Lv91「蛮軍五十万」
西方の草原にひとりの偉大な王が存在していた。
名は、クライアッド・カン。
草原に数多いる長耳族を統べる英雄であった。
ステップエルフは遊牧民族である。
彼らは通常のエルフとは違い、定住をせず、主に牧畜を好んだ。
季節によってギガントゥキ大平原を移動し生計を立て、ひとたび一族の危機が迫れば、たちどころに結集して一丸となって戦った。彼らは、物心つくまえから馬に触れ合うのを常としていた。
騎射に優れ、手足のごとく馬を操る彼らはロムレス王国にとって長い間、侮ることのできない驚異であったがロムレスの姫を大王クライアッド・カンに送ることで、ほぼ二十年間の永きに渡り和平は保たれていた。
「蛮族どもが、国境線を破っただと? ありえんわ」
城塞都市シルバーヴィラゴの城将、アンドリュー伯の実弟であるオレール・ド・バルテルミーは近習の報告を寝台で聞くと、手を振りながら再び毛布に頭を突っこんだ。
オレールは今年四十四になる壮年であるが、領主の実弟であるということ以外は、取り立てて見るべき部分のない凡愚、であった。
「そんなくだらない戯言で余の眠りをさまたげるとは、痴れ者が」
オレールは小太りの身体を震わせると、先月手に入れた十二歳の愛妾の薄い胸に顔を押しつけ惰眠を再び貪ろうと目をつぶった。
「ですが、閣下。これは、かなり信憑性のある報告で……!」
近習が声を荒げると、オレールは不快さを隠さず激しくうなった。
「ああ、そういうことは、いちいち余に申さずともよいわ。ジムに申せ。ジムに」
「しかし……」
なおも身を乗り出す近習の肩をそっと制する手が差し伸べられた。
金髪碧眼の五十絡みの男こそ、オレールの副将であるジム・ベッセマだった。
「話は、私が聞こう。閣下をこれ以上煩わせるな」
近習を連れて大広間に戻ると、報告を改めて聞き直した。
オレールは定例である朝議には出席しない。居並ぶ側近たちも、たいして気に留める風もすでになかった。
城将の椅子のみいつもどおり空席のまま、会議が型通りはじめられた。
副将ジムは急使の報告を頭の中でまとめると、細身の眼鏡を外して凝り固まった眉間を指先で強く揉んだ。
「ステップエルフどもが大挙して攻め寄せてきただと」
近習が血相を変えて報告を伝えようとした気持ちは理解できた。
なんでも、目測で五十万近い軍団が国境線を踏み越えて街に迫っているというのである。
現実であれば、シルバーヴィラゴはじまってのありえない危機だった。
「にわかには理解しがたい。閣下ではなくても、耳を疑う報告だ」
「ははは、五十万とは」
「夢でも見ていたのではないか」
「砦の兵の規律も相当ゆるんでいると聞く。ここいらで引き締めが必要かものう」
「おお、怖い怖い。それほどの大兵に攻められればこの城も半月ともたぬわ」
「おおかた、蜃気楼でも見たのであろう」
「まったく、人騒がせな」
将軍や大臣たちは口々にいいたいことをしゃべりだすと、収拾がつかなくなってきた。
ルーチンワークで行われる会議に飽き飽きしていたのであろう。
半信半疑な危機は、彼らにとっていい眠気覚ましでしかなかった。
ジムがあからさまなため息をつくと、近習が不満そうに声を強めた。
「将軍。ですが、もし事実であればこれはシルバーヴィラゴ壊滅の危機です!」
「事実であるならば、な。さて、どうしたものかな」
ジム・ベッセマは困惑しつつも、対処療法的に真偽を確かめさせるために、斥候を現場に送った。このような、見当違いの報告はいままで数え切れないほど上げられている。いつもは、自分のところで止めるのだが、今日に限ってたまたま席を外していたところ、目の前の近習が慌てて総大将へとご注進とばかりに走ったのだった。
ジムは肩書きこそ武官ではあったが、その得意分野は行政のみに限られていた。爵位はそれほど高くない貴族の生まれである。血縁主義第一の地方では、領主の一族でない人間が重用されることはまずありえない。その点において能力のみでいまの地位をつかみとったジムは、必要以上に領主の弟であるオレールの機嫌を損ねることを厭うたのだった。
「ジム将軍。なぁに、またどうせ野盗のたぐいでしょうよ。このオレに兵を預けてください。昼飯前には片付けてきますよ」
近臣のダグラスが不敵な笑みを浮かべ、腰の大剣を拳で叩いてみせる。ジムが形通りの意見を聞くと、一同の賛成は得られた。
「それでは、副将としてダグラスに二千の兵を与える。ことの真偽を確かめる斥候が戻り次第、盗賊を見事打ち取られよ」
意気揚々とダグラスは歩兵を率いて城を出て行った。
「なあに、所詮は報告の間違いであろうよ。者ども、久々に手柄を上げるときぞ」
ダグラスは別段歴戦の勇者というわけではなかった。
そもそもが、ロムレス王国では異民族討伐を含めて大規模ないくさは、ここ数十年起きていない。ダグラスですら、数十人規模の盗賊退治程度しか行ったことはなかった。
ゆえに、目前に迫る騎兵の大軍団を目にしたときは、魂魄が失せるほどに驚愕した。
どう少なく見繕っても、五万を超える前陣が波濤のように襲いかかかってきたのである。
それでも槍を揃えて形ばかりでも戦おうとしたダグラスに少しは気骨があった、というべきであろうか。
ステップエルフの騎兵は、まず最初に短弓による攻撃によってダグラス軍の前面を横殴りにした。長弓に比べて、射程距離は短いが、騎乗中の取り回しの良さはいうまでもなかった。吹き抜ける風のように、ダグラス軍の前陣を突き崩すと、小細工なしにステップエルフの騎兵が突撃を慣行した。
草原の戦士は防具こそは薄い革鎧を着ていたが、手にした槍はどれもが長大でロムレス軍よりもはるかに穂先は鋭く、強固だった。
騎兵は常に槍を手にして突撃するが、右手に持った穂先の位置を上手く安定させておかねば刃で馬の右目を傷つけて使い物にならなくしてしまう可能性がある。
その点、ステップエルフたちの槍の位置は常に一定を崩さす見事なものであった。彼ら全員の腕力が一定以上の基準を満たしているということである。
いずれも劣らぬ勇士であった。
烏合の衆であるダグラスの歩兵部隊では最初から勝負にならなかった。
騎兵たちが穂先を揃えて中央突破を完了すると、もはやダグラス軍は隊伍すら整えることが出来ずに、雪崩を打って敗走をはじめた。
合戦では退却時が一番兵力を損耗するのである。
本朝では、織田信長が武田勝頼の騎馬隊を破った長篠の合戦でも、銃創による死者よりもはるかに撤退時に追い討ちをかけられたときの死傷者が多かったくらいである。
意気揚々と手柄を上げようと城を出たダグラスは、己の身を守る数名の小者と共にほうほうの体で逃げ帰り、遅れた兵はひとり残らず鏖殺されたのであった。
この報に驚愕したのは、愛妾に残らず精を放って白河夜船だった城将オレールである。
ステップエルフの大軍勢は、すでに城外から一日の場所にまで迫り、近隣の村を焼き払ってその場に留まっている。オレールがことの真相を知るのに遅れたのは、責を負うことを恐れたジムが敗戦を糊塗することに躍起になっていたからである。
「援軍だ!! とにかく篭城して、王都から援軍を待つのじゃ!!」
狼狽しきったオレールは王都ロムレスガーデンに急使を送ると、亀が首を引っこめるようにして城門を閉ざして息を潜めた。オレールはもはや、報告が遅れたことを怒ることよりも、ステップエルフの存在そのものに強い恐怖感を覚えていた。
「どうしてなのだ。我らと蛮族どもは、休戦協定を結んでおったはずじゃ。蛮族の王クライアッド・カンは、王家の姫に子を産ませ、しかも老齢になってからはめっきり大人しくなったと聞いておったのに」
ことの発端は些細な境界線争いからはじまった。ステップエルフの領地に入りこんだ農民との水場争いがはじまりだった。それは、個人どうしの些細な喧嘩であったものが、やがては村と小部族そのものの争いになった。
それくらいならば、ここまで大ごとになることはまずないのであるが、たまたまこの争いの調停に入ったのが、大王クライアッド・カンの三十八人いる姫のひとりで、テアという娘であった。
彼女は、ステップエルフの姫の中でもひときわ平穏と融和を好み、自ら進み出てこの小競り合いの和睦に尽力したのである。悲劇は、手打ち式の前日の晩であった。エルフの姫であるテアが、村はずれの森の中で物いわぬ骸となって発見されたのである。彼女の全身は目にするだけで顔を背けたくなるような陵辱が加えられており、特に性器と肛門からおびただしい精液の痕跡が残っていた。彼女のやさしさは、とびきりである。それでも、王であるクライアッド・カンは最後まで戦争という選択肢を避け続けていたのだが、テア姫は全部族に慕われており、その輿望は、ある点では大王を凌いでいるといえた。
我が一族の宝を穢した人間族に鉄槌を加えるべし。
特に、テア姫の婚約者で、“蒼の死神”と呼ばれたバトルシークの怒りは凄まじかった。
若きステップエルフの戦士、バトルシークは眉目秀麗、百九十を超える長身と抜群の剣の腕前を持つ男であった。居ながらにして王者の威厳を兼ね備え、風の魔術を自由に操る彼は百人力と呼ばれる膂力の持ち主でもあった。
次期、草原の王の呼び声も高い彼は、腹心のフレーザーを使って全部族の若者を煽り立て、“蒼の四将”と呼ばれる四人の猛将を引き従えて兵馬を起こしたのであった。
アンドリュー州の主城である大都市シルバーヴィラゴを陥落させ、領主であるクワトロ・ド・バルテルミーを都から呼び出して謝罪させる。
ロムレス王の近臣であり、大貴族のクワトロ・ド・バルテルミーが万が一にも蛮族と蔑むステップエルフに頭を下げるなどということはありえない。
それは、王を僭称する五つの隣国に対して完全に権威を失墜したことを示すことであり、下手をすれば攻め込まれかねない事実であった。
一方、蛮族の突如とした国境線の劫掠にもっとも驚愕したのは、シルバーヴィラゴの市民たちであった。
「ほら、レイシー。こっち、こっちだって」
「ねえ、ちょっと。ヒルダ、そんなに走らないでってば」
銀馬車亭の歌姫として知られるレイシー・アップルヤードは、砂色の髪をなびかせて、僧衣の裾をまくって駆けるヒルダに手を引かれていた。
昨日の晩から、確かに街中の様子がおかしいことに気づいていた。いつも満員になるはずの店は客もまばらで、それも一杯ひっかけるとたちまち店を出る人間が多かった。
「ちょっと。どこまで、行くつもりのなの。あたし、もう息が、切れて」
「なーにを、のんきなこといってるんですか! もしかして、昨今の噂を知らないとでもおっしゃいますか!?」
「ええっ、ちょっとなんの話よ、もおお」
「あああっ、なんで一番噂話が耳に入るお仕事していてこんなことも知らないのですかねぇ!! お店に来る殿方たちは、まったくもって余計な気遣いばっかり!!」
「ええっ、ちょっと待ってよ! どういうことなのっ!?」
「いいから。ほら、レイシーは黙って馬車に乗る!」
「むぎゅっ」
ヒルダは辻馬車を止めると、レイシーを押し込んでから自分も飛び乗った。馬車の中はあきらかに定員オーバーで、誰もが深刻そうに押し黙っている。
レイシーは不安げに胸のバッジを握り締めた。辻馬車は、石畳の通りを抜けると、城壁に向かってゆっくりと進んでいく。次から次へともはや乗れそうにない馬車へ、人々は無理やり身体を押し込んで乗ろうとし、それが不可能とわかるやいなや、たちまち離れて走り去っていく。一様に目指すは城壁の階段を目指しているのが理解できた。
(なんだろう、なんだろう。やだな、怖い。怖いよ、クランド)
レイシーは胸の中にムクムクと膨れ上がる黒雲のような不安を押し殺しながら、皆と同様に押し黙った。先ほどまで騒いでいた元気の塊のようなヒルダの顔も心なしか青い。辻馬車が城壁のそばで止まると、人々は我先に階段を目がけて飛び降りた。誰もが、城壁の上へと息を切らせながら駆け登っていくのが見えた。
「え……」
レイシーが城壁の上で見たものは、郊外を埋め尽くす無数の軍団だった。戦鼓は高らかに鳴り響き、色とりどりの旗布は翩翻と翻っている。無数の軍馬が隊伍を乱さず並び立つさまは、まさに圧巻であった。市民のざわめきはやがて大きなうねりとなり、あちこちで絶叫や神に祈る言葉が飛び交った。
「ステップエルフの大軍団だ!!」
「なんでも、いっせいにこの城を落として、男は殺し尽くし、女は奴隷にするそうだぜ」
「助けて、神さま」
「鼻のきくやつらは早々に荷物をまとめて逃げ出したらしい」
「この城は持って三日。俺たちもあと少しの命だな」
「ああ……」
「嘘だろ!! 城兵たちはどうしてるんだっ!! この街には一族全員住んでんだよ!! なんですぐさま追い払わねえんだっ!!」
「蛮族どもは、百万はいるらしい。王都の援軍は助けに来るのを躊躇しているらしい」
「俺は、百五十万って聞いたぜ」
「どっちにしろ、どうにかなる相手じゃねえやな」
「ママー、こわいよー。こわいよー」
「だいじょうぶよ。きっと、パパが守ってくれるからね」
「ふっざけんなっ!! オレには五人の娘がいるんだっ!! あんな、長耳どもにオモチャにされるんなんてっ。許せるかよっ!!」
「助けて、助けて……」
「長生きするもんじゃないのう」
「アンタ! 冒険者でしょう! いっつもえばって私を殴ってるくせに! こういうときくらい役に立ちなさいよ! ねえ、怖いよう。私を守るっていってよ」
「馬鹿な、無茶いうな。俺たちが出る幕じゃねぇ。もう、おしまいだ」
「ママー、どこー! ママー!」
「祈ろう。さあ、来世こそ、しあわせになれることを祈ろう」
人々の話を総合すれば、突如として異民族が攻め寄せてきたのは理解できたが、このあとどうなるかとうことは、具体的には誰にもわからなかった。
「おい、見ろ!! あいつ、飛び降りるぞ!!」
ひとりの男の怒声がひときわ高く響いた。人々の視線の向こうには、まだ若い痩せた男が目を瞑りながら両手を合わせて両足を揃えて飛び降りていく姿が映った。
絶叫は尾を長く引きながら遠ざかった。男はまっしぐらに地上に墜落すると、全身を四散させて城壁の一部にわずかなシミを作った。あまりに無意味な死だった。人々は顔色を青くして青年の死を見届けると、それをこれからの自分たちの運命に照らし合わせ、絶望の色を深く面に表した。
しばらくすると、武装した城兵たちが次々と城壁によじ登り、荒れ狂う市民たちを無理やり壁際から引き下ろしにかかる。レイシーは背中を小突かれながらも、ヒルダと手をとりあって無言のまま階段を下っていく。
仮にも飲み屋という庶民の情報集積地を経営しながらこれらの重大時知らなかったのは、常連達がレイシーに気を使って意図的に隠したからであった。
彼らはレイシーの裏に、蔵人という凶暴な男の影があることを知っていて、このような空前絶後の危機に乗じて踏みこんでいくことを避けたのである。
つい、先日も威勢のいい石工のよそ者がレイシーにちょっかいを出し半殺しにされたばかりである。蔵人の女に対する執着心は常軌を逸していることは誰もが知っていたし、そもそもレイシー自身が相手にしないのである。
ならば、客足が落ちてもおかしくないのであるが、レイシーの歌声と美貌は届かなくとも、あばよくばと男どもの夢想をかきたてるには充分すぎたのだった。
(クランド、どこにいるの? 早く、会いたいよ……!)
レイシーが不安を募らせているほぼ同時期、蔵人はギルドマスターであるヴィクトリア・ド・バルテルミーの手によって、シルバーヴィラゴ中央監獄に収監されていた。
罪名は、貴族冒涜罪である。生きるも死ぬも、すべては彼女の手の内にあった。
「へっくちっ! ったく、毛布の一枚でも寄越しやがれってんだ。寒くてしかたがねーぜ」
蔵人は独居房の中で、特大のクシャミを放つとその身を小刻みに震わした。剣は元より、身ぐるみを剥がされ、異様な臭気を放つ囚人服一枚である。三方が石壁で区切られた独房は監獄の地下にあり、冒険者ギルドの事務所から伸びた地下道を通って直接移動することができた。
アンドリュー伯の長女であるヴィクトリアはシルバーヴィラゴにおける市政を司る五人の議員のひとりである。叔父である城将のオレールを除けば、この街の二番目の実力者は彼女であり、冒険者のひとりやふたりの命など彼女からすれば木っ端のようなものであった。
「おい、囚人。メシだ」
「へい、へーい。お、今朝はフライがついとる。優雅だねぇ」
「ったく、のんきな野郎だな。おまえは」
蔵人は鉄格子の小窓から、看守のピエールが差し出す朝食を受け取りそそくさと掻きこみだした。湯気の立つスープは充分にあたたかく、牢内では上等な部類であるといえた。
「昨日の今日ですっかり馴染みやがって。おまえ、随分と慣れてるな。その分だとはじめてってわけじゃない。違うか?」
「まあ、気にするなよ、細かいことは」
「楽天的な囚人だぜ。ま、安心しろよ。いまどき、貴族を罵ったくらいじゃ到底死罪になんざならねぇよ。特に、去年に五人組になったギーゼラ伯爵婦人は極めつけの人権擁護派でよほどの悪党以外は死刑にするのを極度に嫌ってる。おまえも、ここでおとなしくしてらすぐに出られるさ」
ピエールは、木製の椅子に腰掛けると腰のボトルを取り出して、一息にあおった。蔵人の鼻先を濃い酒精の香りが漂いはじめる。反射的に、よだれが湧き出た。
「昼間っから酒かよ。サボってんのはそっちじゃねーか」
「べっつに、この階にゃ粗暴犯はひとりもいねーんだ。ホントのやばいやつは、地下三階に押しこめられてる。それに、どうせなにごとも起きねーんだ。このくらいのご褒美がなきゃ、やってらんねーよ」
「おい。不良看守。黙ってて欲しきゃ、一口よこせ」
「おっと、囚人に脅されるのははじめてだな。へへ」
ピエールはおどけたふりをすると、ボトルを格子の内側に差し出した。
「お流れちょうだい、と」
蔵人は、中身を一息にすると目を白黒させた。度数の高い蒸留酒である。喉の焼け落ちる感覚とともに、えもいわれぬ芳醇な香りが口腔を満たした。全身がカッカと熱くなり、腹の中が燃え盛った。
「全部飲むんじゃねーぞ。ったく。俺は見回りに行く、ということでおとなしくしてろよ」
ピエールはボトルを片手にふらつきながら、薄暗い廊下の向こうへと千鳥足で消えていった。蔵人は、残りの朝食を平らげると石畳の上にひっくり返った。酒精が回って火照った身体にじんわりと冷気が忍び寄ってくる。
どうやらすぐさま殺されることはなさそうだ。
だが、組合の実力者をあれだけしこたま怒らせば、そう簡単にここから出られないと思ったほうがよさそうだった。蔵人が、冒険者組合の警備兵に連行される際、アルテミシアたちは争うのを忘れて同時に取りすがってきた。
「ま、そういった点では俺としても、ちょいラッキーだったかも」
蔵人がゴロゴロしながらひたすら時間を潰していると、顔じゅうを腫れ上がらせたピエールが仏頂面で面会人の到着を伝えに来た。四人の看守は、蔵人の腰に紐なわを通すと、猿回しよろしく、前後左右に付き従って薄暗い廊下を無言で進んでいく。
「なあ、その顔どうしたんだ。ちょっと見ない間に、蜂にでも刺されたんか」
「うるせー」
蔵人はピエールをからかいながら面会室に移動すると、ガラス張りの個室に通された。
窓の表面には特殊な魔術がかけられており、物理的な力では壊せない特注品だ。
「大きな声を上げないこと。不用意な動作をしないこと。終了まで、席を立たないこと。それから、手を出せ」
「なんだよ」
事前説明をしていた年配の看守は両手がすっぽりと収まる革製のアームグローブを取り出し、蔵人の腕に装着させた。
「自慰防止用だ。下着を汚されると面倒でな。これも規則だ」
「……」
「面会人が女だとガラス越しにシゴきだすやつが多くてな。ここは、自慰部屋じゃない」
「しねーよ」
蔵人は面会室に入ると正面にある粗末な椅子に腰掛かけた。しばらく待つと、ものすごい勢いで対面の部屋の扉が開き勢いよく駆け込んでくる女の姿があった。
「ご主人さまっ!!」
「ああ。来てくれたんか」
ポルディナである。
忠実な奴隷は、ガラス面直前まで顔を近づけて切なそうに瞳を曇らせていた。
頭部の犬耳はぺたん、と後ろに寝ており、お尻のしっぽは左右へと千切れんばかりに振られている。
やった! 会えた! 抱きつきたいよう! と、心の声を激しく代弁していた。
「どうして、こんなことに。ああ、おいたわしや……!!」
ポルディナは上目遣いに黒真珠のような瞳を涙で潤ませている。
「やほー。勇者さまー、私たちもいますですよー」
「ば、バカ。そんなに引っ張るなっ」
「ハナ、それになんちゃってメイド騎士もっ」
「誰がなんちゃってだ! この愚か者がっ!!」
蔵人の家で小間使いをしている自称元騎士のヴィクトワールとその侍女のハナもポルディナの後を追って面会室に姿を見せた。
「すまねぇな、ドジ踏んじまった」
「まったく、どういうことだこれは。まあおまえのことだ。いつかやると思っていたが……いぎいっ!?」
ヴィクトワールは言葉の途中で奇妙な悲鳴を上げると、頬を押さえて涙目になった。
ポルディナが力いっぱい彼女の頬をつねったのである。ヴィクトワールが抗議しようと口を開きかけると、凍りついた視線を直視して押し黙った。
「口を慎みなさい、おまえ。それとも、この場でその舌をねじ切られたいの?」
「い、いいいえっ!!」
「あはー。お嬢さま。相変わらずの絶対服従。そこに痺れない憧れないッ!!」
「覚えてろよ、ハナ」
ヴィクトワールは恨みがましくハナをにらみつけると、ポルディナから距離を取った。
「ご主人さま。ご不便でしょう? いますぐにでも、このガラスをぶち破ってお助けいたします。さあ、はなれてくださいませ」
「オイオイ、オイイイッ!! それやばいからねっ! もう、この街に住めなくなっちゃうからね!! おい、おまえらこいつを押さえろっ!! 早くっ。はやーくっ!!」
「はいっ。さー、ポルディナさん。落ち着きましょうねー」
「バカなことはやめるんだっ!! おかしいぞっ、おまえっ!!」
「はなせっ、どうしてっ。どうしてなのですかっ、ご主人さまっ。ご主人さまがこんな場所に捕らわれる理由があるはずないっ」
「あはー、相変わらずキチってますねー。とりあえず、落ち着きましょうかー。あ、勇者さま。一応、街の法律家に弁護人を探してもらってますから。少々時間はかかるかもしれないが、ちゃんとお出しできますから、しばし我慢をば」
室内でこれだけ暴れまわっていて、看守が黙っているわけもない。すぐにも、面会人側の部屋に数人の看守がなだれこむが、ヴィクトワールが冷静に説得をはじめた。ポルディナに至っては、ほかのことなど一切気にならない様子で蔵人だけを見入っている。
「それでは、ポルはもうずっとご主人さまに会えないというのですか。そんな」
「まあ、しばらくは我慢してくれよ。そのうち出られるから」
ポルディナは、深くうなずくと看守に向かって近づき堂々といい放った。
「看守殿。我が主人を解放しないというのであれば、すぐさま私も同じ房に入れていただきたい。手続きのほどを、よろしくお願いします」
「はあっ!? 奴隷付きの囚人なんぞ聞いたことないぞっ。アンタもおかしなこといいなさんなっ!! これ以上暴れるならば、面会は今後は禁止にするぞ!!」
「おもしろい。出来るものならやってみろ」
ポルディナが全身から凶暴なオーラを放出させる。戸惑った看守が、腰の剣に手を伸ばしたとき、近寄ったハナが素早く布の小袋を握らせた。看守は、手のひらに握らされた袋の重みを確かめると、下卑た笑みを浮かべて仲間ごと退出していく。ハナなりのすぐれた大人の知恵であった。
「ご主人さま、ポルは。ポルはせつのうございます」
「ま、ハナがなんとかしてくれるっていうし、しばらくは会えないかもしれないが。我慢だな」
「ご主人さま。私たちになにかできることはございませんか」
「できること、ねえ」
蔵人は目をつむってしばし、黙考する。
やがて、顔を上げるとキラキラした瞳で対面の三人を見渡した。
「うん、おっぱい見せて」
「はい、よろこんで!!」
「あはー、いいですよー」
「えっ!? ちょっ、冗談だろうっ!? ちょっ、待って」
蔵人の無茶な要望に、ポルディナとハナはふたつ返事を上げて快諾し、ヴィクトワールは思いっきり現実から目を背けた。
ポルディナとハナはそそくさと白いエプロンを取って、胸元のボタンをプチプチと外し出す。ヴィクトワールは厭うことなく、あっという間に脱ぎだしたふたりを見ながら額に手をやって壁に手を突き、がくりと頭を垂れた。
「待て、なぜ脱ぐのだ。どうして、そーゆう話になる!? お、お、おまえてゃちにははじゅらいというものがにゃいのかっ!!」
「あはー、お嬢さま、思いっきり噛み噛みですね」
「ヴィー。とっととお脱ぎなさい。どうして、あなたはこうもやることが遅いのですか」
「まーった! 待った! いや、待ってくれ。おまえたちが脱ぐのはいい。別に、あんまりよくないけどいいってことにしよう、百歩譲って!! でも、どーして私まで脱ぐ流れになっている!? それが、ついていけないといっているんだっ」
ポルディナとハナの両者は顔を見合わせると、口元に手をやって上品にほほ、と笑い声を上げた。それからおもむろにふたりがかりで襲いかかった。
「にゃあああっ!! やめろおおおっ!!」
数十秒後、そこには上半身どころか一糸纏わぬ姿になったヴィクトワールの姿があった。
「おお、いいぞ。さあ、おまえらこっちに来て、おっぱいを見せておくれ。ああ、ハナは別にどうでもいいぞ」
「むー、なんですかー。せっかく脱いだのにぃ」
「ご主人さま。ほら、ヴィー。あなたも、とっとと胸から手をどける」
「うう、なんで私だけ全裸なのだ。もお、お嫁にいけないよう」
蔵人は、もっちりとした三人の乙女の柔肌を、その目に焼きつけようと目の前に顔を近づけた。白く、もちもちした豊満な乳房がガラス越しに突き出された。
「おお。ヴィクトワール、おまえすげーいい乳してんなぁ」
「うう、そんなに見るなぁ。ばか」
「おい、ヴィー。乳首立ってるぞ。ダメだ! 隠すなっ!!」
「恥ずかしい……! ってなんでいいなりになっているんだ、私はッ!?」
「気づくのが遅いな」
「勇者さま、ハナの小ぶりおっぱいはガン無視ですか。そうですか」
「いやいや、おまえの小ぶりなものも、これはこれで、よいぞよ」
「あっ、えへー。褒められちゃいました。じゃ、こんなのはどうです?」
ハナはにぱっと微笑むと、胸を対面ガラスに自ら押しつけた。
「ご主人さま」
負けじとポルディナも巨乳を対面ガラスにむぎゅ、と押しつけてくる。
「うむ、卑猥だ」
「変態だ!! おまえら、変態ッ!!」
ヴィクトワールが乳房を隠しながら、黄色い悲鳴を上げていると、扉を勢いよくブチ破る音が轟いた。吹き飛ばされた看守の男は、ドアに頭を打ちつけてその場に崩れ落ちる。
それらを軽やかに飛び越えて一陣の風が舞い降りた。
甲冑姿の美女がはちみつ色の髪をなびかせ、歓喜の表情で駆け込んで来た。
「クランド! 会いに来たぞ!! クランド……!?」
甘えるように男の名を叫ぶその声の主は、誰であろうアルテミシアその人である。
後方からは、ネリーとルッジが息せき切って部屋に駆け込み、室内の状況を見てたちまち凍りついた。
ポルディナは、胸を対面ガラスに押しつけながら、興味なさげにチラリと後方を振り返るとすぐさま視線を蔵人に戻した。
さすがにハナは状況を理解したのか、そそくさと上着を胸元にかけた。
「へー、へっくちょいっ!!」
あとには、全裸のままクシャミをする間抜けな全裸騎士の姿が場違いに静寂をかき乱すだけであった。




