」
「スクランブルエッグのとろみも良いな。牛乳との相性も良い」
料理人の作ってくれた温かい料理を口に運びながら、城ケ崎と品評に花を咲かせる。昨日、長い時間濡れたままでいたので、風邪をひいてしまうことを心配したが、体調に異常はない。
「でも、一番嬉しかったのは……、大量の朝食を嫌な顔をせずに、部屋まで持ってきてくれることですね」
「違いない」
何せ、食堂に大蛇を連れていく訳にはいかないからな。そんなことをするのは、視聴率命のテレビディレクターくらいのものだ。
横で相変わらず丸呑みを続けている魔王を見る。ゆで卵を千個くらい献上すればいいかと楽観的に考えていたら、意外にもグルメらしく、手の込んだ料理を注文してきやがった。
とりあえず朝食のAコースを五十人前オーダーしたが、イタズラだと怒ることもなく、極上のスマイルで運んできてくれたホテルの対応には、ありがたさとかすかな心配を覚えた。
味に不満はないらしく、魔王は上機嫌に、三回に一回は食器ごと飲み下しつつ、食事を続けた。といっても、ヘビの表情の変化など見ても分からないがね。
むしろシロの方が、積極的に料理へダメだしをしていた。こっちのご機嫌を窺う必要はないので、相手にはしない。
空になった食器は、後程ボーイが取りに来ることになっている。部屋の中に入られると困るのでありがたい。回収まで至れり尽くせりだ。
食器を置くために廊下に出ると、今まさに出勤しようと隣室から出てきた藤乃と遭遇した。顔馴染みなので、あいさつくらいはする仲だ。
「今から出勤なのか?」
「見りゃ分かるでしょ? 水商売にでも繰り出すように見える?」
そんなことは思っていない。髪もスーツもピッシリしているし、化粧も見栄えが良いように適度に施されている。水商売のような下品さはない。だが、藤乃は俺の不躾な質問が余程お気に召さなかったらしく、刺々しい口調で、思いっきりしかめっ面をされてしまった。
剣幕に思わずたじろんでしまったが、一方でこいつが魔王の妻の座を狙っていたことを思い出す。ちょうど意中の相手が俺の部屋に来ているのだ。教えてやるのが親切なんだろうか。……ヘビだがね。
「あっ、藤乃! 深い意味はないんだがな」
「何?」
「お前、ヘビってどう思う?」
いきなり魔王を紹介して、ヘビだったら、悪質なイタズラと思われるかもしれない。確認も兼ねて、軽いジャブを打たせてもらう。
「ギャハハハ! ないわね! 私、爬虫類、大っ嫌いなのよ!」
「あ、そう……」
即答だった。考える素振りもなく、否定されてしまった。それだけじゃ足りないのか、藤乃は連発する。
「というか、蛇が好きなのは変態ぐらいのものでしょ? どうしてそんなありきたりのことを聞いてくるのよ」
は~い、完全にノックアウト! 藤乃と魔王がくっつく可能性は、完全に昇天しましたとさ!
「いや、深い意味はないんだ。聞いてみたくなっただけ」
「? 変なの」
藤乃は怪訝な顔で、俺の真意を探っていたが、やがて興味を失ったかのようにそっぽを向いて歩き出した。おそらく仕事へと足を向けたのだろう。その後ろ姿を眺めながら、こいつは異世界と今後関わっていくことはないんだろうなと、なんとなく実感した。爬虫類が嫌いなら、魔王へのアピールも、自動的に水泡に帰すことになるだろう。もしかしたら、金のために好き嫌いを克服するかもしれないがね。
まあ、藤乃なら、魔王へのアピールが失敗に終わっても、次なる相手を探して合コン会場を渡り歩くこととなるだろう。一時とはいえ、一緒に金を追った者として、合コンの成功を祈って、頑張れとエールを送らせてもらおう。結末は予想出来るが、玉の輿を狙う一人の女子を、応援しているよ。
レストランでデカ盛りを注文した際に、完食出来るか確認されることが、密かに嫌いです。
意気揚々と注文したら、予約が必要なんですと言われるのは、さらに嫌いです。




