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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
85/302

Lv85「郭公の托卵」



 

「こんな美少女たちとお買いものに行けるなんて、クランドさんはしあわせものだなって自分でも思いません?」

 ヒルダは目を伏せて恥ずかしそうに身をよじると、愁い顔でつぶやいた。

「え。なんだって?」

 蔵人はすっとぼけた様子で耳に手を当てるとわざとらしく聞き返した。

 ヒルダはほっぺたをモチのようにぷくっと膨らませ、金色の瞳を大きく開き威嚇をはじめる。

「ほほう。そこで聞き返すとは。ちょーっとその態度いただけませんねぇ。えいえい」

「おい、娘。袖を引っぱるのはやめんしゃい」

「こら、往来の真ん中で喧嘩しないのっ」

 レイシーはヒルダを蔵人から引っぺがすと小言をいった。だって、と不満を垂れる彼女の額を人差し指で弾く。ヒルダはほんのりと涙目になった。

 よく晴れた日の午後、蔵人たち三人はリースフィールド街に買い出しに出ていた。主な目的は日常品および銀馬車亭で出す食品の材料である。

 蔵人の主な役目はレイシーが購入した小麦や保存品などを大八車に乗せて運搬することである。やはり女手では不可能な量の物品を購入する際にはときおりこうして駆り出されることがあった。

 この世界において人力はいまだもっとも重要な役目を果たしていたといえよう。

「ごめんね、クランド。いっつも、こんなにたくさん運ばせちゃって。だいじょうぶ? つらい? 今日はこのくらいでやめとく?」

「はは。このくれーどーってことねぇぜ。軽いもんだっての。それにいつもって、今日で二回目だろ。レイシーは気にしすぎだ」

「本当に? 無理しないでね。あのね、急にいつも出入りしてる御用聞きが軒並み来なくなっちゃって。どうしたのかしら」

「そいつは困ったね……」

「困ったねじゃないでしょう。レイシーや、よくお聞きなさい。その出入りの肉屋と雑貨商を残らずコテンパンにしたのはこの男です」

 ヒルダは蔵人の額にぴ、と手のひらを当てると重々しく告げた。蔵人は頬を掻きながら困ったように眉間にしわを寄せる。ちょっと、猿っぽい風情だ。

「だって、あの小僧どもがレイシーに色目を使うから」

「ええっ! そうだったの!?」

「そうだったのですよ。というか、レイシー。クランドさんを咎めなくても良いのですか。この私の清い公正な魂が彼に天誅を下せと仰っています」

「天誅だなんて、ひどいこというなよ。ちょっと、撫でてやっただけだぜ」

「全員病院送りでしたよねぇ。後始末はまたもや教会に振っていたわけですが」

「え? あのおっさんて、その為だけに生まれてきたんじゃねーの」

「マジでかわいそうです、ウチの司教。それよりも、さっ! レイシー、ここは心を鬼にして叱っとかないと。いつか、この男はボグッとやっちゃいますよ。もう私、死体を埋めるのも弔うのも見なかったことにするのもゴメンです」

「え、えーと。ダメでしょ! ……こんな感じかな。えへ」

 レイシーは蔵人の額に軽くチョップをかますと、ちらりと赤い舌を出してはにかんだ。

 蔵人は激しく脂下がるとだらしなく頬をゆるめ、額を押さえて効いたフリをしだす。

「うわーい、怒られちゃった」

「ダメだ、こいつら」

 ヒルダは冷えた口調で突き放すようにいった。ジト目でレイシーをにらむ。そこには微妙な割り切れない女心が複雑に絡みあっていた。蔵人は馬鹿なので当然気づかない。

「だって、クランドはあたしの為を思ってしてくれたんでしょう。その、確かに暴力良くないことだけど、でもでも。それって、結局クランドがあたしにヤキモチ焼いてくれたってことだし」

「レイシー」

「クランド」

 蔵人たちは往来の真ん中で、感極まったように互いの目を見つめあい、熱い視線を交錯させる。傍から見ると、大八車を引いている蔵人は滑稽の二文字に尽きた。

 ヒルダはかーっと喉を鳴らすと、道端にんぺっ、とかわいらしく口を尖らせて唾を吐いた。

 道端を歩いていた老婦人は驚きのあまり、腰を抜かしその場に尻餅を突く。

 横を歩いていた旦那らしき老夫は杖の置き場を見失うと、顔から地面に突っ込んで微動だにしなくなった。

 贔屓目に見て大問題である。

「もういいですよーっだ、ふたりで、世界作っちゃって。私、そういう空気、自分以外の人にされると覿面に頭に来るんですよね。ので、これからは積極的に壊していこうと思うので、そのおつもりで」

「や、やだな。べつにあたしはそんなつもりじゃ」

「ぎゅーっ」

 ヒルダは幼児のようにいきなり蔵人に抱きつくと頬ずりをした。

 レイシーは困ったように頬に手を当て、髪の毛先を弄びはじめた。

「おい、なんの脈絡もなくくっつくなっての」

「ふんふんふん。これから匂いつけの作業に入ります。覚悟はよろしいか」

「おい、変な子がよりいっそう壊れたぞ」

「私は壊れてなどおりません。そのような目で見るあなたの心が壊れているのですよ」

「あ、いい笑顔だ」

 三人が駄弁りながら話していると、四辻に差しかかった。

 道筋には暑さを嫌ってか人々の往来はまばらだった。

「あっついですねー。ちょっと、お茶しません? クランドさんもつらそうですし」

「そうね、少し休みましょうか」

「だったらおまえは車から降りろよ……」

 ヒルダは荷物を満載した大八車の上にちょこんと座っていた。

 蔵人が足を止めてカジ棒から手をはなすと車体が傾く。

 ヒルダは、「とうっ」と叫びながら猫のように身軽な動きで着地に成功した。

「ふふふ。不意を突いたようですが、その程度では私の堅牢なバランス性能は崩せませぬ。

 ……あれ? なんでしょうか」

 ヒルダの言葉に視線を転じると、そこには物陰で三人ほどの男が小柄な少女を取り巻いているのが見えた。物見高い人々もこの暑さでは群がる気力もないのだろうか、ちらりと通りがかりに視線を向けては足早に去っていく。ときおり男の甲高い声が響くが、それはいささか緊迫に欠ける間の抜けたものであった。

 絡んでいる男たちもやけに小さすぎて威圧感を感じない。

「あら、ノーム族の皆さんですね。ふむふむ」

 ヒルダが訳知り顔に両手を組んでひとりうなずいている。確かに、子供のような背丈の男たちが喚いていてもそれほど切迫感はない。勢い、止めるものも見物するものも出てこないのである。彼らは一概にして、見ていて胸躍るような気持ちを掻き立てる部類の種族ではなかった。

「義を見てせざるは勇なきなり。絶対的正義の名のもとに私が止めてまいりましょーっ。こらー、ぼくたちぃ、かよわい少女を嬲るのはやめなさいっ」

「なにが絶対的正義だ。完全に見下してんじゃん」

 ヒルダは鼻息を荒くし騒動の中心に駆け込んでいった。彼女よりも拳ひとつほど背の低い男たちがぎょっとした様子で顔を上げる。

 さっと割れた空間の中、囲まれていた女が顔を上げた。

 彼女は蔵人の顔を見ると、よりいっそう蒼白となった。

「リコッテ……!」

 もちろん彼女は数日前に再開した友であるマーサの正式な妻である。

 蔵人が身を乗り出すと、リコッテは深くうつむくとかぶりもので顔を隠した。

 だが、その突き出た腹と見覚えのある顔はとても隠しようのないものであった。

「え? え? この妊婦さん、もしかしてお知りあいですか」

 ヒルダがとまどった声を出すと、リコッテの手をつかんでいた若い男が前へと一歩踏み出してきた。

「おいおい、尼さんよう。俺たちゃ、ちょっと立ち話してただけだぜ。それを、嬲るだなんだと、ちょおっと決めつけすぎじゃねぇのかよう!」

 男は二十代の半ばぐらいであろうか。長い金髪はよく梳かれ、後ろでひとつにしている。顔立ちは比較的整っており、細い鼻梁や切れ長の目は澱んだような退廃的な男の色気が濃く漂っていた。

「やめて、リカルド!」

「へへ、おまえは黙ってろや!」

「あうっ」

 リカルドと呼ばれた男は身重のリコッテを甲高い声を上げて突き飛ばした。

 蔵人が身を乗りだすと、それより早くレイシーが飛び出した。

「どいてっ」

 レイシーはリカルドの肩を押すと呆然としているリコッテに寄り添った。

「なんてことを。あなたたちには神の懲罰がいまにも必要そうですね」

 ヒルダは白い杖を両手で構え、男たちをにらみつけた。対して男たちは冷笑を浮かべながら下卑た顔つきでヒルダの身体の線を舐めるように視線を送った。

「へへ。美人な尼さん。俺たちにどぉーんな罰をくれるんだって?」

「無関係な人間は引っ込んでいたほうがお得ってもんだぜ」

「それでも、是非とも俺たちと遊びてぇってのなら話は別さ。じーっくり涼しい場所でくんずほぐれつ聞いてやるぜ。なあ?」

 いきがるノーム族の無法者たちを前にヒルダは余裕だ。理由はもちろん、彼らが軒並み自分よりちんまい背丈だからである。なんともわかりやすい性格である。弱い者に強いヒルダ。蔵人の中で彼女はそう定義づけられたことを、彼女は知らない。

「ふふん。これでも私はローグ流杖術の免許皆伝です。あなたたち三人程度ならコテンパンのギッチョンチョンにしてあげます」

「それは、困った。なあ、相棒」

 男の一人が背後の店先に向かって声をかけた。

 まず最初に強烈な異臭が蔵人たちの鼻を突いた。

 軒先から現れたそれは、二メートルを越す巨躯の野人だった。

 長い蓬髪を地に引きずりそうなほど伸ばしている。豊かな顎ヒゲはまったく手入れをしていないのかゴワゴワと固まって獣の毛皮を思わせた。盛り上がった上半身の筋肉は鍛えてどうこうなる規格ではない。手には巨木をへし折ったような棍棒が握られていた。

 オーガ、と呼ばれるモンスターである。

 彼らは通常、迷宮の奥深くに住み知能は限りなく低いとされた。訓練によってある程度の人語を介することはできるらしいとされているが、性、粗暴につき飼い慣らすのは不可能とされているのである。ノームたちの余裕の根源はここにあった。

 リカルドはちっちと舌を鳴らすとぬうっと前に出たオーガの太ももを手で叩く。その気安さは、主人が飼い慣らした犬に行う手馴れたものと同じだった。

 ヒルダは、オーガを見て取ると、素早い動きで蔵人の背に隠れた。その早さ、その勢いは先ほどの鼻息の荒らさからは予想もつかぬ程の身軽な動きだった。

「おい。ローグ流杖術の手並みはどうなった」

「仕方がないです。今回は手柄をクランドさんに譲渡します」

「はぁ。さよか」

「……というわけだ、尼さんにそこの兄ちゃん。俺たちを本気で怒らせる前にとっととこの場を立ち去ったほうがいいんじゃないかい? 別段、俺たちゃ荒事を好んでいるわけじゃねぇ。リコッテと話をつけたらとっととおさらばするさ」

「あなたたちっ! 妊婦さんにこんなひどいことしておいて謝りもしないなんてどういうことなの!」

 だが、この程度の脅しに屈しない女がただひとりいた。

 レイシーである。

 彼女は、リコッテのそばで胸をそらすと猛然とした様子で抗議した。

「おいおい。この姉ちゃんは、まるで目が見えんらしいな。もしかして、恐怖のあまりおかしくなっちまったのかなぁ。へぶっ……!?」

 レイシーはヘラヘラと笑いながら近寄ってきた男を平手で張り飛ばした。小柄な男は打ち下ろされた平手の勢い、で死んだカエルのようにその場で仰向けに倒れ込む。ニヤついた笑みを浮かべていた男たちの顔がいっせいにこわばった。

「おいおい。こっちは大人しく引いてやりゃあ許してやるっていってるのに。とことん、気の利かねえ女どもだなぁ。こいつはお仕置きが必要だよ」

「そうだそうだ! 関係ねえやつらはとっとと失せろっていってんのに!」

 猛然とノームたちがレイシーに掴みかかろうとしたとき、黒い旋風が突如として立ち昇った。

「その女とは存じ寄りだよ。ダチ公の女房でな。理由はどうあれ、知らん顔もできねえだろうが」

 蔵人はヒルダを腰にくっつけたままレイシーの腕を引くとかばうように脇に抱いた。

 同時に外套を翻すと、腰の長剣に手をかける。

 男たちもすでに冗談ですむ次元の話ではなくなったのを敏感に察知したのか、一様に真顔になり、額に細かな汗をポツポツと浮かび上がらせた。

「待ってください! 本当に、本当になんでもないのです! クランドさんも、やめてちょうだい。あたしはリカルドと話をつけたらすぐに帰りますから」

 呆然としていたリコッテは腰を浮かしかけながら叫んだ。リカルドと呼ばれた男は、若干余裕を取り戻し、握っていた拳を開いて顔の前で振ってみせた。

「というわけだ。クランドとかいうのか、おめえは。存じ寄りかなにかは知らねえが、リコッテは俺の女だ。邪魔はしねえでもらおうか」

「おい……女ってどういうことだ」

「そんなの嘘! 嘘です!! リカルドはあたしの幼馴染でそんなんじゃありません!」

「へへ、そう邪険にしねえでいいだろうが。この腹の子も、どうせ俺の子に決まってらぁな。リコッテ。俺たちが仲良くしていた事実は否定できねえだろう」

「むかし、昔の話よ! そんなこといまさら持ち出すなんてっ」

「……確かに状況はよくわからねぇが、この状況でリコッテとまともに話なんざできねえだろう。こっちもすべてを把握してるわけじゃねえからな。俺も女連れなんだ。無駄な殺生はしたくねぇ。とにかく、彼女だけは帰らせてもらう。歴とした旦那がいる堅気のおかみさんなんだ。文句はいわせねぇぜ」

 蔵人が全身から殺気を放射させると、リカルドは全身を硬直させてその場に釘づけになった。

 オーガのみは、野生の習性でいっとき猛り狂ったが、調教はかなり完璧のようで勝手に襲いかかってくるようなことはなかった。

 蔵人はリコッテをレイシーたちに託してその場を去らせると、リカルドたちと残った。

 路地の突き当りには、ちょっとした空き地があり、伐採した材木を寝かせる資材置き場になっていた。

 蔵人たちは、それぞれ適当な距離を取ると憮然とした表情で向かいあった。

「んで、いいぶんがあるなら聞くぜ。手短に頼まぁ。もっとも、おめぇのような三下の話はたいていつまらねぇと相場は決まってる」

 完全に気圧されていたリカルドは負けじと平静を装ってしゃべりだした。

「へ。大した度胸だな、兄さん。こっちもおまえのような胸糞の悪いやつとツラ突きあわせる趣味はねぇ。俺はよ、嘘なんぞこれっぽっちもいっちゃあいねぇ。リコッテと前につきあってたってのも嘘じゃねえやい」

「だとしても、いまの彼女は歴とした旦那がいる。おまけに身重だ。さっきみてぇに道端で安女郎を口説くような真似するのは、道理にあわねえんじゃねえか」

「へ。貸しがあんのよ! あいつにも、あいつのオヤジにもよ。おまえ、クランドとかいったな。ダチ公ってのは、あのデカブツのことか?」

「ああ、マーサのことであってるならな」

「じゃあいってやる! 俺とリコッテは幼馴染でな。恋仲だったのさ! 俺はつい最近までは、スミスのジジィのとこでずっと働いてたんだ! ガキの頃からよ! 七年だ! いいか、七年もの間尽くしてきたのにだっ。それを、あのぽっと出の野郎が現れたせいで」

 リカルドは屈辱を噛み締めるようにして、両肩を震わせながらうつむいた。

 真に迫った表情であった。

「おまえも、スミスの弟子だったのか……」

「へへ。あいつからみれば、兄弟子ってことになるな。この春あのマーサとかいう野郎が転がりこんでくる前まではなんの問題もなかったんだ。だがよ、あのうすのろが来てから、なにもかも変わっちまった! ジジィはなんだかんだいってマーサのやつばかりえこひいきしやがって俺には目もくれなくなっちまった。それだけならまだしも、あのデカブツは俺の女にまで色目を使うようになりやがった! なあ、想像してくれよ。俺たちのこのナリを見てくれ。こんな身体じゃ腕っ節であんなデカいやつにかなうわけ無いだろう。この、オーガだってたまたま街で知りあったやつに譲り受けてもらっただけの話だ。今日だってあんたは悪いように取ってるが、こんなデカいやつでも連れてなきゃ、リコッテだって俺のことを侮って話だって聞いちゃくれねぇんだ! 好きで連れ回してるわけじゃねぇんだ。怖いんだよ、俺たちゃ。あんたみたいなデカくて腕っ節が強いやつらはよ!」

「だとしても、彼女を突き飛ばしたことは正当化できないぜ。腹の子が流れでもしたらどうするんだ」

「ああ。それは悪いと思ってるよ。つい、俺もカッとなっちまったしな」

「ところで貸しってやつはなんなんだよ」

「……俺はスミスのジジィんとこに七年も奉公したんだ。元は、リコッテと一緒になるって約束でよ。婿養子ってやつかな。それが、少々粗相をしたからって使い捨ての道具みたいにおっぽりだされたんじゃたまらねぇ。けど、あの頑固ジジィにかけあったって、七年分はおろか、びた一の銭だって融通してくれそうもねえし。だから、リコッテを呼び出して幾ばくかなりとも金を都合してくれるように頼んだんだ。俺は、もう二十四だ。他の仕事に鞍替えするのには歳を取りすぎちまった。わかるだろ! 生きていくのには金がいるんだよ。特に、親兄弟もいない俺みたいな男にとっちゃな! 確かに、さっきはリコッテをなじるようになっちまったがそこは勘弁して欲しいぜ。テメェの女がよ、いきなりわけのわからねえ男に孕まされて寝取られちまったんだ。恨みごとのひとつもいいたくなるぜ。へへ、リコッテのやつ久しぶりに昔の男に会ったにしてはひどく冷てぇんだ。大方、マーサの野郎にいやってほどかわいがられて毎晩ヒィヒィよがり狂ってるからに違いねえ! うまいことやりやがって! 畜生め!!」

 蔵人は両腕を組んで低く唸った。確かに、リカルドの言が真実ならば、一朝一夕に片づけられる事柄ではない。ましてや蔵人は完全にこの件に関しては部外者だった。真偽の判断は、少なくともいまの情報だけでは行える部類のものではない。

「俺があんたに頼むのはひとつだけだ。これ以上このことに首を突っこまないでくれや。これは、俺とあの家の問題なんだ。少なくとも、スミスのジジィは手切れ金を少しは寄越す責任があるはずなんだ。俺の七年という時間に対してよ」

 リカルドは話している間も終始辺りを気にして怯えているようだった。

 それだけ、彼の人生も追い詰められているということなのだろうか。

 不自然なほどの焦りが見えた。 

 蔵人はリカルドたちと別れると、大八車を引きながら銀馬車亭に向かっていた。

 重い。

 もちろん荷物の重さもあるがそれだけではない。

 絡み合った複雑な人間関係の重さであった。

「雇用問題なんて社会保険労務士の範疇だぜ」

 この世界には労働基準監督署も存在しない。徒弟に出されれば生殺与奪の権利はすべて親方にあるのである。どんな仕事でも、半ばで機嫌を損ねて放り出されれば、あとは強盗か浮浪の徒に落ちる他はない厳しい世界である。仕事に関しては甘えも遅延も反抗も許されないシビアなゲームバランスである。

 もし、リカルドの言葉が真実ならば蔵人としてはやや同情的にならざるを得ない。

 彼はそんな大甘な日本に育ったゆとりっ子世代であった。

 黙々と荷物を満載した大八車を引いていくと、リネン橋のたもとに小さな人影が見えた。

 リコッテである。

 彼女は蔵人を認めると、暗い表情で瞳をしばたかせ上目遣いになった。ゆったりとしたローブの上からわかる膨らみがやけにまぶしかった。

 橋のたもとではいくらなんでも人目につきすぎる。

 ふたりは、河原に降りて流木に腰を据えて話をはじめた。蔵人が聞いたリカルドのいい分を逐一聴き終えるとリコッテは即座に否定した。

「そんなの、嘘です!」

「嘘って……」

「その、確かにリカルドとは幼馴染なのは事実です。けど、昔につきあってたってこと以外はぜんぶ真実じゃありません」

「それじゃリカルドを叩き出してマーサに乗り換えたって話は……」

「そんなの誤解です。リカルドは理由があって、鍛冶屋の見習いをやめて出て行きました。でも、それはマーサと入れ違いのことで、そもそもふたりとも面識だってないはずです。それに、父はリカルドが出て行くときに充分な心づけを渡しています。家のお金はあたしが管理していますから。新たに仕事を探すなり、何年かは居食いできるほどの額は渡してあります。それと、これ以上の理由は勘弁してください」

 リコッテはそういうと悲しげに目を伏せた。長いまつ毛が川面を吹き渡る涼やかな風にあおられ細かく震えている。彼女は、別れたとはいえかつて愛した男を貶めるような言葉は一言だって他人に聞かせたくないのだ。金の使い道をわかっていてもいわなかったのは、リカルドが受け取った銭を蕩尽したことを理解していたからであろう。やさぐれたリカルドは全身から発する雰囲気からしてすでに裏街道を突っ走る男特有のものである。そういった点では、彼女は男を見る目は少しはあったといえるべきなのか。

 少なくともゴミに見切りをつける程度には。

「それじゃ、結局すべてはあのリカルドってやつのいいがかりってことになる。問題はこのあとどうするかだ。自警団に通報するか、それとも鳳凰騎士団に申告して法律院に裁いてもらうか」

「通報だけはやめてくださいっ! リカルドも、けして悪い人間なんかじゃないんです。 腕はあるんですよっ。だから、きっといつか、いつか目を覚まして、正道に戻ってくれます。それまでは、どうか、どうか見逃してあげてください。お願いします!」

「ちょっ、ちょっと待て! 顔を上げろって、リコッテ。どうして、あんなやつをそこまでかばう。いや、理由はいわなくてもわかる。幼馴染だからか」

「はい……」

 リコッテは下げていた頭を上げると、遠くを見るような目つきで銀色の照り返しが強い川面を眺めている。かつて、共に過ごした幼馴染の記憶を反芻しているのだろうか。彼女の心は見えない。

 いや、元々色も形もないものが心というものだ。

 それは、時と場合によっていとも簡単に変容するものである。

 リコッテの諦観すら漂う雰囲気に呑まれ、言葉を失う。彼女の幼い面差しが、幼いころに見た誰かに重なり胸が鋭く痛んだ。パッと見は少女にしか見えない彼女も、一児の母になろうとしているのだ。ならば、第一に考えなければならないのは、すでに遠くなった繋がりよりも、直近にあるマーサのことであろう。蔵人が眉間にしわを寄せて立ち上がると、リコッテのくちびるが静かに動いた。

「お腹の子は、間違いなくマーサの子です。それだけは、どうか。どうか、疑わないでください」

「つらいことをいうようだが、だとしたらますますリカルドって男を切り離さなきゃならねえ。リコッテよ。誓っていえる。あんたが甘やかせば甘やかすほど、あの男はあんたたちに害をなす。確かにこれ以上は俺の立ち入れることじゃなさそうだな。判断は、マーサに委ねる」

「待ってください! あの人には、あの人にはいわないでっ!!」

 リコッテは必死な形相で蔵人に掴みかかった。こんな小さな身体のどこにあるかと驚くべき強靭なものだった。

 蔵人は、外套にしがみつく彼女の指を丁寧に一本づつ引き剥がすと、自分でも驚くほどの冷たい声音を出した。

「……これは、勘違いかもしれねぇ。だから、あらかじめ謝っておくよ。あんた、マーサの子ができてからも、あいつと寝たのか」

 リコッテは両手で顔を覆うとわっとその場に突っ伏して泣き出した。身をくの字にねじって背中を震わせるのを無理やり抱き起こす。

 理由は腹の子に差し支える。ただそれだけだった。

「すまねえ。いいかたが悪かった。あんたの性格じゃ喜んで引き入れたとは思わねえよ。無理やり、だったのか」

「だって! だって、リカルド怖い顔をして、いうんですっ! 腹の子を降ろされたくなきゃおとなしくしろって!! 父さんと、マーサがいない日にいきなり押し入ってきて! あの、オーガに耳元でおっきな棒を振らせながらっ。耳元であのびゅんっびゅんって凄い音が唸るたびにっ。だから、諦めるしかなかったっ。こんなことマーサに話せないしっ、赤ちゃんだって絶対に降ろしたくないのっ。いうことを聞けばマーサにも黙っててやるって! あの三人でかわるがわるにっ!」

「今日も、それじゃあ」

「定期的にお金を持ってこいって。でも、もういつものようにお金を払えないってわかったら。……客を取れと。下は使えなくても、口ですればそれなりに稼げるって」

 血の気が引いた。

 蔵人は唇を鋭く噛み締めると、叫びださないようにするのが精一杯だった。あの小男は、あろうことかリコッテの弱みにつけこみ、身体をオモチャにするだけでは飽き足らず金まで際限なく搾り取ろうとしているのだ。

 だが、蔵人の中で冷静なもうひとりが、しきりに鎮まれと押さえつけてくる。

 リカルドとリコッテ、両者の意見の食い違いはなんなのだろうか。

 どこまでが、真実なのか。

 こめかみと腹の上に冷たい汗が伝った。

「でもっ、リカルドだって悔いているんですっ。あたしに乱暴したあと、すまない、すまないって……でも、いつかわかってくれるかと」

「いい加減しろリコッテ! そいつはゲスなあの男の方便だ。あいつはな、あんたの弱みにつけいって骨までしゃぶろうって魂胆なんだよ。いつかはわかってくれるなんてありえっこないぜ! この件は俺に任せてくれ。悪いようにはしない」

「やだ、あの人に話すんでしょう!」

「おい、ちょっと待て! 馬鹿な真似はやめるんだっ!!」

 リコッテは流木から腰を上げると、川縁にざぶりと踏みこんだ。

 彼女のローブが腰まで深く濡れる。

 かつて、レイシーから聞いた話を思い出す。このイール川は街の中央にあっても淵が途方もなく深く流れも滅法早いため毎年幾人も死人が出ているらしい。身重の彼女に万が一のことがあればマーサになんといってまみえればいいのだろう。

 全身の毛穴という毛穴からどっとイヤな汗が吹き出す。

 舌がヒリつき、眼球の表面がチクチクしてくる。

「あの人はっ、いっつもクランドさんのこと話してたっ! 無口なあの人が、うれしそうに、いっつも! きっとクランドさんのいうことならなんでも信じるんだっ! もし、そうなったら、そうなったら。あたしは、もう生きちゃあいけないんだっ!! クランドさんが約束してくれるまで、あたしはここからもう出ないっ!!」

「ああ、もおおおっ。なんてぇ日だよ、今日ってのはっ」

 蔵人は懸命にリコッテを説得すると、なんとかその日は家に帰らせた。彼女はおそらく悪気はない。

 だが、間接的にリカルドのような蛆虫につけ入られる隙を作ってしまったのも事実だった。

 いわゆる、覿面に押しに弱い女である。

 この期に及んでまだリカルドをかばおうとする気持ちは蔵人に理解できるものではなかった。このまま、姫屋敷に帰っても寝つけそうにない。

 蔵人は銀馬車亭に足を向けると、尻を据えて酒を飲みだした。心配げなレイシーやヒルダがカウンターの両脇につくが、美女ふたりの酌とあっても中々酔えそうになかった。

「なあ、レイシー。職人の年季奉公って普通幾つくらいからいくモンなんだよ」

「ええ、なんでそんなあたりまえのことを聞くのかな」

「ああ。悪い。俺の故郷とこの街じゃ、違いがあるかなって」

「うーん、たぶん職種にもよるけど、十歳をすぎれば親方のもとに出されるのが普通なんじゃないかな。あたしは、子どもの頃からずっとこの店のお手伝いしてたし」

「そうか。うーん。するってえと、不自然な空白があるな。やつは、十年もなにをしていたんだ。不自然すぎるミッシングリンクだ」

「あらー。クランドさん、もう酔っちゃったんですかぁ。それじゃ、二階で私とイケナイことしません。うぷぷ」

 ヒルダがほんのりと目元まで朱に染めて袖を引く。般若のような顔をしたレイシーが酒瓶をカウンターに勢いよく叩きつけた。

「ヒルダちゃん。ちょおっと、酔いすぎかなぁ。お水いる? いるよね」

「ええーっ、じゃあじゃあ、レイシーもいっしょにぃ、どぅ、ですか」

「もおおっ。バカ!」

「ぶあーか、けけけ。と、くらぁつまみがねーぜ。レイシーたん」

「きゃっ。もお、この酔っ払い」

 蔵人はレイシーの胸を揉んでから薄く笑った。

 酒精の高いビンを逆さまに振って、レイシーに牛の焼き物を追加注文する。差し向かいで飲んでいる酔客の話が、聞くともなしに耳に飛びこんできたのはちょうどその頃だった。

「……ところで、例の話は聞いたか」

「あん、例の話。もしかして、金貸しジバゴの件の話か」

「ああ。なんでも、鬼より怖いジバゴの借金を踏み倒した野郎がいたってんで、その話で今日はもちきりだっつの」

「ふぇー。あの、債鬼から踏み倒そうとするマヌケがこの街にいたなんて。相当な大物か、ただの阿呆だな」

「いや、ところがどっこい、そいつは素人筋でな。この春くらいから鉄火場に顔を出しはじめた新参者でよ。まったくも、ジバゴの恐ろしさを知らなかったらしいさ」

「そんで、結局のところそのケツに火が付いた世にも間抜けなスットコドッコイはどうしていなさるんだ」

「はぁ、なんでもジバゴの雇った用心棒に追いかけ回されてるらしいぜ。その、用心棒がまた振るってる。イカロスっていう元冒険者の凄腕らしい」

「へえ、あのイカロス。一時期はよく耳にしたがまだ生きてたんか。あのグリフォンを単騎で討伐した、ダンジョンの元五英傑のひとりか。はは、そのマヌケ死んだな。イカロスの力はロムレス国軍一個大隊に匹敵するといわれていたな、確か。んで、そのマヌケの名はなんてぇんだ」

「確か、リカ、リカなんつったけ。そう、リカルド」

「誰それ?」

「知らね」

 ふたりの酔客はどっと哄笑すると、もはや違う話題に移り杯をかわしはじめた。

「へぇー。イカロス。ねねね、レイシーはイカロスって方知ってる?」

「うん。おととしくらいまではよく皆が口にしてたけど、最近は久しぶりだねって……ねえ、クランド! どこ行くのっ!!」

「……悪い、野暮用が出来たみたいだ」

 蔵人は杯を置くと、外套を引っかけスイングドアを弾いて表に飛び出した。

 ――リカルド、借金取り、と。これだけ聞き覚えのあるピースを耳にすれば、老いぼれた犬の粗チンでもおっ勃つことだろうよ。

 ああ、胸糞わりぃ。テメェの地獄耳に腹が立つぜ。

 おまけにこうまでイヤな予感がするとはな。

「なーんでわりいことばっかピンポイントで飛びこんでくるんだろうね。ったく!」

 蔵人は風に吹かれる木の葉のように舞いながらすっ飛んでいった。

 彼の孤影は闇を突き破り、どんどん銀馬車亭を遠ざかっていく。


 







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