表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
9/302

Lv9「冒険魔女」




 想像以上に深い森であった。蔵人がマリカに尋ねたところ、特にこの森には名前はないらしい。別段不思議でもない。昏くて、深くて、人気のない木々の密集地である。おまけに、森林の奥底には凶暴なモンスターが跋扈しているのである。周囲の村人からすれば、生活用の木材を比較的、外側の部分で収集する以外に用はないのだ。聞けば、周辺一体の狩人や木こりも、敢えてこの森に立ち入ることはないらしい。そんなことをせずとも、ほかに安全な森はいくらでもあるのだ。そういった意味では、この深い森には、大型の哺乳類が通る獣道がうっすらとあるくらいで、非常に歩きづらかった。現代の日本と違って、舗装も、道迷いを防ぐ赤ロープもない。

 蔵人は、勘に頼って道を進んでいくが、案外とそれは正確だった。しばらく歩き、やや見通しのいい窪地で昼食をとった。固い黒パンにチーズと干し肉を炙ったものを挟んである。マリカは意外と料理が上手いので、特に不満はない。蔵人が残った脂を舐め取っていると、彼女は無言のままハンカチを取り出して、手のひらを拭ってくれた。冷淡な態度を取るかと思えば、まるで母親のように世話を焼く部分がある。もしかしたら、単に綺麗好きで、自分の無作法な振る舞いが気に入らないだけかもしれない。

「この地図どおりに進むと、最低でもあと三日はかかるぜ」

「それに、適宜モンスターの襲来もあると考えれば、ダンジョンの入口まで四日、五日は大目に見ておいたほうがいいわ」

「まいったな。食料はともかく、水がもたないぞ」

 常に歩行を続けているし、これから格闘することも考慮に入れれば、水は一日二リットルは必要だろう。となると、単純計算で二十は必要である。水場があれば随時補給は可能だが、そのあとに邪神のいるダンジョンも潜らなければならない。そうなると、手持ちの糧食ではとてもふたり分を賄うことはできないのだ。

「戻ればいいじゃない」

「戻る? どうやって」

「こうやってよ。空間歪曲ルーム

 マリカが杖をひと振りすると、たちまち、空間が陽炎のようにゆらめいて、次元に裂け目が生じた。蔵人が目を見張って、生じたひずみに瞳を凝らす。そこには、数時間前に出発したマリカの小屋が、セピア色に移っていた。

「なにこれ。なんか、ずっと見つめてると、気持ちわりぃ。うげえ……」

「無属性の空間魔術よ。私は、一度行ったことのある場所なら、記憶をたどって一瞬で移動できるの。ま、普通の魔術師には不可能でしょうね」

「すげえ! おまえ、実は天才じゃね?」

「そ、そうかしら。それほどでもあるけど」

 褒められていなのか、マリカは髪をサッと掻き上げて横を向いた。事実、これはかなり便利な技術である。事実上、地点ごとにワープポイントを作っておけば、どんな難易度のある地形もショートカットで移動できるのである。彼女の能力は、絶賛に値した。

「でもさ、こんな術があるんなら、マジで俺の力なんて必要ないんじゃ」

「魔術は絶対的なものではないわ。力の大きな魔術ほど、詠唱には時間がかかるし、同時にふたつの技を制御するのは、初級や中級程度ならともかく、それ以上ならいまの私には不可能なのよ。雑魚くらいなら、私一人で捌けるけど、邪神が相手なら、どうしたって物理攻撃で盾となってもらう相手が必要なの。あなたは、意外とお人好しだし、ね」

「ああ。そういうことか。でも、別にそれでいいんじゃねえ。互いにできることを頑張ればいいさ」

「あなたは、剣もそれほど達者というわけでもないみたいだけどね」

「んぐっ。それをいうか」

 マリカは、空間歪曲ルームの魔術を解いて膝にしいていたカーペットを巻き取ると、蔵人に押しつける。人差し指を立てて、蠱惑的に微笑んだ。

「というわけで、戻るのはいつでも戻れるわ。この先も、荷運び《ポーター》件壁役をよろしく頼むわね、剣士さま」

「ぐ。了解だ」

 小休止を挟んで冒険は続いた。とはいえ、基本は地図に沿って森を進んでいくだけである。ふよふよと、後方に浮いてるマリカを気にしながら緑の中を移動するふたりの前に立ちはだかったのは、二メートル程度の黒い化物だった。

 モスマン。

 蛾の一種であるこのモンスターは、全身が真っ黒な毛で覆われており、酷く爛々とした黄色い瞳を持っていた。蔵人は剣を鞘走らせると、地を蹴って走り出す。マリカが、止める間もない素早さだった。

「クランド、それの目を見てはダメ!」

「え、ちょっと、待って――」

 マリカの忠告は一瞬だけ遅かった。蔵人は、モスマンの瞳に射すくめられると、途端に全身から力を失って、ヘナへなと脱力し、その場に膝から崩れ落ちた。

 モスマンはきいきいと金属的な鳴き声を上げると、細い足を小刻みに動かして、前のめりに倒れた蔵人の首筋へと口吻を伸ばした。彼らは、属性として吸血種に近く、小型の小動物を催眠効果のあるにらみで動けなくしてから血を吸い取るのが常であった。

連続魔術シークエンス・マジック火炎弾(フレイムボール)! 風王の槍(エアロジャベリン)!!」

 焦ったマリカが咄嗟に初級魔術を連続で撃ち放った。

 真っ赤に燃え盛った火球がモスマンの胴体にぶち当たってその身を灼いた。

 たまらず、モスマンが後退したところに、次弾として、風属性の魔術である疾風の槍が突き刺さった。真空の穂先はモスマンの両足を射抜くと、背後の岩を破壊して、細かに割れた散弾を吐き散らした。後方から、石くれをぶつけられた形となったモスマンが前方に傾ぐ。この機を見過ごす蔵人ではない。長剣を握りしめて倒れくるモスマンの頭部に向かって突きを放った。長剣は吸い込まれるようにしてモスマンの口元から後頭部を刺し貫くと、切っ先を覗かせた。モスマンは、四肢を激しく痙攣させて断末魔の雄叫びを響かせると、青黒い体液を吐き出しながら動かなくなった。

「いきなり突っこんでどうするのよ。このままじゃ、長生きできないわよ!」

「いまのは、ちょっとやばかったかな」

「ちょっとじゃないでしょう」

「じゃあ、だいぶやばかった。結構? みたいな」

「……もおいい。もお、あなたのことは心配しないし、気にもかけない」

「それはそれで寂しいのだが」

 マリカはぷいと顔をそらしたまま、無言になった。

(まるでガキだな。イヤなら、手を切ってひとりで行動するって手もあるのに)

 蔵人が歩くと、浮揚した状態のマリカがゆっくりとついてくる。振り返ると、かなりわざとらしく横を向いたりして、あからさまに「イラついています、私」といったポーズをとった。

「なあ、マリカ」

 蔵人が話しかけても、ヘソを曲げた子供のように無視を決め込んでいる。最初は冗談でやっているかと思ったが、

 しばらく経って、彼女は彼女なりに本気で怒りを示しているとわかり、絶句した。

 どうしろってんだよ、たく。

 いままで接してた限り、彼女は聡明で理知的だったが、情動を抑えることにかけては、幼稚すぎてとても自分とは同年代とは思えない。彼女が、千年の眠りに就いていたとして、実質活動していた年齢が十九としても、幼すぎるのだ。振る舞いや、見かけが人並み以上に整っており、戦いにおいては肝も据わっている。見目は美しく、妖精のような相貌からは、一国の姫君を思わせる気品すら感じさせている。要するに、彼女の対人経験はゼロに近いのかもしれない。あの小屋から一度も出たことがないのなら、母親以外に接した人物はあまりいないのかもしれない。美人ならそれだけで人生チートモードかと思いきや、この異世界はそれほど甘くないらしい。たいした打開策も思いつかぬまま、移動を続けていくと、次第に斜面に差しかかった。濡れた土を慎重に降りていくと、開けた草地が見えた。

 タチバナやタンポポが一斉に咲き乱れている。花と濡れた緑の風を浴びながらゆっくりと歩くと、草地の中央部に巨大な木がそびえ立っていた。蔵人は側までよってゴツゴツした幹に手をやってさすった。なぜか、なつかしくやわらかな気分になっていく。

 ビバ、自然。ビバ、大樹よ。

「おお、デケーな。これはまた、随分とビッグなやつだぜ」

「エント……」

 それまで黙っていたマリカが浮揚の魔術を解いて地に降り立つと、木に向かってつぶやいた。大樹は節くれだった幹が巨大な、長い樹齢を思わせるものである。エント、と呼ばれたそれは、小さく身震いをすると、ひとつ、大きなクシャミをしてから目を見開いた。

「なんだ。その声は、おお。マリカか。幾久しいな」

「ごきげんよう、エント。そういえば、ここに移したのね。知らなかったわ」

「木が喋った……! スゲー、どうやって発声してるんだ? 声帯はどこだろう」

「ごめんなさいね、エント。千年ぶりだというのに、おかしなものをつれて」

「ふむ、マリカよ。その男は、おまえの伴侶か」

「んなっ……バカ、いわないでちょうだい! どうして、高貴なハイエルフである、この私が、よりにもよってこんな男と」

「おいおい。クランドさんをディスるのもそのへんにしておかないかい? そろそろマジで涙がちょちょ切れるぜ」

「ふふ。そう、自分を偽るものではないぞ、マリカよ。おまえの母、タリカは選り好みを続けて、三千年近く独り身じゃった。そろそろ、相手を見つけてもおかしくはない。そうでなければ、ツガイなしに、ひとりぼっちで、寂しい人生を送るハメになるぞ。ひとりぼっちで!!」

「あ、あのねぇ、エント。そんなに、ひとりぼっちを強調しないでちょうだい。私が寂しい女みたいじゃない」

「違うのか?」

「違うわよ、いまは、選んでるだけなのっ。その気になれば、伴侶のひとりやふたりは」

「強がりはよせ。儂の、千年の経験と記憶がそういっているのだ。儂はこの世界で知らぬことはない。儂はなんでも知っている。なんでもお見通しじゃ」

「千年ねぇ……。でも、あなたもよく考えたら、独り身なんじゃない」

「儂はバツ五じゃ。子供も、よそにたんと居る。最後の妻と別れて、そろそろ三百年か。どんな生き物も独り身は毒じゃ。血が濁る、精神が荒廃する、生きる覇気が失われる、妬みが強くなる、愚痴が多くなる。覚えがあるだろう」

「ない。私に限って、そんな虚しい過去は一切ない。断じてないわ」

「ふうむ。それで、わざわざここまで来たのは、別に儂に会いに来た、というわけではないのだろう。おまえが眠りについてから換算すると、約千年。邪神の封印が解ける時期か」

「ええ、そうよ。ここに立ち寄ったのは、この男が勝手に寄り道したから」

「ふうむ」

 エントは木々をざわめかせながら、黒々とした目で蔵人をジッと眺めた。

「話を蒸し返すようだが。この男、それほど悪人ではない。それどころか、人間種には稀

 に見る純粋さを持っておる」

「ハア!?」

「おい、顔がこえーぞ。額にピキピキッてヤンキー漫画みたく青筋が浮いとるがな」

「エント。あなたは、この男の邪悪さを知らないのよ。いきなり、人を殺しに来るわ、胸を触るわ、寝込みを襲って裸を見た挙句、無許可で胸を触るわ。っというか、そんなに胸ばかり触って、幼児なのって思うぐらいの変質者っぷりなのよ……!!」

「あ、バレてたんですね」

「のう、それがなにが悪いのだ」

「ハァ!?」

「だから、マリカさん。顔が怖いですよ」

「それは、種として当然のことじゃろう。この男は、他にはなんの邪心もなく、純粋におまえを求めておるということだ。そもそも、イヤならばいくらでもおまえの力で密殺することができたはず。つまり、それをしないということは、マリカ。おまえが、この男に対してすでに心を許し始めている、ということにほかならないのだ」

「えっと。とりあえず、エントが千年会わない間に、とんだ変態エロジジィに変わっていたということがわかりました。ので、今後は近くを通ってもスルーしますね」

「マリカよ、照れるでない」

「そうだ、マリカよ。俺にさっさと股を、もとい心を開け」

「クランド。邪心が透けて見えるわ」

「ういうい」

「帰る。早く行きましょう、クランド」

 マリカは怒ったように背を向けると、ズンズンとエントから遠ざかっていく。

「おい、マリカ。もう、いいのかよ。久々に会ったんじゃねーのか」

「枯れてればよかったのに」

 蔵人は、うわっと、心の中で怯えた声を上げた。ふと、気づけば普段通り話せている。背後を振り向くと、エントが不器用なウインクで片目を閉じたのが見えた。

 植物のくせに、なんて気回しのいいジイさんだ。今度、なんか持ってきてやろう。

「マリカ、それにクランドよ。……気をつけて」

「おう! エントのジイさんも、長生きしろよな!」

 蔵人が小走りに駆けると、マリカはムッとした顔で膨れていた。

「古い知り合いなのか?」

「ええ、昔、アレを家の庭で育てていたのよ。千年で、ここまで育つなんて。ときの流れは早いものね」

「するってーと」

「古老みたいな口ぶりだけど、私より年下なのよ。かなり大きくなったとき、これ以上庭では育てられなくなって、お母さまが森のどこかに移したのは知っていたけど。まさか、こんな場所で再会するなんて思いもしなかった。ふう、なんだか今日はやけに疲れたわ。家に帰りましょう」

「そだな。便利な魔術もあるし」

 マリカは空間歪曲ルームの無属性魔術を使うと、次元に歪みを作って、小屋までの帰り道を作った。マリカは、蔵人の手を取ると、空間にたゆたう次元の裂け目に足を踏み入れる。小さくて、やわらかな手だった。ついつい、指を絡めながら動かすと、マリカは怒ったような目で睨んできた。

「次元の狭間に放り落とされたいの?」

「それは許してね、ぼく、泣いちゃうから」

 マリカは、ばか、とつぶやいて次元を通り抜け、一気に小屋の前まで戻った。時刻は、夕暮れどきを過ぎ、向かい合った互いの目鼻がわかにくいほど暗くなっていた。

「とりあえず、今日はかなりいいペースで進めたんじゃねえか。なあ」

 同意を求めて声をかける。途端に、マリカが胸の中へと倒れ込んできた。

(おいおい、あんな憎まれ口、叩いておいていきなりフラグ達成ですか!?)

 蔵人が慌てて受け止めると、マリカは目を閉じたまま、息を荒げていた。抱きしめた身体は火がついたように熱い。彼女の白い頬が赤く火照っていた。そっと、額に手をやると、湿った汗と燃えるような熱を帯びていた。

「おい、だいじょうぶかよ! しっかりしろよ!」

「ん。うるさいわね、ちょっと、疲れが出ただけよ。ほら、放して……」

 マリカは強がって蔵人の手を離れるが、二、三歩歩くと、気合の抜けたクラゲのようにふらついて、くにゃりと地面に崩れ落ちた。駆け寄って抱き起こす。すでに意識はなく、白い首筋にまで、ビッシリと汗が浮き出ていた。

 蔵人はマリカを背負うと、小屋の中の寝台に運んで寝かせた。幾度か呼びかけてみるが返事はない。特殊な持病でもあればとてもではないが手に負えない。

 小屋を出て、裏の井戸から桶に水を汲むと、彼女の部屋のクローゼットからタオルを拝借して、湿らせて額の上に載せた。蔵人は、基本的に風邪をひいたことがなければ、特に身体に疾患はない。医者を呼ぶ、というのが常道だが、村にまで降りていったとしても、このような僻地の寒村にそのような者がいるかどうか、まず疑わしい。

 また、たとえ医者がいたとしても、村をモンスターに襲わせている張本人を助ける者もいないだろう。そもそもが、魔女が病気だと伝えれば、蔵人が背信したと勘違いされ、或いはこれぞ好機とこの小屋にまで村人たちが押し寄せて来かねない。

「まいったな、八方塞がりだ……」

 どうにもできない状況というのはつらいものだ。蔵人は、苦しそうにあえぐマリカを見ながら、己が引き裂かれるような胸の痛みを感じた。そもそもが、この男は感情過多にできている。自分の痛みには耐えられても、人のこととなれば、その苦しみを上手く咀嚼できないのであった。会って数日の他人といえばそれまでだが、もはや割り切れないくらいに感情移入してしまったのだ。男女の好悪を別にして、マリカを助けたい、できることならば代わってやりたいという感情が膨れ上がっていく。

「がんばれ、がんばれ。マリカ」

 蔵人にできることといえば、馬鹿みたいに彼女の側に寄り添って手を握ることくらいであった。しばらく経つと、マリカは熱っぽいとろんとした瞳をそっと開いた。

「あ、ここは……?」

 自分がどこにいるか一瞬わからなくなったのか、戸惑った目で辺りを見回している。

 マリカはやがて側の蔵人に視点を置くと、潤んだ目で自嘲するように口元を歪めた。

「悪いわね、迷惑をかけてしまって。で、どうするの」

「は?」

「いまなら、私は無力よ。あなたが、村人の約束通り、私の首を落として届ければ、それなりの報酬は貰えるんじゃないかしら」

「おまえ、マジでいってんのかよ」

「だって、そうでしょ。なんだかんだいって、あなたは流れの冒険者。邪神なんて無視して、効率よくことを運ぶにはそれが一番簡単なんですもの。魔術はとても繊細なの。いまの私が初級の魔術を詠唱する前に、あなたは素手で縊り殺すことも」

「そんなこと、するわけないだろ。おまえは、被害妄想気味だ!!」

 マリカのあまりの言葉に、頭の中が真っ赤にスパークした。ほとんど、反射的に叫ぶと、彼女は怯えたように目を閉じて唇を噛み締めた。それは、大人の叱責に怯える幼児そのものだった。よほどの恐怖だったのか、マリカは瘧にかかったように細く震えだした。蔵人の胸に苦いものが走った。

 なんで怒鳴ったんだ。彼女は、ただ不安なだけなのに。

 蔵人がそっと手を伸ばすと、薄目を開けていたマリカは殴られるとでも思ったのか、キュッと目を強くつむった。できるだけ、力を込めず、こわれものを扱うように、マリカの頬をさすった。キョトンとした顔で、赤い目をしばたかせている。落ち着かせるように、続けていった。

「だいじょうぶだ」

「え……」

「だいじょうぶだから」

 そうやって目を見つめながらずっと頬を撫でていると、やがて安堵したかのようにマリカはすっと深い眠りに落ちていった。寝息を立てている彼女をそのままにして、部屋の中をクマのようにぐるぐると回り続ける。

 しばらくすると、また、マリカが意識を取り戻した。

「おい、平気か。どうすればいい、俺にどうして欲しい」

「ごめん、取り乱して。私は平気よ。これ、たぶんただの風邪だから……」

「そうなのか?」

「うん。いつも、たくさん動いたり、魔術を使ったりすると、こうなるの。私、よく風邪ひくから。そう、寝てれば治るわ」

「そっか。なにかできることは」

「うん、あの」

「なんだ」

「その、できたらでいいんだけど。クローゼットの一番上の棚に薬が置いてあるから。取ってちょうだい、それと、水を、いただけるかしら」

「ああ、まかせろ! しっかり、看病してやるからな」

 蔵人は示された場所から、紙包みの薬を持ってくるが、マリカは意識が朦朧として、顔を上げることができなかった。

(おかしいな。ただの、風邪程度でここまでなるかよ)

 マリカを抱きかかえながら起こして、粉状の薬を飲ませた。これでできることは本当になくなったのだ。居間から椅子を引いてきて、寝台の横に置き、彼女の手を握った。苦しむマリカを見続けるのは、それだけで苦行であった。気の遠くなるような時間が過ぎ、夜が明けた。何度か、額に置いたタオルを取り替え、汗ばんだ顔を拭いてみたが、病状は益々篤くなるばかりである。昼頃になると、マリカの呼吸は走り抜いた直後のように、絶え絶えになり、白い肌が透き通るようになっていた。どう考えても、これは風邪ではない。かといって、それ以外に原因を探るべく法もない。

 ふと、一昨日前に会ったエントのことを思い出した。魔女と断定され、身寄りのない彼女に同情的かつ頼れそうなものは、もはや彼ぐらいしか思いつかない。魔女に恨みを持つ麓の村以外を探るとなれば、少なくとも数日はかかるだろう。マリカと森を進んだ際には、周囲の状況を確認しながら移動したせいか、四時間近くかかったが、装備を剣だけに絞って駆ければ往復で三時間は切れるだろう。

「すぐ、戻るからな。待っていろ、マリカ」

 握っていた手を離す。意識が朦朧としている彼女であったが、瞬間、指が固く絞られた。

 蔵人は心を鬼にして彼女の指を解くと、振り返らず小屋を出た。窓から差し込む光でわかっていたが、久方ぶりの快晴だった。念のため地図は携帯したが、歩いた道はすべて頭に叩き込んである。息を数度、大きくはくと、一気に駆けだした。一度通った箇所であって、おおよその道筋は手に取るように分かった。藪を漕いで、獣道をひた走った。こうして側を離れたと同時に、マリカの容態が悪化しないか、それだけが気がかりだった。モンスターに出会わないよう、祈りつつ走る。先日は、少なくとも軍隊飛蝗(バッタ)とモスマンの二種に出会った。今回、他の敵に出会ったとしても逃げの一手でやり過ごすしかない。剣は極力抜かない。そんなことをしている暇はない。マリカが、俺を待っているのだ。

 一時間ほど全力疾走を続けただろうか、既に息は荒く、心臓の鼓動は堪え難いものになっている。アスファルトで舗装された道とはまるで違い、数倍の労力と集中力が必要となる。全身がカッカと火照って、額から滴り落ちた汗が、顎を伝って胸元に落ちた。難路は果てしなく続いている。飢えた犬のように舌を投げ出し、無限に思える坂を駆け上がったり降りたりした。この方が近道だ。小枝が伸びて、時折、頬や目を突いた。痛みをこらえ、走った。うなじや耳元に手をやると、流れた汗が塩となってジャリジャリ音がする。照り返す陽光が、今日はことさらきつかった。

 なんとか、見覚えのある野原に到着し、中央部にそびえる巨木を目にしたときは、心底安堵した。エントはすでに蔵人の存在に気づいていたのか、黒々としたあたたかい目でやさしく迎え入れてくれた。かいつまんで、昨日までの経緯とマリカの容態を話すと、エントは即座にひとつの判断を下した。

「おそらく、それは軍隊飛蝗(バッタ)の毒だろう。かの虫に噛まれると、動物はひどく熱を出し、身体の弱い個体はそれだけで致命傷になる」

「けど、俺は噛まれたけどなんともねぇぜ」

「マリカはハイエルフじゃ。そして普通とはちょっと違っていてな。特に、彼女は高い魔力抵抗を持つ代わりに、身体能力はひどく弱い。ちょっとした切り傷ひとつがおおごとになりかねん」

 エントは幸いにも、毒消しの作り方を熟知していた。彼は、森の小鳥たちに、必要な素材を集めさせると、器用に幹を腕のように扱って、それらを摺り合わせて薬剤を調合した。

「とはいえ、マリカも成人した歴としたハイエルフ。昆虫毒くらいでは死なぬだろうが、万が一もある。早く届けてやってくれ。儂は、ご覧のとおり、この地を離れられんのでな」

「すまねえ、恩に着るぜ!」

「はは。礼をいうのはこちらのほう。彼女には、若木だったおり、よくしてもらったからな。クランドよ、彼女を頼む。マリカは、本当は誰よりも寂しがりやなのだ」

 復路は下りが多く、予定以上に早く戻れそうだった。一番気がかりであったモンスターにも出くわさない。空は春めいていて、透き通った青が輝いていた。ふわりとした、わた雲がまばらに浮かんでいる。気温はグングン上がっており、上着を羽織るのがイヤになるくらいである。下りの連続で、膝が徐々に疲れを溜め込み、踏ん張りが効かなくなっていく。歯を食いしばって己を叱咤する。予定以上の速さで、小屋に戻れそうだ。峠道を駆け下りながら気をゆるめると、ふと、背後にすさまじい殺気を感じた。蔵人はほとんど宙を泳ぐようにして、斜面に飛び込んだ。シュッと身震いするような、空気を裂く音が耳朶を打った。矢尻がどこかの幹に突き立って響く。蔵人は、後ろを振り返った。黒装束の影がよっつほど見えた。間違いない。数日前、突如として襲いかかってきた、操り主すらわからない刺客だった。無言のまま、四人が剣を引き抜いたのが見えた。マリカの小屋はそこまでだ。毒に苦しむ彼女を巻き込むことはできない。目の前の四人は、ひとりも逃さず、この場で斃さなければならないのだ。蔵人は鞘を放り投げて剣を構えると、猛然と斜面を駆け上っていった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ