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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
89/302

Lv89「泪橋を渡って」

 





 蔵人が再びモニカを見かけたのは翌日の泪橋であった。彼女は、たもとの下の川べりに降りてうつむいている。蔵人の位置からは彼女の表情は確認できなかった。

 時刻は早朝といっていいい。

 早起きをしたのも偶然ならば、なんとなくこの泪橋へと足を向けたのも偶然だった。

 昨日の今日である。うつむいて川岸を覗き込んでいる彼女は、還らぬ息子を思いやって身を投じんとせん、まさにその直前に見えた。

「早まるなっ!」

「あら、クランド。おはようございます」

「え? え、えとおはようございます」

「なに、慌てて息せき切って。おばさん、今日はちゃんと自分の足で降りてきたのよ」

「あ、あ、そうかい」

「ふふ。もしかして、世をはかなんで身投げでもすると思ったの」

「いや、そうじゃねえけど」

「そそっかしいんだから。まったく」

「けど、こんな朝っぱらから川を覗きこんでたら誰だってそう思うよ」

「そう。クランドは冒険者組合(ギルド)に出入りしてたから冒険者なのね。それじゃ、わたしの息子の話聞いているのね……」

 モニカはそこまでいうと、手に捧げ持っていたバスケットからムシロを取り出すと、その場に敷いた。めしい(・・・)ているにしては手馴れた動作だった。伏せられたまつ毛を震わせながら、顔だけをくいと動かす。促されるようにして、蔵人はムシロの上に座ると戸惑った犬のようにモニカの顔を見上げた。

「おばさんね、毎朝ここで朝食を食べるの。よければお相伴してくれないかしら」

「え、うん」

 有無をいわせない強引さがあった。

 かくして、奇妙な取り合わせの朝食会がはじまった。

 モニカは、お祈りをすませると形ばかりに口をつけただけでほとんどを、蔵人に寄越してきた。

「若いんだから、しっかりお食べ」

「うん」

 蔵人は家を出るときにしこたまポルディナの作った料理を食べてきたが、それでも並の人間が収める一食分程度は平らげる自信があった。

 献立は、黒パンにチーズを挟んだもの。蒸したじゃがいもに、コンソメスープ。梨に似た果物といったところだった。梨っぽいが、あきらかに梨ではない部分がミソである。

 蔵人は素朴な味としかいいようのないそれをガツガツと勢いよく食べはじめた。転びそうになったところを助けただけである。さすがに、女好きの蔵人ではあったが、倍も違う女性をそのように見ることはできなかった。

 けれども、自分がガツガツと飯を食べる部分を見られていても、不思議と気まずさを感じることはなかった。湿度が高いのか、川面には濃い乳白色の霧が漂いはじめている。

 奇妙な充足感に包まれながら食事を終えると、モニカは神に祈りを捧げはじめた。

「おいしかったよ、とっても」

「そ、よかった。あら?」

 モニカは急に蔵人の顎先に鼻を近づけるとヒクヒクと蠢かす。

「ちょっと待ってね。だらしないのね、まったく」

 盲たことによって嗅覚が鋭敏になったのだろう。彼女は蔵人の顎についた食べかすに気づくとハンカチを取り出し、幼い子どもを扱うよう無造作に拭きだした。

「これでよし。ちゃんとしておかないと、あのお嬢さんに嫌われてしまうよ」

「お嬢ちゃんって、ネリーのことかよ」

「そうよ」

「元々嫌ってるって」

「でも、昨日の帰り道に話していたでしょう。いっしょに食事したって」

「飯くらい誰でも別に……」

「本当に鈍いのね。女はね、嫌いな男となんか食事なんて絶対にしないものよ」

「ええー」

「ええ、じゃないの。とにかく、今日も会いに行くなら花のひとつも買っていってあげなさい。昨日食事につきあってくれたお礼っていってね」

「えー。やだよ、そんなん。キザくせぇ……。ふっ、俺の美学に反するぜ」

 蔵人は舘ひろし風にニヒルかつダンディに笑った。

「美学なんてどうでもいいの! あの娘と仲良くなりたいなら、おばさんの忠告を聞いておいたほうがお利口さんなの」

「んんん、忠告ねえ」

 蔵人は忠告通り、目抜き通りの大きな花屋で真っ赤な薔薇を購入して冒険者組合(ギルド)に向かった。気のせいか、辺りを歩いている人間すべてが自分を注視しているような錯覚に陥っていく。

「これ、すっげー恥ずかしいんですけど。なに、この羞恥プレイ? やっぱ、あのおばさん、俺のことを罠にハメたのでは」

 事務所の赤レンガが見えてくると、逆に腹が座った。いわゆるクソ度胸がどこからともなく舞い降りてきたのだった。

 入口の警護をしている番兵のマーカスが、兜の目庇を上げると、狂人を見るような目つきでわずかに後ずさった。

「逃げんなよ……」

「クランド。いまは昼間で、ここは行きつけの飲み屋じゃねえぞ。あれか? ヤクか? やばいやつ決めてんのか? ちょっ、こっち見るなや」

「うるせえやい、たちんぼが」

(あーあ。まともに考えれば、マーカスのいうとおりなんだよなぁ。そもそも、女に花なんぞ送ったことはねえやい。それが、どうしてあの鉄面皮のネリーに? あいつ、絶対鼻で笑うぜ。このことを弱みに、さらにからかってくるに違いない。あー。だー、まあいっか。考えるだけ無駄無駄。さすがに、脈絡がなさすぎだろうよ。カットカット。脳内スイッチしゃだーん)

 蔵人は考えることを放棄すると、無我の境地で受付に降り立った。ネリーはあいも変わらず、ビスクドールのような顔をして澄まして業務を行っている。

 彼女は、よほど暇だったのか、蔵人の姿を見て取ると、にんまりと嬉しそうにして口元を釣り上げる。

(よーし、見てろよ。今日は逆に度肝を抜いてやるぜ! ……あんま、笑わないでね)

「どうしたんですか、クランド――」

「じゃじゃーん!」

 こうなりゃヤケだ。蔵人は、ネリーの言葉をさえぎって後ろ手に隠してあった薔薇を受付に差し出した。ネリーは、瞳を大きく見開くと、その場に硬直した。

「え、な、なに、なんなの、これ」

「あはははっ。まあ、なんだ、素直に受け取ってもらえれば、こっちとしてもうれしい限りだ」

(さあああっ、来い! 罵倒来いやーっ!! こっちの覚悟は完了だぜ! 乗せられた俺をあざ笑うがいいさ!!)

 蔵人が目をつぶってネリーの言葉を待っていると、手の先からふわっと重量が消えた。

「あ、あらら」

 おそるおそる目を開けると、そこには花束を抱えたまま、頬を真っ赤に染めて恥じらうひとりの淑女が存在した。

(え、なにこれ。なんなの、この展開。さすがに、予感を斜め四五度にぶっちぎってるんですけど)

「……え、でも。赤い薔薇の花言葉って、その、あの」

 ネリーは強く恥らいながら、細く途切れそうな声をしきりにつぶやいていた。

 雪のように白い頬は、朱をさっと刷毛で塗ったように可憐に色づいていた。

 蔵人を真っ直ぐに見れず、視線をそらすさまは、男の庇護本能を強烈に掻き立てる儚げなものだった。

「おい、あのな、実はこれは――」

「――ッ!?」

 蔵人が顔を寄せると、ネリーは弾かれたように飛び上がって、瞬く間に奥の控え室に走り去っていった。周囲の冒険者たちが、しきりにざわつきはじめる。

「なんだ、なんだぁ。また、クランドのやつがやらかしたのかぁ」

「しっかし、大胆な手に出たなぁ。あいつ、意外とコマシ野郎じゃね?」

「ここまで堂々と求婚するとはっ! 先を越されたかっ!!」

「いや、それはねーって」

 蔵人は冒険者たちの目にいたたまれなくなってその場を後にした。ネリーがいなくては暇はつぶせそうにない。

 ならば、姫屋敷に帰ってヴィクトワールでもからかっていればいいと判断したのだった。首をひねって、肩を鳴らす。コキコキと軽い音がした。

 どうやら、自分が思っていたよりも緊張していたらしい。

「あー、それはないわー。ないわー」

 蔵人はどうにもしっくり来ない気分で、入口に向かうと、朝方泪橋で別れたモニカの姿を認めた。

「あー、おばちゃん! ヒデーよ! 俺のことハメたなっ」

「あらら、うまくいかなかったのかしら」

「ネリーのやつ、黙って逃げちまったよ。ったく、おばちゃんが人のことあおるからよう」

「ふぅん。それで、あの娘は、花束を受け取らなかったの?」

「いんや、受け取ったけどよ。なーんか、真っ赤な顔して怒って……んん!? おい、もしかしてあれは怒ってるんじゃなくて、ぬうふふっふっ」

 蔵人は突如としていやらしい笑いを浮かべると、顎をさすりながら目尻を下げた。

「また、調子に乗って。あのね、女の子はあなたが思っているほど、ずっとデリケートなのよ。だから、もっと相手のことを思いやって――」

「おばちゃん?」

 モニカは突然胸に手をやると、うずくまって苦悶の表情を作った。顔中には、細かい汗が吹き出し、眉間にしわを寄せて、うなり出す。

「おいっ、待てよっ! しっかりしろって!! 誰か、誰か医者を呼んでくれー!!」

 蔵人が大声を張り上げると、ロビーにいた冒険者たちがたちまち集まってくる。

 モニカが倒れた場所が、冒険者組合(ギルド)であったことも幸いした。

 つば広帽子に鳥を模した仮面を付けたお抱え医師、ノーマッドの手当は迅速だった。

 彼は医務室に運ばれた彼女に投薬をすると、瞬く間に症状を沈静化させた。

 ノーマッドの見立てでは、モニカの心臓は相当に弱っており、血を上手く通わせることができなくなっているらしいとのことだった。ひとり息子の喪失。自身の盲目や、金銭的・あるいは将来に対する不安。いまでいう、慢性心不全であろう。

 そもそもが、継続的に医者にかかる金もなく、栄養状態もあまりよくないらしい。ノーマッドは金のかかりには無頓着なせいか、なにもいわなかったが、事務局はあからさまにモニカの存在を迷惑がっていた。

 冒険者組合(ギルド)は公的施設ではなく、登録した組合員を第一に考えなければならない。彼女の息子であるクライドは冒険者であったが、すでに確定的未帰還者(アンノウン)として登録は抹消されているのである。無関係な母親まで大枚をはたいて、養っていく理由も責務もなかった。

「とーいうことでねぇ、ネリー君。彼女が気付き次第に部屋から出て行ってもらうよう伝えてもらえないかねぇ」

 ネリーの上司に当たる総務課長のゴールドマンが汗をかきながら、大きくため息をつく。

 途端に、蔵人の怒号が爆発した。

「ふざけんなっ! おまえはっ! 彼女はいま動かせる身体じゃねーだろうがっ!!」

「ひいいいっ、な、なんなんですかああっ!! や、やめてくださああいっ。ネリーくぅううんっ。君の上司がヘルプミーだよっ!! 警護の人間呼んできてぇええっ」

「うっさいハゲ」

「ひいいいっ!! でもっ、でもおおおっ、しょうがないんですううっ! ここの病床は限られてるからぁああっ、お金払ってる冒険者さんたちのために空けとかなきゃなんないんですううっ!!」

「わかった! 金なら俺が払うぜっ!! だから、彼女を――」

「もう、いいんです」

「おばちゃん」

「その人のいうとおりです。この医務室のベッドは、傷ついた冒険者の人が使うべきなの。ね、クランド。その人を離してあげて。ね」

「――っ!!」

 蔵人はモニカにまっすぐ見つめられると、うつむいたままゴールドマンの喉元から手をはなした。ゴールドマンは激しく咳きこむと恨みがましい目でネリーを見たが、たちまち凍りついた彼女の瞳ににらみ返されると、怯えきって視線を背けた。

「本当に、ご迷惑をおかけしました」

「待って、おばちゃん。送るよ」

「ダメよ。そこまでさせられないわ、いくらなんでも」

 モニカは静かに、しかし有無をいわさぬ迫力で申し入れを断った。

 蔵人は杖を渡すと、凍りついたようにその場に佇立する。自分でも、彼女に拒否されたことがかなり強くこたえたことに呆然としていた。

 こうなると面白くないのはネリーである。

 先ほど、ああまで熱烈に花束を渡されて意識しないわけがなかったのだ。

 モニカと蔵人の仲の親密さは、あきらかに男女のそれではなかったが、熟女を好む男もいないわけではない。ネリーは自分でも気づかぬうちに、モニカに対する強い嫉妬心に似た、心の底から浮き上がってくる灰汁に対し、強い不快感を覚えていた。

「それにしても、クランドはモニカさんにかなーり入れ込んでますねー。もしかして、おウチのママが恋しくなりましたかー?」

 ネリーは自分たちの間に漂うぎこちなさを払拭しようと、わざと挑発するような言葉を使った。だが、いつもなら即座に反発する蔵人の反応が鈍かった。

「え、えと。クランド、あなた両親は、その――」

 不審に思って、顔を見やる。

 蔵人は表情のない能面のような顔のまま、ぼそりと言葉を返した。

「オフクロの顔は知らねえ。俺を産んだ日に死んだらしい。父親は生きていると聞いた。けど、会ったことは一度もないんだ」

「あっ、そ――その、ご、ごめっ」

 ネリーは蒼白な表情で泣きそうに顔を歪ませた。蔵人は、寝台に座り込むと、置き捨てられた幼子のように、モニカの出て行った戸口をずっと見やっていた。

 蔵人が黙っていると、その場に居ずらくなったネリーはモニカを探してくると称して出て行った。ゴールドマンは、「気がすんだら出て行ってくださいね」と、余計な言葉を吐いて退出していった。

 母の顔を知らないといったが、それはすべてが真実ではなかった。事実は、唯一残っていた写真を子どもの頃持ち歩いていたが、それは祖父の志門誠之進が焼いてしまったからであった。直心影流剣術をよく使う祖父は厳格を絵に書いたような男で、幼い蔵人の惰弱さを許さなかった。

 いや、誠之進が惰弱と見たそれは蔵人の母を慕う自然な気持ちであった。

 だが、彼なりに孫を思うあまりに、母の写真を肌身離さず持ち歩く蔵人を敢えて鍛えるために、幻影とは決別させることが必要だった。

 蔵人が、ほとんど反射的に乳房の大きい女性に執着するのはそういう理由があった。

 彼は心の底では、常に母の愛に飢えきっていたのであった。祖父の誠之進は鍛えると称して、幼い彼に木剣を持たせさんざんと打ち据えた。長ずるにつれて、反抗的な彼は正道的な剣を、ほとんど反応的に拒否するようになってしまったのだった。かつてエルフの剣士ドロテアが蔵人に剣を教えたとき、彼が異常なまでの怠惰さを見せたのもそれらに起因していたのだった。

 もっとも、忘れようとしていても、幼い頃から無理やり叩きこまれた、剣を振るうという行為のみはどこかしら身体の奥底に残っていたのだろう。そうでなければ、素人の学生が勇者召喚によって不可思議な超人的力を得ていても、ああまで刃物を自在に操ることは出来なかっただろう。

 その祖父も、蔵人が大学に上がった歳に鬼籍に入り、文字通り天涯孤独の身になったのであった。遠くの親戚には祖父の性格が災いして、いちども会ったことがない。ならば、日本という世界に戻りたいというモチベーションも湧くはずがなかったのだった。

(ああ、そうか。だから、俺は――)

 蔵人は母にいちどでいいから会いたかったことを思い出した。

 心の奥底に仕舞いこんでいたそれが、ようやく水面に浮き上がる小さな泡ぶくのように肥大したのだった。

 もっとも、母に会うことなど出来るはずもなかった。母性というものを知らず生きてきた蔵人が、一般的に母親がいれば焼いてもらう世話など経験があるはずもなかった。蔵人はモニカの中に、あるはずのない己の中の母の偶像を知らず、作り出していたのであった。

 思えば、振り返るべき過去もなかった。貧苦に喘ぐ生活では、祖父の残した借金と学費を払うのに汲々としており、残った金は残らず蕩尽した。その日暮らしの生活はどこにいっても変わらないのである。いや、むしろここでは蔵人のことを構ってくれる女がいるだけで、極楽といえよう。どのくらいそうしていたのだろうか。気づけばかなりの時間が経っていた。窓に差しこむ光の強さから、ようやく日が落ちかけようとしていた。

(やっぱり、モニカさんにもういちど会おう。会って、医者に見てもらうように説得しなきゃ)

 蔵人は生気を失った顔つきで歩き出した。

 ネリーがいつまでも帰ってこないのも気にかかった。蔵人はいちど彼女を送っているので自宅は知っている。訪ねてみたが、無人だった。隣の五十絡みの中年女に聞くと、まだ帰宅していないらしい。蔵人が途方に暮れて冒険者組合(ギルド)に向かって歩き出すと、顔見知りの冒険者であるオズワルドがボロ切れのようになって倒れているのを見つけた。

「クラン、ド」

 オズワルドは蔵人の袖をつかむと、血まみれになった指先を宙に向けた。

「ネリーが、ごろつきどもに。俺、とめようとして……」

「どこだっ!!」

 蔵人はオズワルドの胸ぐらを掴むと、前後に激しく揺らした。

 けひゅっ、と妙な呼吸音がもれる。

「泪橋……早く」

 強姦の歴史は古い。

 そもそもが、ロムレスの法の中でもっとも軽い刑罰のひとつに強姦に関する罪が挙げられるほどである。シルバーヴィラゴは人口の構成比では圧倒的に男が多く、そのほとんどは冒険者、あるいはそれに従事する職業がほとんどである。中でも、極めて低劣な倫理観を持つものが冒険者とされていた。彼らのほとんどは、地方の貧農や下層階級の出身で、誰もが一攫千金を求めてこの街にやってきた。淫売を買う金のある男はまだしも程度がよいとされていて、それ以下の部類は禽獣に劣る自制力しか持ちわせていなかった。

 教育がない。つまりは、倫理に関する素養がない。彼らは競って、富裕層の下女やガチョウ番、洗濯婦など下層階級を目の敵にして襲った。さらにつけ加えると、彼らの中には女を強姦するにあたって一様に罪悪感を持っていないという点が目に付いた。治安を維持する騎士団がとらえて理由を聞いても、彼らの中には「気持ちいいいことをしてやって、どうして咎められなければならないのだ」という、怒りよりも戸惑いの気持ちが大きいのだ。彼らは不思議と、娼婦や酌婦など自分に近しい部類の底辺職につく女は襲わなかった。代わりに、もっとも多く襲われたのは下女、ついで年端もいかない、十代に満たない幼女であった。

 幼い子供を襲う理由は、簡易的に自分の獣欲を満たすことが出来るというただそれだけである。これらの強姦罪については、法律院はほとんど裁判にかけず、見舞いとしての金穀や、場合によっては夫婦となることを強要する程度であった。

 また、犯された女もほとんどが告訴に踏み切ることはなかった。慣例として、ロクに相手にしてもらえないとわかっていたこともあるが、それより彼女たちが恐れたのは自分が穢されたことを周りに知られることであった。彼女たちに罪はなくとも、世間一般にとっては穢された女性そのものが堕ちた、とされるのである。社会の不合理と法の未整備が被害者である彼女たちに罪悪感を植えつけ、結果事件そのものの隠蔽に手を貸すようなものである。男たちは、自分のやっていることを悪行であると理解していないので、ある日しかるべき報いを受けるまで己のやってきたことを罪だと知る機会もない。

 蔵人が泪橋を渡って黄昏時の土手を駆け下りると、そこには全裸にされてふたりの男に押さえつけられているネリーの姿があった。

 彼女を囲むようにして、五人ほどの男が集団となっていた。

 ネリーは、豊満な尻を突き出すようにして下半身を露出させた男に腰を掴まれていた。

 男は猛りながら、蔵人に向かって吠え立てた。

 ネリーは蔵人の顔を見つけると、涙の跡の残った顔をそのまま地面に押しつけるようにして伏せた。蔵人の背中を川面の冷えた風が絶え間なく嬲りはじめた。

「なにを見ていやがんだあっ! この野郎っ!!」

「ヨハン兄貴……」

 ネリーを犯そうとしていた三十ほどの男を心配そうに見上げる少年は、蔵人が昨日どやしつけた中のひとりであった。

 赤毛の少年ギースは、顔の中央部に包帯を巻いたまま、恨みの念のこもった視線を強烈にぶつけてくる。蔵人は静かにそれを受け流すと、落ち着いた口調でいった。

「ネリーを離してくれねえか」

「はあああっ! なにいってくれちゃってんのぉ! おまえかっ、俺の弟分たちをかわいがってくれちゃったのはっ!! この女はいまから俺のモノでいやってほどよがらせてやるんだよぅ! キヒヒヒ、悔しいかっ! だがなっ、おまえはそこで黙って見てるしかねえんだっ! おらああっ、てめぇらさっさとこの若造を半殺しにしねえかっ! こいつの前で女をしこたまヤリまくることで、こいつの心の芯をへし折ってやるのよっ。それが、泣く子も黙るドナート一家の特攻隊長であるヨハンさまの粋なやり方ってもんだあっ!!」

「……もうひとり、女性がいたはずだ」

「ああん? あんなババァに用はねえやっ! その辺りに転がってるぜ!! もちろん死体になってな! ケケ。それとも、てめぇが切り刻まれる前に供養でもしてやるってか!? ってか!?」

 ヨハンの目線を追うと草むらにモニカが倒れているのが見えた。蔵人はモニカに駆け寄ると胸元が真っ赤に濡れているの見て強く唇を噛んだ。

「なんで、アンタが」

「ふふ、ごめんね。あなたが戻ってくるまでにどうしても、あの娘を助けたかったけど」

 モニカは伏せられた目から涙を流して途切れ途切れにいった。

「でも、こうして待っていた甲斐があったわ。クライド、ようやく帰ってきてくれたのね」

「おばちゃん、なにを……」

「ネリーは、あなたのこと本当に愛しているわ。だから、助けてあげてね。できれば、あなたたちの子供を見たかったけど」

 モニカは死の淵に至り、朦朧とした意識の中で、ここにはいないはずの息子と話しているようだった。

 蔵人はそっとモニカの手を握り、彼女を抱き起こした。

 伏せられて見えないはずの彼女の瞳には、確かにいままでにないほどの希望が満ち溢れているのを感じることができた。

「ねえ、クライド。いつものように、おかえりの挨拶をして、ね」

 クライドとクランド。奇しくも似通った名前だった。

 モニカは震える指先で自分の頬を指し示す。

 蔵人は彼女の頬にやさしくキスをすると、もう一度強く抱きしめた。

「ただいま、母さん」

 モニカは最後に満足気な微笑を湛えると、そのまま動かなくなった。

 泪橋のもとで還らぬ息子を待ち続けた女の死はあまりにも無残すぎた。

 冷え冷えとしたものが腹の底へと沈んでいく。

 同時に、蔵人の目蓋の奥には、燃え盛った日輪のような感情が頭をもたげだした。

「おいおいいいっ!! ババァとの別れはすんだのかあっ。ケヘヘ、年増の味はたいそうよかったかよっ!!」

 ヨハンの罵倒を背に受け、向き直る。

 浮かれながらも自分たちの優位を信じていた男たちが残らず凍りついた。

 蔵人の形相は一変していた。

 悪鬼、そのものであった。

「今度は容赦しねえといったはずだぜっ!!」

 蔵人は外套の前を開くと、聖剣“黒獅子”を一気に引き抜き、後背位の体勢を取っているヨハンの胸元目がけて投げつけた。

 刃は流星のように走ると無防備な胸板へとツバまで突き刺さった。

 蔵人は黒鉄造りの鞘を持ったまま真っ向から男たちへと駆け寄った。

 鞘はそれ自体が重い鋼で出来ており充分な凶器である。

 突然の強襲に戸惑っている男に向かって鞘を横殴りに振るった。

 大気を引き裂くように轟音が響き渡った。

 熟れた果実を叩き潰すような容易さで、男の顔面は目鼻を失って四散した。

 蔵人は心の底から激怒していた。胸の奥底にずっと抱いていた貴いものが、無残にも踏みにじられたのだった。もはや記憶の底でかすれて思い出せない母親の幻影は完全に失われた。

 なにもない。

 もう、この俺にはなにも。

 獰猛な殺意に突き動かされて武具(えもの)を振るう。

 ただ殺すという一点にのみ意識が集約されていった

 左右から男たちが切りつけてくるのを素手で受け止めた。刃が手のひらに食いこみ、激しく血が流れるが、まるで痛みというものを感じない。己の手が、まるで他人のように思えた。痛みを度外視する。目の前で動くものすべてを殺戮しなければ気がすまなかった。

「はなせよおおっ!!」

 白刃を素手で握りはなさぬという異常行動に怯え、男たちは悲鳴を上げた。

 蔵人は刀身から指をはなすと、技も構えも忘れて右側の男へと猛獣のように襲いかかった。並外れた膂力で組討ちになると、相手の喉元へと噛みついた。男は激痛のあまり、蔵人の顔に爪を立てる。表情は変わらない。動作は機械のように正確だった。ブチブチと筋繊維を噛みちぎる感触に頭の中身が真っ白になる。口中に鉄錆に似た熱い血の匂いが溢れかえった。背中へとしたたかに斬撃を受ける。発狂したように男が剣を振るっているのだ。 

 それでも蚊ほどの痛痒も感じなかった。

 蔵人は顔面を相手の返り血で真っ赤に濡らすと、落ちていた剣を拾って無造作に背後に繰り出した。続けざま斬撃を繰り出そうとしていた男の腹へと刃は深々と突き立って、背中まで刀身を露出させた。

 男の腰を蹴りつけて剣を引き抜くと、残りの集団に猛然と向かっていく。

 勢いをつけて高々と跳躍した。

 黒い外套は蝙蝠が羽根を広げたように風を孕んで膨らんだ。

 同時に、長剣が鋭く空を切り裂いた。

 ひとりは喉元を、もうひとりは両眼を斬りつけられると、血飛沫を上げて倒れ込んだ。

「うわああっ!!」

 残った最後のひとりであるギースは慣れない手つきでナイフを構え、川の中ほどへと向かって後退していく。

 蔵人は数打ちの剣を投げ捨てると、ヨハンの胸元に足をかけ黒獅子を引き抜いた。

 躊躇なく川の中へと踏み込んでいく。

 返り血と落日の陽で真っ赤に染まっている。

 蔵人の身体は流れのゆるい水面に映り込み、やがて砕けた。

「助けてくれよおおっ!! 死にたかねえよう!!」

「死ね」

 蔵人は情け容赦なく吐き捨てると、両手に握った黒獅子を真正面から振るった。

 ギースの顔面に垂直に赤い直線が走ったかと思うと、すべてが赤一色に変わった。

 絶命の声が響き渡った。

 血塗れの顔を蹴りつける。

 川の中へと半ば埋まったギースの遺体に滅多矢鱈と斬撃を落とした。

 川面は飛沫が上がり、遺体が浮かんだり沈んだりを繰り返す。

 蔵人は憑かれたように遺体を切り刻み続ける。

 それは、ほとばしるような蔵人の嗚咽の代わりだった。

 激しい音が永遠に続くかと思われたが、それは唐突に遮られた。

 ネリーが全裸のまま蔵人の背中に飛びついたのである。

「もう、いいから。……だから、泣かないでよ、クランド」

 ネリーは蔵人の太い腰に左手を回すと、もう片方を剣を握る右腕にそっと添わせた。

 蔵人は無言のまま背中を震わせ続ける。

 ネリーは、男の悲しみを包みこむように、その場で寄り添い続けた。





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