Lv8「停滞魔女」
野天でひっくり返ったまま一夜を明かした。酷い仕打ちである。
蔵人は、即座にマリカへと激しい抗議を行った。
「だから、昨日はやりすぎたっていってるでしょう」
「ああ。マリカのせいで、朝からチンコが固い。どうしてくれるんだ」
「それは、ただの生理現象よ。私にはなにひとつ、関係ないわ」
「おいおい、こっちはかなり心をオープンにして自分をさらけ出しているんだぜ。少しは恥ずかしがってくれよ」
「あいにくと、そんなことできゃあきゃあ騒ぐほど子供じゃないの」
「ふうん。子供じゃないねえ。俺はいま、二十なんだけど、マリカっていくつよ」
「千十、……じゅ、十九よ」
「おいいいっ!? いま、なんか聞き捨てならねえ単位が飛び出てきたんだけど? なに、千ってなにさ? ミレニアムなの? マリカってアラミレってレベルじゃねーぞ!!」
「うるさいわね、小僧。いちいちレディに歳を聞かないでちょうだい。千年は眠っていたんで、特に数えなくてもいいでしょうに。十九よ、私は」
「おいおい。この人、いきなり俺のこと小僧呼ばわりしだしたよ。とんでもねえ年増だよ。あのな、マリ公。いいこと教えてやろうか。人間、嘘つくと鼻が伸びるんだぜ」
「そう。なら、クランドは少しばかり、嘘をついたほうがいいかもしれないわね」
「それって、人の顔を平面的っていいたいんですかぁ? そういう、傷つくこと平気でいうお嬢ちゃんじゃ、オジさんもいつまでも甘い顔してられないんですけどぉ」
「そう、仕方ないわね。私は、ハイエルフだし、かわいいから。人間の容姿の悩みについてはわからないのよ」
「ああっ! 聞いて奥さん。この方、ついに自分のこと自画自賛始めましたわよ。信じられます? あのなぁ、マリカ。俺がご近所に顔の利くママならおまえはとうに団地でハブにされてっぞ」
「あなたの、たとえはイマイチよく理解しにくいけど。ごめんなさいね。わかってあげられなくて。飴ちゃんあげましょうか」
「口移しで食べさせてくれやー」
「え、イヤよ。病気が移るもの」
「ちょ……! マジ顔はやめて、クルから。心にクルから」
「冗談はさておき、そろそろ夕飯の支度をしましょうか。ついででいいなら、少しはわけてあげてもいいのよ」
「あー。それはそれは、ありがたいことで。というか、今夜から俺はどこから寝ればいいんだ? マリカと同じベッドでいい?」
「それ以上ふざけたこと抜かしたら、あなたの口から肛門まで槍を通して、杉の突端に縛りつけて、動かなくなるまで見守ることになるわ」
「じゃあ、ベッドの下でいい」
「変態ね。ねえ、なんでここにいるの? というか、あなたどちらさまでしたっけ?」
「おいおい軽い冗談で、存在までデリートされ始めたぞ」
「あなたの冗談は下品な上に絡みにくいのよ」
「さっきは、普通に乗っかってたよね? 笑ってたよね」
「あの、本当に、そういうことやめてくださらない」
「うっわ、ちょっとその丁寧口調、本当にキツいわ。はは」
「なに笑ってるのよ。気持ち悪いわ」
「そ、そこまで、いうか」
「さ、これ以上、クランドをからかっていても時間の無駄ね。さっさと、支度にとりかかりましょうか」
「おい、鍋吹いてるぞ」
「そういうことはさっさと教えなさいな」
「なあ」
「なによ」
「……というかさ。マリカ、今日は一歩も家から出てないよね」
魔女は煮立った鍋を前にして、うつむいた。グツグツと、具材が煮え立つ音が大きく聞こえる。今日の夕飯は、トマトスープで煮込んだ、鶏鍋らしい。
蔵人は、朝から居間でマリカが起きるのを待ち続けていた。彼女が、ショボショボした目を擦りながら姿を現したのは、昼の三時を過ぎていた。起き抜けの彼女は、蔵人に淹れさせた紅茶にたっぷりとミルクと砂糖を入れて、ゆっくりと舐めるように飲んだ。紅茶一杯を飲み干すのに、一時間。着替えの支度に、さらに一時間。マリカが身支度を整えて、ようやく覚醒したときには、日は西に沈みつつあった。
「なんで、こんなに寝入ってんだよ。もしかして、昨日は準備とかに、明け方までかかっていたのか?」
「まさか。私は、あなたを叩き出したあと、すぐ寝たわ」
「んで、起きるのが、三時のおやつタイムだと。舐めてんの? そんなんで、立派な社畜になれると思ってんの? 女だからって、いまどき専業主婦は許されないんだぜ」
「なにをいっているか、わからないわね」
「俺はおまえの生活態度に物申している」
「大きな声出さないでよ。響くわ」
「おまえが寝ている間に、この大地は刻々と邪神の脅威に犯されてるんだぞ」
「千年平気だったから、あと百年くらいは平気なんじゃないの」
「なんという、大陸的なお方。さすがの俺もその態度にはサジを投げ尽くしたぜ」
「早いわね。おまけに薄いなんて、女に嫌われるわよ」
「おいっ。いってるよな! それって間違いなくセクハラ的な暗喩だよな!?」
「なんでも深読みしすぎよ。日頃の食べ物が悪いみたいね」
「ちゃんと身体にいいものを選んで食べてるよ。とりあえず、それは置いといてだな。今日は、もう遅いから、諦めるとして。明日は、ちゃんと起きれるんだろうな」
マリカは、ふふん、と鼻で笑うと、答えず調理を続けた。ふたりは無言のまま卓を囲み、盛ったばかりの料理を前にして向き合った。先に顔をそらしたのはマリカだった。
「なにか、変な気分ね。誰かと、こうして食事をするのは、久しぶりよ」
「話をそらしたな。ところで、今夜は泊めてもらっていいか。さすがに、たまには屋根のある場所で寝たいよ」
「あなたの寝床は、表に納屋があるからそこを使いなさい」
「ええっ。冗談はキツいぜ」
「冗談ではないわ。そもそも、どうして出会ったばかりの男を自宅に泊めると思ったのかしら。ねえ、私がそんな軽い女に見えて?」
「いやあ、流れでいけるかなぁ、と。あ、嘘です。泊めてもらえるだけで感謝です」
とはいえ、口ぶりとは裏腹に随分と親切な女だと思った。憎まれ口を叩く割りには、会ったばかりの蔵人へ夕食をご馳走したばかりか、納屋とはいえ、宿を貸してくれるのである。協力関係を結んだとはいえ、別段、彼女から信頼されるようなことはなにひとつ行っていない。必要以上に無防備である。マリカの態度は、あきらかに人馴れしていないのだ。やたらに、蔵人との距離を測りかねている。邪神、などという眉唾ものの話もさることながら、年頃の女性の割には、男のあしらいが妙に不適切であった。トマト鍋の、スープをすくって口に運ぶ。じんわりとした旨みが、口中に広がった。ふと、視線を動かすと、チラチラと様子を窺っているのがありありとわかった。
「旨いよ。おまえ、料理上手なんだな」
「そう」
素っ気なく返答した割には、マリカの頬はしっかりと笑みを浮かべていた。
その夜は、おとなしく指定された納屋で就寝した。陽の落ちた時間から換算すれば、およそ、午後の八時頃には眠りについた。いくらなんでも、これだけ早くに眠りにつけば、寝過ごして正午を回るということは考えられないだろう。くるまった毛布は、若い女性独特の甘ったるい匂いがして、落ち着かない気持ちになった。
翌朝、埃っぽい納屋の中で蔵人は目を覚ました。マリカから借りた毛布から顔を突き出して伸びをする。耳を澄ますと、戸の向こう側から、轟々と鈍い風の音が聞こえた。屋外へ出ると、空は見事に曇り空だった。望んでいた太陽はチラリとも顔を見せない。黒ずんだ雲は、急速に東へと切れ間なく流れている。腹の減り具合からいって、夜が明けたばかりといったところだろうか。吹きつける強い風に雨の匂いを嗅いだ。周囲の木々は、不気味な動きでざわめいている。これでは、出不精なマリカではなくても、出かけようという気にはならないだろう。昨日も、ほとんど身体を動かさなかったので、力が有り余っている。無性に身体を動かしたいが、無意味に辺りを動き回るのは危険なような気がした。マリカがいうように、森の生物たちが邪神の悪気を受けて活発化しているのであれば、周到な準備と注意が必要である。
「なにはともあれ、朝メシだな」
あたりまえのようにたかるのも少しだけ気が咎めるが、この際見栄を張ってもしようがない。そもそもが、蔵人には対価として払うべき財物の持ち合わせはなかった。小屋の前に立って、ドアノブを回す。期待はしていなかったが、やはり、マリカの姿はなかった。昨晩別れる際に、絶対に寝室へは入ってくるなと、くどいくらい念押しされた。
「だが、起きてこないおまえさんが悪いんだ」
蔵人はためらいもなく居間を突っ切ると奥の部屋へ押し入った。
圧巻なのが、左右の天井までビッチリと埋め尽くしている本の山である。革で製本された書物の山が四方の本棚を埋め尽くしていた。閉所恐怖症の人間ならすぐにでも発狂しそうな密度である。目がくらみそうな蔵人が視線を部屋の主に向かう。
そこには、寝台の上で無防備に寝入っているマリカの姿があった。
落ち着いて周囲に目を凝らす。
よく見れば、若い女性の部屋らしく、あちこちにはかわいらしい小物が置かれていた。
「読めねえでやんの」
蔵人は本棚の書物を手にとって眺めてみるが、アラビア語のようなのたくって連続したうねりがあるだけで、当然意味は理解できなかった。言葉は通じるが、本は読めない。召喚時の契約により、蔵人の脳にはこの世界の人間の言葉は、直で通じるように、魔力が働いているのだった。本を棚に戻して、マリカの側に寄った。香を焚いてあるのか、独特の匂いが漂っていた。彼女のトレードマークのとんがり帽子は、寝台横の文机の上にそっと載せてある。帽子の先端は、自重で僅かに曲がり、クタっと折れていた。眺めているうちになんとなくおかしみを感じる。
「おお、結構厚い生地なんだな」
蔵人は、魔女っぽいとんがり帽子を両手で弄ぶと、元の位置に戻した。
そっと寝顔を覗き込む。
マリカは波打つ銀髪に埋もれるようにして、枕に顔を突っ込んでいた。
「おはよう、マリカお嬢さま。朝でございますよ」
「んん。んむぅ」
蔵人が耳元で囁くと、マリカの特徴的な長い耳がピクリと蠢いた。
「そういえばハイエルフがどうとかいってたな。エルフの上位種なのか? そもそも、エルフを見たことがないので違いがわからないが」
蔵人は、ふと思いついて指を伸ばして長耳に触れてみた。
「はあ、んんっ」
フニフニと指で摘んで引っ張ると、マリカが悩ましい声を上げながら寝返りを打った。
かかっていた毛布がばさりと動き、彼女の上半身が露呈する。
「うおおおっ」
マリカのあられもない乳房がこれでもかとばかりに眼前に突きつけられた。
彼女は裸族だった。就寝時限定であろう。
白く、張りのある双丘がぽよぽよと揺れている。
仰向けになっても、ぺたっと潰れないのは、形がよい証拠である。
余計なぜい肉がないのか、腰の辺りは、キュッと締まっている。
かわいらしいヘソをしていた。
身体にうっすらと生えている銀色の産毛がキラキラと輝いている。
蔵人は生唾を飲み込むと、そっと手を伸ばして、目の前の乳房を掴んだ。
マリカは小さくうめくと、悩ましげに眉をひそめた。
さすがに、罪悪感を覚えた。毛布をかけ直して脱兎のようにその場を走り去った。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。昼前くらいに、マリカは居間に姿を現した。昨日と比べて格段に顔つきはハッキリしているが、なにか腑に落ちないといった様子で首をかしげている。
「おはよう、クランド」
「ああ、おはよう。ど、どうしたんだ。そんな難しい顔して」
「うん。気のせいか、帽子の置き位置が微妙に変わっているのよね。ねえ、もしかして」
「気のせいじゃないのか、それよりも! 今日は、どうするんだ!!」
「なによ、いきなり大きな声を出して。怒らないでよ、今日は結構努力したのよ」
「そうか、努力したのか! そいつは、結構なことだ!!」
「だから、なんでそんなに大きな声を……」
「そうだ、準備はどうなんだ!? すぐに出発できるのか?」
「ちょっと待って、まだ朝食もとってないのよ。焦らないでちょうだい。相変わらず、早ろ……早いのね」
「おーい、朝から下品なのはおまえさんのほうじゃないかーい」
「失礼ね。あなたのレベルに合わせたのよ」
「まったく、あれだけいったのにまた寝坊してからに。ほら、外は曇ってるけど、新鮮な森の空気が」
蔵人が扉を開ける。外は曇り空がとうとう泣き出し、しとしと雨粒が垂れ落ちていた。
「今日は、順延ね」
「あ、雨ぐらいなんだ。人間は完全防水なんだぞ」
「残念なことに、私のような高貴なハイエルフは濡れに弱いのよ」
この日もふたりきりで、終日、駄弁った。
「明けて、翌日。マリカさまのご気分も大変よろしく、奇跡的に正午を回る前に小屋を出ることができた」
「あなた、誰に向かって喋ってるの?」
「気にするな、ひとりごとだ」
次の日、蔵人とマリカはようやく小屋を出発して、邪神退治の冒険に出発した。
昨日、降り続いた雨は上がっている。消えていた太陽がようやく顔を出していた。当初の計画通り、ハイエルフであるマリカが、森の奥地にあるダンジョンの最下層に居る“邪神”の存在を封じてしまえば、ミッションは終了するのだ。蔵人は、約束のご褒美とチラつかされた村娘であるゲルタの愁い顔を思い返して鼻の下を伸ばした。
「じゃ、道案内は頼むぜ。森の魔女っていうくらいだから、マリカに任せれば迷うことはないだろうな」
「え……?」
マリカはキョトンとした顔で、振り返った。整った風貌が、やけに子供っぽく見えた。
「え? いやいやいや。そういう冗談はやめようぜ。ねえ、冗談だよね」
「森の道なんて、わかるわけないじゃない。そもそも、私は生まれてからこの小屋から見えなくなる位置まで離れたことはないわ」
マリカは両の腰に手を当てると、胸をそらした。蔵人の鼻にシワが寄った。
「はああっ!? 嘘でしょ? どうやって、いままで生きてきたんだよ。ヒマだろ、やることなくて」
「別に。お母さまが存命でいらした頃は、常に魔術の研究に没頭していたし、覚えること、学ぶことは山のようにあったから」
「そうか、母ちゃん死んじゃったんだな。悪いな、つらいこと聞いちまって」
「ううん。いいのよ。その分、これからあなたが役に立ってくれるから」
「って、そこで俺が出てくるのね」
「頼んだわ」
「あー、はいはい」
マリカ自身が知らなくても、邪心を封じたダンジョンまでの道のりを示した詳細な地図はあった。
蔵人は地図を受け取ると、歩き出した。
マリカが、その後ろを追うようにしてついてくる。彼女はとんがり帽子をかぶったまま、紺色のマントを纏い、手には三十センチほどの杖を手にしていた。
先端には、青白い宝玉が嵌め込まれている。六角形の不思議な宝玉は日光の照り返しを受けて、キラキラと輝いた。
水分を含んだ潅木を掻き分けて森の中に踏み入っていく。濃い緑の木々の匂いが、身体の隅々まで染み込んでくるような気がした。
蔵人が清廉な森の息吹に目を細めていると、途端にマリカが遅れだした。
体感的にだが、たぶん、まだ三十分も歩いていない。成人ならば、なにをどうやってもヘタレる距離ではないはずだ。ふたりぶんの食料や水を詰めたザックは蔵人が背負っている。重量は三十キロ程度である。一方、マリカは完全に空手である。持ち物は、小さなポーチくらいだ。彼女が疲れる要素はない。蔵人は困惑した。
「どうしたんだよ」
駆け寄って顔を見ると、顔色は蒼白だった。マリカは、荒い息を整えると、木の幹に背を預けて呼吸を整えている。銀色の美しい髪がうねるようにして乱れていた。額に流れる汗が頬をつたっている。あえぐたびに小さく前後する彼女の喉が淫靡な印象を与え、思わず生唾を飲み込んだ。調子でも悪いのだろうか。蔵人は気遣って手を差し出すと、マリカはムッとした表情で払った。
「あなた、足が早いのよ」
「え。だって、いまのはかなりの女の子スピードだったぞ」
「私はかよわいの。クランドのような野獣と同列に見ないで」
マリカは杖をサッと振り上げると、魔術を詠唱し始めた。
「風力浮揚魔術」
マリカが詠唱を終えると、足元に小さな風が巻き起こった。ギョッとして、彼女の黒っぽいブーツの底を見ると、地上から五十センチほど浮いていた。蔵人がそっと歩くと、マリカの身体が並行して進む。蔵人は自然とズルを咎めるような目になった。
「おまえな、ズルっこいぞ」
「最初からこうすればよかったのね。ふう。たまには運動もいいなんて、思い違いをするんじゃなかったわ」
マリカのエルフ特有の長耳がピクピクと震えている。感情が高ぶると、耳の動きに直結するらしい。犬のしっぽのようなものだろう、と思うが、確証はない。
「筋肉使わないと、尻の肉が垂れるぞ」
「大きなお世話。寝る前にエクササイズして引き締めてるから大丈夫。ほら、私のことはいいから。とっととお進み」
「へいへい」
歩きながらしばらくの間、無言が続く。辺りには、生物の気配は無い。やはり、女であるというか、マリカはお喋りがしたいようだった。
「ねえ、どうして黙っているの。退屈よ、なにか楽しい話をしなさい」
「唐突だな。っていわれてもねえ。そういえば、二、三聞いておきたいんだが、いいか?」
「卑猥なこと以外ならね」
「おいおい、それじゃ共通の話題がゼロじゃねえか」
「一度、脳みそ煮返してあげましょうか」
マリカの杖から青白い電流がパシパシと火花を散らした。
「冗談だよ。そういえば、この森はおとろしいモンスターがうじゃうじゃいるんだろう。おまえの小屋は大丈夫なのか? なんで、村ばかり襲われる?」
「私の小屋の周りには強力な結界が張ってあるの。邪神そのものが出向いてくるならともかく、雑魚程度では破ることは不可能よ」
「じゃ、なんで俺は入れたんだ?」
「バカね。一応、おびき寄せたのよ。それに、小屋の扉にも仕掛けをしておいたの。私に、害意を持って近づいた生物には、自動で攻撃魔術が発動するようになっていて。ああ、あなたは生き延びたのね。たいていは、あの一撃で絶命するのだけど」
「なにげに酷いな」
「私も、自分の命を守らなければならないから。とかいっている間に、お客さん一号のようね。気をつけなさい」
マリカの真っ赤な瞳が、燃え上がるように熱を帯びる。蔵人は鼻をピクピク蠢かすと、身体をこわばらせた。ジッと目を凝らして緑の草むらを注意深く観察する。奇妙な羽ばたきの音が、木々を縫って迫ってくる。
「軍隊飛蝗よ。せいぜい、頭をかじられないようになさい」
軍隊飛蝗。
全長は三十センチほどの異様な大きさを誇る、肉食の怪物である。
軍隊の名を冠する通り、常に数十から数百の群れで行動している。
主に山野の小動物を補足する。
通常の飛蝗とは違って、万余を超える数にならないのは、増えすぎると結果として共食いになることを恐れ、本能的に個体数を維持しているといわれていた。
草木をかじることがないので、その痕跡を探すのは非常に難しい。
ロムレスの地方によっては、これを積極的に捕まえて、煮つけ、常食にする部族もいる。
「雷光放射!」
マリカは短い詠唱を終えると、杖の先から稲妻を激しく打ち出した。
キチキチと羽音を立てて襲い来る軍隊飛蝗がまとめて十匹ほど灼け落ちる。
焦げ臭い肉の焼ける音が鼻を横殴りにする。サッと視線を動かすと、茂みのように見えたのは、総じて飛蝗の群れだった。目測で、数百はいるだろう。
「いづッ!?」
気づけば、三匹ほどの飛蝗が右足に噛みついていた。
「このッ!!」
蔵人は足を振り上げて跳ね飛ばそうとするが、ガッチリと食い込んだ歯が肉を食い破って筋繊維に絡みついている。犬に噛まれたような錯覚を覚えた。昆虫にしては凄まじい咬筋力だった。
サッと手を伸ばして、掴み、握りつぶしていく。硬さはそれほどでもなかった。
指先が、昆虫のハラワタにめり込むと、きいと哀れっぽい声で鳴いた。ヌルヌルした体液が手首をまで濡らした。半端ではない気色悪さに、強い嘔吐感を覚えた。最後の一匹を靴のカカトでひねり潰す。嫌な臭い鼻を突いた。
続けざま、数十匹の飛蝗が飛びかかってくる。蔵人は、数匹を捕まえて握りつぶすが、頬や耳を噛まれて悲鳴を上げた。マリカがうんざりしたようにため息をついた。
「クランド、しばらく時間を稼ぎなさい。一気にケリをつけるわ」
「わーかったよ、ハイエルフさま!」
マリカの身体が木々の梢ほどに高々と舞い上がる。あの位置なら、そう簡単には飛びかかれないだろう。離れすぎないのは狙いを外さないためと推測できた。
蔵人は腰の長剣を引き抜くと、次々と飛びかかってくる飛蝗たちを払い落とした。適当に拾った剣はなまくらである。ロクに手入れもしていないせいか、たちまち切れ味が鈍った。緑色の悪魔は、巨大な壁のようになると、連携的に攻撃を始めた。左腕に、両足、腹回りと、飢えた飛蝗が群がるように這い登ってくる。必死で剣を振り続けるが、鉄の棒を振り回しているようなものだ。潰れた昆虫の体液と、食い破られた肉から吹き出す血で、全身が青と赤でドロドロに染まっていく。緑の壁は、のしかかるようにして全身に食らいついてくる。蔵人は、飛蝗の重みで膝を折ると、剣を放り投げて顔に食いつく個体を掻きむしった。呼吸が苦しい。確かな恐怖を感じた。
「クソッ! まだか、まだなのかよっ!!」
「待たせたわね。雷光螺旋擊!!」
マリカの風属性である中級魔術が発動した。軍隊飛蝗のみに、ポイントされた電撃が颶風のように荒れ狂って、森の中を掻き乱した。青白い稲光は、激しく螺旋状の渦を巻いて地上に降りかかって、群がる飛蝗たちを一掃した。蔵人の全身に歯を立てていた昆虫たちは、瞬間的に炭化すると、原型を留めずサラサラと崩れ落ちた。周辺に、灰の塊となった飛蝗の群れが飛び散って木々や茂みを汚した。
「クランド!!」
「はあっ。おせえぜ。ったく」
蔵人は痛みのあまりその場に膝を突いてうめいた。浮揚を解いて駆け寄ったマリカが蔵人の肩をとって心配そうに覗き込んでくる。
「ひどいケガ……! 待って、いま治療するから」
「いや、たぶんだいじょうぶだろうな」
蔵人の全身は、噛み傷と飛蝗の体液で青黒く染まっていたが、衣服ごと噛みちぎられた部分からジクジクと相当な量の血が流れ出ているのだ。この期に及んでの軽口と見たマリカの顔が怒気でカッと赤くなる。
「なにを、バカなことを。えっ……?」
苦痛に顔を歪めていた蔵人の表情が徐々に安らいでいく。胸元から、青白い光が輝きを増している。マリカは、大きな赤い目をしばたかせると、焦ったような手つきで胸元をくつろげさせた。
「ちょ、やめろや、このエルフ。エルフ改め、エロフ」
「なに、なんなの、この紋章。まさか、あなたは」
蔵人は、近くの小川で身体と衣服を清めると、マリカに対して自分の身の上を語って聞かせた。この国の王女に勇者として召喚された際に、契約の証として特殊能力である不死の紋章を手に入れたこと。ロムレス第一監獄で獄卒長を斬り、あまつさえ王宮の関係者に命を狙われているということ。そして、いまは、都からはるか南に位置するシルバーヴィラゴという都市を目指して旅をしていること。好きな女のタイプは、かわいくて従順でおっぱいが大きくて、どんな命令にも恥じらいを覚えながらも実行してくれるような娘。
「最後の情報はいらなかったわね」
「マリカ、ちなみに容姿だけならおまえもストライクゾーンになるぞ。俺と契約して淫靡な主従関係を結ばないか」
「あいにくと、私、面食いなのよ。あなたのような、方はちょっと」
「はいはい、イケメンじゃなくて悪うございましたね。つーわけで、今後は俺がケガしても特に気にすることはない。サクサク攻略を続けよう」
「はあっ。心配して損したわ。あなたが、それで問題ないなら別にいいけど。それと、ひとつ忠告しておくけど、その紋章は、完全じゃないわ」
「なに?」
「つまり、あなたと召喚者のリンクは、上手く接続できていないみたいなの。いつ、プチンと切れてもおかしくない状況よ。クランド、あなたの境遇には同情するけど、その能力を過信しないで、実力をつけるほうが身のためよ。所詮、簡単に手に入れたものは簡単に失ってしまうもの。生き抜くための努力を惜しまないで」
「お、おう」
「あのね。あなた、いま、あきらかにメンドくさいと思ったでしょう」
「そ、そんなことはないぞ」
「もう。別にいいわ。あたしとしては、邪神を封印できるまであなたを壁として活用できればいいのだから」
「ひっど……」
「だから、もう少し慎重になりなさい。本当にマズイと思ったら、すぐに逃げてもかまわないわ。決して、恨んだりしない。私もそうするから」
そういってマリカは、再び宙に浮くと、背を向けた。その背中は、蔵人から見れば、なんだかひどく小さくなったように見えた。




