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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第3章「ステップエルフ戦役」
97/302

Lv97「刺客」


 

 ヴィクトリアは己の執務室に戻ると、侍女に運ばせた水で舌を湿らせながら強くこめかみを揉んだ。後頭部に激しい鈍痛を感じはじめていた。

 当然だ。

 昨晩から一睡もしていない。

 これから先は終わりの見えない長丁場が続く。それを考えれば、このあたりで睡眠を取っておくのがベターな判断であろう。

 けれども、神経が妙に高ぶって、とてもではないが眠れそうにはなかった。手にしていたアイボリーのグラスを机に置く。引き出しから手鏡を取り出して己の顔を見た。あまりの憔悴の酷さにため息が漏れた。

「とても人前に出せる顔ではありませんわ」

 彼女の苦悩の一端は、カレン姫に変わったエルフ側の交渉相手、フレーザーだった。

 一見したところ、茫洋としていて切れ味鋭いというタイプではなかった。

 しかし、あにはからんや、この男には押しても突いても手応えのない無限の壁のようなものであった。話術を駆使するというタイプではなく、言葉には騎馬民族独特の威圧感もない。その代わり、フレーザーという男には話しているうちに、牛歩の進みではあるが、一歩づつにじり寄ってくる妙な空気があった。鈍重ながら重いのだ。

 ヴィクトリアをはじめとする幹部たちの歯切れのよい言葉は、彼の前ではすべて上滑りするように軽く感じられた。牛のような着実な歩みは、次第に議場の空気を圧迫し、支配していく。侮っているうちにこちらは崖まで追い詰められ、気づいたときには海へと突き落とされている。対峙していると、かようなマイナスなイメージを夢想させる不気味さがあった。向かい合っているだけでこれほど気力を削ぎ落とすような男に出会うのは、はじめて、であるといってよかった。

「これならば、カレン姫の方が百倍御しやすかったわ」

 エルフ側の要求はもちろん、城側の全面降伏である。当然のことながらそんな要求は飲めないが、相手に席を立たせて遊戯盤の前に戻らせることも避けなければなかった。

 フレーザーは特に城側の非を鳴らすこともなく、淡々と降伏した際の有利な条件だけを噛んで含めるように訥々と突きつけてくる。気の短い幹部たちが襲いかかるのを押しとどめる方へと無意味に神経を砕かなければならなかったことも、疲れに拍車をかけた。今日一日は、使者との対話をどうにか引き伸ばすことに成功した。

 だが、明日はわからない。

 ひたすら苦痛であった。

「ああ、脳が煮えそう」

 ヴィクトリアが机に顔を伏せて悶えていると、扉のドアをノックする音が聞こえた。

 うるさい。くだらない用事だったら、そいつを車輪の上にくくりつけて大通りを端から端まで転がそう。転がしたい。絶対転がす。決定。

 破壊的願望が螺旋のように脳裏を旋回する。気づかぬうちに笑みを浮かべていた自分に気づき、少し恐怖を感じた。大きく深呼吸をして気を落ち着かせる。まだ壊れるわけにはいかない。

「お入りなさい」

「失礼します」

 僧服の近臣ラデクである。

 ヴィクトリアは椅子に身体を預けると、そり返ったまま応対した。

「今度はなんですの」

「逃げました」

「なんの話ですの」

「護衛の冒険者がカレン姫を連れて貴賓室から姿を消したそうです」

 ヴィクトリアは夜叉のような表情で、全身から激しい殺気を放射し、不快げに机を叩いた。ラデクは片眉を僅かに動かすことだけで、端的に同意を示した。






 戦時の街にカレンの期待したような面白いものはなかった。シルバーヴィラゴに亜人が住んでいないわけではないが、それでも人々はエルフの特徴的な長耳を見れば、恐れ、忌避した。土嚢を幾重にも積み重ねた街路を漫然と歩いても、向けられるのは人々の猜疑の目と兵士たちの誰何の声である。七度目に身元確認のため、蔵人が冒険者組合(ギルド)の身分証を兵士に提示したとき、カレンの鬱屈は爆発した。彼女は、顔を膨らませながら肩をぐいぐい無言で押してきた。無理もない。蔵人ひとりならともかく、どこの飲食店もエルフを用心して受け入れないのだ。三時間近く歩き詰めで、水の一杯も口に入らない。箱入り娘の我慢できる状態ではなかった。

「ねえ。喉が渇いたわ」

「そらよ」

 蔵人は腰に提げていた水筒を放り投げる。カレンは、蓋を開けて眉をしかめながら、顔を近づけ小鼻をうさぎのようにヒクヒク蠢かせた。目をつぶって中身を飲み込む。たちまち、手で口元を押さえた。

「ぬるーい。やだ、こんなの」

「文句いうなよ。そんじゃあ、少し休める場所に行くか」

 蔵人は不満を隠さないカレンの腕を引きながら、ルイーゼの酒場に向かった。いつもは、昼間から驚くほどたくさんの人間がうろついているスラムにもまばらな程度しか人影はなかった。年季の入った趣の建物は記憶の中よりも寂しげに見えた。スイングドアを押し開いて中に入る。薄暗い店のカウンターで、ぼんやりと雑誌に目を落としている女が顔を上げた。

「クランド、来てくれたんだね」

 ルイーゼは嬉しげに瞳を震わせると、ゆっくりと近づき肩に手を回してきた。酒精と香水と甘い体臭の入り混じった匂いがツンと鼻先を漂う。蔵人は、ルイーゼを正面からしっかりと抱擁してくちびるを合わせた。コアントローに近い、オレンジの香りがした。

「どうだい、調子は」

「調子もなにも、閑古鳥が鳴いてるよ。でも、うれしいじゃないか。あれっきり顔も出さなかったくせに、こういうときばかり顔を出すなんてさ。本当に、アンタは女泣かせだよ」

 ルイーゼはぐいぐいと、豊かな膨らみを押しつけて甘い声を出した。

「ねえ。あたし疲れたから、もう休みたいんだけど」

「あら。また、かわいいお嬢さん連れてるじゃない。そういうことは、先においいよ。お嬢ちゃん、好きなところにお座り、ね」

「う、うん」

 ルイーゼは人恋しさも手伝ったか、愛想よく席を勧める。カレンは、少し恥ずかしがりながらもカウンターの椅子にちょこんと座った。

「お腹がすいてやないかい。なにか、軽く食べる?」

「うん、少し」

 蔵人がカウンターに置いてあった瓶から手酌で酒をあおっていると、しばらくして奥の調理場からルイーゼが銀盆に食べ物を持って戻ってきた。サンドイッチと淹れたての紅茶がホクホクと湯気を立てている。

「お嬢ちゃん、アンタもお酒の方がよかったかい?」

「ううん、これでいいわ。ありがと」

 カレンは徐々に慣れてきたのか、次第に元気を取り戻して笑顔を見せた。ルイーゼに頼んでボウルをもらうと、丁寧に手の先を洗い出す。

「あんた、いいとこのお嬢さんなんだねぇ。クランドはなに触ったかわかんない手でなんでも口に入れるのに」

 カレンは半目のまま隣の蔵人を見ると、あきれたようにため息をついた。

「ニンゲン、あんたお腹壊すわよ。食事の前にはきちんと手を清めなさい」

「いいんだよ。俺の手はチャクラで汚れないんだよ」

 蔵人は常人では理解できない異次元の理論武装で自己保全を図った。

「ばーか」

 カレンは半ば頬をゆるませながら、軽口を叩いた。ルイーゼは頬杖を突きながら、あたたかい視線でふたりを見やった。

 カレンはおずおずと、サンドイッチに手を伸ばすと、口元に運ぶ。目を輝かせて、素直に喜びを露わにした。

「おいしいっ」

「あら、お世辞がうまいこと。たんと、おあがりよ」

 それでなくても、面倒見のいいルイーゼである。彼女は、ニコニコしながら目を丸くして軽食を口に運ぶカレンを見ながら目を細めていた。

「ねえ、クランド。なにがあったかは知らないが、メリーに会っておあげよ。あの子、最近たいそう落ちこんでいてねえ。おせっかいが過ぎると思うけど、どうにも若い娘が落ちこんでるのを見るのは、悲しくってねぇ」

「ああ。そのことなら、もう大丈夫だ」

「そう。それならよかった。これであたしも心置きなく往生できるってもんだよ」

「……避難はしねえのか? メリーが心配してた」

「どうやら、本当に会ったみたいだね。そのことなら、もういいのさ。この街にいる以上、壁が破られればどこにいたって同じ。それに、下手に店を出たら、帰ってきたときに丸焼けになってててもおかしかないからねぇ。蛮族どもよりも、ここいらの阿呆どもの方がよっぽどなにするかわからないよ」

「阿呆だって自分の命は惜しかろう」

「だとしても。この店は、死んだ亭主が苦労して建てたのさ。あたしゃ、まだ十五だったし右も左もわからない小娘だった。思い入れがあるの。それは、きっと誰にもわかってもらえないけどね。この店だしてから、あたしゃ十一年間、一日も休んだことがないのが自慢でねぇ。たとえ、鬼が来ようが悪魔が来ようが、生きてる限り、閉めるってことはできないよ。別に亭主の遺言があったわけでもないのだけど、こりゃもう意地みたいなもんさ」

「そこまでいうなら、俺がどうこうできる問題じゃねえな」

 蔵人はグラスの中身を残らず干すと、逆さまにして雫が落下するのをジッと見入った。

「すまないね。あたしゃ阿呆さ。自分でもそう思うよ」

「せめて、この城が落ないように祈っててくれ」

「ま、こっちもまるで無策ってわけじゃないさ」

 ルイーゼはカウンターの裏を指差すと白い歯を見せて笑った。蔵人が首を伸ばして覗きこむと、ルイーゼは床の一部分を摘み上げ、隠し部屋へとつながる入口を開いてみせた。

「この中は食料も水も保存してあるの。ひと月やそこらは隠れていられるわ」

「どらどら。ちょっと見せてみろ」

 ルイーゼといっしょに床に膝を突き、暗渠の底に視線を落とした。幾分、冷たい空気が頬を撫でる。密閉された空間独特のカビた匂いが鼻を突いた。ふと、顔を上げるとサンドイッチを分解して遊んでいたカレンがこちらを激しくチラ見していた。

「……おまえも、見たいんか」

「別に。ま、ニンゲンが見て欲しいっていうんなら、考えてあげてもいいけど」

「メンドクセーやつだな。おら、仲間に入れてやるから来いよ」

 カレンは口先ではブツブツいいながら、素早い動きでふたりの間に割って入った。垂直に下降していく通路には鉄の手すりが規則正しく打ってあり、かなり安全そうだった。

「ここ、昔は野菜室に使ってたのよね。いまは、半分物置になってるけど」

「カレン、降りてみたいか?」

「うん、降りたい! あっ、ちがっ。じゃ、なくてね。あんたが怖いっていうなら先に降りてあげてもいいけどっ」

 カレンは手のひらをヒラヒラ動かしながら、頬を紅潮させていい放つ。

 どう見ても、かなり中を見てみたい様子だった。

「んじゃあ、頼むわ」

 好奇心に目を光らせたカレンは身軽な動きでどんどん下へと下降していく。

「どうだー、下の方はー」

「うんっ! 思ったほど深くないわっ。ニンゲン、あんたもさっさと降りてきなさいよ」

 ウキウキした明るい声である。

 ちょっとした冒険気分を満喫している彼女を想像し、蔵人は頬をゆるませた。

 蔵人は、ルイーゼの顔を見てにっと笑うと、すぐさま扉の蓋をパタンと閉じた。

「あのね……やめたげなさいよ」

 ルイーゼが呆れたような声を出した。

 ほぼ同時に、焦ったような絶叫がくぐもって聞こえてきた。カッカッと手すりを恐ろしいスピードで登ってくる音が近づいてくる。蔵人が、一歩下がって敷板に視線を映じていると、蓋が弾かれたように押し上げられた。

「ななな、なんてことすんのよっ。バカァっ!!」

 カレンは涙目で激しく抗議すると両手を上下に振り回した。まるで駄々っ子だった。

 蔵人は胸板をぽかぽか叩かれながら、いたずら小僧のようにカレンを宥め出した。

 ルイーゼはこの日常が、どうかこれから先もずっと続くようにと、普段は祈らない神にそっと心の中で願ってみた。






「ずいぶんとさびしい感じなのね」

「なにをいってるんだ。あたりまえだろーが。いまは、殺し合いの真っ最中だぜ」

 蔵人が皮肉げに告げると、カレンは視線を落としていた足下の土塁から顔を上げた。

 ルイーゼの安否を確認した後、蔵人はカレンの要望でこの街でもっとも眺めの良いとされる場所へと移動した。戦時下の街をもっともよく見渡せる、街の中央部にそびえ立つ時計台である。巻きながら下まで続く坂のあちこちにも、敵兵の侵入を食い止めるための土塁があちこちに築かれている。日が傾きはじめた街にはさすがに人影はほとんどなく、平時と同じように開けていた店のほとんどが早仕舞いをしていた。こうなると、街をうろついているのは、それぞれの区画の自衛組織か兵士だけであった。

 治安悪化を防ぐために、鳳凰騎士団の数隊が街の主要な動線をしらみつぶしに巡回している。野良犬や野良猫に至るまで、一匹残らず姿を消している。籠城を見越して、街の人間が残らず捕らえて食料のタシにした証拠であった。

「そうよね。あたしたち、いくさの最中なのよね」

 カレンは疲れたようにつぶやいて、足元の小石を蹴った。小さな礫は音もなく斜面を駆け下り、やがて見えなくなった。

「いくさは嫌いか」

 カレンは無言のまま首を振った。蔵人はくだらんことを訪ねたと、口中に苦いものが広がるのを感じた。

「……だよな。考えてみりゃ、殺し合いの好きな女はいねえよな」

「別に、あたしたちだって傷つけあうのが好きなわけじゃないわ。でも、誇りを傷つけられて黙っていては、ほかの部族の侮りを受ける。一度引けば、それが常態になって、肥沃な土地を次々と明け渡さなければならない。家畜たちはいい草がなければ肥やせないの。必然、貧しさは避けられない。家族を食わせなければリーダーは求心力を無くしてしまう。そうなれば、一族はバラバラになってますます力を失う。力のない部族は、惨めなものよ。

 いくさになれば、当然人は集められないし、負けることは決まったようなものよ。いくさは負けてはならないの。負ければなにもかも失ってしまう。男たちは、勝者に己の妻や娘を差し出して命乞いをしなければならない。誇りを失ったエルフはもう死んだも同然なの。

 引いてはならないときがあるわ。勝者がすべてを手に入れる。それが、草原の掟なの。ねえ、ニンゲン。あたしの姉さまの話、聞いてるわよね」

 カレンの姉、テア姫が和睦の前夜に殺害されたことは巷間に流布されていたので蔵人も知っていた。善人ほど早死する。ひたすら凄惨な結末であった。

「この戦争の発端だろう。さすがに、知ってる」

「やさしい人だったわ。あたしのような、混じりものにも分け隔てなくやさしくしてくれた。だから、あんな風に姉さまを辱めて命まで奪ったニンゲンは、絶対に許せない! ロコロコ族なら誰だってそう思う!! あたしだって、そうよ!! 姉さまの仇を見つけたら、皮を剥いで一寸刻みにしてもあきたらないっ!!」

 カレンは怒気を露わにすると、凄絶な表情で拳を外柵に打ちつけた。整った美貌は怒りで鬼のように引きつり、大きな瞳は憎しみの炎で燃えたぎっていた。白人種に近い亜人の表情の迫力は、日本人のそれとは比べ物にならないほどインパクトのあるものだ。

 だが、カレンの怒りは持続しなかった。すぐさま、疲れたように表情を和らげると、泣きそうな顔つきになった。

「でも、姉さまが生きていらしたら、こんないくさ、絶対に許さなかったでしょうね」

 蔵人は凝然としたままうな垂れた横顔にジッと見入っていた。突如として、飛来する鋭い羽音のようなものが聞こえてきたのは、そのときだった。

 蔵人はカレンの腰に抱きついてその場に引き倒す。

 シュルシュルと、彼女が立っていた位置へと空を滑るように金属片が走っていく。

 街並みを一望できる見晴台の手すりへと、円環が軋んだ音を立てて突き立った。

 落ちかけた真っ赤な夕焼けを反射させて、ギラギラと凶悪な光を放っている。

 磨きぬかれた鏡のように、ゾッとするほど素晴らしい切れ味を有していると推察できた。

 蔵人が身を起こすと同時に、五人の男がバラバラと階段を登って飛び込んできた。

 全員が覆面で顔を隠し、焦げ茶色のマントをなびかせている。殺意を前面に押し出した瞳が、覆った布切れの間からギラギラと妖しく輝いていた。手には、それぞれ刃の部分が異様にギザギザになった二十センチほどのナイフを持っていた。刃の部分が異常に厚みを帯びており、一見したところナタに近かった。下手に剣を合わせれば刀身を欠きかねない。

「知りあいって感じじゃねーな、どう見ても」

「知らない! 知るはずないでしょ、こんなやつら!!」

 蔵人はカレンを背後に隠すと、素早く聖剣“黒獅子”を引き抜き水平に構えた。

 男のひとりが手にしていた布袋を勢いよく放った。その、赤黒いなにかは、ボーリングの玉のように激しく回転しながら外柵にぶつかって鈍い音を立てた。

「ひっ」

 カレンが、それを直視して息を呑んだ。

 若い男の生首である。

(そういえば、ヴィクトリアが腕利きの護衛をつけるといっていたな)

 抜かりのない彼女のことである。カレンを陰ながら守る隠密護衛が、ひとりだけ、というのは考えにくかった。

(残りは、この覆面どもに殺られたか撒かれたか。どっちにしろ、いまは俺ひとりでやるしかねえか)

「おい、おまえら。たった五人でいいのか? 下手に近づいてみろ。こいつで、おまえらの首と胴とはスッキリ泣き別れだぞ」

 敢えて挑発的な軽口を飛ばす。 

 男たちの殺意の放射はいっそう強まった。

 蔵人はわざとのっそりとした動きで前足を出した。

 誘いだ。案の定、乗ってきた。

 五人の男たちは、左手の袖口に仕込んであった円形状の暗器であるチャクラムをいっせいに放ってきた。

 指呼の間である。狙いは正確であった。

「朝方出会った跳ねっ返りってわけでもねぇってか!!」

 怒声一閃。刃を斜め横に振るった。鋭い金属音と共に五つのチャクラムが弾け飛んだ。

 それが、開戦の狼煙代わりだった。

 蔵人は突っこんできた男の腹に目がけて鋭い突きを見舞った。

 飛蝗のように頭上へと飛び退いた。

 続けざまに上段へと剣を振り上げる。

 刃は男の顔面を下から上へと垂直に駆け抜けた。血飛沫が虚空を舞った。

 男たちは仲間の死に微塵も動揺せずに左右から突っ込んでくる。

 黒鉄造りの鞘を左手に持ち、旋回させた。

 左の男。

 鉄の棒と化した旋風をまともに喰らい顔面を粉々に砕かれひっくり返った。

 同時に半身を開いて、右方の突きを紙一重でかわした。

 バランスを崩したまま男の体が泳ぐ。

 渾身の力を込めて右手を振り下ろした。

 長剣は唐竹割りに男の額から顎までを両断した。

 眼球や脳の一部が細切れになって散開する。

 興奮しきったカレンが目を見開いて歓声を上げた。

 一瞬で三人を打ち取られた刺客たちは、互いに目配せをすると後ろも見ずに遁走をはじめた。野生の猿のような機敏な動きで飛ぶように階段を駆け下りていく。抜き身を引っさげてすかさず追った。

「逃がすか」

 蔵人も足には自信のある方であったが、特殊な走法を使って逃げ去るふたりとの距離はみるみるうちに開いていった。少なくともどちらかを捕らえて、誰に命じられたかを聞き出さなくては枕を高くして寝られない。

「任せなさい!!」

 遠くまで通る透明感のある声に顔を上げる。

 カレンが腰にさげていた半弓を構え、矢をつがえていた。

 一瞬、目を奪われるほど美しいフォームである。

 彼女は時計台の踊り場から、眼下の敵影に狙いを定めると、引き絞った弦から指を離す。

 放たれた矢は綺麗な放物線を描くと、米粒のような男の背にたちまち吸い込まれた。

「やるじゃねえか!!」

 蔵人は、胴を射抜かれて動けなくなった片割れを蹴り飛ばすと、もうひとりを追った。

 男はほとんど減速せずに細い路地に飛びこみ、無理やり追っ手を引き剥がそうと無茶苦茶に走り回った。細々とした民家の密集地には、雑多なものが置きっぱなしにしてある。転ばないように駆けるのが精一杯だ。

 男は、路地を曲がる際に後ろも見ずにチャクラムを放る。なにごとかと首を覗かせた中年男の肩口を鋭く割った。絶叫が尾を引いて伸びると、殺気立った街衆が次第に集まりはじめた。

「そいつは敵の密偵だ!! つかまえんのに手ェ貸してくれや!!」

 窮余の策だった。蔵人の声に呼応して、人々が駆け寄ってくる。不安が裏返って、誰もが凶暴な獣性を剥き出しにしていた。

「なんだって!?」

「ようし、男どもを残らずかき集めろい!」

「嬶や女どもは石ころを投げつけろ!!」

「なんだぁ!! 憎らしい蛮族の手先はどいつだ!!」

「犬を飼ってるやつは残らずけしかけろっ」

 いまや、男の敵は蔵人だけではなくなった。路地の狭隘な道に押し寄せた群衆が、自然勢子の役割を果たした。こうなると、多勢に無勢である。修練を積んだ刺客も、無数の群衆からありとあらゆるもの投げつけられ、激しい手傷をあちこちに負っていた。

「追い詰めた。観念しやがれ!!」

 蔵人は、道のどん詰まり、四方を建築物に囲まれた猫の額程度の空き地に男を追い詰めると、流れ落ちる額の汗を拳固でぬぐった。

 だが、勝利を確信したのはつかの間だった。

「おじちゃん、どうしたの?」

 茫々と丈の長い草むらに隠れていたのか、歳の頃は五つくらいだろうか、幼い男の子が、そっと顔を出したのだった。

 男は、粘った眼光を四方に走らせながら、子供を片手に抱くと刃を首筋へと突きつけた。

「きたねぇぞ! 頑是ねえガキを人質に取るんだなんて!!」

「ありゃ、ノーラんとこのトマスじゃねえか!!」

「ちきしょうめ、このゲス野郎!! ガキに指一本でも手ェ出してみろ!! 街中総出でナマスに刻んでやるから覚悟しろ!」

 人々は目を剥いて猿のように叫び続けるが、トマスは男の手の中だった。多数の人間に囲まれグイグイと喉を絞められたせいか、恐怖に怯えてトマスが泣き出した。息を切らして追いついたカレンが人垣を割って前面に押し出てくる。小さな男の子が虜にされているのを目にし、激しく眉根を寄せた。

「弓を捨てろ!!」

 カレンの手にした半弓に気づいた男が叫んだ。トマスに突きつけられた刃の先が、ぐいと押し出され、白い首筋からぷつりと真っ赤な雫が浮き上がった。カレンは悔しそうに、半弓を足元に置く。

「弦を斬れ」

 男は濁った瞳をギラつかせ、軋んだ声で命じた。蔵人は立ったまま、剣を動かして弦を切り離した。ぶっ、と鈍い音がして麻の糸が弾けた。

 万事休す。

 男は幼児を生け捕りにしたまま、剣を群衆に突きつけ後退するように命じた。

「坊や!!」

 二十過ぎくらいの若い母親が狂ったように我が子の名前を呼び続ける。このまま、男の逃走を許せば、十中八九トマスは殺されるだろう。逃げおおせたあとに、泣き喚く幼児など足枷に過ぎないし、生かして返す道理などないのだ。男はサディステックに刃についた血糊をトマスに見せつけていることからもそれは推測できた。

「ねえ、あんた。その子を解放しなさい。この人たちには手出しはさせない。どうしても、人質が必要っていうのなら、あたしが代わりになるわ」

「……こっちに来い」

「バカ、行くな!! そいつの狙いはおまえなんだぞっ!!」

 カレンが馬鹿正直に近づいたところで、刺客は安々と目的を達成するだろう。カレンを刺殺した後も、トマスというカードは残る。逃げ出すには充分だろう。

 蔵人が、やぶれかぶれで飛び出そうと身を乗り出したとき、カレンは地を蹴って斜めに身を躍らせた。男との距離は、約五メートル。夕焼けに染まった刃が赤々と燃えている。

 群衆の怒号と、母親の絶叫が入り混じって響き渡った。

 カレンは腰の矢壷から羽根を摘んで素早く矢を取り出す。

 身をよじりながら男に向かって矢を投擲した。

 打根術。

 白兵戦で弓が引けない場合に発達した、戦場往来の投擲武術である。

 放たれた矢は男がナイフを動かすよりもはるかに早く喉元に吸いこまれていった。

 ぐらり、と男の身体が斜めにゆらぐ。

 疾風のように走った矢尻が脊髄を完膚無きまでに破壊し、動きを停止させたのだ。

 カレンが斜めに転がると同時に、蔵人が外套をなびかせて跳躍した。

 引き抜かれた長剣が男の左腕を切断する。幼児は腕ごと草むらに落下すると、一際高く泣き声を上げた。男の腰を蹴りつけて、ナイフを持った右手首を刺し貫いた。

「いえ! 誰に頼まれてカレンを狙った!!」

 男は、不気味にせせら笑うと両眼を見開いたかと思うと首をのけ反らせた。口元の覆面がみるみるうちに濡れていく。布切れを剥ぐと、千切れた肉片が顔を覗かせた。舌を噛んで自決したのだ。切断された舌はクルクルと巻き戻って、気管を塞いでしまう。死因は窒息死だった。

 蔵人は、激しく舌打ちをすると、布切れを地面に叩きつけた。顔を近づけると、男の衣服から焚きつけられた独特の香の匂いが漂った。

「くそっ、勝手に死んじまいやがって。これじゃあ、なんにもわからねぇぜ」

「だいじょうぶ?」

 蔵人が歯噛みして悔しがっている横で、カレンがトマスに声をかけた。しゃがみこんで手をそっと伸ばしているのが見えた。トマスは、泣きながらもカレンを見ると、顔をこわばらせて草むらに逃げ出し、落ちていた石ころを拾うといきなり放った。

 ガッと鈍い音がした。

「あっ……」

 幼児が投げたものだ。大きさはそれほどでもないが、切り立った角が上手く当たったのか、カレンの額が裂けて真っ赤な血が流れ出した。痛みよりも助けた相手に激しく拒絶されたショックで、彼女は顔色を蒼白にし、尻からその場に座りこんだ。

「なんてことをするんだいっ、この子は!!」

 命の恩人である。母親は駆け出して我が子を抱え上げると金切り声を発した。

「こいつ、エルフだっ!! お父ちゃんを殺したエルフだっ!!」

「ち、ちがっ、あたしは」

「人殺し、人殺し! 人殺しっ!!」

「坊やっ、おやめっ!」

 トマスは半狂乱になって母親の腕の中で暴れる。呆然としたままその場にヘタリこむカレンへと街の人々がすぐさま駆け寄って立ち上がらせた。そこには、純朴な人々の善意と申し訳なさが前面に押し出されていた。

「すまねえな、姉ちゃん」

「トマスの親父はさきおとといの戦争で死んだんだ」

「ガキのやることだ。なにもわかっちゃいねぇ。勘弁しておくんな」

「エルフが全部悪いってわけじゃねぇ。この街にも亜人はたくさんいるんだ」

「そうだ。あんたは命を張ってあの子を助けてくれた。クソッタレな蛮族とは違うんだ!」

「ほら、こっちにおいでなせえ。綺麗な顔が台無しだよ。ウチで休んでくかい?」

 カレンは人々の慰めを聞くたびに、居心地の悪そうな顔で辺りをキョロキョロ見回しだした。蔵人はくちびるまで色を失ったカレンから目をそむけた。

 結果、幼いトマスの顔が視界に入る。

 少年は、顔を真っ赤に染め上げ幼い憎悪を燃え上がらせ、両手を振り回していた。

「返せっ!! おいらのお父ちゃんを返せっ!! 返せよう!! うああああっ!!」

 幼い子の嘆きと母親の謝罪を同時に受けながら、カレンは縋るように視線を蔵人に固定した。カレンの銀色の瞳はいまにも泣き出しそうに、大きく歪んでいた。

 カレンは無言のまま立ち上がると群衆に駆け入った。蔵人は素早く長剣を鞘に収めるとみるみるうちに遠ざかっていく彼女の後を追った。狭い小路を抜けて大通りを真っ直ぐ進む。巡邏を続ける兵士たちが怪訝そうな視線を向けるたびに、冒険者組合(ギルド)の身分証であるドッグタグをかざさねばならなかった。

 市内は戦時体制である。あちこちには土塁が築かれ、滑らかな移動を阻害するために凹凸のある穴が掘られている。本気で逃げきるつもりはなかったのだろう。カレンは、ケヤキの樹の下でぴたりと足を止めると、顔を伏せてうめいた。

「感謝されたかったのか?」

「違う……!!」

 カレンは絞り上げるような声を出すと、ケヤキの幹を強く叩いた。

 薄く色づいた葉がひらりと落ちて銀色の髪にかかった。

 起こったことは別段大したことはない。道理のわからない幼子の八つ当たりを受けただけだ。もっとも、お嬢さま育ちの彼女にとっては充分ショックだったのだろう。

「カレン」

「来ないで! ニンゲンッ!!」

 蔵人が落ち葉を踏んで近づくと、悲鳴のような声で叫んだ。

 先ほどよりも人間に対する拒絶感は強まっていた。薄闇の中で、幹を抱いたまま崩れ落ちる背がかすかに震えている。蔵人にできるのは黙ったまま呆然と、少女の小さな背を見つめ続けることだけであった。






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