Lv93「野戦」
蔵人とメリアンデールは、助けたてもらったお礼だと娼婦に気を回され、なぜかその場の勢いで彼女の務める娼館の経営する近場の宿で休憩することになった。
(うっわ、露骨な部屋ァ……)
蔵人はあからさまな“ヤリ部屋”に顔を引きつらせながら辺りに視線を動かした。調度品、ひとつとっても、妖しく艶めいた色合いのものが取りそろえられている。このチープさこそが、性交のみを目的とした部屋にのみ存在を許される独特なオーラを放っていた。
(これは、この世界のゴムなのか?)
枕元の机に置いてある小道具を引っ張って横に伸ばす。古代人は避妊具に羊の腸を使っていたというが、いま手にしているモノの材質は不明である。気まずげにゴムもどきを元の場所に置く。そっと、視線を背後に向けた。
メリアンデールは寝台に腰かけ、うつむいたまま顔を上げようとしない。それは、部屋の雰囲気に呑まれたわけではなく、純粋にどう応じていいのかとまどっている様子だった。
蔵人は感覚の鈍い方だが、木石ではない。それどころか、人並み以上の青年らしい強い感受性を持ち合わせていた。ダンジョン第七階層で別れ際に放たれた言葉は、さすがの蔵人も少々こたえたのだ。
自分は人殺しだ。そんなことはいちいち否定するつもりもないし、事実だ。メリアンデールに対する怒りは一片もない。
ただ、喧嘩別れした形になったふたりの仲をどうやって修復していいのかわからないだけなのだ。久々に見るメリアンデールは、記憶にある姿よりもはるかにやつれて見えた。
意を決して話しかける。
振り向いて近づくと、彼女がビクと身体を縮こませるのがわかった。
「なあ、メリー」
「は、はいっ!」
「少し、痩せたか。その、メシはちゃんと食ってるのか? 調子悪かったら、その、ちゃんと医者に行かなきゃダメだぞ」
「……っ!!」
メリアンデールは、さっと両手で顔を隠すと、声を殺して泣き出しはじめた。
これには、蔵人も心底たまげた。
寝台に歩み寄り、自然な動きで彼女の細い肩に手を置いた。
「どうした! どっか痛いのか!?」
「怒って、ないのですか」
「へ? いや」
「だって、私、ひどいこと、クランドにたくさんいったの。だから、本当は謝りたかったけど。怖くて、勇気が出なくて。さっき、クランドが助けに来てくれたとき、すごくうれしかったのに」
「でも、あの女をどうして助けようとしたんだよ。おまえは。知り合いでもなんでもないだろうが」
「だって。だって! クランドならきっとそうするって思いました! もし、彼女を見捨てたら、私、私、もう、なにか、二度とクランドに会えないような気がしてっ……!!」
蔵人は幼児のように両手で顔の涙をぬぐうメリアンデールの頭へ、そっと手を置いた。
メリアンデールは、ぎゅっと目を強くつぶり身体を縮こませる。やがて手のひらがやさしく動かされるのを感じとると、目を細めて全身を弛緩させた。
「なんで、こんなに……」
「バカだな、おまえは」
「えっ」
「けど、本当にバカなのは俺だ。許してくれ、メリー。俺は、おまえがそんなに苦しんでるだなんて、ちっとも思っちゃいなかったんだ」
蔵人が正面からメリアンデールを抱きしめる。
彼女は自分をすっぽり覆う力強い腕の中が、夢ではなく真実だと理解すると青い瞳を揺らしながら、堰を切ったように泣き声を上げた。
「あああああっ、だってぇ! だってえええっ!! 私っ、ぜったいにいっ……きらわれたとおもったんだもおんっ!! なんでっ……クランドっ……やっぱりっ! やさしいよう!! あああっ……顔合わせたら、怒られるって思ってたぁああっ!! でも、でもでも、でもおっ! もう、ダメなのぉおっ!! クランドに嫌われたらぁっ、死んじゃうからっ!! 私、死んじゃうからねえっ!! ごめん、ごめんなさいいっ!! 許して、許してぇえっ!!」
「ああ。もお、ぜーっんぶ、許す。だから、泣くなや。な」
「ああっ、やさしっ……好きっ……好きなのおっ!! 大好きっ!! 愛してるのよ、クランドっ!!」
メリーは泣きじゃくりながら全身の力を込めて、ぎゅっとしがみついてくる。
蔵人は、彼女の背中をやさしく撫でながら、そっと顔を近づけ唇を奪った。
彼女の細い肩を抱きしめながら、ベッドに倒れ込んだ。ほどけた長い髪が頬をさわさわとくすぐった。花にも似た甘い香りが鼻腔をくすぐる。抱きしめた彼女の身体は火の玉のように熱く静かに燃えているのを感じ、胸の鼓動が早まっていく。蔵人はそれ以上の細かい思考を放棄して、ただ、彼女とひとつになることのみ集中した。
蔵人は身体を寝台から起こして首を回した。重かった身体が軽くなっている。
気持ちだけの問題ではない。身体的にも、ふれあいを持ったことによって、溜まっていた澱のようなものが排出されたのであった。
女を抱いたあとは、一服したくなるというが、幸か不幸か蔵人はタバコをのまない。手持ち無沙汰になったまま、ぼうっとしていると、腿の辺りにそっと手が乗せられた。メリアンデールである。彼女は、先ほどの余韻さめやらぬ潤んだ瞳で見上げている。彼女の髪をやさしく撫でると、くすぐったそうに目を細めた。
「クランド? どうかしたの?」
「あ、いや。いま、何時ぐらいだろうかなぁ、と。げっ!」
窓の外に視線をやると、日はすでに陰っていた。
立ち上がって窓際に行こうとすると、メリアンデールが繋いでいた手を離したがらず、顔を振ってイヤイヤをした。
「ちょっと、外の様子を見るだけだから」
「私も見る」
ふたりは毛布を裸体に巻きつけながら、街の様子を見やった。
時刻は夕方であろうか、世界は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
いつもなら、この時間はそろそろ仕事を終えて家路に向かう職人で溢れかえっているはずであるが、表の通りで目につくのは槍を抱えて等間隔に立つ兵士だけだった。
殺伐としている。愛をかわしあった直後に見るのは、遠慮したい光景である。
通りのあちこちには、赤々とかがり火が焚かれて、異様な雰囲気を醸し出していた。路地の要所要所には砂袋が積み上げられ、陣地が構築されている。
目を凝らしてみると、それぞれには数十人単位の兵が篭められているのだが、彼らはしわぶきひとつせず、じっと息を潜めていた。
メリアンデールは震えながら、ぎゅっと身体にしがみついてくる。
腰に腕を回して引き寄せキスをかわした。
「ねえ、クランド。この街、どうなっちゃうのかなぁ」
「まあ、なるようにしかならないだろう」
「うん、そうですね」
「案外と冷静なんだな……」
「そんなことないです。でも」
「でも?」
「私、こうしてクランドとひとつになれたから。もう、思い残すことないの。このまま、時間が止まってしまえばいいのに」
メリアンデールが、熱の篭った息を吐きながらいった。彼女は、仔犬が母犬を慕うように、蔵人の広い胸に顔を埋めると頬を擦りつける。ライトブラウンの髪をやさしく撫でると、彼女は甘えるような素振りで脇腹を引っ掻いた。
「なんというか、無意味に遠回りをしちまったようだな」
「でも、これでずっといっしょに居られるよ。ね、クランド?」
「え?」
「え?」
「あ、ああ。そうだね、ずっといっしょだね」
「もお、なんでこういうときに、そんな冗談いうんですか。いくらなんでもひどすぎです」
メリアンデールは頬をぷくっと膨らませたかと思えば、たちまち目尻に涙を浮かべて抗議をはじめた。ぽかぽかと拳を振り上げ、胸を叩いてくる。
蔵人はそれをやんわりと受け止めると、とりあえずの方針として冒険者組合に避難することと提案した。
蔵人が呼び出しをすっぽかして、メリアンデールとイチャイチャしている間に、城側では緊急会議が開かれたが、予想通りに紛糾した。
第一に、幕僚や街の有識者が集まる時刻に城将であるオレールが大幅に遅参したのである。もちろん、彼は生来の気の弱さにより、二回に渡っての野戦の大敗北により酒に逃げていたのである。彼は議場の中央に腰掛けているのが精一杯であり、ロクに話も聞けぬまま議場を退出して人々の軽蔑を買った。
その後は領主の長女であり、冒険者組合統括位委員長と市会議員を兼任するヴィクトリアが引き継ぐことになり会議は進められた。
作戦としては、王都からの援軍を待ちつつ篭城するということで衆議は一決した。もっとも、この方針には重要な欠点があり、時間をおかずそれは露呈した。
すなわち、百万の市民を三ヶ月は食わせられるはずの兵糧のほとんどが金貨に替えられていたことであった。
城塞都市であるシルバーヴィラゴには、基本として篭城用の糧秣が必ず半年分は蓄えられていると規定されてた。けれども、年月と共にそれは形骸化し、オレールが統治するようになってからは備蓄食料自体が無用なものと見なされていた。このような異民族の襲撃など百年にいちどあるかないかの事変である。
オレールは利殖に聡い男であり、公のものである糧秣を金に換えては富豪や商人に貸つけ、その利を常習的に貪っていた。
ともかく、領主の弟である、という一点において、彼はこの街で独裁者同然だった。
年に一度、王都から送られてくる監察官も、首謀者がオレールと知れば表立って取り締まることもできず、田舎嫌いで知られるアンドリュー伯自身は領地に帰ることはほとんどなく、それらの私的利用を面倒だという一点で一切咎めなかった。
「なんということだ、糧秣を横流しするとは」
「信じられん。ありえないね、まったく」
「わかっていて、籠城策を押したのか? 彼は本当に城将の責務を理解しているのか」
「本当に領主の弟か!? 都にことと次第を送って、是非にも法律院の裁きを……!」
ここぞとばかりにオレールを糾弾する幹部一同も、大半の人間がおこぼれを頂戴していたはずであるが、ひとたびトップが高転びに転ぶと、こぞって彼を責め抜いた。
ひとしきりオレールを糾弾して責任の所在を押しつけると、次に槍玉に上がったのは、野戦で敗北したダグラス将軍であった。幹部たちは、次の生贄はまだかとばかりに舌なめずりをして、メインデッシュであるダグラスを待ち続けた。
けれども、肝心要の張本人は議場へと一向に現れる気配がなく、まもなく人々は怪訝な顔でざわめきだした。たまらず、ひとりが唸るように吠えた。
「ヴィクトリア殿! 肝心のもうひとりは、いつになったら姿を見せるのかね」
「ダグラス将軍。彼は蛮族に降って首を斬られました」
苦虫を噛み潰したようにヴィクトリアが吐き捨てた。命からがら兵士を見捨てて逃げ帰ったダグラスは、兵や将校たちの侮蔑に耐え切れず、早朝城を出奔した。
結果として、クライアッド・カンの前陣に家族を引き連れ降伏してみたものの、名誉を重んじる王が許すはずもない。その場で一族郎党、まとめて処刑されたのであった。怯懦を侮蔑し、蛮勇を貴ぶステップエルフたちにしてみれば、城兵を見捨てて命乞いをした大将になぞなんの価値もなかったのだった。
その結末を聞いた一同からはため息が漏れたが、それでもオレール将軍に敗戦の責を追わせて追求の悪罵が耐えることはなかった。もはやこれ以上の無意味さに耐えられなかったヴィクトリアは、会議を途中で打ち切ると足早に議場を後にした。
「無意味!! 無意味!! 無意味!! なんという愚物でしょう!! とてもこれでは城を守り切ることなどできそうもありません」
ヴィクトリアは視察と称して夜気を引き裂いて馬を駆けさせ、城壁を登って大地に広がる敵陣を見やった。
お供のラデクとレオパルドは、主の行動に慣れているのか無言のままつき従い影のように左右に侍っていた。
視界のはるか彼方には、無数のかがり火が海のように無限に広がっている。
いかなる名将といえど、打ち破るのが難しい堅陣に思えた。
「父上、わたし、努力しましたのよ。でも、これほどの愚物ばかりでは、この城は守り通せそうにありませんの……」
ヴィクトリアは幼く見えても今年で二十六を数えた。一度だけ嫁したが、夫に先立たれ、それからは独り身を通し続けた。亡夫は頑強な身体であったが、ちょっとした風邪から肺炎を起こして鬼籍に入った。夫婦仲はよかったがとうとう子は生まれず、彼女はすべてが自分の貧弱な体つきのせいかと己を責めた。薄い胸、細い腰、小さな臀部は彼女にとって強いコンプレックスであり、嫌悪の象徴であった。
「これは、姫さま。このような、場所におりますとお身体に触りますぞ」
「バスチアン。わたしのことならお気になさらず。それよりも、あなたはすでに今年で七十を過ぎているはず。かような軍務はその身に堪えましょう。自愛なさって」
「これはこれは、過分なお心遣い。けれども、この老骨。姫さまに拾い上げてもらってから、とうにすべてを捧げておりまする。お気になさらず」
「苦労をかけます」
ヴィクトリアは普段の苛烈な表情をゆるめると、祖父を見るようなやわらかい視線で老将を眺めた。
バスチアン・ベルツは隣国エトリアから流れてきた、元傭兵である。彼は三年前に冒険者組合の事務所前で倒れていたところを助けられて以来、ヴィクトリアの口利きで叔父のオレールに武官として仕えていた異色の武将であった。
「ねえ、バスチアン。正直なあなたの胸の内を聞かせて欲しいの。この、いくさ、勝てるかしら」
「さて、これまた難しい問題をサラッと尋ねてくれるもので。無理だ、とは儂の口からはいえませんな。なんせ、これでメシを食うとるわけでしての」
バスチアンは短く刈った白髪をゆらすと豪胆に笑い声をなびかせた。
「だが、私見を述べさせてもらいますと、恐ろしいほどにこの城は負ける条件がそろっていますな」
「聞かせてくれる?」
「組織が敗退する欠点を、六凶とすれば、城側は“逃走”、“弛緩”、“陥没”、“崩壊”、“錯乱”、“背逆”のすべてを見事に備えております。これでは、いかな名将といえども城を保つことはできませんでしょう」
「続けて」
「ひとつ、無策なまま少数で大軍にあたることを、逃走行為と申します。これは、ダグラス将軍の負けを意味します。ふたつ、兵士の勢いが強すぎて暴走を将校が止められない。これは、チェスター将軍が兵卒の声に押し切られいくさに臨んだことで、弛緩状態と申します。みっつ、近頃はふたつの敗戦で将校が無意味に下士官や兵に辛くあたっております。これでは組織は萎縮し、兵士の士気は大きく損なわれます。これを、陥没状態と申します。よっつ、幹部将校が指導者に不満を持ちながら命令に服さず、各個突撃を行い敗れてしまう。ダグラス将軍の配下は、彼を重んぜす、最終局面ではこの形を取っております。これを、組織崩壊。そして、いつつめ。これは、先ほどの会議を見てもらえれば理解はできると思いますが、その、指導者の資質にあたる点で……」
「いいのです。取り繕わずとも。叔父は、人の上に立つ器ではございません」
「指導者の性格に問題があり、決断力に欠け、人々を従える威が備わらずに士気が振るわないことを、錯乱状態と申します。そして、さいごのむっつめは、将であるダグラスがオレール城将に心服せず、勝手に蛮族に降ったことがら。城将は自分の聞き心地のよい言葉を吐くものだけをそばに置き、街を憂うて諌言する実直の士を遠ざけました。ダグラスも、あのまま城にいればただですまないと思ったからでしょうが、やはり責は指導者にあります。これを、背逆行為と申します。以上の六点から、この城が落とされるのは時間の問題でしょうな」
「バスチアン、あなたは籠城に反対なの?」
「いえ、援軍のないままの籠城ならば無意味といわざるを得ませんが、王都にはまだ少なくとも、三十万の精兵をそろえる地力が残っております。そこまで、持ちこたえられるかどうかがカギになりましょう」
「ふうん。でも、その割には不満そうね」
「ただ、篭っておれば勝てるというわけでもありません。いまだから、できるという策もありますな」
「バスチアン。もしかして、あなた……」
老将は頬の古傷を撫でさすると野太い笑みを刻んで見せた。そこには確固たる自信と、経験に裏打ちされた技術の信頼が垣間見れた。
「ここは、ひとつ賭けてみませんかな。この、老いぼれの命に」
ヴィクトリアの独断で出兵を許されたバスチアンは、子飼いの精兵千騎を率いて、払暁、城を出撃した。
「穂先には布を巻け。馬には狽噛ませよ」
狽とは、木片でできた皿のようなモノで、馬のいななきを抑えるものである。
隠密行動には絶対不可欠であった。
バスチアン自ら、この三年で鍛えに鍛えた精鋭である。兵士たちは、機械のように正確な動きで隊列を組むと一糸乱れぬ動きで進軍する。また、このような手馴れた動きは、バスチアン率いる一軍が、故郷から呼び寄せた、いくさに手馴れた下士官が多数いたこともさいわいした。
さすがの、ステップエルフも二度の勝利に気分を良くし、全軍は白河夜船であった。
また、五十万を超える大軍であったことも災いした。数が多ければ、互いを頼みとし、自ずと緊張感は緩和される。人間は回りの雰囲気に流されるいきものである。エルフとてそれは例外ではない。夜襲などない。敵は城に篭ってブルっている。勝利は目前だと根拠のない自信に己の五体が満ちたときこそ、もっとも危ないのである。
甲斐の名将武田信玄は六分七分の勝利を最上と位置づけた。完勝すれば、いかなる上等な人間でも己を省みることが薄れるものだ。勝ちすぎれば慢心を生み、それは次戦での死に繋がりかねない。常に、己を足りぬと見て、自己修正を行い続けるのは不可能に近いものである。勝利と敗北は常に背中合わせである。この歴戦の老将はそのことを肌身で知っていたのであった。
バスチアンは誰よりも城の周囲の地形を熟知しており、的確に斥候を排除して敵陣に近づくと、持っていた油壺に火をつけていっせいに陣へと投げこんだ。警戒を解いていた陣営のあちこちからいっせいに火の手が上がる。
それが、奇襲のはじまりであった。
「裏切りだっ!! カノト族とブルーバリ族が裏切ったぞ!!」
バスチアンは、ステップエルフの訛りまで流暢に表現出来る部下に叫ばせながら、陣を駆け巡った。
蛮族たちも、所詮は旧態然とした各部族の集合体である。
完璧な一枚岩ではなかった。
バスチアンの兵は、ステップエルフの民族衣装に身を包みながら、的確に敵を殺傷し、反乱を叫び続けた。人々は、血の匂いを嗅いで火を見れば、本能的に怯えて凶暴性を発揮する。疑念が疑念を呼び、至るところで同士打ちがはじまったのだった。折しも、東からの強風が吹き荒れ、前陣のあらゆる場所に炎が燃え広がった。
「武具兵糧には残らず火を放て!! 声を高く、喉が避けるまで叫べよ!!」
混乱は猖獗を極めて、事態の収拾に大王クライアッド・カンの実弟であるエルブレドが乗り出すほどであった。
バスチアンたちが倒した兵自体は僅少であったが、炎と同士打ちでエルフたちが失った兵力は万余を数えた。おびただしい糧秣を失い、部族同士の疑念を晴らせない状態ではいくさどころではない。
まさか、数十万の陣営にたった千騎で乗り込んでいるとは、いかな指揮官でも思いもよらないだろう。ありえない隙を逆手に取った、奇策が針の穴を通すような危うさで成功したのであった。舐めるような火と、疑念というバケモノが波濤のようにステップエルフたちをさらっていった。被害は極めて甚大であった。
ステップエルフの大軍勢では、勝手に領地の草原へ帰陣する部族が多数出て、五十万を超えていた大兵は瞬く間にその数を減じ、一気に三十万近くにまで減少したのであった。
一転して英雄となった老将バスチアンは、市民たちの歓呼の声に迎えられ満面の笑みで帰還した。
同時にこれは、バスチアンの恐れていた十分の勝ちであった。
もっとも、大殊勲を挙げたバスチアンの表情にゆるみはない。
彼は、これから先が本当の戦いだと誰よりも、深く知っていたからである。
大地を吹き渡る初秋の風は、よりいっそう冷たさを増し、孤城を嬲り続けていた。




