Lv81「後家蜘蛛の糸を断つ」
アルテミシアはルッジたちをカロリーヌに託すと打って出た。
そもそもがどうしてこのような戦いに巻き込まれたのか完全に理解したわけではない。
よくよく考えればこの闘争自体が膨大な領地を巡ってのお家騒動なのである。
積極的に関わってどうこうするのは潔癖なアルテミシアにすれば以ての外だった。
だが、蔵人が己に命じたのだ。あとを任せると。
それに、ルッジをこのまま放ってはおけなかった。自分以外の見目麗しい女性が蔵人に近づくのは歓迎すべき事柄ではなかったが、それは醜い妬心であろう。
「ああ、やってみせるとも」
すべての信頼は自分にある。
アルテミシアは青白い顔をしたまま座りこむルッジを見た。
戦う意味。
深く考える必要はなかった。
「殺せ、殺せ!!」
「やっつけろおおっ!!」
八人の男たちは焦燥に駆られながら、怒声を上げている。
上げてはいるが、近づかず遠巻きにしているのだ。
無理もない。
圧倒的に戦力で勝っていた自分たちの仲間が、あっという間に十人も斬り伏せられたのだ。カロリーヌという女騎士もあっけにとられた表情でポカンとしている。
(どうだ、私のクランドは! おまえたちのような人間とは強さの格が違うのだ!!)
所詮は冒険者と侮っていたカロリーヌという赤毛の女すら、口を開けたまま呆けている。
見たものが信じられないといった表情だった。
アルテミシアは自分の男の強さを自慢して回りたい気分を抑えながら、高揚した気分で駆けだした。
三メートルを超える聖女の槍を激しく旋回させる。
白く輝く穂先は異様な唸りを上げて眼前の敵に吠えかかった。
「たああっ!!」
気合一閃。
必殺の突きが、目にも止まらぬ速度で走った。
銀色の光芒は直線的に動き、突き出された速度と同程度で引き戻された。
「え、あ?」
「は、はえあ……」
アルテミシアの目の前で呆然と立っていた四人の男たちの喉笛。
パックリと裂け、ピンクの肉が見えたかと思うと、間を置かずにどっと赤い血が吹き出した。
鋭い突きは一瞬で男たちの急所を破壊し、その命を奪ったのである。
男たちはそれぞれ、己の喉元を手で押さえて流出する血流を止めようとするが、すべてが無意味な努力であった。
断続的にバラバラと、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
アルテミシアの槍捌きはもはや超人の域に達しようとしていた。
血だまりに倒れこむ仲間を見て、残りの四人は完全に臆病風に吹かれはじめた。
半弓を持ったふたりが、ほぼ同時に矢を放つ。
アルテミシアは、小枝を使うように片手で銀槍を細かく動かすと、必殺の距離で放たれた矢は、小蝿を打つようにして弾かれた。
圧倒的な実力差の前に、ひとりの男があっという驚きの声を出した。
彼は、ブルブルと震えながら剣を取り落とすと、アルテミシアの顔を指差した。
「こ、この女もしかして、竜殺しの聖女アルテミシアじゃ」
「まさか! こいつがぁ!? そ、そんな。そんな化物にかないっこねえや!!」
残った四人は武器を放り投げると、なりふり構わず逃走を開始した。
「……バケモノじゃないもの」
アルテミシアは不満そうにつぶやき、ゆっくりと槍を振るって穂先に着いた血を洗った。
刃風に煽られた血潮は穂先から吹き飛んで、庭の古木の根元を鋭く叩いた。
背後の驚異は速やかに排除された。残るは、マカロチフひとりといってもいい。
「気をつけろ。あいつは、並じゃない」
「理解している」
黒い外套を羽織ったルッジが声をかけてきた。アルテミシアは下がるように目線を送ると仁王立ちになる巨漢の戦士と相対した。
百七十八の身長は女性としては大柄ではあったが、二メートルを越す巨体を前にすると流石に色あせた。
マカロチフの身体はただ目方がある、というわけではない。
限界にまで密度を上げ、練りこまれた筋肉の鎧を持っていた。
(槍を使う以上、間合いの利はこちらにある。ならば――)
アルテミシアはすり足で身をやや低くすると、巨体に向かって構えた。
無言を通すと思われた男の口から重々しい声が漏れた。
「ひとつ、聞いておこう。女よ。どこがいい」
「なんの話だ」
「決まっている。敗れたおまえが売り払われる淫売宿の地だ。せめて、希望の土地へと送ってやろう」
「ふざけるな。それに、そんな安い挑発に乗ると思うのか」
「挑発ではない。これは、決定事項だ――!!」
消えたようにしか見えなかった。
アルテミシアは直感的に間合いに入られるのを恐れ、聖女の槍を全力で振るった。
大気を割って刃風が轟然と響いた。
吹き付けてくる殺気に、瞬きをする暇もない。
気づけば、マカロチフの巨体が自分の胸元に飛び込んでいた。
「遅い」
瞬間、胸元がそっくり抉られたような感覚が走った。
マカロチフの拳が胸元へと砲弾のように叩き込まれたのだ。
空き缶を弾くように、アルテミシアの身体が宙を舞った。
痛み中でかろうじて槍の柄を握り直す。
明滅する視界の中で一点のみに意識を集中させた。
「おおおっ!」
穂先は銀色の流星となってマカロチフを襲う。
――が、届かない。刃風を紙一重でかわした男は素早く後退すると、再び拳を固めて構えを取った。男の身体が高々と跳躍する。アルテミシアが理解できたのはそこまでだった。
飛び上がったマカロチフ。空中で一回転すると、いまだ浮遊していたアルテミシアの背中に強烈な蹴りを浴びせたのである。綺麗な半円を描いた一撃は、アルテミシアの身体を大地へと強く叩きつけたのだった。
起き上がろうと膝を突く間もなく殺気が迫るのを感じ取った。槍は既に手元にない。無意識に抜刀すると、僅かな手応えを感じた。追撃をかけてきたマカロチフの胸元を薄く斬りつけたのだ。
アルテミシアは目を見開いて痛苦に耐えると、震える膝に手を置いて立ち上がった。痛みは無視する。この強敵の前で意識を喪失することは即座に死に繋がるからだ。
「ほお。いまので状況で反撃するとは。女にしては、おもしろい」
「抜かせ」
マカロチフは全身から湯気を出しながら薄いくちびるを舌で舐め回している。
「惜しい。本当に、女であることが惜しい」
「気味の悪い奴だ」
アルテミシアはロングソードを顔の高さに掲げ、吐き捨てた。
攻撃と防御の両方にすぐれた、いわゆる“屋根の構え”である。
追いこまれたときほど修練を積んだ剣士は基本に立ち戻る。正当な訓練を重ね、身体に染みこんだ動きが自然と形作るのだった。
「助成いたす!」
アルテミシアを不利と見たのか、いままで体力を温存していたウォーレンが前に出た。
マカロチフは落ち窪んだ瞳をギラつかせると、いまいましげにうなった。
「雑魚が、テメェのレベルもわからねえカスが。俺たちの楽しみに水を差すんじゃねえ」
マカロチフは分厚い胸筋を震わせると鋭く吠えた。
「貴様、我を侮辱するとは! もう、許すことはできない! 我こそは、ウォーレン・ブランコ。死す前にいい残すことがあれば疾く述べるがよい!」
「死ね、カスが」
激昂したウォーレン。
アルテミシアの制止も聞かず飛び出した。
長剣をマカロチフに対し、真正面から振り下ろした。半月が虚空に軌跡を残す。踏みこみも速度も申し分ない一撃だ。
だが、マカロチフは無言のまま右手を掲げると、斬撃を二の腕で無防備に受け止める動作をしただけだった。
勝った。
ウォーレンの頬に会心の笑みが浮かぶ。
刃がマカロチフの腕に喰いこむ瞬間、つぶやきが聞こえた。
「鉄豪」
巨漢の戦士は闘気を右腕に収斂させると、筋肉を一点に収縮させて、鋼同然の硬度に変化させた。
「んなっ!?」
金属同士を叩きつけた硬質な音が高らかに鳴った。
全力で放った一撃である。
肉を撃ち骨を断つには充分な力が篭められていたはずである。
現実は非常すぎた。ウォーレンの長剣は刀身の半ばから欠け落ちると、軽い音を立ててあさっての方向へと飛んでいった。
呆然としたウォーレンの顔面に巨漢の戦士の拳が突き立てられた。
「おぼっ!」
ウォーレンの口から異様な悲鳴が漏れた。
鋼より硬く、鋭い一撃はウォーレンの顔面を一瞬で泥のように変化させた。
眼球、脳漿、鼻梁、唇、歯、頬骨。
顔中の部品は幼児のおもちゃ箱のように乱雑に散らばると、原型を判別できないほどの醜さに変えた。
「つまんねぇ、つまんねぇ、なんてつまらねぇ男なんだよ」
マカロチフはウォーレンの両腕を掴み、左右に引っ張った。
「いぎいいっ!」
子供が飽きた紙人形を引き裂くような容易さでそれは行われた。
毎日のように剣を振るい、鍛え抜いた自慢の筋肉もマカロチフの前では紙切れ同然の強度だった。筋肉繊維の一本一本がみちみちと音を立てて引き千切られていく。
目蓋の裏が真っ赤に明滅する途方もない痛みが大脳に警鐘を鳴らした。
ウォーレンは眼球を剥きだして、見苦しく泣き叫んだ。
痛みのあまり脱糞したのか、甲冑の上からでも濃い糞便の臭気が漂いはじめた。
無理もない。
人間の耐えうる痛みを凌駕していた。
ウォーレンは野良犬のように舌を放り出してあえぎ、顔を左右に動かしてイヤイヤをした。マカロチフの表情が暗い愉悦に満たされる。
「あ、あ。そ、そんなぁ」
ウォーレンに続いて勇ましく駆け出そうとしていたカロリーヌは、あまりに一方的な惨状に剣を持ったままカタカタと震えている。
どうにかなると思っていた。
この機に乗じて一撃をあたえられるとでも?
巨漢の戦士と温室育ちの騎士では実力の差が隔絶していたのだ。
マカロチフが無言のまま両腕を左右に引いた。
絶叫が流れる。
ウォーレンは両手を根元から引き千切られるとその場に転がって激しく悶えた。両肩の付け根から激しく血が噴出している。鉄錆に似た血潮の臭気が辺りに立ちこめた。
「前座は終わりだ! 女、俺を楽しませろよ!!」
マカロチフは激しく吠えると地を蹴って駆けた。
射出された弾丸のように巨体が空気を割いて動いた。
アルテミシアは碧の瞳を冷たく輝かせ迎え撃った。
長剣が素早く流れる。
マカロチフは女騎士の脇を駆け抜けると右手を天に突き上げ野太い笑みを刻んだ。
マカロチフは左肩を大きく割られ、ドッと多量の血煙を上げた。不安げに見守っていたカロリーヌの表情。安堵の色が刷かれた。
だが、それもつかの間だった。
アルテミシアはうっと、うめくと剣を握ったまま片膝を突いた。白銀の甲冑。厚い胸板部分に亀裂が走る。白十字を染め抜いたサーコートが紅一色に同化していく。
走り抜けざまに放ったマカロチフの鉄拳が深々と急所を抉ったのだった。
アルテミシアは白磁のような頬を青ざめさせて幽鬼の表情で巨漢の戦士を睨む。手甲が細かく震えている。唇の端から糸のような血がつぅと滴り落ちた。
アルテミシアの放った斬撃もしたたかにマカロチフを打ち据えていた。巨漢の戦士は歓喜の表情で振り返ると、両足を大きく開き独特の呼吸法を行った。剥き出しにした上半身の筋肉から湯気が揺らめいた。
マカロチフは大きく息をはき出すと、両手を左右に開き精神を集中させる。割られた肩の傷は中々の深手であったが、深呼吸が繰り返させるたびに、血潮はピタリと止まり、みるみるうちに血糊が凝固しはじめた。
「化物が」
劣勢に至ってもアルテミシアの闘志は微塵もゆるぐことはなかった。
だが、どう見ても勝負の趨勢は拳闘士側へと傾きはじめている。
美貌の騎士が歯を食いしばり、再び構えを取ろうとしたとき、耐えかねたようにルッジが叫んだ。
「もう、やめてくれ。もう、たくさんだ。ゴルボット。ボクはブラックウェル家を出ていく。だから、もうこんなひどいことはやめてくれ」
「ルッジ、貴公」
「い、いひひひっ。ついに、降伏宣言でちゅか! だぁが、ダメだ! 許さねえ、オレ様ちゃんはもう許さねえぞ! ……ふーふふ、そうだなぁ、ルッジよおおう。どうしても、これ以上ムカつくお仲間を傷つけられたくないのなら、この場で全裸になって、ケツをオレ様に向かって捧げるんだ。おまえには、どーしても、オレ様ちゃんのガキを孕んでもらわねえとよぅ! 親族一同こうるせぇジジババどもが血のつながりだのなんだので、納得しねえからだよ! おまえが、オレ様ちゃんの肉奴隷になって、一生仕えるってことはすでに決定事項なんですよぉお!! ざまあねぇな! ざまぁねえな! 本当にざまぁねえよ! ルッジぃいい!! おまえはこれから忌み嫌った男の肉穴奴隷として一生を過ごすんだ! オレ様ちゃんの冗談ひとつでおまえのその身体をいつでもどこでもだれにでもおもちゃみたいにされる人生を送るのだ! フヒヒヒィ!!」
「……約束は守ってくれるんだろうな」
ルッジは外套を脱ぎ捨てると蒼白な表情でつぶやいた。ゴルボットはよだれをまき散らしながら、飛び上がって手を振り回している。見ていたカロリーヌは悔しそうに上くちびるを噛み締めていた。
「そんなことをする必要はない」
「だって、こうでもしなきゃ、君たちを守れないよ。クランドも戻ってこない。バロッコ兄弟に負けたんだ。せめて、このくらいしなければ、ボクはこの家の嫁なんだから」
「だから――」
「ざまあねえな、ルッジぃい!! おまえはやっぱり人様に仇なす毒蜘蛛みたいなもんだあぁ!! おまえのせいで、兄貴は早死にして、関わる他人も残らず不幸になる!! お前の吐き出す穢れた糸によってなぁあっ!! そんなおまえをかわいがってやろうっていうオレ様ちゃんに感謝こそすれ、逆らうなんて許されないことだよねえ!!」
「そんな、必要はない」
傷ついたアルテミシアは顔を歪めて剣を正眼に構えた。
その悲壮な表情を見て、ルッジはかすれた声で叫んだ。
「もうこれ以上余計な真似はしてくれるなといっているんだ! おまえもクランドもいったいボクのなんのつもりだ!!」
ルッジの顔。瞳は潤み、唇が小刻みに震えていた。
「そんなこと決まってる」
横合いから風に乗って力強い声が割り込んだ。
その場にいた一同がいっせいに視線を向けた。
そこには静かに長剣を掲げて立つ、ひとりの男の影があった。
「俺たちは、仲間じゃねえか!! だから、俺もアルテミシアもルッジ! おまえを助けてぇって思ったんだ!!」
「クランドのいうとおりだ。一日でも、いや、一瞬でも苦楽を共にしたんだ。私たちは、とうに仲間であろう!!」
蔵人の言葉にアルテミシアの声が続く。
「ルッジ!! 俺たちは、おまえを助けてェんだよッ!!」
振り絞るように、蔵人の怒声が木霊した。
ルッジの瞳。大粒の涙が盛り上がり、雫は音を立てて流れ出した。
狂った猿のようにゴルボットが喚きだした。
「茶番! 茶番んんんんっ!! マカロチフぅううっ!! そいつを黙らせろぉお!!」
怒声が入り乱れる。弾かれたようにマカロチフが地を蹴って走り出した。
「さあ、決着をつけようか。筋肉ダルマ!!」
長剣を水平に構えて蔵人も駆け出す。ふたつの影が交錯して甲高い金属音が鳴り響いた。
蔵人が斬りこんだ瞬間、マカロチフが“鉄豪”の秘術を使って右腕を鋼鉄化したのだ。
「縮地」
マカロチフは闘気を全身にまとわせ高速移動を開始する。
鉄拳が空間を切り裂いて唸りを生じさせた。
蔵人は身をかがめてかわすとマカロチフの足元で刃を細かく動かした。
目の前の巨体は地を蹴って飛翔する。飛び降りざまに右足が振り下ろされた。
咄嗟に左腕を縮めて胴体をカバー。
激しい衝撃が蔵人を襲った。
感覚が消える。
同時に全身が交互に熱くなったり寒くなったりした。
尾てい骨から頭のてっぺんまで電流が貫いた。
粉々に砕けた。悪寒が濁流のように意識へを押し寄せてくる。鼻の奥がツンと熱くなった。金気臭いモノが喉から口内へと流れていく。
脳髄が痺れる熱が駆け巡る。左腕をやられた。思ったときには飛び退いていた。
とにかく距離を取る。
思考に身体がついていかない。
とどまってはダメだ。動きの固定は即、死に直結する。
巌のような拳の連撃が迫り来る。
鉄棒を振り回すような轟音が聞こえた。
背筋に冷気が走った。
無我夢中で長剣を振るった。
不意を突かれたのか、マカロチフの巨体が一瞬、硬直した。
背後で揉みあう声が聞こえた。振り返る余裕はない。
「かがめ!!」
鋭い女の声。アルテミシアだ。
そう思ったとき、蔵人は訓練された犬のように身体を前方に投げ出していた。
銀線が真っ直ぐ流れる。
アルテミシアの投擲した長槍がマカロチフの胸元に接近する。
悪鬼の表情で巨漢が即座に穂先を撃ち落とす。
がいん、と槍の柄がたわむ音が響いた。
背後で争う声がさらに大きくなる。マカロチフの視線があろうことか、そちらに流れた。
「ゴルボットさま!!」
悲痛な声がマカロチフの喉から漏れた。
間髪入れずに、蔵人は長剣を刹那の速さで繰り出していた。
渾身の片手突きは無防備なマカロチフの腹に深々と刺さった。
悪鬼の表情が激しく歪んだ。
蔵人は両手へと満身の力を込めて薙いだ。
聖剣“黒獅子”の刀身が男の内蔵を餓狼のようにむごたらしく喰い破った。
刃はマカロチフの腹から左乳の下をすくい上げるように流れ、血飛沫を辺りに舞わせた。
「鉄豪ぉおおおっ!!」
吐瀉物を吐き散らしながら、巨漢の戦士が鋼鉄化した右腕を振り下ろした。
蔵人は叫びながらもすくい上げるように斬撃を放つ。
刃と拳が真っ向からぶつかりあった。
「おおおおっ!!」
蔵人の身体がマカロチフの脇を駆け抜ける。
黒獅子は鋼鉄と化した男の右腕を真っ向から斬り上げた。
鮮血で朱に染まった刀身。
陽光を乱反射させながら冷たく輝いた。
「あとは任せろ、クランド!!」
マカロチフの隙を作った正体。蔵人が視線を転じると、そこには鼻血を流して目蓋を腫らしたルッジの姿があった。右手には、星の魔道書が高々と掲げられている。足元には潰れたヒキガエルのようにゴルボットが転がっていた。
そう、ルッジは脆弱な力で真っ向からゴルボットに組み討ちを挑み、顔を腫らしながらも、堂々と真正面から戦って魔道書を取り返したのだった。
主を思う強い気持ちがマカロチフに致命的な隙を作ることになった。
――それが、勝敗の分かれ目だった。
「毒婦があああっ!! 縮地ぃいいいっ!!」
致命傷を負いながらも理性を失ったマカロチフが対象を変更し襲いかかった。
蔵人の肝が激しく凍りつく。虚弱なルッジではマカロチフの一撃で命を奪われかねない。
内蔵を露出させた胴体が煙のように消え失せる。高速移動に入ったのだ。
「偽造魔術。時空遅延!!」
同時に、ルッジの魔術詠唱が紡がれた。
星の魔道書が白く輝くと、虚空に時計を模した紋章陣が打ち出される。魔力の奔流は一筋の川となってマカロチフに降りそそいだ。目にも止まらぬ速度からの肉体攻撃。ルッジの放たれた魔術によって、見るも無残な凡庸な速さに置き換わったのだ。
無属性魔術、時空遅延。
地水火風の四元素から除外される、もっとも難しい術のひとつであった。
「偽造魔術。氷の矢」
続けざま、ルッジの魔道書から魔術が構築されていく。
速度を失ったマカロチフの巨体に、水属性の氷の矢が次々に撃ち出された。
冷気を帯びた矢は吸い込まれるようにして男の身体に突き刺さっていく。
マカロチフの身体はたちまちハリネズミのようになり、かろうじて前進するだけのものとなった。
「たああああっ!!」
トドメの攻撃は全員が予測しない人物からもたらされた。
横合いから打って出たカロリーヌが身体ごとぶつけるように腰だめで剣身をマカロチフの脇腹に深々と埋め込んだのだ。
「か、はあっ!?」
通常では万が一にも受けるはずのない刺突である。
カロリーヌは真っ赤な髪を振り乱しながらも、体重をさらにぎゅっとかけた。
「がああああっ!!」
「きゃっ」
手負いの獣が最後の力を振り絞って腕を振るった。
まともに喰らえば骨も残らないはずの豪腕である。
だが、結果としてはカロリーヌ程度すら弾き飛ばす程度に弱まり、そこには歴戦の強打は見る影もなかった。
マカロチフは上半身を真っ赤な血で濡らし、枯れ草を踏んでゆっくりと動いていた。
「いま、楽にしてやるぜッ!!」
蔵人の長剣が半月を描いた。巨漢の戦士は喉笛を深く断ち割られると、信じられないといった表情で目を剥き出し、その場へ倒れこんで動かなくなった。
「ひいいっ、ひいいっ。許してぇえっ、許してぇえっ!!」
頼みの綱のマカロチフまでやられた時点で、ゴルボットは恥も外聞もなく命乞いをしながら一目散にその場を遁走していた。
小太りの重たげな身体が、いつもの鈍重さが嘘のように毬のように転がって駆けている。驚嘆すべき逃げ足だった。
一同がルッジの顔を真っ直ぐ見つめた。ライオネル公爵は無言のまま青ざめた表情で目をつぶった。ルッジはもみあいで落とした眼鏡を拾ってかけると、くちびるを強く噛み締め、星の魔道書を開いた。
「偽造魔術。火炎弾」
魔道書から撃ち出された火球がゴルボットの背中に命中した。
「ぎいいいいあああっ!!」
灼熱の炎は瞬く間にゴルボットの全身を這い回り、一気に燃え広がった。
「あぢぃいいいっ! じぬっ! ぢぬぅうううっ!!」
炎は万遍なく拡がって、細胞のひとつひとつを丹念に破壊していった。
「いやどうわああああっ、じにだぐなびよううううっ!! うごおおおっ!!」
ゴルボットは燃え盛る自分の身体を痛みに耐えかねて激しくかきむしった。
爪の先に炭化した肉片がくっつき、ボロボロと灰になって細かく崩れていく。
激痛が間断なく続く中で、太陽の上でのたうちまわる羽虫を幻視する。
「あぶぇ、あぶぇぶえべうぇうぇ」
ゴルボットは泣き喚きながら、脳髄を灼かれる苦しみに悶え、ようやく最期の意識を手放した。
「家は出ることにしたよ」
一連の騒動の終わったあとのことである。
ルッジは冒険者組合の待合室で蔵人に淡々と告げた。
結局のところ、件の話は親族一同の知るところとなった。泡を食った親族一同は、後顧の憂いを断つために、満場一致でライオネル公爵の養子に甥のオイゲンを推薦し、すべては収まるべき場所に収まったのだった。
「しっかし、それじゃあおまえは着の身着のまま追い出されたもんじゃねえか。悲しいねぇ。民事で訴えるか?」
蔵人は皮肉げに顔をしかめてみせ、アイボリーのティーカップを傾けて啜った。
「馬鹿なことをいうな。ボクはこれで納得ずみ。それに、もう結婚だ家だの、そういうことに縛られるのは懲り懲りだよ。御義父さまの面倒はこれからも見させてもらうけど、基本は通いで自由の身だよ。つくづく悟ったね。人間、自分のやりたいことは人に頼らず行うべきだと。自分の中では決断できていたのに、それを実行に移せなかった。いみじくも財産目当てでグズグズしていたボクに神さまがバチを当てたのかもね」
「そのような神がいるのだとしたら、祈りを捧げるのも躊躇するところだが。ん、おほ、おほん! ところで、ルッジ。さっきから気になっているのだがな。その、少し、位置が近すぎやしないか? んん? 私たちは仲間だろう。その距離は仲間の距離ではないのではないか?」
アルテミシアは冷静を装うとルッジの位置を指摘した。
彼女は、妙に椅子の位置を蔵人の横に動かし肩の触れそうな距離で目を覗き込むようにして話しているのだった。
要するに恋人の距離であった。
「ん。ああ、これかい。まあ、いいじゃないか。ボクたちは仲間なのだろう。ならば、このように寄り添っていてもなにも問題はないのだろう。仲良しの証拠じゃないか」
「だ、ダメだ! クランド、やっぱりやめよう。こいつを、クランに入れるのは考え直そう。ずっと、ふたりで仲良くやってきたじゃないか!」
「えーと、とりあえずそういう事実はないかな」
「だそうだ、アルテミシア。ということで、もうちょっと今後の活動方針について綿密に打ちあわせようじゃないかい。手元不如意だし、これからなにかとお金は必要だしね。ガンガンダンジョンに潜ってバンバンお宝を探そう! それに、ボクも、これで歴としたフリーだ。フリーなだけに、あっちの方も心細い」
ルッジはわざとらしく蔵人の肩にぴっとりと寄り添って見せた。
狼狽したアルテミシアは目を三角にしてテーブルから立ち上がる。
周囲の客がぎょっとして、ざわめきだす。蔵人が面白がってルッジを抱き寄せると、アルテミシアは真っ赤な顔をして叫びだした。
「だめだだめだめっ!!」
「いいじゃないか」
「無理無理無理、よくない!」
「どうだろう、同じクランということで、男も共有するというのはどうだろう」
「そんな原始的な要求が呑めるか! ふ、ふふふ、ふらちな。ひとりの男を、ど、どどど同時に貪るなど、神がお許しにならなないっ」
「固いなぁ、君は」
結局のところ、ルッジに残ったのは祖父から譲られた魔道書と、書物を貪るようによみこんだせいで残った近視だけだったのかもしれない。
約束も思い出も、彼女の中にあり、ルッジが迷宮の謎に囚われ続ける限り消えることはないのだろう。
けれども、両親に愛されずに育った彼女であっても、大切なことを教えてくれる人はきちんとそばにいた。
そしていまも、こうしてルッジのそばには、あの日祖父が語ってくれた物語の中にいた、力強く勇敢で信頼できる冒険者たちが手の届く場所にしっかりと存在しているのだった。
ルッジの脳裏にはすでにせせこましい憂いはなかった。
「あは」
蔵人は目の前の無邪気な笑顔を眺めながら、アルテミシアをどう鎮めようかと上手い言葉を頭の中で探し出す。
さいわいにも、時間はたっぷりとあるのだ。
冒険は、まだはじまってもいない。




