Lv60「やっぱり猫がキライ」
人生にはモテ期というものが存在するらしい。
すなわちやることなすことすべてが成功して、無意味に女にモテまくる確変期のことを人々はそのように総称して呼んだ。
さもあらん。彼女の家に行くと告げた途端、メリアンデールは顔をパッと輝かせて喜びをあらわにしたのだった。
現在、蔵人は彼女の繰り出すちょっと多すぎじゃね? と首をかしげそうなほどの大量の手料理を残らず腹に収めてソファにひっくりかえっていた。
「あー、さすがにおなかパンパン」
蔵人は鼻歌混じりで食器を炊事場に運ぶメリアンデールの丸い尻を眺めながら期待に胸を膨らませた。思い返せば、声をかけてきたのも一方的に好意を寄せてきたのも彼女が初めての存在だった。
蔵人のしたことといえば、激弱ゴーレムを池に誘導したり、彼女につきあいチョロっとダンジョンに潜って雑魚モンスターをしばき倒したりしたくらいである。
(そもそも自分の家にこうも簡単に招き入れるってことは、あいつも俺に好意を抱いている、いや抱かれたがってるってことで間違いなよな。うっひゃー! 今夜は朝までぬっこぬこフェスティバルだぜ!)
先日は妙に気取ってしまったが、ここまでいい雰囲気の状態で彼女に手を出さないのはむしろ失礼に当たるであろう。
蔵人は勝手に自己完結すると、妙にそわそわしながら手櫛で髪をなでつけたりして挙動不審になった。
「クランド、ちょっといいかなー」
「ああ、いつでもいいぜ」
蔵人は舘ひろしばりに渋い表情でキメ顔を作る。紅茶をトレイに載せて入ってきたメリアンデールが顔を引きつらせた。
「どうしたの。食べ過ぎておなかいたいのかな?」
「ふ、そんなことは心配ご無用。それより、君もゆっくり椅子にかけなんし」
「変なのー。それよりよくぜーんぶ食べられたね。私、ぜったい残すと思ったんだけどな」
「紳士はレディの手料理を残したりはしない」
「なんですかそれー。もお、おかしいなぁ」
メリアンデールはケタケタ笑いながらソファの隣に腰掛けると茶の用意をはじめた。
とぽとぽという音といっしょに紅茶のかぐわしい匂いが辺りに満ちた。
ポット傾ける際に彼女の白いうなじが目に入りドキリとする。
蔵人は鼻息をやや荒くするとカッと目を大きく開いた。
マズイ。早まるな、我が息子よ。いまはその時ではない。
無意識にアレが半勃ち状態になる。モノには順序というものがあるのだ。
いきなり鎌首をもたげた大砲を見れば清純なメリアンデールが怯えてしまう。
アレおっきっき→ヤダ、このひとケダモノ→ところでこの名剣どう思う?→私そんなつもりじゃないのにっ、帰って! 今日は帰って→イチャイチャできずに悶死
この破滅の方程式だけは避けなければならない。
蔵人は腰をクッと後ろに引くと外套の前を合わせた。
蔵人の所作に不信を覚えたのかメリアンデールが眉を八の字にして唇を尖らせる。
「ちょっと、暑いんだから家の中では外套脱いだらどうなんですかー」
「やだ、この子ってばいきなり脱げだなんてぇ、メリーのえっち」
「なななな、そんなこといってませんよ。クランドのばかぁ」
メリアンデールは肩を打つ真似をしながら怒ってみせる。
言葉とはうらはらに顔はゆるみきっていた。
「フヒヒ、ばかぁいただきました」
蔵人はアホヅラを晒しながら彼女の肩を図々しく抱き寄せる。
「あ、ダメですよ。お茶がこぼれちゃう」
「よいではないか、よいではないか」
「なんですかぁ、そのしゃべり方。おかしな、クランド」
「俺の国では王にのみ許されたしゃべり方なのだ。ちなみに、このあと腰元は高確率でお手つきになる」
「ダーメ、いたずらしちゃ」
メリアンデールはそろそろと伸ばした手のひらをペッと軽く叩くが本気で拒否している様子ではなかった。
目元は朱を刷いたように色づき長いまつげは細かく震えていた。
勝機を見過ごす蔵人ではない。
「メリー」
「だめ、だめったらぁ……ん」
蔵人はメリアンデールの手をとると一気に引き寄せて唇を奪おうとのしかかった。
彼女は形ばかりに拒もうと蔵人の胸に片手を当てて押し返すそぶりを見せた。
さらに強く力を込めて肩に手を回して顔を近づけた。
メリアンデールがそっと目を閉じる。
蔵人の頭の中がカッと熱くなった。
ギィっとソファが重みで軋んだ。
甘ったるい体臭を吸いこみ目の前がチカチカした。
(一気にいく、一気にいく、一気にいくぞ! とりゃーっ!!)
悲劇はその瞬間起こった。
「郵便でーす!」
「んなっ!?」
「え……」
玄関口から子供のような甲高い声が聞こえてきた。
不意を突かれて両者の緊張が真っ二つに両断される。
メリアンデールは何かに気づいたようにはっと我に返ると耳元まで真っ赤になると、素早い動きでソファにのはしへ移動した。対照的に蔵人の顔は紙のように真っ白になった。
んだよおおおっ、ちくしょおおっ! 空気の読めないやつだなあっ、おい!!
「あ、あはははは! いまの、いまのなしです! なしですよ、クランド!」
メリアンデールは狼狽しきった様子でほつれた髪を撫でつけると、スリッパをパタパタさせながら玄関口へ駆けていった。
「あ、ちょっと待ってくれよおおっ、ちゅー! ちゅーはっ!」
んだよおおおっ、お預けかよっ、クソっ。
蔵人は口をへの字にしながらあとを追った。玄関に出るとそこには二本の足で立つ黒猫が小包を渡しているところだった。
「ここにサインをお願いですニャ」
緑色のマントを羽織って芥子色のブーツを履いたケット・シーと呼ばれる獣人は、メリアンデールから受取書にサインをもらうと、そそくさと表に停めてある荷馬車に戻っていった。
急速に現実からファンタジックな世界に引き戻され蔵人は言葉を失った。
「猫でニャの語尾はあざとすぎるだろ」
放心状態の男を放って置いてメリアンデールは荷物の封を素早く解いていた。
「やたっ。注文していた鉱石セットです!」
「ああん? なんだそれ」
蔵人が後ろから覗き込む。小箱は縦横に細かく区切られ、ひとつひとつに様々な色の石が詰めこまれていた。
「これだけ種類があれば、いままで以上に研究がはかどるんですよ! ずーっと待ってたんです。入荷するのを!」
「あ、ああ。そう」
メリアンデールはスキップしそうな勢いで実験室に戻ると、まるで宝石を見るような目でひとつひとつの石ころを舐めるように見つめた。いまにも頬ずりしそうな勢いである。
(こりゃあ、もうイチャイチャする空気じゃねえな。恨むぜ、タイミングという無慈悲な神を。もう、おまえを信じたりしない)
蔵人は役目を終えた夏の終わりのようなセミのように、椅子に座ってピクリともしなくなった。
メリアンデールはすでに自分の世界に完全没入しているのか、先ほどのふわふわ感の欠片もなく躍起になって乳鉢やビーカーなどの器具の前でふーふーうなっている。
これ以上ここに居ても益はない。
そうなると頭の中を占めるのは他の女のことばかりだった。
「なあ、ちょっと出かけてきていいか」
「え、出かける。なんで?」
メリアンデールはきょとんとした顔でいった。蔵人が自分からはなれるなどとはありえないと決定づけているのだ。
「いや、色々忙しいんだろ。研究とかでさ。なら、ちょっと顔を出しておきたい場所があるんでよ」
「え、うそ。ちょっと、やだ」
メリアンデールは突如として声を震わせると、持っていた鉱石を放り投げて蔵人につかみかかる。先ほどまでの様子とは打って変わり、薄く青ざめてさえいた。
「ごめんなさい、研究なんかしないから。やだよお、行かなでいよ、クランド」
ひとりなることを恐れきっているのだった。
泣きそうに顔を歪めた少女を見て、一瞬考えこむが蔵人の気持ちは変わらなかった。
「ちょっとだけだって。そうだよ、その一時間くらい。そのくらいならひとりでも大丈夫だろう。なっ」
「やめなよぉ、お外は暗いよ。明日にしなよぉ、ここにいなよぉ」
「平気だって。ほんの少しだけだから」
「クランドがいないと怖いよ、私。また変な人来るかも、だし」
「さっきは気にせず出て行ったじゃねえか」
「クランドがいたからだもん」
メリアンデールは子どものようにぷうっと頬を膨らませると拗ねてみせた。
結局のところアトリエを出る許可を得るのに小一時間ほど費やした。
蔵人がまず最初に向かったのは銀馬車亭だった。手元には戦利品である十万二千五百Pがある。思えばレイシーには世話になりっぱなしだった。
(まあ、ヒルダとはんぶんこが妥当だな。差をつけりゃ恨むだろうよ、女ってやつは)
ならば、冒険者としてダンジョンに潜り稼いだ金を渡して少しでも恩義に報いたかった。郊外のアトリエをはなれてリースフィールド街に近づくにつれ活気は増していった。もはや見慣れた馬車を形どった看板の下をくぐると店内はむっとした熱気に包まれていた。
「おう、クランドじゃねえか」
「とっくにおっ死んだと思ってたぜ」
「大将のお出ましかァ。今夜はレイシーも寝かしてもらえねえなぁ!」
すでに酒精がまわりきった酔漢たちは肩をバシバシ叩きながら気勢を上げていた。
「クランド!」
蔵人の姿を認めたレイシーは、大きく胸元を開けた黒のドレスをひるがえすと真正面から蔵人の胸に飛び込んできた。
脂粉と甘ったるい体臭が混ざった匂いを吸いこみながら強く抱き止める。
弾力のある双丘がぎゅうぎゅうとダイレクトに押しつけられ、軽い目眩のような錯覚を覚えた。
「もう。勝手に家を空けちゃだめでしょ、ね」
「悪いな、さみしかったか」
「さみしいに決まってるよ、ばか」
レイシーが化粧を崩れるのも厭わず顔を猫のようにすり寄せてくる。周囲の酔っぱらいから怒号のような野次と酒瓶が飛びかった。
蔵人がたまらず視線をそむけると、視界のはしに修道服が垣間見えた。カウンターの一番はしの席。そこには、ジョッキを握ったまま突っ伏している小柄なシスターの姿があった。
「おい、なんだあれ」
「ヒルダよ。あの子ったらあなたが帰ってこないのがよっぽど気に入らなかったのか、浴びるように飲みはじめて」
蔵人はそろそろとヒルダの背後にまわると様子をうかがった。ツマミの入った皿に顔面を突っこんでいる。婦女子にあるまじき所業だった。
そっと覗きこむと、泣き疲れて寝入ったのか目元から頬にかけてうっすらと白い跡が見えた。さすがに胸が痛んだ。
蔵人はヒルダの身体をお姫様だっこで抱えあげて二階に運ぶと大部屋の寝台に寝かせた。猛烈に酒臭かった。
「ごめんね、あの子私がやさしくするとすごく暴れるのよ」
「甘えてるんだよ、おまえに」
「でも、ヒルダの気持ちわかるの。クランド、やっぱり帰ってこなかったし」
「それをいわれると、つらいな。ああ、そういえば、ホラ」
「これって……」
蔵人はレイシーの手に銀貨のみっしり詰まった革袋を握らせた。
レイシーは、ひもをほどくと寝台の上に中身をあけて顔を引きつらせた。
「クランドぉお、なんでこんなことを。お金ならいくらだってあげたのに」
「おいおいおい、勘違いしてるみたいだからあらかじめいっておくが、特に後暗いことはしていない」
「え。だって、こんな大金。どうやって」
「ダンジョンだよ、ダンジョン。額に汗水流して手に入れたもんだ。ま、好きに使ってくれい」
蔵人はちょっと得意げに腰に手を回すと顔をそらした。
どうだ、このくらいの甲斐性は俺にだってあるんだよん。
もうお前の知ってる素寒貧はどこにもおらんのだ!
――やだっ、カッコイイよクランド! 抱いて!!
目を閉じながらレイシーが述べるであろう賛辞の言葉を夢想し、両手を広げる。
このままレイシーと熱い抱擁をかわして情熱の赴くままパコろうではないか、と鼻の穴を広げる。
だが、いつまで経っても彼女は飛び込んでこないことに気づいて不審に思い、そっと薄目を開けた。
「んげっ!?」
レイシーは蔵人に抱きつくどころか、その場に力なく座りこんで無言のままはらはらと滂沱の涙を流していた。キラキラと光った瞳が哀しそうに蔵人を見つめている。そっと手を伸ばすと、レイシーは身体をびくんと震わせまぶたを閉じた。
「やだぁ……捨てられるのやだぁ……」
「はあああっ!?」
レイシーは両手で顔を覆うと幼児のようにいやいやをした。ヒックヒックとしゃくりあげている。蔵人は自分が目をつぶった数秒間の間にレイプ魔が現れ刹那の速さで強姦したのだろうかと思わず周囲を見回してしまった。
「ちょっと待ってくれ。なんだよ、捨てるとか捨てないとか」
「だってぇ……これって……手切れ金でしょおおおっ! あたしのことやっぱり飽きたんだあああっ」
「だから、なーんでそういう話になるんだっ!」
「だってぇ、ヒルダのことは抱いたのにぃ、……あたしのことはかわいがってくれないんだもおん」
(ギクッ、バレテーラ。つーか、あれは逆レイプなのではと主張したい)
「でええっ、だから違うっての! これは手切れ金じゃなくて、純粋に俺の気持ちなんだってば!」
「じゃあ、証明してよお」
「証明って……」
「言葉じゃやだよおお」
「ったく、とんでもない甘ったれだな」
蔵人はレイシーの泣き顔を傾けると荒々しい動きで唇を奪った。
レイシーの顔から両手をはなすと、名残惜しそうな瞳を絡みつかせてきた。
蔵人は彼女を寝台の上に押し倒すと真っ直ぐ瞳を合わせた。
「俺がおまえを捨てるわけねえだろ。本当なら、毎日だってかわいがってやりてえんだがよ。もうちょっとだけ待ってくれ。な。いまにドカンと大きく稼いで、この店も新しくしてやるからな」
「ううん。そんなのどうでもいい。あたしはこうして毎日抱きしめてくれればそれでいいから。だから、危ないことしないで、ね」
「ああ、わかった。だからもう泣かないでくれよ」
「うん。クランドがいうなら、あたし泣かない。我慢するよう」
蔵人は力を込めてレイシーを抱きしめると、野獣のように襲いかかった。
愛をかわしあったあと。
レイシーはうっとりしながら甘えてキスをせがむ。
蔵人は、まだ息を荒げる彼女の唇を奪うと、熱い舌をたっぷり吸った。
「んんっ、ヤダぁ、まだキスするのお……」
「ちょっ、もう、仕方がねえなあぁ」
寝台に転がるとレイシーが火照った身体をすり寄せてくる。
彼女の砂色の髪をゆっくり撫でながら、今度は小鳥のようなキスを繰り返す。
両手で強く抱きしめ、耳元を軽く噛むと、レイシーはくふふと甘え声を漏らした。
蔵人は後戯を充分に行ったのち(※かなり重要である)レイシーから離れると水差しからぬるんだ水をコップに注いで一息に空けた。
寝台に腰掛けながらレイシーが身支度を整えるのをぼおっと眺める。
ふと、隣の寝台で未だ白河夜船のヒルダに気づき、はじめて焦った。
恐る恐る近づくと顔を覗きこむ。
あれだけそばでデカイ声を出しても気づかないのか、彼女はまるで天使のような寝顔ですうすうと安らかな寝息を立てていた。
「マジかよ。ちょい、飲みすぎだろう。おまえさんは。うるさくして悪かったかねー」
視線を感じて振り返ると、レイシーが決まり悪げな表情で髪をとかしている。目が合うと気づかなかったように手鏡を出して化粧を直しはじめた。
(いやぁ、開き直ると女は強いねー。さて、と)
「うふふう……クリャンドひゃあぁんん……しょんんなあっ……おいてゃはダメれすよううう……」
「楽しそうにわけのわからん寝言をつぶやきやがって。この酔っぱらいが。……そんな君にはこれをあげよう」
蔵人は昼間ギルドの売店で買ったバッジをヒルダの胸元に付けると、頭をぽんぽんと撫でた。ヒルダの顔がかすかにゆるんだ気がした。
当然、マークは虎である。
「元気な大虎に育つことを祈って、と」
蔵人は分けておいた銀貨の詰まった革袋をとりだすと彼女の袖の中にこっそり入れておいた。ちょっとした感謝の気持ちであった。
「ねえ、なになにー。なにしてるのー」
目ざといレイシーが覗きこんでいる。彼女は寝こけているヒルダの胸にあるデフォルメされた虎が刻まれたバッジを見ると、唇を不満げにへの字に曲げた。
「あー、いいなあ、ヒルダばっかりー。ずるいんだー、ずるー。ねえ……」
レイシーが悲しそうな瞳で上目遣いに見上げてくる。
物欲しげに袖を引くさまは、まだ幼さの垣間見える年相応のものだった。
「当然、そんなあなたにもプレゼントでございます」
「わ! やった、やったあ! あ、ねえ、ねね? なにこれ、なにこれ? あたしのなにかなぁ? これどこで買ったの?」
「獅子のように勇気を持って前進してくれ、ということでレイシーのはライオンさんです」
「あはは、やった、やったあ! う、うれしいなあ」
「お、おい」
レイシーは子供のようにバッジを受けとってはしゃぐとドレスの胸元に付けた。
それから、感極まったのか大粒の涙をボロボロ流してしゃくりあげる。
蔵人はあたふた狼狽しながら彼女の手をとると懸命にさすりだした。
「えへへ。ごめんね、驚かせちゃって。でも、あたしうれしいんだよう。クランドから贈り物をもらったのってはじめてだから」
「……ごめんな、こんなチャチぃもんで。俺って気が利かなくって。やっぱ、宝石とかじゃなきゃダメだよな。俺ってやつは、まったく」
「ううん。あたしはこれで充分だよ。さっきだって、いきなり泣き出しちゃってごめんね。でもね、このバッジで充分うれしいよ。考えれば、あのお金だってクランドがダンジョンで必死になって稼いできてくれたお金だもんね」
「お、おう、そうだよ、俺、自分なりに結構頑張ったんだ。だからさ、いつもたくさん世話になってるレイシーに少しでも渡したくて」
レイシーは泣き笑いの表情で胸元に頬を寄せるとキラキラとした瞳で顔を上げた。
「そうだよ、クランドはクランドでいっつも頑張ってるんだもん。あたし、いつも自分のことばっかで、クランドの一生懸命な気持ちわかろうともしなかった。だから、さ。こんなメンドくさい女だけど、できればこれからもかわいがってくれるとうれしいです」
「レイシー」
蔵人は出来るだけ誠意あふれる表情を作りながら、陰嚢がきゅうっと縮み上がるのを感じていた。
とりあえず一発やったことで聖人モードになった蔵人はかなりゆったりとした足どりでポルディナの待つアパートへ向かって歩いていた。
人通りの多い繁華街を通り抜けると、徐々に明かりの少ない区域に入っていく。
街灯など皆無である。
裕福な家庭を除けばほとんどの人々は就寝している。
月と星のわずかな光だけが頼りだった。
「……んで、そろそろ姿を現しちゃどうなんだい。変態ストーカーくん?」
蔵人は小道の曲がり角に来ると背後に向かって語りかけた。しんとしてしわぶきひとつない静寂さだ。応ずる声はなかった。
「おいいいっ! このままじゃ、俺は重度の中二病患者じゃねえか! そこにいるんだろぉ、なあ! 頼むから俺の一人芝居にさせないでくれええっ!!」
叫びと共に後方の石畳の一角が徐々にせり上がってきた。
闇の中へとじっと目を凝らすと、その影はみるみるうちに二メートルほどの大きさに膨れ上がった。濃い土の臭いが鼻先に漂う。
蔵人は外套を跳ね上げると、聖剣黒獅子を引き抜いて構えた。
黒獅子の刀身はわずかな月明かりを反射して妖しい輝きを放っている。
影の塊は徐々に状態を固着させると泥で出来た大きな一匹の狗に変化した。
「そうそう。そういう感じでわかりやすく来てくれりゃあこっちも気を使わずにすんだのによう。……事務所を出たところから気配には気づいてたんだ。いいかげん親玉の方が顔を見せてくれてもいいんじゃねえか?」
土のモンスター、クレイ・ドッグが口を利くはずもなくジリジリと距離を狭めてくる。
吹き付けてくる純然たる殺意を前に蔵人は乾いたくちびるを舌でゆっくりと湿した。
「まあ、だんまりだろうな。大して期待しちゃあいなかったが。どうせおまえみたいな臆病者は陰に隠れてコソコソ動く程度のことしできねえと相場は決まってらあ。こいつを片づけたら、さっさとメリーの元へ帰らせてもらうぜ。おまえが指くわえて見てるあいだに俺のモノでメリーをたっぷりとかわいがってやらあ」
突如として殺気が一段と膨れ上がった。
クレイ・ドッグは足音ひとつ立てずに駆け出すと虚空を舞って蔵人に襲いかかった。
待ち構えていた蔵人に隙はなかった。
長剣が鏡のようにきらめくと銀線がサッと流れた。
土を砕く乾いた音と共にクレイ・ドッグは前脚を両断され、着地点でガクッと崩れ落ちた。
「どうだっ!」
蔵人の声とほぼ同時に石畳に着地したクレイ・ドッグはつんのめるようにして石畳を舐めた。驚くべきはここからだった。
猟犬の破壊された前脚は、まるで動画の巻き戻しを見るようにあっという間に再生すると、再び向き直った。
「また、このパターンかよ! 弱っちいくせに、再生力だけはプラナリア並だなっ!」
攻勢に出たのは蔵人だった。黒外套がコウモリのように大きく翻った。
閃光が垂直に流れた。
再び飛び上がったクレイ・ドッグと身体が交錯する。
蔵人の長剣はしたたかに猟犬の真芯を撃った。
「おおおおっ!!」
怒号が炸裂すると同時にクレイ・ドッグの顔面から尾の先までに銀線が走った。
石畳をブーツの先でこすりながら着地すると、核を砕かれたクレイ・ドッグは真正面から両断されたまま地面にどうっと落ちて、全身を四散させた。
崩れた泥のモンスターの身体があっという間に乾いた砂となって流れ落ちる。
「また、逃げられたか」
蔵人は額の冷たくなった汗を手の甲で拭うと、砂塵と化したクレイ・ドッグの塊を思うさま蹴飛ばすのだった。




