第九十話 鬼ごっこの終焉
背後から、ジャングルが押し寄せてくるという珍妙な光景の中、俺と城ケ崎は、この空間から脱出することにした。
これまでは自分の意思で、この世界から出ることは出来なかったが、黒太郎を手駒にした今なら、可能だ。
「黒太郎! 俺たちの世界に戻りたいから、この空間を切り裂け!」
「えええ!?」
城ケ崎が驚いて俺を見てくる中、黒太郎は自身の両手をゴキリと鳴らしたかと思うと、鋭利な爪を伸ばして、何もない空間を勢いよく切る仕草をした。
すると、まるでカーテンをナイフで切り裂いたかのようにゆっくりと太陽の光が射し込んできた。ずっと白と黒しか見ていなかった目には痛いくらいに眩しい光景だ。
「この子、何でも出来るんですね」
「主に破壊方面に特化しているがね」
苦難と虚無しか経験しないこちらの世界に比べて、元いた向こうの世界は、まさに希望の象徴だった。
俺はお手柄だと、黒太郎の頭に手を乗っけて褒めてやった。敵として対峙するには脅威だが、味方にするとかなり使えるやつだ。
「よ~し! 出口が開けたのなら、もうこっちの世界に用はない。ジャングルが押し寄せる前に出るぞ」
「ええ、いつの間にか、もうすぐそこまで迫ってきていますからね。長居は無用で、無意味です」
階段を一段飛ばしで降りる要領で、勢いよく二つの隔たった世界をまたいだ。その瞬間は最高に気持ち良かったが、すぐに焦ることになってしまう。
なぜなら、空間の入り口は川の上だったからだ。当然、何の準備もしていなかった俺と城ケ崎は、仲良くまだ寒い水中へとダイブする羽目になってしまった。
「宇喜多さん……」
「ははは……、悪い悪い……」
悲鳴交じりに川から這い上がったものの、全身は当然ながらびしょ濡れになっていた。恨みがましい城ケ崎からの視線に、思わず頭を下げてしまう。
「何はともあれ、戻ってこられたのは、良いことじゃないか。もう蔓も追ってこないみたいだしな!」
こいつ笑って誤魔化したなと、城ケ崎がじゃっかん呆れているが、事実だろ。言い訳をする俺の横に、自分だけ水上を飛んできた黒太郎がドシンと着地する。さて、こいつをどうするか。
「黒太郎は異形で巨大ですからね。街中を連れまわす訳にもいきません」
「ペットでは通らないからな。仕方ないが、こいつだけさっきまでいた世界に戻ってもらうか」
それしかない訳だが、そこに城ケ崎が難色を示してきた。
「でも、今、あの世界に戻ったら、絶対にシャロンに襲われますよ。ご主人様として、そんな酷なことを命令していいんですか? 仮にも命の恩人ですよ」
「そんなことを言ってもだな……」
こいつを連れて、人前に出る訳にもいかないだろ。警察に職務質問されても、切り抜ける自信はないぞ。いや、それ以前の問題か。歩いた先から悲鳴が上がってしまう。
俺と城ケ崎の言い合いを大人しく聞いていた黒太郎だったが、自分の扱いで揉めているのが分かっているのか、ずいと前に出てきた。何か言いたいことでもあるのだろうか。
味方になったとはいえ、ついさっきまで俺に敵意をむき出しにしていたやつだ。また暴れ始めるのかと後ずさりそうになったが、よく見ると、体が溶け出しているではないか。
「あれ? 溶けていきますよ。今度は何をさせる気なんですか?」
「俺も知らん。まだ隠されていた能力でもお披露目するつもりなのかねえ。って、溶けながら、俺にへばりついてきた!?」
黒太郎め。溶けた先から、俺の右腕にへばりついてきたではないか。そう思ってよく見たら、腕の中に溶け込んでいっている!?
「お、おい! 何だ、これ! お前、俺をどうするつもりだ!?」
俺が慌てているのに、黒太郎はマイペースな動きで、俺の腕の中に埋没してしまった。黒太郎が溶け込んでいった部分に、変な刺青が出来ている。
「ひょっとして邪魔にならないように、緊急時以外は、そこに隠れることにしたんじゃないですかね」
「……そうなのか」
右腕に出来た刺青に語りかけるように呟いてみると、蛙の手のようなものが浮かび上がって、ほんの少し動いた。その通りだと言っているのか?
「おい……、顔だけ出せ。そして、その後で、すぐに腕に戻れ」
試しに命令をしてみたら、律儀に言われたとおりに実行したではないか。俺の腕から、化け物が首だけを出しているのは、なかなか笑える光景だったがね。
「ほら! 宇喜多さんに気を遣って、配慮してくれたんですよ。この子、とっても主人思いです」
「そうらしいな。だが、やる前に一言断ってほしかったかな。いきなりやられると、ビックリするから」
刺青くらいなら、ちょっと変な目で見られるだけで済むだろ。十分お洒落で誤魔化しきれる。
「問題解決だな」
「ですね」
ようやく一息つつも、城ケ崎を見ないように努めていた。さっきから触れないようにしていたことなんだが、ずぶ濡れになったせいで、城ケ崎の下着がうっすらと透けて見えるのだ。これだと、目のやり場に困ってしまう。
「まずは服を乾かさないとな。温かいシャワーも恋しいし」
頬がほんのりと紅くなっているのを笑って誤魔化しつつ、シロと連絡を取ろうと携帯電話を手に取ったのだった。
「気配が消えた……?」
同時刻に、蔓を操作して、俺たちを追跡させていたシャロンも、俺たちがこの空間から脱出したことを察知していた。
「くすくす……。現実世界に戻ったところで、私から逃げられると思っているのかしら。どこまでだって追い続けてあげるんだから。もう火が付いちゃったから、とことんやらないと収まらないわよ」
「シャロン様……」
「! この声は……、アロナ?」
部下からのテレパシーに、不敵な笑みが一旦止んだ。
「無事、シロまで、アルル運んだ。ぐっすり、寝ている」
「あら、そう……」
たった今まで見せていた鬼の形相は鳴りを潜めて、また気味の悪いくらいの満面の笑みを浮かべている。アルルの名前を聞いた途端に、この変化。相当お気に入りのようだ。
「アルルが戻ったのなら、こんなことをしている場合じゃないわ。急いで戻って愛でてあげないと。そうだわ! 新しく加わったルネも、一緒に可愛がってあげましょう。うふふふふ!」
あんなに執着していた俺たちのことなど、とっくに忘れているようだ。それは失礼なことなのだが、おかげで執念の追跡が止んでくれると考えれば、良しとするべきだろう。
「それでね……」
シャロンがご機嫌なので、アロナもおずおずと続きを語りだす。
「シャロン様……、ミルズを、助けに……」
シャロンがアロナを大事なように、アロナもミルズのことが気になって仕方がないのだ。魔王の前に、一人置き去りにしてきたのだから、無理もない。本当はすぐにでも援護に行きたかったのだが、お預けを食らっていたのだ。機嫌も良いので、今度は許可してもらえると思ったのだが、シャロンの口からは冷徹な一言が漏れたのだった。
「アロナ。実はね。はしゃぎ過ぎたせいで、服が汚れちゃったのよ。着替えたいから、私が戻るまで、新しいのを用意しておいて頂戴。ついでにアルルとルネにもおめかしをしておいてね。他の用事は全てキャンセルして構わないから、急ぎでお願い。私が汚れた服を着るのが何よりも嫌いなのは熟知しているわね?」
「……あ、あの」
「分かった?」
未だに魔王と交戦中の仲間を助けに行きたいと訴えようとするが、シャロンに釘を刺され、言葉に詰まってしまう。
「あい……」
仲間を想うアロナの気持ちは、シャロンに伝わることなく、会話は一方的に切られることになった。
可愛そうに。必ず助けに戻るという約束を果たせず、アロナは悔しそうに唇を噛んでいる。か細い声で、「ミルズ、ごめん……」と呟いているが、その声は誰の耳にも届かない。




