Lv98「勇者とエルフとサンドイッチ」
蔵人は外套の前を合わせたまま、黙って目の前に立っているヴィクトリアに視線を落としていた。執務室の中に敷かれた絨毯は毛足が長く、清掃はよく行き届いており清潔である。くるぶしまで埋まった絨毯から足をわずかに浮かせると、暗く澱んだ森のような瞳でヴィクトリアが見上げてきた。
「私はカレン姫の護衛は頼みましたが、外を連れまわせとは一言もいわなかった。そう、記憶しておりますが」
(ああ、こりゃあダメだ。キレる一歩手前だわ)
蔵人は幾分血走っている女の目を見て、言葉による懐柔を諦めた。これは反論を許さない目だ。さらに目を凝らせば、先刻会ったときよりも、化粧が濃い目になっている。憔悴した面貌を隠すためのものだと、すぐさま見て取れた。思うにヴィクトリアのストレスはすでに相当なものである。
(そいつを、この俺がさらに上乗せしたって寸法ね)
下手に言い訳をすれば食いつかれそうな雰囲気である。蔵人は、わずかに思案すると、吹っ切れたようにいった。
「まあ、いいじゃん。こうして、無事帰って来たことだし」
ヴィクトリアは顔をうつ伏せにするとひゅっと短く息を呑んだ。手元の握りこぶしが開いたり閉じたりしている。細く可憐な肩がわなないていた。生まれたての子鹿のようだ。
「……!! いいわけありませんわッ!!」
ヴィクトリアは小柄な身体を瘧にかかったように、ブルブルと震わせながら、全力で蔵人の行動をなじった。よくも思いつくような罵倒の連発である。日本語に該当するモノが見当たらないのか、ときおり判別できない外国語のような音が聞こえた。召喚時の契約の力も万能ではないのだ。彼女は、髪をかきむしり、目を剥いて金属的な声を出し続ける。貴婦人にはあるまじき言葉遣いだった。彼女は、手すら上げないが、その行為は誰もがヒステリーを起こした女のイメージを具現化したようなものだった。
ここで反論するのは、火に油を注ぐようなものである。蔵人は目をつぶって、脳内でヴィクトリアを無理やり押さえこみ、逆さ吊りにして陵辱することで精神の均衡を保った。
彼女があらかじめ、近臣のラデクやレオパルドを遠ざけておいたのは、おそらくこうなることを見越しての行動だったのであろう。蔵人はストレスのはけ口にされたのだった。
「あなたはいまの状況がわかっているのですかっ!!」
「使節の大使である姫君をかどわかしたも同じことなのですよっ!!」
「せっかく牢から出して差し上げたのにっ。恩をあだで返すとはこのことですっ!!」
「叔父上はまるで使い物にならないしっ!! 私には、この街に住む百万人の命がかかっているのです!!」
「期待はしていなかったですが、これほどまでとはっ!! だいたい、はじめよりも関係が悪くなっているじゃありませんかっ!!」
「黙っていてばかりではなく、いいわけのひとつもしたらどうなのですかっ!!」
ヴィクトリアの詰問が速射砲のように打ち出される。
キンキンした声のせいで、頭痛を催した。
「話を聞いてくれハニー」
「殿方がいいわけなどもってのほか! 恥を知りなさい!!」
「ヒデぇよ」
ヴィクトリアは完全に我を失っていた。己の怒声に揺さぶられながら、よりいっそう激昂するのである。前後の見境がつかなくなっている。危険な兆候であった。
これだけ、大声を出しても扉の外のふたりは、微塵の揺るぎも見せない。
主の命令には絶対であった。
「このっ……!!」
「ちょっ、待てって!!」
ヴィクトリアは激しい怒りのあまり、もはや自分がなにをしているかわからなくなっていたのだろう。来客用の灰入れであるクリスタルガラスを持ち上げると、頭の上に振りかざしてよたよたと蔵人に向かって歩き出した。怒りに任せて行動したものの、彼女の筋力は見た目通りのひ弱さだった。重みに耐えかね、動きが左右にブレる。蔵人の脳裏に、悲劇のイメージが投影された。
「あっ」
「いわんこっちゃねえ。そいつを、さっさと下ろすんだ」
「私に命令しないでくださる……!?」
ヴィクトリアは足をもつれさせて上体をぐらつかせた。
蔵人は咄嗟に身を躍らせると、身体の上に覆いかぶさった。
鈍い音が鳴り、同時に後頭部へと灼けるような衝撃が走る。
蔵人は激しく苦悶すると同時に、額から顎へと血が伝うのを感じた。
「――っ!!」
声にならない苦悶を噛み殺した。脳天が燃えたぎるような熱を感じた。
「ああっ、だいじょうぶですかっ!!」
出血を目にしたヴィクトリアは、さすがに正気を取り戻したのか、声を上げて外の人間を呼ぼうとする。
「しっ――」
蔵人は、彼女の口元に指を当ててそれを制止した。
「密室でこの状況。さすがに、俺に不利だろ」
「で、でも。なら、私がそれを説明すれば――」
「護衛のあまりの使えなさに我を失ったてか? それこそ、あんたの権威を失墜させるだけだ。扉の外には、子飼いの人間だけじゃないだろう。よくて自己制御もできずに暴力を振るう女、悪くて緊急時に男を引っぱりこむバカ女。どっちも、損するだけだって。今日のことは、これでチャラってことにしとかねーか。な?」
「でも、血が。手当をせねば」
「大丈夫だ、じき止まる」
「そんな、これだけ深く切ってしまえば手当もせずに、止まるわけありませんわ」
「だから、デケー声出すなって。そういや、あんたには話していなかったな。俺のこと。見てろ」
蔵人は、絨毯の上に座るとヴィクトリアを背後に回らせ、髪を掻き上げた。黒く豊かな頭髪がまくれ上がる。後ろ頭が激しく脈打っている。彼女が大きくたじろいだのが気配で分かった。
「スパッと切れてるか」
「ええ。もうしわけありません、我を失っていたとはいえ、かかる暴行――」
「まあ、見てな」
蔵人が後頭部の傷口に意識を集中させると、ほのかに胸元の印が輝きだした。
「なに? 光、なの。……え」
淡い光が明滅するたびに、後ろ頭の切り傷は、時間の針を逆回転させたように塞がり、肉が盛り上がって瘡蓋が浮き上がった。血の塊は、たちまち乾燥すると灰のように白くなり、患部から剥落して消えた。
「な」
「うそ。これだけの、傷が一瞬で。いまのは、回復魔術? いいえ、これはそんなものとは全然違う」
ヴィクトリアの目には信じられないという驚きと、幾ばくかの恐れが宿っていた。蔵人はそれらを払拭するために、この街に来るまでの経緯を残らず話しはじめた。
異世界から王女オクタヴィアに召喚された勇者だということ。
その経緯で、近衛騎士団長であるヴィクトワールと知り合ったこと。
謎の、殺人集団に追われていたが、この街に入った途端、ピタリとそれらが止んだこと。
いまは、ダンジョンに潜る一介の冒険者であること、など。
蔵人は、もろ肌脱ぎになってみせると、指先を剣の先で傷つける。意識を集中させると胸元に刻まれた不死の紋章が淡く発光した。
「確かに、王都の図書館で閲覧した通りの紋章。噂は、真実でしたの……」
「ヴィクトワールにいわせりゃ、不完全な出来損ないらしいがな」
蔵人は、己に本来の勇者が持ち得る、知恵と魔力がないことを苦笑気味に口にした。
「不完全だなんて……これが、救世主の証」
ヴィクトリアは目を輝かせながら、蔵人の胸板に指を這わせると、うっとりとした目つきで見上げてくる。その瞳には、先ほどにはなかった強い畏敬の念がこもっていた。
「ならば、邪竜王ヴリトラを倒したのも、あなたさまで」
ヴィクトリアは言葉遣いを一変させると、その場に跪きそうな勢いで離れた。
「おいおい、いきなり口調まで変えるなよ。気持ちわりいな」
「常々アルテミシアが口にしていた言葉は、真実でしたのね。真の英雄はほかにいると。私の不明をお許し下さい」
「だからいいって」
「ただちに事実を全冒険者組合に布告し、正しく功を世間に知らしめましょう」
「さんざん、俺はあちこちで吹聴してきたんだぜ? まるで、誰も信じやしなかった」
「ギルマスの私が認めれば、世間も納得しましょう」
「ダメだね」
「なぜです?」
「それじゃあ、今度はアルテミシアが騙りものになっちまう。そんなの我慢できねぇ」
ヴィクトリアは、ほう、とため息をつくと頭を下げた。
「それでは、このことは私と勇者さまの秘密ということに」
「そして、そいつを材料に、今度は俺がおまえの使い勝手のいい手駒になるってか」
「……そんな。ありえませんわ」
「まあ、城の防衛のための冒険者が思ったほど集まらなかったってのは聞いてるよ。これでも、組合の人間なんでね」
「私どもとしては、伝説の勇者さまにご助力頂ければこれほど心強いことはございませぬ」
「否定はしないのか。いい根性してるよ。しかし、なんだな。俺が勇者だってだけで、ここまで態度を変える必要があんのか? ヴィクトワール、あんたの妹は俺のこと知ってて、態度は変わらん。むしろ、無礼だ」
「私にいわせれば王女に仕えていたヴィクトワールがあまりにものを知らなさすぎなのでございます。伝説によれば、勇者の力は王家にとって最後の切り札。勇者召喚の儀式は、すべての手続きを踏んでからの国家的行事なのです。勇者本人の人格は問題にされません。完璧な勇者を呼び出せるかどうかがネックなのです。それが、一生に一度しか呼び出せないあなたさまを不完全な形でこのロムレスに受肉させてしまった。お聞きしたこところ、勇者さまには本来備わるはずの魔力と、知恵がございませぬ。もし、これが露わになれば、王女は極めて政治的に危険な状態になられるかと思われます」
「なんでだよ。たぶんそうはならないだろう。そもそも完璧な勇者を呼び出せたのは二代目だけって話だ。先代も、不完全な力しか持ち得なかったはず」
「ずいぶんと博識で。それらは織り込み済みでつつかれる可能性が周りにあるのです。場合によっては、廃嫡の可能性も」
「廃嫡はないだろ。たしか、ヴィクトワールがいってたっけ。王女は、ただひとりの直系継承者だって」
「これが極秘情報なのですが、つい先日王都で大規模な政変が起こりました。王女派に対抗するために三公が手を組み、純潔血統ではない遠い血筋の王族の男を担ぎ上げたとか。長きの間、勝手に分かれて王族を名乗った残りの諸侯たちを力によって統一できなかったことも、純潔血統の権威を損ねているのです。なにしろ、三公のバックには王国一の大商人ロチルドネス商会がついたそうです。七、三だった力の均衡はすでに、五分にまで詰め寄られているかと。王女派は懸命に巻き返しを図っているそうですが、あなたさまの存在を顕にするのは時期を見計らっているのではないかと思います。徹底的に偽王子派を叩いて、頭も上げられない状態になったところで、ダメ押しに勇者の存在を前面に打ち出す。諸侯や知識階級にはいまだ、勇者信仰に近いものが残っております。偽王子派がまだ、勇者さまの存在に気づいておられないのは僥倖といっていいでしょう」
「なにが僥倖だよ。どっちにしろ、オモチャ扱いじゃねーか。人を呼びつけておいて、許せねえだろ」
「確かに、不幸としかいいようがありませんが、すべて悪いように受けとる必要もないかと。なにしろ、ロムレス王家の歴代の王族は四十五代中、三十九人が勇者と結ばれています。王家の財宝も権威も思いのままですよ」
「ま、あいつらも悪気はなかったみたいだから、そういう細かい点をつつくのは男らしくねえな。ん、げふ、げふん。んで、それじゃ、いままで俺を散々つけ狙っていたやつらの正体って」
「王女自身の意志はわかりかねますが、情報をつかんだ両派どちらかの近臣が放った刺客であってもおかしくありません。失礼ながら、いまだ能力に未覚醒の勇者さまでは、政治のカードになり得ても、単体では脅威になりえません。むしろ、マイナスと捉えた浅はかな者がいてもおかしくありません。いまなら、消すに安し、と侮ったのでしょう。王女派ならば、勇者さまを消して召喚の失敗を糊塗しようとしたのでしょうし、偽王子派ならば、あなたの首を持参し、朝議で徹底的に弾劾の材料とするつもりだったのでしょう。なにしろ、王は近年病によってすっかり気が弱り臥せったまま。王妃は婚姻以来部屋に引きこもって、数える程度しか人前に姿を現しませんので」
「なんてこった。王妃はヒッキーだったのか……」
無論理由は前勇者の件であろう。推して知るべし。
「そこは重要じゃありませんの」
「けど、近頃まったく俺個人に対する刺客は姿を見せないが」
「それは風向きが変わったのでしょうか。とにかく、今後は刺客らしきものに気づかれたら、冒険者組合に連絡を。締め上げて吐かせれば、貴重な情報が得られます。ええ、ご心配なさらずとも。ちなみに、我が家はガチガチの王女派ですから、ご安心を。しかし、勇者さまが召喚されていたとは。いまでも、俄かに信じがた――失礼。あの紋章を見れば、間違いありません。実はそれらしき情報が流れてこなかったわけでもなかったのです。今代の勇者は、黒髪で黒目、だと。この国では黒髪と黒目を持つ人間は少ないですからね。シルバーヴィラゴにも数を把握できる程度しかおりません。ともかく、いまの状況でも都の王女派に急使を送って、せめて跳ねっ返りだけは抑えつけてもらうように進言いたします。これからは、長いおつきあいになりそうですわね」
「な、なんだよいきなり擦り寄ってくるな」
「うふふ」
「いやいや、うふふじゃなくて」
「それと、残念ながら勇者さまの存在は冒険者組合でも秘匿しておいたほうがいいですわね。心苦しいですが、これからも公的な場所ではあなたをひとりの冒険者として扱うことにいたします」
「まあ、妥当だな」
「あなたが勇者だとバレれば、利点よりも減ぜられる部分の方が大きいでしょう。エトリアのぽんこつ勇者とは格が違います」
「ぽんこつ?」
「会えばわかりますよ。それでは、心苦しいですが、口を噤ませてほかの冒険者と同じ扱いをさせていただきます」
「結構だ。いきなりそんな風にアホみたく持ち上げられてもケツの穴が痒くならぁ」
「父であるアンドリュー伯は王女派の中でも力は弱くありません。勇者さまに対する王女派の抑えは効くでしょうが、偽王子派に関してはなんともいえませんので、お気をつけてとしか。あいすみません」
ヴィクトリアは猫のような瞳をキラキラさせながら、上目遣いで真っ直ぐ視線を合わせてくる。そこには、妄執にも似た奇妙な情念が篭められていた。
これが、平時の状態であるなあらば、彼女もここまでポッと出であるといえる男に気持ちを傾けるということはなかったのだろう。
しかし、戦端が開かれてすぐに、否応無しに叔父から指揮権を移譲された彼女のストレスは最初のピークを迎えていた。
ヴィクトリアは位こそ高かれど、実務的な軍務経験はなかった。そもそもこのシルバーヴィラゴが攻められたことは築城以来なかったことなのだ。ないないづくしの中、彼女は知らず知らずのうちに寄りかかることのできる精神的支柱を探していたのだった。夫が生きていれば、また余裕を持ってことに当たれたのだろうが、彼女の傍らには人がいなさすぎた。バスチアンは頼りになる将軍であったが、年齢が孫といっていいほど離れており、また依存するには彼は慇懃すぎた。
だが、彼女は単純に心細いからという理由だけで男にうつつを抜かすほど、純真でもなければ無思慮でもなかった。
「ねえ、勇者さま。ソファにおかけになって。もう少し、お話しましょう」
見かけは幼くとも、男を知り尽くした未亡人である。ねっとりとした目線は、冥い熱情に燃えたぎり妖しく光っていた。
先ほど、勇者という称号の、王女派と偽王子派に対するアドバンテージをさも無価値なように語ったのだが、真実は違う。少なくとも、彼女にとってクランドという男に付随する勇者という値札は、どちらに売りつけてもやりようによっては高値をつけられる、駒であった。王都には援軍の要請を送った。城の救助が成功しても、蛮族に攻められて多大な被害を出した事実は、後々咎められるだろう。
だが、クランドという男をこちらに篭絡しておけば、彼を手札にしていくらでも交渉のしようはあるだろう。勇者にたる名声や権威は冒険者組合を駆使していくらでもでっち上げられる。
特に、王都の元老たちの凝り固まった勇者幻想は信仰に近い域に達している。幻をあおって彼らの手の届かぬ巨人に仕立て上げ、その影で勝負するのだ。
ヴィクトリアの頭の中にあったのは、街の住民を守るというだけではなく、事を仕損じたときに生じる害に対して一族を守るという、本能のように貴族の中に根ざしていた悲しいまでの自己保全であった。
彼女も、ただ純真に民だけのことを考えられる為政者ではなかった。そこには、澱のように積み重なった一族郎党の怨念じみた妄執が凝り固まって彼女をがんじがらめに縛り付けていたのだった。
「ちょっと待った。なんだか、あんたとイチャコラするのは、さすがにイロイロと危険な気がする」
「そんな心配なさらずとも。……もっとも、その場合は即座に責任を取って頂いて、ほかの女性とは関係を精算していただきますわ。私って、独占欲が強いんですの。お嫌かしら」
「そんなの嫌に決まってんだろーが!! 俺ァ縛られんのは嫌いなんですよー!!」
「私、縛るのは好きですの」
「それって物理的に? 精神的に? どっちにしても、やだっていってんだろ!! 話は、終わりだッ!! 俺は護衛に戻るッ!!」
「あっ、お待ちになって。そういえば、街でカレン姫刺客に襲われたんですってね。いま、職員たちに現場を検証させております。あとで、なにかわかり次第お伝え致しますので、部屋まで来てくださるかしら」
「拒否権は」
「ありません」
蔵人は行かなかった場合の彼女の反撃を考えて結論を出した。
「ここでいいのか」
「いえいえ。事務所の最上階に私の私室がありますので、そこで。深夜の防衛会議までいくらか時間がありますので。それでは今夜お待ちしておりますわ」
「……なにか、身の危険を感じる」
「気のせいですわ」
粘つくような視線を背に、蔵人は執務室を後にしたのだった。
「ふー、剣呑剣呑。あいつは、手ェ出しちゃいけない女だ。俺の直感がそういっている」
蔵人は軽く身震いをすると、カレンにあてがわれた貴賓室に向かった。同じ冒険者組合の事務所内ではあるが、この中は並の城館と比べても遜色ないほど広い。部屋の前にたどり着くと、侍女エルフのルールーが敵を見つけたようにたちまち目を釣り上げた。
「おいおい、んな目ェして睨むなよな。そんな顔してると美人が台無しだぜ」
「黙れッ。ニンゲンがっ」
ギリギリと歯ぎしりが聞こえてきそうなほど口を真一文字に食いしばっている。蔵人が困ったように視線を辺りに動かすと、ルールーは火がついたように頬を紅潮させた。
「……いま、見たな」
「え、なにがよ」
「私を、性的な目で見たなっ。薄汚いニンゲンッ」
「ちょっ、なんだよそれっ。すっげーいいがかりなんですけどっ」
「……おまえのように弱くて卑怯でケダモノのような男とこれ以上話していると魂が汚れる。そんな汚穢じみた男を姫のそばに近づけるなど、痛恨の極みだが、ご命令だ。中に入ることを許可する。本来ならば、護衛は私ひとりで充分なのにっ」
「そんなわけないだろう。せめて中に入って休んだらどうだ」
「……姫が入ってくるなと。だが、抜かりはない」
ルールーは毛布を取り出すと、床に置きその場に座りこんでくるまった。
「屋根つきの室内での警護など、たやすいものよ。たやすいのだからな、くすん」
(なにこのかわいい生き物ッ。これがギャップ萌えってやつですかッ!!)
蔵人は毛布でぬくぬくしながら目だけを出しているルールーを横目に室内に入った。
「よし、鍵をかけて、と」
控えの間を抜けて、カレンのいる貴賓室の扉を開ける。中は、灯りがつけられておらず、窓ガラスからわずかな月光が差しこんでいるだけだった。
「おい、暗ェーぞ。ちゃんと、ランプつけろよな」
蔵人は、おそらくふて寝しているだろう寝台の上の毛布の塊に呼びかけると、部屋の隅の燭台に備え付けの火打石を使って明かりをつけた。ポッとやさしげな光がわずかに灯ると部屋の輪郭が浮き上がってくる。寝台の文机から椅子を引き出して座る。カレンは深く毛布をかぶったまま、ぐしぐしと鼻をすすっていた。
「なんだ、まだ泣いてんのか」
「泣いてないもん」
「もん、じゃねえよ。ったく」
互いに共通点はなかった。蔵人は耳の穴をほじくりながら、机の水差しを取ってコップに注ぐ。一息にあけると、ため息をついた。たいした働きはしていないが、なんとなく暗くなってくると全身に疲れの澱、のようなものを感じた。
そういえば、結局朝食を採ってからまともに食事をしていない。剣を振るった後は、特に身体がタンパク質を求めるのか暴飲暴食をするのが普通だった。
(ポルディナのメシが恋しいぜ。チクショウ)
かといって、枕を涙で濡らす少女をほっぽり出して外に行くことはさすがにはばかられた。先ほどの件もある。いますぐ、そこの窓ガラスが割られて化物やら刺客やらが飛びこんできても不自然なことはない。なぜなら、ここは常識も倫理もない異世界なのである。
なにか、腹に入れるのものはないかと辺りを見回していると、毛布の中からこちらをジッと見つめているふたつの眼に出くわした。
「なに見てるのよ。私が落ち込んでるのに。こういうときは、女を慰めるものよ。それでも男なの」
「男である前に一匹の動物なんでね。なんか、食うものねえか?」
「やっぱり、ニンゲンて最悪。……なんかいろいろ考えてる自分がバカみたいよ。待ってて、あー。いっておくけど、ベッドに上がっちゃダメだからね!」
カレンは毛布から立ち上がると、隣室に向かった。そこは簡易的な台所となっており、小さなかまどがしつらえてあった。
蔵人はそっと後をついてこっそり彼女の作業を見守った。カレンは、氷を上部に入れてあるこの世界の冷蔵庫の役目を果たす箱から、材料を取り出した。器用にナイフを使ってそれらを切り分けていった。
厚い黒パンを切って、ハムとチーズを挟み、洗った野菜を織りこむ。オレンジを絞って砂糖を混ぜ手早くジュースを作ると、腰に手を当てて「よし」とひとりうなづくのだった。
「なんだ、わざわざ用意してきてくれたのか。気が利くじゃねえか」
蔵人は椅子に座ったままいま気づいたように軽口を叩く。
カレンが横を向いてくちびるを尖らせた。
「別に、あんたのためじゃないわ。なにかしてたほうが、気が紛れるかと思っただけよ」
「あ、そ。いたらきます」
「そこは、少し気遣いなさいよね。もう、ワガママな男。あ、こら。ちょっと! 食事をする前にはちゃんと手を清めなさい」
(そういえば、こいつは酒場でメシ食うときにちゃんと手をボウルの水で洗ってたな)
カレンは「ちょっと待ってなさいよ」というと、銀のボウルに水を張って、机の上に置いた。蔵人の手を取ると、小さな子の面倒を見るように手ずから洗った。
「うん。これでよし」
「おまえは、母ちゃんかよ」
「お祈りは? ニンゲンはロムレスっていう神に祈るんでしょう」
「フッ。生憎だが、俺はロムレス教徒ではない。ので、省略」
「いい加減な」
蔵人はエルフサンドイッチを手づかみで口の中に放りこむと咀嚼した。頬袋がリスのように大きく膨らむ。心なしか、カレンの瞳の色がやわらいだ。
「あー。もっと味わって食べなさいよね。この、あたしがわざわざ作ったんだから」
「ほれ、ふみゃいなぁ」
「あー、もう。口にモノ入れたまましゃべらないっ。なんていうか、あんた見てると動物の世話してるみたい」
「もごっ!?」
「バカっ。一気に食べるからっ。ホラ、飲みなさいっ」
カレンはサンドイッチを気管に詰まらせて目玉をひん剥いて悶絶する蔵人にジュースを渡した。眼球を血走らせながら中身を飲み干すと、人心地ついたように細く息を吐き、ゲップをした。カレンは、あまりの無作法さにあきれ果て、やがてクスクス笑いをもらした。
食事を終えると、たいしてやることもない。カレンは、居心地が悪いのか、寝台に戻ると、中央で膝を抱えて無言になる。ときおり、蔵人を意識しているのかチラチラと視線を投げかけてくる。蔵人は、ハンカチで口の周りを拭きながら、天井を見上げた。
(あー、そういや、ヴィクトリアのやつが来いとかいってたな。ロリっ子と楽しんでもいいが、あいつは後がうるさそうだ)
「ねえ、ニンゲン。ねえってば!!」
「うおおおっ。なんだ、いきなりデカい声で」
「さっきから、ずっと呼んでたわよ。そ、それよりも、あたしもう寝るから。あ、あ、あんたも休みなさいよっ。って、別に伽をしろとか、そんなはしたないことじゃないから勘違いしちゃダメよ!!」
「いきなり釘を刺すなよ。確かに、もう夜だしな。いい子もわるい子もおやすみの時間だ」
「あたしを子供あつかいするなっ!! あ!? いまのは、大人の時間を過ごそうとか、そういう誘いじゃないんですからねっ!」
「おまえは、ちょっと考えすぎだ。声落とせよ。表のルールーが飛びこんでくるぞ」
「そうね。ごめんなさい」
「そんなにしょんぼりするな。別に叱ったわけじゃねえし。そんで、俺になにを伝えたかったんだ」
「……その、寝るまであたしの手を握ってて欲しい。じゃなくてっ! 特別に、あたしの手を握る許可を与えてもいいわっ。今日の、その、働きに免じて。ダメかな?」
カレンの瞳は、これでいいのか? と飼い主を仰ぐような、心細げな子犬のように、静かに震えていた。
蔵人は、ふう、と息を吐くと、椅子を寝台に引き寄せてカレンの手のひらをそっと握りしめた。グローブのような厚い手のひらが、白く細い指先を包み込む。正面からカレンを見つめると、彼女は安堵したように口元を確かにゆるませた。
「はい、よろこんで。お姫さま」




