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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
68/302

Lv68「事故物件始末」

 






「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってな。せめて、グロ系じゃありませんように」

 蔵人は意を決して泣き声の正体を確かめるべく、足音を立てずに歩き出した。屋敷の間取りは昼間ザッと見た程度で、すべてを把握しているとはいいがたかった。

 値段の安さに釣られて買ったといえば自業自得であるが、せめて一言なりともあの不動産屋はなにかヒントを置いていくべきではなかったのか。

 不人情すぎる。蔵人は激しく歯噛みした。

「安さか。やはり、安さ爆発か。……アッチの方はホントに爆散してしまったが、こっちはそうならないことを祈るしかないな」

 いまは無き大型電気量販店のことを想い少ししんみりする。

 次第に闇に目が慣れてきたのか、ぼんやりと辺りの様子がはっきりしてきた。壁際に沿ってすすり泣くような声の発信源に近づいていく。二階の一番奥部屋の前にたどり着いた。

 南向きのもっとも日当たりの良い部屋である。

 まだ、木目の目新しい扉に手をかけゆっくりと開けた。

 はじめ、薄めに引いて中の様子をうかがい、それからそろりと足を踏み入れた。

「なんだ。誰もいねえじゃねえか」

 ガラス窓には夜空に浮かんだまん丸な月が、白く冴え冴えとしたした表情で静かに映りこんでいた。

 この室内だけは調度品がすべて撤去されており、ただの広い空間となっていた。

 蔵人の酔いは完全に覚め、軽い緊張感が全身を浸しつつあった。

 所在なく扉の前に立っていると、背後から生暖かい風が首筋を撫でた。

 背骨から骨盤を電流のような寒気が走った。

 振り向く間もなく、背後の扉が大きな音を立てて閉まった。反射的にその場を飛び退くと、部屋中から若い女のクスクス笑う声が漏れ出した。成熟した女性のものではない。甲高い少女特有のものだった。

 蔵人が身構えているとその声は次第に辺りを反響し、耳元に忍び寄ってくる。

 マズイ、と思ったときにはすでに遅かった。

 蔵人は全身の力を抜き取られたように脱力すると、その場へ仰向けに倒れこんだ。

 意識は極めてクリアだが、声はおろか指先一つ動かせない。

 これが俗にいう金縛りか。

 額や脇から冷たい汗がどんどん染み出していく。

 焦りは次第に強くなり、胸の鼓動が駆け回ったあとのように激しく脈打っていく。

 飢えた犬のように舌を放り出してあえぐ。

 血走った眼球だけが自由になるが、視界に入るのは薄暗い天井だけだった。

 蔵人は心の中で何度もポルディナを呼ぼうとしたが、喉はピクリとも震えず声を出すことはできない。標本箱にハリツケになった虫けらの気分だった。

 突如として、足元に強い寒気を感じた。冷気の渦が集積し、勢いを増していると感じた。かろうじて眼球だけを動かすと、その怖気を感じる大元はひとつに凝り固まって、次第に意味のある形をなした。

 白っぽいオーラの渦は、十二、三歳程度の少女の形を作ると、雲を踏むような軽やかな足どりで絨毯の上に降り立った。

 なんとまあ、こいつは。

 少女は艶然と微笑むと邪気のない瞳で蔵人を凝視した。

 背筋が凍るような研ぎ澄まされた美しさだった。

 透けるような雪のように白い肌。

 輝くような蜂蜜色の金髪は軽く波打ってふわふわと宙を漂っている。

 アーモンド型の大きな瞳は濡れたように黒く瞬いている。

 蔵人は小児性愛の傾向はなかったが、道を踏み外しそうなほど危うい儚さと蠱惑さが同居していた。

 少女は微笑みながらそっと指を蔵人の頬に伸ばしてきた。

 小さく華奢な指が無精ひげだらけの顔に触れる。

 冷たいひんやりとした心地に半ば陶然とした。

 無意識に全身がカッと熱く火照りだした。

 目の前が真っ赤に染まり、呼吸が自然と荒くなった。

 それを見た少女は、見るものを魅了するような妖しさで瞳の色を一段と濃くした。

(おいおい! 待て、一旦落ち着こう。俺は、こんなガキに欲情してんのかよっ!?)

 あきらかに人外のものである。

 正しくは霊体であろう。

 わかっていてこの有様だった。

 少女が無防備にかがむ。

 脊髄反射で網膜が追った。

 視覚情報が電気信号へと変換され、自然の摂理として股間が倫理上ヤバいことになる。

 少女の白い上着の隙間から見える小さな膨らみに、理性が弾けそうなほど激しく頭がクラクラした。

 蔵人の葛藤を読み取ったのか、少女の霊は、んふ、と声を上げた。

 脳内に直接響く甘美さと退廃した色気があった。

 少女は細く長い指を伸ばしてくる。

 ひやりとした感触に身体がブルリと震えた。

 途端に、身体に変調が訪れた。

(のおおおっ、なんだこれっ、なんだこれっ! やばいっ! 気持ちよすぎる!)

 少女の指は、あくまで蔵人の膝に触れているだけである。

 であっても、襲い来る快楽の波動は、いまだかつてない強烈なものだった。蔵人は熱いような冷たいような快感に支配され、次第に脳の奥がドロリと蕩けだしていく。

 ほとんど瞬間的に、脳天から尻の穴まで稲光が一気に貫くような錯覚が走った。

 鋭い浮遊感にも似た陶酔が波濤のように間断なく襲ってくる。

 限界を超えたダムが水を一気に放出するイメージが脳裏に明滅する。

 無意識に呼吸が止まった。

 全身の神経が爆発する。

 深い脱力感と共に、蔵人はすっと気を失い、意識が深くへと沈んでいった。






「ふーん。で、なんですか。きょうはアレですか。拙僧にクランド殿の性生活の充実さを自慢にこられたわけですか。んまあ、なんてイヤミなお方」

「んなわけねーだろ。どこをどう捉えたらそういうお話しになるんだよ」

 翌日、蔵人は少女霊に襲われたことを理由に、大聖堂のマルコの元へと苦情を持ちこんでいた。

 理由はもちろん購入住宅の値引きである。

 つまり、霊障が起きる事故物件を紹介した賠償として、不動産屋から多少なりとも払った銭を取り戻そうと大元のマルコへイチャモンをツケに来たのである。

「とんでもねー事故物件じゃねーか! おっさん、アンタにわかるか? 朝おきたら下半身丸出しで空室にひっくり返ったまま夢精状態だった男の気持ちが! ポルディナに本気で心配されたわ!」

「ぷっ、だっさ……」

 応接室でお盆を持ったまま背後に控えていたシスターコルドゥラがあからさまに罵倒の言葉を口にした。蔵人がにらみつけると、彼女は目を三角にして睨み返してくる。両者の空間に見えない火花が弾けた。

「んだよ、おい」

「べっつに。ただ、それだけ立派な身体して、オバケの一匹や二匹でオタオタしちゃって、ダッサイ男だな、と思っただけよ」

「な、なにおう!」

 コルドゥラは食いつきそうな目をするとお盆を高々と頭上に掲げて構えた。

 蔵人はシスターの目にちょっと怯えながらソファの位置を移動すると、憤懣やるかたない気持ちをマルコにぶつけた。

「おい、おっさん。おまえは教会のモンにどーいう教育しとるんだ、おう」

「あああ、もう。コルドゥラァ、そういう汚い言葉を使ってはいけませんといっつもいっているでしょうがぁああ」

「……申し訳ございません、司教さま」

 コルドゥラはいかにも納得がいかないといった雰囲気で頭を下げると、大股で部屋を退室していった。静謐と儀礼を重んじるシスターにあるまじき無作法さであった。

「わかりましたよ、クランド殿。これでも拙僧、結構責任感ある方ですから、この件に関してはきちんと対処します。あれですよね、要するにその購入物件に出没するゴーストさえ除霊出来ればいいんですよね。任せてください、ただいま善後策を協議してきますから、しばらくお待ちを」

 マルコは席を外すと応接室を出ていった。蔵人はソファに身体を深く沈みこませると、そっと目をつぶった。

「くああ、ねむっ」

 なんやかやと昨晩は結局のところ熟睡できなかった。

 辺りは物音ひとつせずに静かだった。礼拝堂から祈りの捧げる信徒の唱和と管楽器の調べが子守唄のように耳朶を打ち、脳をゆさぶっている。

 蔵人はいつしか深い眠りに落ちていたようだ。

 壁際の時計に目をやると時刻はすでに昼をとうに過ぎていた。

「んあああっ」

「ひっ」

 軽く伸びをするといつの間にかそばに立っていた女性が怯えた声を出した。

 視線を転じると、そこには清楚な感じのビクビク系シスター、イルゼがやや緊張した面持ちで小さな小瓶を胸の前に捧げ持っていた。

「ああ、イルゼちゃんか。なんか用? おっぱいもんでいい」

「い、いやですよっ。そ、それと私は司教さまの言伝とこれを渡すようにいわれただけで、あああっ。もおおっ、あなたがいるってわかっていれば、お断りしたものを」

「嘘はダメだぜ、イルゼちゃん。俺に渡したいものって、その小瓶かい?」

「ええ」

 蔵人はイルゼから液体の入った小瓶を受け取ると、手の中でゴロゴロ回転させてもてあそんだ。特別目だった部分はない透明な液体だった。

「これなあに?」

「聖水です」

「イルゼちゃんが、体内で精製した?」

「な――なっ」

 イルゼは顔を真っ赤にすると、口を金魚のようにパクパクと開閉した。

 彼女は小ぶりな胸をふるふると震わせると、激しい羞恥に耐え切れず顔を背けた。

 蔵人は野盗のようなふてぶてしい笑みを頬に刻むと、暗い愉悦にひたった。

「ねえねえ、イルゼちゃんはぁ、ちっちゃいのをするときはぁ、どんな格好でするのかなぁ? かがんでするのお? それても、立ったまましーしーするの? 教えて、早く!」

 蔵人はニタニタしながら粘っこい視線でイルゼの股間を凝視する。

 年季の入った変質者の目線だった。

「ふ、不埒な。ありえないです、こんなこと。落ち着くのよ、イルゼ。これも、神の試練よ。耐えるのです、私」

 イルゼは目を閉じて幾度か深呼吸をすると、完全に自我を取り戻した。そこにいるのは、年若い少女ではなく、ひとりの聖職者の姿があった。

 蔵人はなぜか強く興奮していた。

「司教さまの口上をお伝えします。“とりあえず今日はこれで我慢してね。追伸、今度ポルディナたんと拙僧とクランド殿三人で飲みに行こうね。途中で気を使って抜けてくれると、拙僧とっても助かるなあ”です」

「え、善後策ってこの聖水だけなの」

「です。それでは、私は癈兵員と孤児院の慰問がありますので、これで」

 ルイゼは軽く一礼すると部屋を出ていった。残されたのは、安っぽい聖水の入った小瓶と蔵人だけである。

「え、マジで。フォロー無しなん? ホントに?」

 マジだった。心底マジのようだった。

 扉の向こう側で様子をうかがっている気配もない。

 そもそも、そんな茶目っ気を見せ合うほど親密な間柄でもなかった。

 それ以上ソファに座り続けても、ついには誰も現れなくなった。蔵人は自分が思った以上に打ちのめされていることに気づき、半ば動揺した。

「……帰ろ」

 テーブルの菓子をすべて口の中に放りこむと、とりゃー、と菓子袋やグラスをそこいら中にわざと散乱させた。

 せめてもの意趣返しである。子供みたいな真似をしてほくそ笑んだ。

「半日待って対価がコレだけって、聖職っていうレベルじゃねえぞ、オイ!」

 応接室を出ると、長い廊下を進む。中庭を挟んで反対側に礼拝堂が見えた。

「ちょっと見ていこうかな」

 物見高い性格である。蔵人は脇扉を開けて中に入ると頭上のステンドグラスに目を細めた。広々としたエントランスホールには長机が段々に置かれており、ちょうど大学の講義室のようだった。

 聖壇のある一番前にひとりのシスターがしゃがみこんで懸命に祈りを捧げている姿があった。なんとなく興味を惹かれ、近寄っていく。遠目にはわからなかったがかなり体格の良い女性のようだった。

(おお、ずいぶんとおっきい姉ちゃんだなぁ。にしても、どこかで――)

 背後からの気配に気づいたのかシスターは立ち上がるとゆっくり振り向いた。

 蔵人と同程度の長身である。一目見て均整のとれた身体であると理解できた。

 紺色の修道服をムッチリとした巨大な乳房が苦しそうに押し上げている。

 女の緑色の瞳にはみるみるうちに涙が浮き上がり、頬を伝って流れた。

「……神よ、感謝します」

 垂れ目がちな瞳がふるふると盛り上がる涙の海に浮かんでいた。

 蔵人は息を呑むと、美貌のシスターにそろそろと手を伸ばした。

「おまえ、アルテミシア、か!?」

「あああっ、クランドぉおおっ!! クランドぉおおっ!!」

 蔵人が確認し終える前に、修道服をまとったアルテミシアは勢いよく真正面から抱きついてきた。後方へひっくり返るのをなんとか踏ん張って阻止する。

 感極まったのか、泣き叫ぶ獣のような声が礼拝堂の中を激しく反響した。

 蔵人は顔面を豊かな乳房に埋める形になり、声が出せなくなった。

「クランドっ、クランドっ!!」

 視界を奪われたまま両手をバタバタと振るった。

 命の危険を感じ、彼女の両腕に手をかける。

 だが、リミッタを振り切ったアルテミシアの豪腕がそれを遮った。

 正味、生命の危機を感じはじめた。

(ヤバい、おっぱいやらけぇけど……息が、息が出来ねえ!! ……胸で窒息って……それは、それでアリかも……いやいやいや! ないない。ないからっ!)

「ずっと探したんだっ、おまえのことっ、くううっ、それでもっ、ぜんっぜん見つからなくてっ、私はっ、なんども死のうとしたけどっ、それでも諦めきれなくてっ、だからっ、ひぐっ、尼にっ! くううっ、嘘つきっ、嘘つきっ、生きてっ、いたならっ、どうしてっ今日まで会いに来てくれなかったんだああっ!!」

 微妙にバランスを崩した態勢で力を上手くこめることができない。アルテミシアの両肩を押そうと試みるが、泣き喚きながら満身の力をこめる膂力には太刀打ちできなかった。

 脳から酸素が欠乏しだし、だんだんと思考能力が低下していく。

 蔵人はみじめったらしく、あえいだ。

「ぶでっ、はだじでぐでぇっ……んふぐっ……あぶでみじあ、だずげ……や゛め゛て゛く゛て゛ぇ゛え゛え゛え゛え゛っ!!」

 ぎゅうぎゅう締めつけられるうちに、だんだん気持ちよくなってきた。

 意識が頭の天井からすぅーっと抜けていくような感じがした。

 あかん、もう……ダメかも……。

 蔵人が昇天しかけた途端、胸元から解放された。

 激しく咳きこんでいると、顔をクシャクシャにしたアルテミシアが心配そうにジッと覗き込んできた。

「どうしたのだっ、まさかっ、まだ身体の傷がよくないのかっ! なんでもいってくれ! 私はおまえのためならなんだって、なんだってするぞっ!」

 ぜんぶ、おまえのせいだよ。

 だが、いまの理性を失いかけている彼女にそんなことを伝えれば状況はさらに悪化するだろう。己の自制心を掘り起こし、目の前の事象に対峙せよ。大きく深呼吸し、とりあえず考えをまとめよう。そのためには時間が必要だ。

「ちょっ、まあ落ち着けって。一旦落ち着こうぜ、アルテミシア。んむっ」

「んんんっ、んちゅっ」

 もはや完全に生来の道徳観念を放棄したアルテミシアは一方的に蔵人の唇へ吸いついてきた。

(ダメェ、アルテミシアさんんっ、ここ公共の場なのおっ!)

 ここまでされて為すがままの男ではない。

 さらに、さきほど命の危機を軽く感じたのか、股間の孝行息子は臨戦態勢を整えていた。

 ならば、やることはただひとつ。

 このハーレムマスターに喰い残しは許されない!

 蔵人は、彼女の豊満な腰をぐいと引き寄せた。

 潤んだ瞳が情欲の炎で燃え滾っている。

 運命的な再会。神秘的なシチュエーション。

 カタに嵌める舞台は揃っている。

 さあ、用意された美肉を貪ろうではないか。

 蔵人は、片手で彼女の小さい頭を押さえてねっとりとしたキスをはじめた。

 アルテミシアを祭壇に押しつけるようにすると、ふたりの影は頭上から降りそそぐ陽光の中でひとつになるのであった。






「あぁ、えがったぁ」

 蔵人が余韻に浸っていると、身支度を整えたアルテミシアが甘えるような仕草で身体を寄せてきた。

「どうしてすぐに会いに来てくれなかったんだ、ばか」

「いや、他意はなかったんだ。いろいろ俺も忙しかったんでな」

「ばか。でも、こうして会いに来てくれたから、ゆるす」

 身支度を終えたアルテミシアは蔵人に寄り添って離れようとしなかった。

 聖壇の一番前の長椅子に隣り合って座るふたりを、礼拝に来た老婦人があからさまな好奇心をあらわにして眺めている。かなり、居心地が悪かった。蔵人はアルテミシアの肩を抱いたまま、頭上のステンドグラスを見つめていた。そろそろ夕日が傾く時間である。いつまでもこうしているわけにはいかなかった。

「しかし、本当に尼になるとは」

「私の言を冗談だと思っていたのか? これでも、その、私はかなり一途なんだ。おまえの遺体は結局見つからなかったけど、たぶん、もう……。そう思ったから、余生はおまえの冥福を祈ろうと思って、こうして修道院に。でも、本当に良かった。あなたが、生きていてくれて」

「おい、泣くな。おまえが泣くとよ、俺はどうしていいかわからなくなっちまう」

「すまない。でも、良かった。あのとき自決せずにいて」

 アルテミシアは目元を手の甲でぬぐった。

 蔵人を見上げる視線には深い愛情と安堵が満ちていた。

「んっ」

 蔵人は顔を寄せて彼女の涙を舐め取るともういちど深く、くちづけをかわした。

 桜色の唇から顔を離す。ふにゃとしたやわらかい顔つきのアルテミシアがくすぐったそうに目を細めた。

「それで、これからも修道院で暮らすのか」

「いいや。それでな、クランド。おまえはこれからも冒険者として生きるのだろう」

「ああ、そのつもりだ」

「なら、私をおまえのクランに入れて欲しい。できるならば、この先の人生はすべておまえに捧げたいのだ。許してくれないか?」

 最期の言葉は彼女にしては自信なさげに言葉が震えていた。

 飼い犬が主に向かって、これでいいの? と訊ねるように不安と恐れに満ち溢れた弱々しい所作だった。

「ああ、こちらからも頼む。アルテミシア、おまえの力を俺に貸してくれ」

 アルテミシアの表情が、パッと華が咲き乱れたように可憐にほころんだ。

 蔵人は、向かい合って彼女を強く抱きしめる。

 それから、今度はアルテミシアがたじろぐほど情熱的なキスを強く、激しくかわした。






「うーん」

 蔵人は姫屋敷の私室で完全装備のまま寝台に腰掛けていた。

 アルテミシアは熱烈なキスが終わったあと、当然のようにこれからのふたりの人生設計を語りだした。あのままあの場所に留まれば、即座にマルコを呼ばれて式を挙げかねない勢いだったので、なんとか理由をつけて逃げ出してきたのだ。

 だが、マルコにはこの屋敷の場所を知られている。

 いずれ、彼女が押しかけてくるのは明白な事実であった。

「うーん。ちょい、早まったかなぁ」

「どうされましたか、ご主人さま。さきほどから、深く考えこまれて」

 脇の文机に腰掛けて編み物をしていたポルディナが心配そうな顔つきで近寄ってくる。

 彼女のしっぽは、ペタンと下に垂れ下がり、不安だよお、といっているようだった。

「ああ、ちょっと別口でな。しかし、どうすっかなぁ。幽霊ちゃんも」

 依然、屋敷の地縛霊騒ぎは解決していなかった。

 一日を費やして手に入れたのは、効果があるのかどうかわからない聖水一本のみである。

 蔵人としては、昨晩の美少女幽霊の謎テクは極上だったので、特に恐れる気持ちは時間が経つにつれて薄れていた。

 だが、忠実なわんこメイドの怒りはとうてい収まりがつかないという様子で、むしろ夜が近づくにつれ彼女の怒りはますます高まっているようだった。

「不肖、この私がいる限り雑霊ごときには指一本触れさせません。ご安心を」

 ポルディナはメイド服姿のまま、すりこぎ棒を構えるとかわいらしいガッツポーズを作った。

 ああ、なんか和むなァ、ポル子見てると。

 彼女のふさふさしっぽは、ピンと背中の方に折り曲げられて立っており、やるよう! やっちゃうよう! という風に勢いづいていた。

「確か、ここは元々が貴族のお嬢さまが静養なさっていた場所なんだよな。まあ、詳しい内容を探っている時間もなかったし、一晩中こうして明かりをつけて起きてりゃなんとかなるだろ。たぶん。明日は、朝一で教会に強襲を」

 かけよう、と続けようとしたところで、部屋に配置していたランタンの明かりが一瞬ですべて消えた。

 同時に、全身の精気が吸い取られたように身体から力が消え失せた。

(やばいっ、これじゃあ、昨日と同じパターンじゃねえかよっ!!)






「ご主人さまっ、ご主人さまっ!?」

 蔵人は脱力すると前のめりに寝台から転げ落ちて、毛足の長い絨毯に顔から突っ込んだ。

 焦ったポルディナの声が間遠に聞こえる。全身がしびれて舌が鉛のように重くなった。

 どこからか、生臭い風が吹き付けてくる。窓も扉もすべて閉めてあるはずだ。

 まさしく怪奇現象だった。蔵人に駆け寄ろうとしていたポルディナが足を止めて振り返るのが見える。室内の中央部に、ぼやっとした白い霧状の物体が突如として出現した。

「貴様っ!!」

 いつもの冷静な口調からは想像もつかないほどの猛った声音が、ポルディナからほとばしった。

 冷気の渦は次第に幼い少女を形どった。

 それはひとつに凝り固まって、現世に降りたつと薄く笑った。

 ポルディナはスカートを翩翻と翻して走り出した。

 一撃でオークを撃殺する破壊力のある拳が空を切って走った。

「な――!?」

 だが、少女は霊体である。

 ポルディナは実体のない影を通り抜けると、入口の扉側に片足をかけ踏みとどまった。重たい特製の木材が衝撃で鋭く軋んだ。

 目の前では大恩ある主がまさに身の危険にさらされている。

 ポルディナの頭の中は一瞬で怒りの獄炎に埋め尽くされた。

 だが、素手ではあの邪霊にダメージを与えることができない。

 蔵人は金縛りにあったようで、うつ伏せに転がったまま身動き一つ取れない。

 考えなさい、ポルディナ。いま、あなたが成すべきことを。

 主の瞳がピクピクと文机の上の小瓶へと向けられているのを、戦狼族(ウェアウルフ)の驚異的な眼力が読み取った。

 ――そうだ、聖水があった。

 ポルディナは両足に力を貯めて、爆発させるように跳躍した。

 少女霊が、一瞬ひるんだように見えた。

 刹那の動きで瓶の蓋を手刀で割り取る。手にしたすりこぎ棒にかけまわした。

 蔵人に覆いかぶさろうとしていた少女霊が身をよじって振り向いた。

 ポルディナは聖水で清められた八十センチほどの手首の太さがあるすりこぎ棒を全力で振り下ろした。

「みぎっ!?」

 確かな手応え。少女は後頭部を殴りつけられると、壁際まで転がっていった。

 ポルディナの狩猟本能が蘇る。獲物を逃がさなためには、まず逃げ足を封じる。

「ちょっ、待って! ねえ、あなたっ、待ってって! ねえ、聞い――」

 無言ですりこぎ棒を細く白い足首に叩きこむ。不可視の存在は、畜生のような悲鳴を上げて動きを止めた。

「いだっ、ちょっ! 別に、あたし、悪霊とかじゃなくてぇええっ! 昔は、この屋敷に住んでたのおおっ! お嬢さまって呼ばれててぇえ。えへ、えへへ。でも、このお屋敷中々売れなくてぇ。だから、だからっ、決めてたの。このお屋敷に誰か引っ越してきたら、いっしょに遊ぼうと思って! ほら、あたし、生前、若い男の人って見たことなかったからあああっ、つい、悪戯心が芽生えちゃってぇええっ! へぐっ!?」

「黙れ、淫売が」

 ポルディナは無表情ですりこぎ棒を少女霊の顔面に叩き込んだ。

 少女の整った顔は、鼻がへし折れて赤黒い液体が飛び散った。

 霊体にも確実にダメージを与える神聖付与効果のある、“特殊聖水”である。

 マルコが蔵人に渡したモノは、そんじょそこらのものとはワケが違った。

「いだああっ! じぬううっ、ほんどおっ、死んじゃううううっ!! やべっ、やべでええっ! あだじが、なぢをじだっていうのおおっ!!」

「おまえは私の主を穢した。不埒極まる所業だ。万死に値する」

 木棒は間断なく少女霊の顔面に幾度も叩き込まれた。

 最初は悲鳴を上げていた彼女の顔は、やがては暴風雨のように撃ち出される連撃によって泥粘土状のグズグズした流動物質に変化していった。

 ポルディナは瞳をまったく動かさず、もはや微動だにしない少女霊の残滓に打擲を延々と続けた。

 やがてミンチ状にされた少女霊だったものは、朝焼けが差しこむと、まるで最初からなかったように消え去った。

 ポルディナの完全勝利である。






「ご主人さまっ!」

 蔵人は朝焼けと共に意識を取り戻した。辺りをゆっくりと見回す。

 別段、普段と変わらない状態だった。

「そうだっ、昨日の幽霊はどうなった! ポルディナっ、だいじょうぶかよっ!!」

 蔵人は目の前で女の子座りをしているメイドの肩をとらえてガンガン揺すった。

 ポルディナは、一瞬目を丸くすると、それから真っ黒な瞳に慈愛をたたえて、聖母のようにやさしく微笑んだ。

「だいじょうぶです。ご主人さまには、私がついておりますから」

 咄嗟に彼女が背中に隠したすりこぎ棒は、赤黒いなにかが乾いてこびりついていたのだった。







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