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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
87/302

Lv87「メイド騎士の誤算」

 





 ヴィクトワールは木製のボウルの中に水で浸しておいた皿を取り上げると、清潔な布巾でひとつずつ丹念に磨きだした。

 基本的に、姫屋敷では洗い物はほとんど発生しない。食事を摂る主人の蔵人が日中自宅に居ることが稀であるからだ。

「ようし」

 水気を切った皿を順番に皿立てに並べる。こうして、しばらく乾燥させたのち、収納するのである。

 ヴィクトワールはやりきった感を出しながら笑みを浮かべると、腰に両手を当てて、うんと伸びをした。壁の時計に視線をやると、時刻はまだ午前十時前である。いつもより早いペースであった。キッチンを出て洗濯室に向かう。今日は、中々の上天気だ。洗い物も今から干せばあっという間に乾くであろう。

 先日、寝台のマットをしっかり干しておいたら、蔵人がやたらによろこんでいたのを思いだし、自然口元がほころんだ。面と向かって褒められれば誰でも悪い気にはならない。そうえいば、幼少時を除いてあそこまで手放しで褒められたのは何年ぶりだっただろうか。

(ふふ。無邪気なものだな、クランドのやつも。あれしきのことで、よろこぶとは。いよいよ、やつの心も私の手の内ということか)

 くふふ、と笑みを噛み殺しながら扉を開ける。そこには、ポルディナが洗濯し終えた衣類やシーツが神経質に籠へと積まれていた。

「どうせ干すのだからこのようにキッチリ置かなくてもよいものを。まったく、神経の細かい女だ……ん?」

 洗剤などを置いておく台の上に鈍い光が反射したのを見た。

「これは……。なんだ、あいつがいつも大事にしていたバッジではないか」

 あいつとは、蔵人の奴隷である亜人の少女ポルディナのことである。

 それは一目見て安物とわかる七宝焼きのバッジであった。土産物屋でよく見るシロモノで、価値は二束三文ではあった。なんでも蔵人からもらった大切なものらしく、ポルディナはいつも大切そうに肌身離さず身に付けていた。あとで、洗おうと思って水場の近くに置いておき忘れてしまったのであろうと推察された。

「なんとも、あいつらしくもない手抜かりだな」

 ヴィクトワールは右手で金色の髪を撫でつけながら、バッジを手に取ると椅子に座った。

 それは狼を象った顔が刻まれたもので、生まれついての大貴族である彼女からすればどう見ても値打ち物には見えなかった。

「ふむ」

 片手で弄びながら、しげしげと見つめる。

 裏を見て、表も子細に点検する。紛うことなき三流品だった。

 ヴィクトワールはハンカチを取り出すとなにを思ったか、そのバッジを丹念に磨きだした。きゅっきゅっと摩擦する音が誰もいない室内に大きく響く。彼女の緑の瞳は、やさしげに潤み、しっとりとした深い新緑の森を思わせた。

 が、細かに腕を動かしている間に、長い髪が不意に揺れ顔先を撫でた。

「は、は、は、はっくちょんんんっ!!」

 細かな髪が鼻先を刺激するや否や、ヴィクトワールは強烈なクシャミを耐え切れずに発した。

 弁護するなら不可抗力である。

 しかし、運命は無情だった。吹き飛んだ七宝焼のバッジはクルクルと弾け飛んで、壁にブチ当たって、四散した。

 かつーん、と。

 硬質な音が、ヴィクトワールの鼓膜に反響する。

「……え」

 魂が抜ける、とはこのことだろう。

 ヴィクトワールは呆然とした顔で立ち上がると、床に転がった“バッジだった”ものを拾い上げる。

「え、ちょ、ちょ、待って。なんで、なんで。うそ、うそでしょう」

 嘘ではない。すべて現実である。

 彼女はしばらく壊れた陶器の破片を手のひらの上で弄ぶと、まず最初に証拠隠滅のために清掃をはじめた。

 それは無意識の行動だったのだろう。チリ一つ残さない微細かつ丹念な動きで、なにかが割れた、という痕跡だけは完全に消去された。少なくとも、ここが犯行現場であることを気づかれる恐れはない。

「ふーっ。……ってちがーう!! なにをやっているのだ、私は! なにを証拠隠滅をしようとしているのだ! ダメだ、ダメだぞ。騎士であるならば、己の過失を潔く認め、素直に謝罪……しゃざ、い」

 ヴィクトワールの顔色。血を抜ききったように一気に青ざめた。水死体のようである。

 ただでさえ白い肌が透けて見えそうになほどの印象だ。

 ダメだ。

 それはいけない。

 なぜなら怖いからだ。

「まずい。これはまずいぞ」

 カタカタと自然に両肩が震えだす。

 日頃のポルディナの信奉具合を見ていればわかった。

 アレは狂信者に近いのだ。

 ただでさえ、主のことを神以上と豪語している女の賜り物を損なったと知れば、その害は目を覆うものだろう。

「そして、被害者はわ・た・し。はっ、いまなにを……! ちがう、現実逃避している場合じゃないぞ、考えろ、考えるんだヴィクトワール! ダメだ、思いつかない」

 早々に諦めた……はずもなく打開策を探し続けるメイド騎士であったが、良策というのは願って舞い降りてくるものではない。十八歳になったばかりの彼女は過剰なストレスに耐えかね、長い爪をカリカリと噛み出した。爪噛みは、歴とした自傷行為である。

「先ほどからいったいなにを騒いでいるのですか」

「はうあ!? な、ななな、なんでもないのだ。あは、あはははっ、あはっ」

 不意に背後からポルディナが入室してくる。ヴィクトワールは顔をこわばらせたまま、引きつった笑顔で応えると洗濯室を駆け去っていった。風を巻いて走る彼女の背後には憮然とした表情のポルディナがぽつんとひとり残されていた。

「はぁ、それはまたやっちゃいましたねぇ」

「なんだその人ごとのようなセリフはっ。おまえは、危機感が足りないのだっ!」

 ヴィクトワールは自室に戻ると、まだ仕事をしていた侍女のハナを連れこみ、部屋の錠を固く閉じた。万が一にもこの密談を聞かれてはならないという彼女の怯えがあった。

「危機感といわれましても。もう、素直に謝って許してもらうのが一番だと思われますが」

「はあっ!? おまえ、誰が怒られると思ってるの? もおお、そんなこというならおまえが謝れよおおっ!!」

「わー、お嬢さまなにげに最低ですー」

「くううっ。ハナ、おまえも知っているだろう。あの犬耳女の凶暴性をっ。しかも、なにを間違ったのか、あの女はクランドを盲信しているっ。私は、あの女がこれを朝な夕な悦に入りながらじっと見つめていたのをようく知っている。それが、それが、こんな有様になったと知れたら。もうっ、私はもうっ」

「あー。ちょっと見せてください。あー、こりゃひどい。こりゃダメですねー。あはは」

「もおお、なんでそこで笑うかなぁ。私が真剣に困っているのにっ」

「しっかし、なーんでお嬢さまはこのようになる可能性があることをわかっていて虎の尾を踏むような真似を。放っておけばよかったのでは」

「別に、私だってポルディナが憎くてやったわけじゃ、いや、少しはアレだが、私怨でやつの大切なものを壊したわけではない。その、親切心で磨いてやろうと思い立ち、たまたま手が滑って落として、結果として割れちゃったのであって、恥じることはなにひとつないっ!」

「あくまで善意からで。それじゃ、そのように仰せられれば、彼女もそう怒らないと思いますけど。お嬢さまは、どのように考えているかわかりませんが、彼女はかなり理性的な人間ですよ」

「にゃああああっ!! いえるわけ無いだろうがっ! あの女が超・絶、激怒するに決まってるうううっ!!」

「あー、トラウマですね、これは」

 ハナは寝台に腰かけると、見事に四つに割れたバッジを子細に見ながら小鼻をピクピク動かした。

「ふむ。提案なのですが、いっそのことこれと同じものを購ってくる、というのはどうでしょうか?」

「そ、それだ! い、いやいかん。確か、そのバッジはクランドが冒険者組合(ギルド)で買い求めたものだといっていた。ならば、事務所にまで行かねばならないのだろう。それは、ちとまずい」

「んん。あぁ、そうですかー、そうですかー。……もしや、ヴィクトリアさまのことを心配しているのですか。あの方は腰が重いので万が一にも出くわすなどということはないと思うのですが。でも、このバッジ記念品のようですしモノ自体特別なものではないのでしょう。街の雑貨屋にも出回っているかもしれませんよ? 根気よく探せば、きっと見つかるはずですって」

「そうか、なら頼んだぞ」

「え?」

「え?」

 ハナは小首をかしげてヴィクトワールの顔を覗きこんだ。しばらく見つめ合うふたり。

 先に折れたのは事件の張本人である、ドジメイドの方だった。

 一時間後、ヴィクトワールは失われた記念バッジを求めて街に繰り出していた。

「どうして侍女がいるのに、この私がかような用足しに直接出向かなければならないのだ。まったく、もお」

 すべて自業自得である。

 だが、彼女には反省の色は微塵もなかった。

 ヴィクトワールが外出している間は、ハナが上手く鬼メイド長にいい繕っておいてくれるとのこと。タイムリミットは日が落ちるまで、ということらしい。

(そういえば屋敷から出るのは、はじめてだったか……)

 ヴィクトワールは黒地のドレスに白のエプロン、手には籐製の籠を持ったままシルバーヴィラゴの中央部を目指して歩き出した。姫屋敷から三十分ほど歩けば、徐々に街は賑わいを見せはじめる。目抜き通りにはあらゆる商店が軒を連ねて雑多なものを並べていた。

「ふむ。これだけ、たくさんの店があればどこかにバッジのひとつやふたつ、すぐに見つかるだろう」

 ヴィクトワールは細い顎に人差し指を当てながら微笑した。

 ふと、物売りの中年と目が合う。威勢のいい中年の物売りは、待ってましたとばかりに口上を機関銃のようにまくし立てた。

「いらっしゃいっ。おぉっ、こいつはまたべっぴんさんだ! 朝イチからツいてるねえっ。お女中さん、シルバーヴィラゴ名物ホロッホどりの串焼きはひとつどうだねっ。朝から駆けずり回って小腹がすいたくらいだろ? ほっぺたが落ちること請け合いだぜ!」

「ふむ。なにも買わずにものを訊ねるのもぶしつけだろう。ハナ、支払ってやれ……ああ、そうか。いまはいないのだったな。店主、いくらだ」

 貴人が従者を連れずに外出することはまずありえない。

 特に、ヴィクトワールほどの爵位を持つ令嬢であれば物売りと直接やりとりをするということは、皆無だった。旅の途中でも、金銭のやりとりは常に従者であるハナに任せていた。久しぶりの外出で気がゆるみかつてのような応対をするのは自然の流れである。目を白黒させる店主を前に、慣れない手つきで財布を開いた。告げられた価格の銅貨と交換にホロッホどりの串焼きを手に入れる。店主が、こいつはちょっと毛色の変わった客だぜ、という目つきになったことも気づかず、辺りをキョロキョロと見回しはじめる。

「店主、ところで椅子はどちらにあるのだ」

「え、あ。えぇ?」

 屋台の串焼きなど買ったその場で立ったまま、あるいは歩きながら食べるのが庶民の通例である。

 しかしながら、長旅の途中ですら必ずハナに床机を出させて飲み食いをしていた礼儀正しいヴィクトワールである。彼女の中で、飲食物を往来の真ん中で歩きながら食すなどは考えもしない行為だった。彼女は近衛騎士であったが、ほとんどが宮殿内で王女に侍るのがほとんどであった。野戦や露営の経験は皆無であり、その点はるかに純粋培養された典型的な貴族令嬢の典型ともいえる生活様式を堅持していたのだった。

 店主が慌てながら椅子を用意すると、ヴィクトワールは軒先の内側に引っ込み人目につかない位置で串焼きを丁寧に口に運んだ。野趣あふれる肉を噛み締める。口内いっぱいに濃厚な肉汁と脂が広がり、頬が自然とゆるんだ。

 手元で口を覆いながら食事を終えると、手のひらをヒラヒラと動かした。店主は戸惑いながら、うろたえきった様子で額にびっしりと汗をかく。

「水」

「へ、へへぇっ!」

 用意させたボウルに張った水で手の汚れを清める。ヴィクトワールはすっくと立ち上がると、手にしたバッジの破片を見せ、これと同じものがないかどうか訊ねた。

「と、申されましても、ウチはしがない串焼き屋なんで。こういうものは、この先の雑貨屋で聞いた方が確実かと」

「そうか。ならば、案内せい」

「へ? へ、へいっ!」

 ヴィクトワールは串焼き屋を供にして雑貨屋まで移動した。どうやら、串焼き屋と雑貨屋のオヤジは顔見知りらしい。ふたりは顔を突き合わせるとゴニョゴニョと話しだした。

「あのー、お女中さん」

「ヴィクトワール」

「へ?」

「私はヴィクトワールという。今後はそのように呼ぶがよい。それで、結論としてこの店で同じものは購えるのか」

「いえ、そのヴィクトワールさん。残念ながら、このバッジは随分と型が古くて中古屋でも中々出回ってないものかと。おまけに、これ、正規品じゃありません。偽物です。海賊版ってやつですな」

「偽物、だと?」

「正規品のバッジに似せてありますが、焼き方も彫りもすべてが甘すぎるんで。冒険者組合(ギルド)の職員が商っているものとはあからさまにクオリティが低すぎやす。大方、受付の近くの叩き売りで購入したものでしょうが、へい。あそこでは、よく受付嬢が小金を貰って物売りを黙認しているというのを聞いておりやす。どうでしょう、正規品のこれと同じ型のものなら夕方にまでは見つけることはできやすが」

「ちなみに、正規品と偽物の違いはすぐわかるものなのか」

「ははっ、それはもう。あまりに造りが違いすぎますからねぇ」

「それは、まずいっ! 本物ではまずいのだっ。どうにかして、これと同じ偽物を手には入れられないのかっ!!」

 ヴィクトワールは激しく焦った。あの、妄信的なポルディナが違いに気づかないはずがない。下手なものを入れ替えてしまえば、数秒で露見するだろう。そのくらいならば、知らぬ顔の半兵衛を決めこんだほうがマシというものである。

「ちょっと、それは、無理でしょう。こういう騙りを扱う流れの商人は、かなりの時間が経たねば同じ場所には姿を見せないのが当たり前なもんで」

「……いったい、私はどうすれば」

 ヴィクトワールは蒼白な表情でうつむく。美女の憂い顔を見て気の毒になった、串焼き屋のオヤジがバツの悪そうな顔で頭を掻いた。

「あー、このジョゼッペが無理だっていうなら、おそらく無理だろうな。けど、ひとつだけ方法があるとすれば――」

「なんだっ、なにかあるのかっ! 頼むぅう、教えてくれっ!!」

「――おれのいきつけの酒場の女主人は結構カオが広くてなぁ。彼女ならもしかしたら」






 ヴィクトワールは即刻教えられた酒場に向かって歩き出した。目抜き通りから離れていくにつれ、徐々に街並みは物悲しい雰囲気に変わっていく。辺りの家の軒先には昼間から若い男たちが所在なく屯っている。中には昼間から飲んでいるのか顔を赤らめている男もちらほら見受けられた。見るからにみすぼらしい半裸の子どもが、垢じみた顔つきで野良犬を追いかけている。いかにも無頼の徒といった輩は、ヴィクトワールの姿を見ると下品な言葉を躊躇なくかけてくる。

(まったく、下卑た輩どもだ。早々に用事をすませたら立ち去らねば)

 ヴィクトワールは表情を消したまま、大きな胸をツンとそらせて足早に通り過ぎていく。

 飲み屋がひしめき合っている通りに差しかかると、目の前にひとりの男が両手を挙げて立ちはだかった。

 ヴィクトワールより拳ひとつぶんほど大きな背丈だった。すれ切った黒いシャツに皮のチョッキを着ている。目つきは脂ぎっており、視線は真っ直ぐ彼女の両の乳房に固定されていた。

 ヴィクトワールが避けて通ろうとすると、男は素早くそれにあわせて動く。

 こめかみが、怒りで細かくヒクついた。声音を押さえていった。

「どいてくれないか。そこを通りたいのだ」

「……とーせんぼ、とうせんぼぉおっ」

「なぜ、そのような真似を」

「うえっへへ。姉ちゃん、かわいいのう。おれっちのタイプだよお。ねえねえ、ちょおっと暗くて涼しいところで語りあわなぁい」

「語り合わない。どけ」

「どかなーい。いひ、いひひひっ」

 男は不器用にウインクをしてみせる。ヴィクトワールはそれを無視してしゃがむと、赤ん坊の頭ほどの石を拾った。男が図々しく顔を近づけてくる。異様な臭気が鼻先をなぶった。怒りのレベルゲージが一気にレッドゾーンを踏み越える。

「んんん。なになにぃ? おえぶっ!!」

 ヴィクトワールはつかんだ石でおもいきり男の口元を殴りつけた。

 石ころは狙いたがわず男の前歯を残らずへし折ると血飛沫を撒き散らした。

 汚れ切った黄ばんだ歯が辺りに飛び散った。

 男は後ろにひっくり返ると踏まれたゴキブリのように四肢をシャカシャカ乱舞させる。

「いだあっ、いだああーぃ。なんでぇ!?」

「虫けらが目の前をブンブンやかましく舞っていれば癇に触るだろう。つまりはそういうことだ」

 長い脚を垂直に突き下ろす。頑丈な黒のブーツが男の胃袋に吸い込まれた。

 男はおげっ、と屠られた豚のような鳴き声を上げると気絶した。

 ゴミを速やかに排除し、しばらく歩くと目的地の酒場にたどり着いた。

「ここだな」

 ヴィクトワールはスイングドアを押し開いて店内に入った。中は薄暗く、酒場独特の強いアルコールや油物の雑多な匂いが鼻を突いた。

 カウンターには二十代後半の女性と若い少女が隣り合って座っていた。

 酔いつぶれているのか少女は微動だにしない。ちょっと見たところ、羽飾りのついた丸い帽子がやけに上品そうな品だった。

 少女はグラスを片手に持ったまま突っ伏している。

 周りには、すでに空になった酒瓶が幾本も転がっているのが見えた。

 小さなカンテラに照らし出され、こちらを見ているのが串焼き屋の店主がいっていた女主人だろう。うらぶれた感じの、ひどく退廃的な色気を放っていた。元々顔の作りは整っているのだろうが、濃い化粧とやつれたような瞳がそれを損なっていた。

 女主人は椅子から立ち上がると、だるそうにしゃべりだした。大きく胸ぐりの開いたドレスから乳房を半分以上露出している。あまりの下品さに、ヴィクトワールは心の中で顔をしかめた。

「メイドさん? あいにくと、ウチは人手なら余ってるよ。仕事を探しているのなら隣のロランの店に行きな」

「いえ、そうではなく。あなたがこの店の主人のルイーゼ殿か。少しものをお尋ねしたく、足を運ばせてもらったのだが――」

「ああああああっ!!」

 ヴィクトワールが話をはじめた途端、少女が突然騒ぎ出した。手に持ったグラスを放り投げ、両足をガツガツ床にぶつけはじめる。皿が辺りに散乱し、食べかけのチキンやスープの中身が床に散らばった。

「こらっ、メリー騒ぐんじゃないよっ!! ごめんねメイドさん。ちょっとこの娘、つらいことがあったみたいで。こらっ、いい加減におしよっ」

「やだああっ、やだやだやだああっ! なんで、なんで、なんで、なんでわたしばっかりっいいいっ!!」

「おい、大丈夫なのか?」

 ヴィクトワールが心配そうに手を伸ばすと、メリアンデールはものすごい勢いで振り払う。ヴィクトワールはちょっと涙目になった。

「ええ!? あー、平気平気。ちょっと男にフラレただけなんでねぇ。このくらいの歳の娘にゃよくあることで。ほら、もうっ。人が来てるんだよっ。それでも、歴としたお貴族さまかいっ」

「フラれてないいいっ! わたしフラれてないもおおんんんっ」

 少女、メリアンデールの表情はひどかった。端正な瞳は酒で真っ赤に血走っている。目蓋の下にはドス黒い隈がうっすら浮かんでいた。髪は幾日も手入れをしていないのか、ボサボサでほつれている。着ている服もあちこちにシワが寄り、くしゃくしゃになっていた。

「あー、ルイーゼ殿。これでは、ちょっと話にならないな」

「悪いね。なんか今日はヤケにこの娘荒れちゃって。あの日かな」

「処女で悪かったですねええええっ!! うううっ、なんで、なんで。もおお、死にたいよう。誰か、その音消して。わたしの耳元で歌わないで……。うるさいよおおおっ!!」

「誰も歌っちゃいないよ。ったく」

 メリアンデールは両手で顔を覆うと、シクシクと静かに泣き出した。

 完欝状態である。

「んで、なんだったっけか、メイドさん。あたしに用事だって? 仕事の斡旋じゃなくて」

「ハエが舞ってるぅううううっ!! あっちいけえええっ!! このおおっ!!」

「ああ。というか、これは放っておいていいものなのか」

「あーいいっていいって。ときには酒が憂さを吹き飛ばしてくれるものさ。それに、酔いが覚めればこの娘、結構シャンとしてるし。んで、用件は?」

「ああ、実は……」

 ヴィクトワールはいままでの経緯を残らずルイーゼに伝えた。しばらく頭をひねっていたルイーゼは、もしかしたら酒代の質に取ったものにそのバッジがあったかもというと、店の奥に引っこんだ。

 その場に取り残されたヴィクトワールは所在無げに立ったままメリアンデールのすすり泣きを聞きながら非常に気まずい気分に陥った。

「……そんなつもりじゃなかったんです」

 来た。

 メリアンデールは顔を覆ったまま、静かに語りだした。

 ヴィクトワールはもはや観念すると、大きくため息をついた。

「あの人は、ずっとわたしのことだけを考えて行動してくれたのに。……ひどい言葉で傷つけてしまったの」

「そうか」

「彼は、いつもやさしかった。わたしの作った料理を、いつもおいしいって食べてくれたの。さびしいっていえば、そばに居てくれたし。いつでも、わたしのこと愛しているっていってくれたわ……」

「そうか」

 ヴィクトワールとて女子である。十八の娘ざかりであれば、このような色恋沙汰に興味がないわけではない。酔っぱらいの繰り言であっても、興味が沸かないわけではなかった。

「ちなみに、相手はどんな男だったのだ」

「彼は、やさしくして、強くて、紳士でした。一晩同衾しても、わたしには指一本触れなかったの。ふふ、きっと私のことを気遣ってくれていたのね。でも、こんなことになるくらいなら、もったいつけずに許してあげればよかった」

「そうか、紳士か。たしかに、一晩も女といて手を出さないとあれば、それはおまえのことをよほど思っていたか、それとも――」

「ですよねっ!!」

 不能か、と続けようとしたところにモロにメリアンデールが食らいついてきた。

 ヴィクトワールは真っ向から、メリアンデールの瞳を直視した。

 彼女の青い瞳は、深海のように底が見えない狂気を孕んでいた。

 気圧されたヴィクトワールが腰を浮かしかけると、熱病に憑かれたような瞳でメリアンデールが顔を近づけてきた。

「そうですよね愛してますよねわたしのことこれでおたがいに想いが通じていないことなどありませんよねああでもなんでわたしったらあんなひどいことばを平気でううん彼だって平気なわけがない死ねばいいわたしなんて死ねばいいリースの代わりに死ねばいいとみんな思ってカインもおとうさまも皆が皆がつめたいあの家に居場所がないひとりぼっちひとりぼっち寂しい慰めて抱きしめて頭を撫でて愛してずっと愛して骨まで愛してわたしを癒してくれるのはあなただけあなたになら殺されてもいいけど迷惑かも許されたい謝りたい勇気が出ない知らんぷりされたらその場で舌を噛み切って死ぬ自信があるああなんであの日彼を拒んだのかしらあのままソファに押し倒され彼の熱くて逞しいものに突かれればよかった突かれたい突き殺されたい突き殺して無様な豚のように家畜のようにわたしにはあなただけ許して許して許してててててててててて」

「ひいいいいっ」

「逃げないでくださいよ。ところで、お姉さん。美人さんですね」

「……どうも」

「で、お姉さん。その顔、セックスが充実してる顔ですね」

「んぶっ!?」

「ふっ、誤魔化さないでください。どうせ、アナタみたいな美人さんは、男と年がら年中イチャイチャよろしくやってますよね。当然の帰結。世界の選択です。だから、お肌がそんなにもう、ツルツルテカテカふわふわして、そういうやつを見ると、わたしはもう。さびしいわたしがこうして孤独に打ち震えているっていうのに。もお。も、もお、もおおおおおっ!!」

「く、来るな!! こっち来るな!! ひいいいっ!!」

「逃げんなぁああっ! このヤリマンがあああっ!!」

 ヴィクトワールがルイーゼが戻るのを待たずに店から逃げ出したのは無理もなかった。






「んで、結局一日潰して戦果なし、と」

「返す言葉もない」

 夕闇が間近に迫る頃、姫屋敷の玄関口で語り合うふたりの主従の姿があった。

 疲れきったヴィクトワールとハナである。

「どうするのですか、お嬢さま。ポルディナさん、昼頃から真っ青な顔でずっとバッジ探してますよ。ハナはあまりにも不憫で、もお黙っていられそうもありません。くふ」

「おい、なんでちょっと嬉しそうなんだっ。くぅ、な。た、頼む。おまえがやったことにしてくれ! あいつは、年下には優しいだろ! おまえならそれほどキツく咎められはせん。な! な!?」

「えええっ、ちょっ! さすがにそれはヤですよう! ハナが死んじゃいますってっ!!」

「おまえがやった! それですべてが解決するっ! ああ、なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだ!」

「ず、ずるいっ。お嬢さま、超ズルっ子ですう! さすがのハナもそれだけは承諾できないですっ!」

「おまえがやった! おまえがやったの!」

「ちょ、それはないでしょうっ」

「うるさいいいっ!! そもそもこのバッジをあんなところに置いておく、あやつが悪いのだっ!!」

「バッジがなんですって」

 低くこもった声に心臓が収縮する。目の前でハナが真っ青な顔で口をぱくぱく金魚のように開閉していた。錆びついたカラクリ人形のような動きで首をねじ曲げる。

 そこには、いまだかつてないいい笑顔で佇むポルディナの姿があった。

 ヴィクトワールは犯行を自供した。

 ポルディナが仁王のように佇立するまえで、すべてを一から話したのだった。

「そうですか。わざとではなく、善意から行ったことでこうなったのですね」

「ああっ、それだけは信じてくれ!」

 激怒するかと思いきや、ポルディナは案に相違して落ち着いた口調でそれだけ確かめると、跪いていたふたりの手を取って立ち上がらせた。

「そうですか。ならば、仕方ない。これからは、気をつけるのですね。さ、夕食の用意をご主人さまが戻られる前にしなくてはなりません。ふたりとも、手伝いなさい」

「……怒らないのか?」

「このようなことでいちいち咎めていては、誰もがなにもできなくなってしまうでしょう。形あるものはやがて壊れるものです。それに、私はあなたたちの姉です。妹の過ちの責はすべて私にあるのです。そもそも、そんな大切なものを置きっぱなしにした私がいけないのですから」

 ポルディナはそれだけいうと、四つに割れたバッジをそっとハンカチに包み、屋敷の裏手へ歩き去っていった。ヴィクトワールは呆然とした様子でその後ろ姿を見送っていたが、叱責される恐怖から解放されたのか、安堵のあまりそっと胸を撫でおろした。

「ふうっ、よかったな! 思ったほど怒っていなかったぞ。案外、器の広いやつじゃないか!」

「……本気でそう思っているなら、お嬢さまはなんて能天気なことですか。こっちです」

「おい、どこに行くんだっ」

 ハナはヴィクトワールの手を引くと屋敷の裏手に消えたポルディナを追った。彼女はおそらく夕餉に使う材料を求めて家庭菜園に移動したのだろう。

 まもなく、ポルディナの姿を見つけるとその場に隠れたまま息を殺す。普段の彼女であれば、これだけの距離に接近して気づかないはずがない。

 だが、呆然としたようでその場に佇んでいたポルディナは手にしたバッジの破片を見つめたまま、まもなく声を押し殺して泣き出したのだった。

「……っ。くっ……なんで……私のっ……たからものっ……ご主人さまにっ……もらったのにっ」

 悄然と沈みきったポルディナはその場にしゃがみこむとうつむいて両手で顔を覆った。

 白い手のひらの隙間から、涙がボロボロとこぼれて地面に落ちていく。

 途切れ途切れに聞こえる声は哀切極まりなく、ふたりの胸に突き刺さった。

 ヴィクトワールはここに至って、己の行ったことを認識すると、紙きれのような真っ白な顔でその場にただ立ちすくむだけだった。

 ふたりはその後なに食わぬ顔で炊事場に戻ると夕食の支度を無言で手伝った。

 蔵人に給仕するポルディナの顔色も心なしか憂い顔だった。残り湯で身体を清めたあと、自室に戻ると、どちらともなくポツリポツリと会話をはじめた。

「なあ、私たちは、どうポルディナに謝罪すればよいのだ」

「……はい。あのバッジはハナたちから見ればどうってことのないものでも、彼女にとってはかけがえのない宝物だったのですね」

「どうすれば。いったい私たちはどうすれば」

「その、なにか彼女の好きそうなものをプレゼントするっていうのはどうでしょうか? 正直なところ、勇者さまの贈り物から比べれば代わりになるようなものでもないでしょうが、せめてなりとも謝罪の意をこめてなにか心を砕いたものを差し上げれば、少しは、意味があるのではないでしょうか。なにか、ないですか? 最近、お嬢さまが感動したものとか」

「そういえば、ポルディナは肉料理が好きだったな」

 ヴィクトワールは街に出かけた際に屋台で食べた串焼きが非常に美味だったことを思い出した。あれを食べさせれば、少しは元気を取り戻すかもしれない。自分の思いつきを話すと、ハナはパッと顔をほころばせ同意した。

「そういえば、街のお肉屋さんで小耳に挟んだのですが、なんでも城外四里の林に、ホクホク鳥という世にも珍しい珍種が最近目撃されたとか。なんでも、その肉は非常に美味で地元の人間も知らない人が多いという逸品らしいです。もし、その鳥を捕まえて串焼きにできれば、ポルディナさんの憂いも少しは晴れるかと」

「そうだなっ、よし! 明日、さっそく捕まえてこようっ!」

「その意気です! あと名誉のためにいっておきますが、たち、とハナをお嬢さまにプラスアルファするのはやめてくださいな。ぜんぶ、お嬢さまの単独犯ですからっ」

「おまえなああっ!!」






 次の日の夕暮れ、城外で激しい激闘の末ホロッホ鳥(※捕獲難易度高し)を捕らえ、荷車に乗せて山野を疾走するヴィクトワールの姿があった。

 一方、姫屋敷では新品の記念バッジを胸元につけウキウキした様子で夕食を運ぶポルディナの姿があった。一部始終を聞いた蔵人が新たに同じものを冒険者組合(ギルド)で購入し、与えたのである。

「待っていろよっ、ポルディナぁあああっ!!」

 数時間後、帰宅したヴィクトワールは上機嫌のポルディナからニコニコしながら新品のバッジを説明された。

 昨日のことなどなかったような態度を取られた上、勝手に屋敷を空けたことを軽くたしなめられた。

 しかも、優しくだ。

 憤懣やるかたないヴィクトワールはその夜、ハナのほっぺたを思う存分引っ張って八つ当たりをしたのだった。 


 


 


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