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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
77/302

Lv77「遠い約束」




 本を読む楽しさを教えてくれたのはあの人だった。

 ――ルッジや。さあ、今日はどんなお話をしようかね。

 ルッジを膝に乗せて、彼女の祖父バトレイは必ず前置きをしてから、古くなった書物をゆっくりとめくった。

 代々、ロムレス王家の史官長を務めるビブリオニアス家には、古今東西のありとあらゆる書物が保管されていた。ルッジは立って歩けるようになるとまもなく、隠居した祖父の部屋に行き、そこかしこに積まれた本を見るようになった。

 もちろん、字が読めるわけでもないが、黄ばんだ羊皮紙や分厚い紙片をめくるたびにその小さな胸をときめかせた。古びた背表紙や、インクや紙片独特の匂い。ルッジは鼻腔いっぱいにそれらを吸いこむだけですべてが満ち足りた。

 書物には人類の英知が詰まっている。そのすべてを知りたかった。

 おじいさま、わたしに字を教えてください。

 ルッジは情の薄いナースメイドにはまったくなつかず、血を分けた祖父に強く傾倒した。

 満たされない愛情を欲する本能的なものである。幼児には無理もない行為だった。

 なにしろルッジの兄妹は何十人もおり、彼女の養育を行っていたナースメイドはあらゆる面において熱心というわけでもなかった。

 とうに隠居していた祖父はルッジの住んでいた屋敷から目と鼻の先、大きな楡の木と静かな小川の流れる場所にひとりで居を構えていた。朝食をすませるとナースメイドの目を盗んで、毎日大好きな祖父の屋敷に向かった。

 大きな身体で椅子に腰掛け、背中に流れる総白髪。

 たっぷりとした白ひげを蓄えた祖父はいつでもやさしい瞳でむかえいれてくれた。

 ――おやおや、かわいい小うさぎが、また迷いこんでしまったかな?

 祖父は面白がってむつきも取れぬルッジを一人前扱いした。

 ――さあ、ルッジくん。次のステップに進もう。ボクの講義はいささか難しいかね?

 いいえおじいさま。もっともっと、たくさん教えてくださいまし。

 ルッジは真綿が水を吸いこむように、ありとあらゆる知識を吸収した。祖父の講義や物語が終わると、大きな膝の上に乗って貪るように書物を読み込んだ。

 とにかく、字が書いてあればなんでもいい。

 祖父といっしょに昼食を摂るのも楽しみのひとつだった。メイドが運んでくるあつあつのホットケーキに甘いシロップ。行儀作法を咎められることなく、存分に食事を楽しむ意味をはじめて知った。

 ルッジは三歳の誕生日を迎えるようになると、ほぼ祖父の話についていけるようになり、特にダンジョンについて強い興味を示した。

 初代ロムレス王の残した遺産や、百層まで続くといわれる無限の広がりのある迷宮。

 数え切れないほどのモンスターや見たこともない動植物たち。

 書物に載っている稚拙な口絵や文章からそれらに思いを馳せ、拙い口調で議論とも呼べぬ議論を祖父とかわした。

 ルッジは本宅のナースメイドは嫌いであったが、祖父に仕えている初老のメイド、アデレーは大好きであった。

 彼女は、いつも目立たぬ花のようにひっそりとたたずみ、静かに微笑んでいた。太陽の陽がさんさんと降り注ぐ日には、庭に出て、小川のせせらぎに耳をすませ、メイド手作りの昼食を摂りゆったりと時間を過ごした。

 ルッジは父母の顔を生まれてから数える程度しか見たことはなかったが、祖父とメイドのアデレーの愛情をたっぷり受けて育った。

 なにもかもが無限の可能性に満ちていた。ルッジは自分がこの先、しあわせになると信じて疑わなかった。史官長という重職にありながら、祖父は若き頃なんどもダンジョンに潜って冒険を行った無鉄砲さがあった。年老いてもなお、強い茶目っ気を残しており、ルッジは彼ほど魅力的な男は知らなかったし、これから先も現れるとは思えなかった。

 おじいさま。わたしが大人になったら、お嫁さんにしてくださいな。うん。そうすれば、わたしたちはいつまでもいっしょにいられるのではなくて?

 ――んん? ははっ、そいつはチト難問だなぁ。さすがのボクでも難しいや。

 祖父は白髪をかき回すと、大口を開けて哄笑した。

 なんで、笑いますの! わたしは真剣ですのよ!

 ――いやあ、すまないすまないレディ。しかし、こんなジジィと一緒になってどうするというのだい?

 いっしょに、冒険しますの! 悪い騎士やモンスターをやっつけますの! えい! とお!

 ――これはまた、かわいらしい騎士だなぁ。けどね、レディは剣を振り回すような真似をしてはいけないよ。それは、男の仕事だからね。

 や! ルッジも剣を持ちたいですの。お外へ出て冒険したいですの。

 ――困ったな。とりあえず、きょうのところは、ボクのお話だけで我慢してもらえないかなぁ。

 困ったように眉を下げ、それでも声だけは明るく物語はいくらでも続いた。

 祖父が、出会った一癖も二癖もある魅力的な冒険者たちの逸話にルッジは瞳を輝かせて聞き入った。

 ねえ、おじいさま。大きくなったら、いつか、わたしといっしょに、ダンジョンへ行ってくださいますか?

 ――ああ、そうだな。ルッジや。いつか、おまえが大人になったら。






 ルッジは朦朧とした意識が徐々に覚醒していくのを、どこか遠くで他人事のように見つめていた。

(ああ。そういえば、昨晩はずいぶんと飲んだらしい)

 ソファから身を起こす。汗ばんだ背中のシャツがじっとりと濡れていた。

 ルッジは、歪んだ視界の中で舌打ちをすると、手探りで眼鏡を探して、自分では高すぎると思っている鼻梁に載せた。たちまち世界は正常を取り戻す。

 そこは、いつもどおりの無味乾燥な味もそ素っ気もない自室だった。どうやって、屋敷に戻ってきたか覚えていない。昨日は、クランドに向かっていかにもいつも飲み歩いているような素振りをみせたが、ブラックウェル家に嫁いでから研究に関係なく外泊したのは、はじめて、であった。

 なにを、誰に気兼ねすることがある、と思う。

 そもそもが、自分は寡婦なのだ。

 生まれつき身体の弱かった夫は半年前に死別している。口さがない世間の人々は、ルッジは遺産を食いつぶして好き放題やっているといわれていたが、おおよそ間違いではなかった。

 迷宮の研究にはおそろしく金がかかる。いくら金があっても足りなかった。

 また、これらはまさしく貴族の道楽以外には違いなく、目に分かる利には繋がらないため、どのような商人にも鼻すら引っかけてもらえない。たまに、頭のおかしい篤志家がいるかと思えば、あからさまに身体を要求された。別段、自分の身体にもったいつけているわけではないが、一度、閨を共にする寸前までいったとき、どうしても避妊に同意してもらえないことにうんざりしたのだ。いまは、子供を孕んでいる場合ではない。もっとも、男というものは拒否されれればされるほど燃えるらしいということは学習した。

 なので、ボクとしては、夫の残した遺産を齧りながらも研究を続けなければならない。

 その先になにがあるかということは考えない。

 なんの役に立つかもあえて忘れなければならない。

 どのみち研究とはこの世のありとあらゆる事象に関係をなさない無意味なことだからだ。

「あっつい」

 シャツを脱いで立ち上がる。窓際に移動してガラスを開けると、涼やかな朝の風が自室の中を洗いほぐした。隣室にはメイドに命じてバスタブにお湯を常に張らせてある。ルッジはあっという間に生まれたままの姿になると、眼鏡をかけたままその中に飛び込んだ。

 昨晩入れたのだろうか、バスタブの中身はぬるまっていたが、汗を流すには充分だった。

 たっぷりとしたタオルで身体を拭い水分を拭きとる。新しいシャツとタイトスカートに着替えると、姿見の前で化粧を直した。

「奥さま。昨晩は、いったいどちらへいらしたのですか!」

 自室を出ると、護衛騎士であるカロリーヌがロングソードをガチャガチャ鳴らしながら金切り声を上げた。

 肩の辺りまでの短い赤毛が大きくゆれている。

 整った目鼻立ちだが、そのキツい性格のため屋敷の男連中にはすこぶる評判の悪い女騎士であった。

「ああ、もう。そう、朝からがなりたてないでくれ。頭がキンキンするよ」

「いいかげんにしてくださいっ! いくら未亡人とはいえ、大殿さまに黙ってこうもしょっちゅう無断外泊をされては、もう私でもかばいきれませんからねっ!」

 カロリーヌは牙をガッと剥き出しにすると、鳶色の瞳を釣り上げて吠え立てた。彼女は、ルッジが実家であるビブリオニアス家を出たときにつけられた、いわゆるお目つけ役のひとりであった。

 元々は、カロリーヌだけではなく他にも五人ほどの侍女もいたのだが、干渉を嫌うルッジのあからさまなイジメに耐えかね、全員逃げ出してしまったのだった。

 残ったのは唯一、カロリーヌという三つ上の幼なじみ件護衛騎士がひとりのみ。

 ルッジは自分のために彼女が確実に婚期を逃していることに胸を痛めていたが、最近では下手に現実を見ないほうが彼女のためのような気がしてならなくなり、良心の痛みはだいぶ軽減されていた。

「はぁ。そんなに口うるさいとますます縁遠くなるよ。カロリーヌ。そろそろボクのことは放って置いて、実家に戻って大人しく嫁に行ったほうが身のためじゃないかな」

「そっ、そそそっ、それとこれとは関係ないじゃないですかあ! 第一、私には奥さまをお守りするという立派なお役目がありますっ。この身はすでに、女を捨てましたからっ!」

「はあ。女を捨てた、ねえ」

 ルッジはわざとらしくため息をつくと、カロリーヌを身体を子細に眺めた。全体的に肉の薄い躰つきの自分と違い、カロリーヌは胸も尻も出るところはちゃんと出ていて、特に胸を覆うプレートメイルは特注品であった。

 いかんせん説得力に欠けるというものである。

「そんな、熟れたぶどうみたいな乳房を目の前でフリフリさせて怒鳴られても、誰ひとりとしてうなずかないと思うよ」

「ぶぶぶ、ぶどうとかいわないでくださいっ!?」

 ルッジは真っ赤な顔で否定するワガママボディな女騎士を放って置いて、屋敷の主である、義父ライオネルの部屋に向かった。ルッジは夫であるライオネルの長子ユベールが没した時点で子を為していなかったことも考えれば実家に帰されるのが通例であった。

 だが当時すでに彼女は名誉ある王立の研究所に特任教授という職を拝しており、また義父ライオネルの病が篤かったことも加えて実家に戻ることを拒んだのであった。

 部屋の前で訪いを告げ、静かに足を踏み入れる。そこには、枕元には専属医のペシャロットがちょうど脈を見ている最中であった。

「おはようございます。御義父(おとう)さま。本日もご機嫌うるわしく」

「おお、ルッジか。おはよう。きょうも一段と美しいではないか。はは」

「……御義父(おとう)さま」

 当年とって七十五になるライオネルは寝台に身を横たえたまま、低く艶のある声で軽口を叩いた。ライオネルは血の気を失った真っ白な顔を歪めると無理をして笑みを作った。

 彼は末期の胃がんであり、根本的な治療は不可能であった。

 ルッジはペシャロットを下がらせると、室内でふたりきりになる。時計の針が急に大きくなったようにルッジには聞こえた。

「やれやれ。ペシャロットの堅苦しい顔があると、ロクにくつろいで話もできんわい。さ、さ。もちっとそばへ寄れ。父はルッジの顔を見んことには一日がはじまらんからな」

 ライオネルは痩せこけた頬を引きつらせると、ことさら明るい声を上げて手招きをした。

 ルッジはカサカサになった義父の手をとるとゆっくりと撫でる。温度もうるおいも欠いた手のひらは、乾ききった枯れ木を思わせた。

「ほほぅ。なにやら、昨晩はよほど楽しかったようじゃの」

「申しわけございません」

「責めておるのではない。ほれ、昨日の昼話しておった、冒険者といっしょに居たのかの」

御義父(おとう)さま。誤解を招くような行為を己をわきまえずに。幾重にもお詫びいたします」

「だから、責めておるわけではない。そもそもが、おまえはもはや自由の身じゃ。どんな男と仲ようしようが、年寄りが文句をつけるわけにもいくまいて」

「ですが」

「ほほ、あのルッジが夜遊びとは、冥府でユベールが歯噛みしておるかの。はは、そんな顔をするな。冗談じゃ、冗談。それよりも、昨晩はどこでどんな話をしたのか儂にも聞かせてはくれんかの」

 ルッジは、はじめは義父を慮って当たり障りのない話を続けていたが、昨晩のクランドたちに触れるにつれ自然と言葉は流れるように走り出ていた。ライオネルは微笑みを浮かべたまま、ルッジの話を実に楽しそうに聞き入っていた。

「――それでですね、クランドはいきなり肌脱ぎになると酒瓶を一気に空にして」

「それは中々に楽しい男だのう」

 ルッジは話がかなりきわどい路線に入った時点で、顔色をサッと青ざめさせた。

 夫を亡くしてからまだ喪も明けていないのである。とても義理の父に笑って話すような事柄ではなかった。心の中で脳天気に踊っていた昨晩の男を殴りつける。顔を伏せていたルッジの頭をそっと大きな手のひらが降りた。

「あ――」

 こわばった彼女の頭を義父の手のひらがゆっくりと撫でる。

 ライオネルはどことなくルッジの祖父に似通った部分が有り、その点が彼女をこの家から去らせない理由のひとつでもあった。

「だから、別段責めているわけではないのじゃ。のう、ルッジ。そのクランドという男、一度屋敷に連れてこんかの」

「はあ?」

「歳は二十か。話を聞けば冒険者らしいが、まだ若い。これから先、幾らでも貴族にふさわしい礼儀作法を身につけることができよう。ひとつ気になるのが、おまえのほうが四つも年上という部分だが、その辺りは我慢してもらうしかないのう」

御義父(おとう)さま? 話の意味が」

「なにをとぼけておるんじゃ。ルッジよ。その男、見所があるなら親族の養子にしておまえが婿にとるがいい、といっておるのじゃ」

「え? え? はあっ?」

「ルッジや。おまえは、十六の歳でこの家に嫁いで、そのような顔をしたことが幾度あったかの。いや、人間自分のことは中々にわからないものじゃ」

「いや、それは違う。御義父(おとう)さま。まったくもっての勘違いでございます」

「おやおや、そんなに顔を赤くして。儂に気兼ねすることはないぞ。もっとも、真の夫婦になるのは、さすがに正式の婚姻をかわしてからだぞ。さすがに、儂の口からは諾といえぬわ」

「わたしは、そんなつもりはございません。御義父(おとう)さま!!」

 ルッジが義父の部屋を出ると、佇立していたカロリーヌが無言でつき従った。

 ライオネルはまごうことなく善人である。

 未亡人であるルッジの将来を考えて、気を回してくれているのであろうが、とてもではないが、あの男がはいそうですか、とおとなしく婿になるはずもなかった。

 それに、親戚一同がルッジの再婚を許すわけはないだろう。ライオネルの第一子であり領地の相続権を持っていたユベールが死去したことによって、すべての権限は一旦、前当主に戻った。引き続き、ライオネルがルッジを義理の娘として認め、婿を迎え入れるということになれば、八千の精兵を養えるといわれたブラックウェル家の広大な遺領はすべてルッジが受け継ぐという形になる。夫方の親族一同は、ルッジからブラックウェルの姓を取り上げ追い出したいのである。それも、当主のライオネルの息がまだあるうちにである。

 いまや、親族一同の目下の課題はどの家から養子を出してライオネルに縁組をさせるかという一点のみであった。争点は残される遺領のみ。ライオネル個人に対しての感情は誰にもなかった。互いが牽制しあい、見舞いにすら来ない。ルッジは義父が不憫でしかたなかった。

 ルッジの中に打算がないわけでもない。親身に世話を焼けば、いずれは訪れるであろう財産相続をめぐった中である程度の発言権を得ることができる。親族一同は、彼女のことを死肉を狙う卑しいハゲタカ程度にしか思っていなかった。

 ブラックウェル家の膨大な財産を狙う、スカベンジャー。

 当然、ルッジもそこまでの利が得られると思っていなかった。残り少ないであろう義父の余生を看取ったのち、ほどほどの遺産分けをもらって、残りの研究費用は自分で稼ぐつもりであった。

 かつて、祖父とかわした約束。どんなことがあっても果たさなければならなかった。

 そのために、ほどほどに腕が立ち、人が良さそうなクランを探していたのである。クランドはまさにうってつけの人物であった。

 若く、覇気があり、そのくせどこか抜けていた。

(あの男が、ボクの婿になるだと。まったく、義父も余計な気を回しすぎ、回しすぎ)

「あの、奥さま。なにか、楽しげですがよいことでも」

「え? ああ、なんでもないなんでもない!」

 ルッジがごまかすように右手を振ると、カロリーヌがあからさまに顔を歪めた。

 階段の突き当りにその男は立っていた。

 身長は百五十ほどだろうか、ひどく肥えていた。

 いや、ただの太り方ではない。

 見るものすべての人間に目を背けさせるいびつな不健康さがあった。

 身なりはいい生地を使ったローブを羽織っているが、前にぽこんと突き出た腹がなにもかもを台無しにしていた。

 頭髪は真っ黒な陰毛のような縮れ毛である。

 ロクに手入れをしていないのか、蹂躙された鳥の巣のようだった。

 肥大した肉の塊に押しつぶされた細い目は、黒目が確認できないほど薄い。

 これでよく視界が確保できるかと首をかしげたくなるような狭さだ。

 唇は分厚く、ナマコを二本重ねたように思える。

 男が口を開けると、ぐちゃぐちゃに生え揃った乱杭歯が奇妙にひしめいて見えた。

 ゴルボット・ブラックウェル。

 ライオネルの次男であり、ルッジの義弟で七つ年上の三十一歳であった。

「これはこれは義姉上。きょうはいつにも増して美しいですなァ」

 ヒキガエルの喉を炒り潰したような低音が吐き出される。ルッジはいつ聞いても前夫の腹違いの弟、ゴルボットの声には慣れなかった。二の腕にかけてぷつぷつと鳥肌が立つ。

 ルッジは彼の外見よりもその陰湿な性格を忌み嫌っていた。

 夫のユベールに腹違いの弟がいると知ったのは、ブラックウェル家に嫁いですぐだった。

 彼の母は当主であったライオネルが戯れに抱いた夜の女で、彼は幼い頃から娼館で生まれ育った。

 奴隷同然の生き方をしてきたのだ。長きに渡る忍従の証は顔といわず魂そのものに刻まれ、パッと見は四十過ぎだといわれても違和感はなかった。長らくみじめな境遇に有り、苦しめられてきたのであろう。そう思えば憐憫の情も湧いた。

 兄嫁として親身になって世話をしたつもりだった。

 だが、この義弟がおとなしかったのは最初のうちだけだった。

 兄が病弱だと知ると露骨に態度に出るようになった。ライオネルには子供はふたりしかおらず、ユベールが死ねば名門ブラックウェル家を継ぐのは自分しかいないと決めてかかったのだ。メイドには片っ端から手を出す。執事に命じて金を引き出し放蕩三昧。そのうちにゴルボットはルッジに対し異常な執着を抱いた。

 ルッジが外出している間に部屋へ侵入し、下着を使って自慰を行う。

 己の体液を混入させた料理を姉嫁の口に入れようと画策する。

 部屋のドアノブに己のほとばしりをべったり塗りつけ、ルッジが気づかずに握るであろうことを期待し、隠れて様子を伺う。

 ついには実力行使に出るが、魔道書の力によって半死半生の目にあってからは、直接的な行動に出ることはなくなったが、その濁った瞳はいつでもルッジを汚そうと虎視眈々と狙っているのが丸分かりだった。

 ゴルボットはルッジの脚元から頭のてっぺんまで舐めるように視線を這わせると、ピンク色の長い舌を爬虫類のように伸ばし唇を粘ったよだれで湿した。

「ねえん、ゴルボットさまあん、早くお部屋で飲み直しましょう」

 ゴルボットにしなだれかかるようにして、あきらかに淫売とわかる女が媚を売っていた。

 彼の好みはいつも徹底していた。

 背が高くスラッとして、胸も尻も引き締まったタイプの女性を好んで連れ回していた。

「ぐぶぶぶ。まあ、そう急くなよ子猫ちゃあん」

「いやあん」

 ゴルボットは安い淫売の腰を引き寄せると嫌らしく下卑た顔で笑った。処女のカロリーヌは顔を朱に染めると恥じらってそむけた。

「ゴルボット殿。貴殿はまがりなりにも、ブラックウェル家の次男にして子爵を賜る身であります。昼日中から、そのような真似は慎まれよ」

「あれ、あれれ。もっしかして、義姉上。オレ様ちゃんのこと妬いてるのぉ」

「なにを馬鹿なことを」

「ふううん? ま、いいのさあああっ。本当は、オレ様ちゃんもぉお、死んじゃった兄上の代わりとして、義姉上と仲良くしなきゃいけないんだけどおおっ、まだ喪が明けていないうちに、そうゆう仲になるのはマズイよねぇええん」

 ゴルボットは吹き出物だらけの顔を歪ませると、にちゃっとしたイヤな顔で笑った。

「なんどもいったように、わたしは貴殿とそのような仲になるつもりは毛頭ない」

「照れなくってもいいのにいい。ねえ、義姉上ぇえん。オレ様ちゃんとおお、いっしょになればああん、万事がすべてうまくいくんだよおおっ。義姉上はぁあ、莫大な遺産で迷宮の研究が続けられてウッハウハ。オレ様ちゃんはあ、いとしい義姉上とおお、ひとつになれてぐっちゃぐっちゃのぬちょぬちょになれてウッハウハ! これぞ、ウィン、ウィンじゃね? あ、やべ。たまんね。義姉上の顔。そ、そそるううっ」

「やめなさい。そのような無礼な物言い許されない」

 ルッジは喉をヒクつかせながらゴルボットの野卑な言動を青白い顔で咎めた。

「ああああっ。いいっ! 義姉上のおおっ!! その怒った顔おぉおっ、そそるううっ、すっご! そそるううっ! もっと、怒ってええっ! たまんねええっ!!」

「ねえん、ゴルボットさまあ。そんな年増どうでもいいじゃないのお。早くお部屋に行って、いいことしましょ」

「うるせえっ、肉便器がしゃべるんじゃねええっ! 興がそがれるだろうがあっ!!」

 ゴルボットは突如として癇癪を起こすと、腕を伸ばして淫売の喉を後ろからぐいぐいと締め上げた。淫売女は白目を剥いて激しくもがく。

 カロリーヌは呆気にとられ、ふるふると小刻みに震えだした。

「けひっ」

 淫売は妙な呼吸音をもらし白く細い腕を空に這わせてもがいた。

 だがその程度では獣性に囚われた男の行動が止むことはない。

 ゴルボットの異常性が激しさを増した。

「いひっ、いひひひひっ!! 死ね、死ねええッ!!」

 ゴキっと鈍い音がして淫売の頚椎が砕ける。

 同時にゴルボットは法悦の表情で細かく全身を震わせた。

「あぁえがったあ。安い淫売は殺してナンボッ!! くひゅひゅ。ねえ、義姉上。やっぱ、オレ様ちゃんといっしょになること考えてよ。そうすればさあ、これからは毎日オレ様ちゃんが誰にもはばからずかわいがってあげるよん」

「異常者が! ゴルボット殿、自分がなにをしたか理解しているのか? 相手がいくら平民だとはいえ、国法に照らせば重罪だぞ」

 ルッジは紙のように真っ白な顔で義弟をなじった。もっとも、ゴルボットにとっては義姉の険しい表情は自慰のネタに過ぎず、むしろご褒美といえた。

 ケダモノは弛緩した表情のまま再び股間を隆起させると興奮のあまり粘ったよだれを口の端からどっと放出させた。

「え? ああ、これこれね。だいじょぶ、大丈夫だってば。未来の夫を心配しなさんなってば。適当に拾った淫売なんか、オレ様ちゃんたちにくらべれば便所紙みたいなもんだからってば。おーい、マカロチフ。出番だぞぉお、デカ物! ゴミ掃除だ!」

 ゴルボットが高らかに手を打ち鳴らす。

 まもなく、階段の下に控えていたのか、巨躯の野人が姿を現した。

 身長は二メートルをはるかに超えていた。

 胸板は巌のように厚く、腕には長きに渡って鍛え抜いた巨木のような鋼鉄をよじりあわせたような太さがあった。

 頭部は毛を残らず剃り上げており、右の額には稲妻を模した墨が入っている。

 眉は太く落ち窪んだ瞳はギラギラと獣のように輝いていた。

 マカロチフはゴルボットが近頃買い上げた奴隷で、シルバーヴィラゴのコロシアムでは歴戦の拳闘戦士であった。

 マカロチフは淫売女の髪を片手で掴むとそのままゴミを引きずるようにその場を去っていった。毛足の長い絨毯を長々と赤黒い血が伸びていく。ルッジの表情に憂鬱の表情が色濃くなっていった。

(なぜだ。確かに、ゴルボットは以前から傍若無人であったがここまで常軌を逸してはいなかったのに)

「じゃあ、お名残惜しいけど、オレ様ちゃんもいろいろ忙しいからこれで行くよ。今度は、義姉上とじっくり仲良くしたいなぁ」

「待て! こんなことをして、御義父(おとう)さまのお耳に聞こえ、病状に差し障りがあったらどう責任をとるつもりだ!」

「うふふう。大丈夫だよん。むしろ、その方がいいんじゃね? ま、さすがのオレ様ちゃんも血を分けたオヤジサマを手にかけるつもりはないから安心してよん」

「わたしは、おまえのものにはならない」

「は? だからー、そんなの時間の問題だってぇん。義姉上だって、オヤジサマが死ねば心細さから考え直すってん。ま、オレ様ちゃん和姦派だから。義姉上さまが、自分から股を開いて来るまでじっと待つよん。そんな強がらなくても、いいってん」

「別に強がっているわけじゃない。なぜなら、もう、わたしには再婚先が決まっているからだ。おまえのようなゲスに、遺領はひとしずくも行き渡らない」

 ゴルボットの表情。意味がわからないと痴呆のように固まった。

 しばしの空白を置いて、突如として爆発した。

 彼の中には、遺産分配をめぐって親族たちが強硬手段として、ルッジに無理やり婿をあてがうという手段が想起された。貴族階級の中では濃く繋がった親族一同の意見は無視できるものではない。

 特に、叔父にあたるライオネルの弟、ロニキス男爵は押し出しも立派でもっとも厄介な存在だった。

「そ、そんな切羽詰った嘘に、オレ様ちゃんが騙されるわけないでしょ! し、知っているんだ! オレ様ちゃん、実は義姉上がいまだ処女だって! ユベール兄上は幼い頃から病気でアッチの方は役たたずだって! だからっ、だから義姉上の処女はああっ、必ず、オレ様ちゃんのモノになるのおおっ!! 予約なのおおおっ! 予約処女ほかの野良犬に使うなんて承諾できないいいいっ!!」

「残念だったな」

「は?」

 ゴルボットは顎をカクンと垂らすと痴呆のような表情を晒した。

「ボクの純潔は、再婚相手であるクランド・シモンへと、とうに捧げ尽くした。遅ればせながら、君が手を出したとしても、もはやボクのココは使用ずみだ!」

 ルッジは赤い舌をぺろりと出すと、つややかな唇を舐め、腰をくねらせて見せた。

「うそだああああっ!! ああああっ!!」

 ゴルボットは発狂したように顔を掻きむしると、泣きながらその場を走り去っていった。

「お、奥さま。いまのは」

 カロリーヌが瞳をきょときょとさせながら呆然とした表情で尋ねる。 

「ふっ。勝った」

 ルッジは両腕を組むと鼻を鳴らして勝ち誇った表情をしていた。

「いやいやいや、勝ったじゃないでしょう!!」

 カロリーヌの悲痛な叫びが尾を引いて響いた。






 ゴルボットはライオネル公爵の妾腹の子だった。

 成人するまではスラムで過ごし、たまたま持っていた母の形見から自分が貴族の落胤であることを知って運命が百八十度変わった。はじめてみる貴族の屋敷の広さに怯えた。兄だと名乗る、高貴な人物に引きあわされ、言葉を発することすらできなかった。

 そんな自分をあたたかく迎え入れてくれた人間がいた。

「はじめまして、きょうから君がわたしの弟だな」

 はじめて彼女に出会った日のことを鮮明に思いだすことができる。

 艶やかな美しく長い黒髪。

 キラキラと宝石のように光る瞳。

 スラリとした均整のとれた身体。

 その声は天上の音楽のように聞こえた。

 彼女が長い脚を動かすたびに、白い太ももが目に入り、陶然とした。

 女神である。文字通り、ルッジはゴルボットにとって理想の女性であった。

 彼女に出会えたことをこの世でもっともすぐれた奇跡だと感じた。

 同時に、その女神を妻として組み敷くことができる権利を持った兄を心の底から憎んだ。

 慣れない貴族の礼儀作法を、ルッジはまるで本当の血の繋がった姉弟のようにやさしく教えてくれた。

 彼女の吐息が頬に触れるたび、ゴルボットは自分の中の悪心がムクムクと頭をもたげるのを抑えることができなかった。この醜く、なんの教養もない、ただライオネル公爵の種だという一点がルッジと自分を繋げている。

 この時点で、ルッジの側にはゴルボットに嫌悪感はなかった。

 彼女は見た目だけで人を判断するような女ではなかった。

 そう、ゴルボットという人間が、真正邪悪そのものだということに気づくまでは。

 誰よりも、美しく気高い義姉。

 その彼女を無理やり組み伏し、力づくで押さえつけ、言葉で罵って人間の尊厳を貶め、穴という穴、髪の毛一本まで自分の体液で汚し尽くすことができるとすれば。

 それこそが、自分の生まれて来た意味があったはずであろうに。

「ふざけるなっ――!」

 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。

「ありえないだろうがよおおっ」

 万が一にでもあってはならない。

 自分以外が、彼女を汚すなどという、鬼畜的所業は。

「彼女はオレ様ちゃんの聖域なんだ。それが、それが、それがああっ!!」

 ゴルボットは荒れ狂うまま自室の調度品をすべて破壊すると、うっそりと部屋の隅に立つ巨漢に命じた。

 巨額を投じて買い入れた拳闘戦士マカロチフ。

 彼は、人間族でありながら、亜人最強種といわれる獅子族(ライオス)を素手でくびり殺す猛者である。

 十年の間に屠った敵の数は二千を超える。

 格闘の天才。

 二つ名を“鉄豪”と冠されたロムレス一の徒手格闘王者である。

「探せ。どんな手を使っても、クランド・シモンという男をここまで連れてこい。その男の前で、たっぷりと見せつけてやる。オレ様ちゃんの女神が壊れていくサマを」

 ゴルボットの眼。歪んだ冥い炎で燃えたぎっていた。






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