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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
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Lv6「勿忘草は散った」





「カマロヴィチの野郎! ここから出たら、はらわた抉り出して、ケツの穴に押し込んでやる! チンポコ千切り取って、口の穴に糞ごと食わせて、針金で唇を縫い合わせてやるううっ!」

 古泉の形相はほとんど原型をとどめないほどに怒りで赤黒く変色していた。

 目玉は剥き出したまま浮き上がっている。

 血管の束が白目を覆い尽くさんばかりに増殖していた。

 古泉は、火で炙られ強度の落ちた格子を絶叫しながら素足で幾度も蹴りつけている。

 巨人が大樹を蹴りつけるような轟音が、全員の耳を聾する。

 もはや、それは人間の力を凌駕していた。

 めりめりと音を立て、丈夫そうな材木が軋んだ音を立てた。

「マジかよ、ジイさん人間ワザじゃねぇ」

 ゴロンゾが古泉の剣幕にたじろぎ身を引くと、めりめりと音を立てて格子が廊下へと前倒しになった。

「こらっ、クソったれ囚人どもがーっ、なにをやっとるか!」

「いますぐ処刑されたいのか! 歯クソどもっ」

 騒ぎを聞きつけたのか、槍や刺股、こんぼうを手にした屈強な男たちが十人ほど殺到してくる。丸腰の囚人一同たちに緊張が走った。

「やべぇ、俺ら素手だぞ」

「いや、問題ないでしょう。彼の力ならイケます」

「んな無責任な」

 ヤルミルが冷静に牢番の群れを指差す。

 そこには雄叫びを上げながら、なんの躊躇もなく風のように疾駆する古泉の姿があった。

 古泉は、白髪頭を振り乱しながら獄卒たちに躍りかかると、一番先頭の男が振りかざしていた刺股をいとも簡単に取り上げる。

「死ねえええええっ」

「んぐおっ」

 風を切って上段から打ち下ろす。

 古泉の刺股は、男の無防備な脳天をぶち割って脳漿をあたりに飛散させた。

 怯えて硬直したもうひとりの男。狙いすまして、口へと鉄製の刃先を突き入れ、喉奥を突き破り壁際に縫いつけた。鮮血が間欠泉のように飛沫を上げ、石畳を叩いた。

「るおおおおっ」

「んひいいいっ、くるなああっ」

「死ねや、チンカスどもがあっ」

 古泉は再び猿のように身軽に跳躍すると、身を引いていた男に飛びかかり顔面へと指先を突っ込み、眼球を無理やりほじくり出した。

 断末魔が尾を引いて伸びた。

「よーし、いまこそクソったれな牢獄をぶっこわすときだ! ジイさんに続け!」

 ゴロンゾが古泉の狂気に続く。

「うおおおおっ」

 マーサが叫ぶ。

「どるううううああああっ!」

 ヤルミルが己を解き放つ。蔵人は、彼らの後方を駆け抜けながら、地味に辺りの牢から囚人たちを開放していった。

 燃え広がる真っ赤な炎が、獄中をあっという間に舐め尽くしていった。

 木材を焦がす煙。

 肉を打つ鈍い音。くすぶる白煙と絶叫。獄内のあちこちで乱闘が始まった。

 どさくさに紛れて次々と牢の錠が開かれた。

 乱れ切ったロムレス司法によって無実の罪に落とされた者や、或いは骨の髄までマジキチな有罪人間たちが溜まりに溜まったエネルギーを一気に爆発させ暴れ狂った。

 こうなると、百人程度の官吏や牢番の力では事態を沈静化させることは不可能だった。

 三百余を数える自由を奪われてきた人間の力の奔流は、凄まじかった。

「死ねええっ、ウジ虫野郎が! 肛門ビチグソ牢番が!」

「ひいいいいっ」

 凶悪な囚人たちがいままでの鬱憤を晴らすため、獄卒を囲むと手加減なしに奪った棍棒で殴りつけている。獄卒たちの脳髄が、落とした豆腐のようにぐずぐずに崩れ、脳みそが下痢便をぶち撒いたように、床へと四方八方飛び散った。

「耳の穴に硫酸流し込んでやるっ、直腸から喉まで鉄棒ブッ刺してやる!」

「やめろおおおろっ!」

 そうかと思えば、ひとりの獄卒を数人で羽交い絞めにして、真っ赤に焼けた火箸を鼻先から突っ込んでいる。肉の焦げた匂いが、牢の焼ける煙に混じりひとつになっていった。

「おらおら! てめーは今日からオレのサンドバックだっ」

「ハラワタ掻きだしてブタの餌にしてやるううっ」

 日頃の横暴さはなりを潜め、力を振るうものと虐げられる者の立ち位置が逆転する。

 人々の理性は消滅し、一方的な虐殺が忍従をしいられた男たちの怒りを空間に固定化し、世界を黒々と塗りつぶしていく。

 混乱は猖獗を極めた。

「カマロヴィチ、カマロヴィチ!! どこだあああっ、出てきやがれっ」

 もはや視界のほとんどきかない獄内で、ねじ切った三人の男の首を腰に縛り付けたまま、地獄の亡者のごとくあたりを練り歩く古泉の姿があった。

「出てこいいいいっ、キンタマねじ切って犬に食わせてやるうっ」

「いだああああぃ、病院、医者、医者をおおおっ」

 顔の右半分を掻き毟られて、古雑巾のようになったまま手を差し伸べて来た獄卒が、古泉の行く手を遮る格好になった。

「ふんっ」

「おぶえっ」

 古泉は情け容赦なく男の胸板に槍の穂先を突き入れると、存分にねじ回してぶちぶちと筋繊維が断ち切れる感触を楽しむ。

 男は槍を止めようと、無意識に手を伸ばして長い穂先を掴むが、鋭利な刃が指先をすぱすぱと容易に切断した。

 血煙と共に、芋虫に似た不格好な親指が、ころころ転がって煙の中に消えていく。

 古泉は、男の肩を足で無造作に蹴って槍を抜き取る。

 肉片がわずかにこびりついていた。

「汚ねえ雑魚が、低劣三枚肉野郎がっ!」

 古泉は口汚く男を罵ると血の混じった痰を。死体に吐きかける。

「どこだ、カマロヴィチ! 勝負しろっ」

 古泉は失われた年月を思い涙し、それから今日というこの時に心から歓喜した。

 マリアンヌの裏切りを知ってから、すべてが空虚だった。

 ただ、ひっそりと生きてきたのは、それでもいつか、誰かがそれは誤解だといってくれるのを、心のどこかで待ち望んでいたのだ。

「あのとき、できなかったことを、いま成し遂げてやる」

 全力で疾駆し、目に映るものは全て破壊する。

 ここはカマロヴィチの牙城であり王国だ。

 この牢獄で得る莫大な富を、このような反乱で安々と捨てるはずがない。

 心臓が早鐘を打つ。古泉は、焼け落ちる材木と崩れゆく石壁の破片を身体中に浴びながら、群衆を掻きわけ走った。地下から大広間を通り抜け、地上に続く階段を駆け上った。

 その間、さえぎる牢番の頭を叩き潰し、囚人の首を刎ね、逃げ惑う官吏を数え切れないほど踏み潰した。

 わかる。カマロヴィチは外にいる。

 そこで決着をつけてやる。すべてに。

 牢獄の外へ出る鋼鉄製の大扉が見えた。

 付近のあちこちで、警備兵と囚人たちが剣をあわせている。

 古泉が、隙間を縫って走り抜ける。不意に胸へと衝撃を受けた。

「うづっ!?」

 胸から喉を競り上がってくる大きな塊を無理やり飲み下す。

 鉄錆に似た味が。たちまち口中に広がった。

 古泉は、根元から矢羽根をへし折ると、地下とは違い清潔に磨かれた床板へと叩きつけるようにして放った。目線をゆっくりと上げる。

「カマロヴィチぃいいっ!」

 よく見知った、巨体の獄卒長が悠然と腕を組み、磨き上げられた鋼の甲冑を来た騎士の一隊を従え佇立していた。

 騎士たちは、前面に長槍を構えた重装歩兵を整列させ、鏡面のように磨かれた鋭い穂先を揃える。

 後方には、矢をつがえた数十人の弓兵が羽飾りを高々と翻し、整然と隊伍を組んでいた。

「そうか、わざわざあんな話を俺たちに聞かせたのは、わざと暴発させるために」

 カマロヴィチは、指揮刀を弄びながら短く刈り込んだ口ひげを震わせる。

「予想はしていたけどここまで踊ってくれるとは感謝しちゃうわん。そもそも、アンタたちは不確定要素だったのよん。今日準備していたのは、元勇者さまたちが狙いじゃなくて、他の囚人たちの大派閥が反乱を起こすって内部情報を掴んでいてねん。ついでに、大掃除を兼ねて反抗的なゴミどもの大掃除をしようと思ったのよん。昨今治安も悪いし、ここのゴミ溜めも収容量を超えていたしねん。ま、ついでよ、ついで」

 会話の途中、背後からゴミを引きずるような音に気づき、古泉が振りかえる。

 そこには、顔の左反面をブリの照り焼きのようにこんがり焼かれた男が血の跡を残しながらカマロヴィチに向かってなめくじのように這っていた。

 カマロヴィチの寵童であるモリーノである。

 おそらく、いままで恨みを買った囚人たちに寄ってたかっていたぶられたのだろう。

 髪は引きちぎられ、両手足は人体の構造上曲がってはいけない方向に湾曲している。

 まさしく虫の息だった。

「カマーロぉさまあああ、いだ、いだいですうぅ」

 モリーノは潰れた鼻から負け犬のように、くふぃ~ん、と間抜けな息を漏らす。

 カマロヴィチは、モリーノの擦りつけようとした顔を冷然と見下ろし、自分の服に触れる直前で指揮刀を鼻面に叩きつけた。

「うぴゅっ」

 モリーノは、茶褐色の血と体液を飛び散らせながらすっ転んだ。

 転んだ拍子に前歯を地面にぶつけて数本が折れ、散乱した。

「な、なんでえ、なんでぇええ」

 モリーノがわけがわからないと、泣きながら頭を左右に振る。

「アタシ、汚れた畜生は嫌いなのよね」

 カマロヴィチの合図と共に、隣に立っていた兵隊が大身の槍をモリーノの頭蓋から床まで一気に突き通した。

 モリーノは、羽虫のように手足をばたつかせるとやがて動きを止める。

「そんなわけで、そろそろ疲れたし帰ってシャワー浴びたいのよ。ねぇ、勇者さま。ひとつ取引をしない?」

 カマロヴィチはしなを作ると舌なめずりをした。

「アタシね、最近はダンディ趣味に目覚めちゃったのよ。もし、これから一生アタシのものになるっていうんなら、アンタだけは昔のよしみもあるし死んだってことにしといてあげてもいいんだけど、どう?」

「そんなこと飲むと思うか。このカマ野郎が」

「ふーん、でもその傷じゃいますぐ手当を受けなきゃもたないんじゃないのん? どう? 過去よりいまのほうが大事じゃなくて」

 古泉は怒りのあまり、目の前の巨体が白く明滅した。

 ふざけやがって、俺の人生をめちゃくちゃにしておいて。

 激昂のあまり、飛び出そうとする彼の肩を後方から男が抱きとめる。

 よく聞き慣れた声だった。

「囚人風情に国軍まで動かすなんて、へっ。俺たちも大物になったってもんだな」

「おまえたち」

 古泉が、振り返るとそこには、ゴロンゾ、マーサ、ヤルミル、蔵人たちがボロボロになりながらも勢ぞろいしていた。

 正規兵を見た囚人たちは一転して、警備兵や獄卒たちに押し返されている。

 古泉の噛み締めた唇がやぶれ、糸のような血が細く流れた。

「ジイさん、クランドたちをつれて後ろに引き返せ。裏口は手薄だ。ここは引き受けた。俺もいい年だ。結構生きた。やりてぇこともやったしよ。おまえさんたちはなんとか逃げ延びてくれよ」

 ゴロンゾの言葉。承服できるものではない。

「おい、ふざけんなよ」

 マーサが低い声を出してゴロンゾに掴みかかる。

 少年の瞳には、純粋な怒りと寂しさが同居して現れた。

「いいあってる暇はない。じゃあな、おまえら元気でやれや。結構楽しかったぜ!」







 ありえない。

 蔵人は、頬の古傷を歪めて笑うゴロンゾを前に、握っていた剣を落としそうになった。

 ゴロンゾは大きく右手を振ると、もう二度と振り返らなかった。

 ああ、ここは本当に俺の居た世界とは違うんだ。

 蔵人は、今に至るまでこの世界における現実感というものがまるでなかった。

 人を傷つけてもなんの違和感も抱かなければ、嫌悪感も罪悪感もない。

 まるでゲームの中の主人公だ。

 だったらどうしてなんだ。

 自分には仲間の危機を救う特別な力も剣の技も不思議な力も備わっていないのだ。

 大扉を守る鋼の甲冑をつけた中世ヨーロッパの騎士の一群。

 つがえた矢は、低い風切り音と共に辺りに飛来し、突撃していったゴロンゾの身体を埋め尽くした。ゴロンゾの身体。紙切れのように吹き飛んでいく。

 矢を打ち終えた一隊が下がると、歩兵が槍衾を作ってひと塊になって突進していく。

 意志を持った大きな塊は、敵味方なく、動くもの全てを穿ち、粉砕する。

 血風が舞い肉片が四散した。

 最後まで残るといっていたマーサも、もはや逃げることに躊躇しなかった。

 本物の暴力である。

 いままでのちょっとした喧嘩の延長戦上のものとは、まるで次元の違うものだった。

 個人が意思を持たず、ひとつの塊は機能的な道具のように活用され整然と活動した。

 なにもかもが停止するまで終わらない。

 蔵人たちは、無我夢中で剣を振るい、同じ囚人を切り払って裏口にたどり着いた。

 木戸を蹴破ってようやく外の空気を吸う。マゴットのことなど、思い出さなかった。

 獄の周囲を高い土壁が覆っている。

 周辺では捕らえるものと逃げるものの最後の闘争が終わりを告げようとしていた。

 蔵人たちが逃走に成功したのは奇跡だったのかもしれない。

 監獄の外は深い木々が生い茂っり、僅かな距離を移動するのも時間がかかった。

 ゴブリンが住んでいることも忘れて、歩き続ける。誰もが無言だった。

「もういい、蔵人。俺をここに置いていけ」

 古泉は蔵人の肩から腕を放すと弱々しくつぶやき、その場に腰を下ろした。胸に刺さった矢傷は出血が止まらず、胸元を覆うようにして血が広がっていた。顔色は紙のように白く、呼吸はどんどんか細くなっていく。

 蔵人たちは古泉を木の根元に横たわらせると、なにをすることもなくじっとその横顔を見つめていた。

「あんなゴロンゾのやつも死んじまった。畜生、ジイさん。死ぬなっ、死ぬなってんだ」

「そうです。生き延びて僕と共にこの国に革命を起こしましょう。既得権益をむさぼる王族を打倒し、真に民衆のための政治を行うのです」

 古泉は、もはやふたりの言葉に応えることもなく薄く笑みを浮かべたまま目を閉じる。

「みんな、こんなジジィに良くしてくれて、ありがとう。クランド、居るか」

「ああ、ここに居るぜ」

「まさか、死ぬまでにもう一度日本人に会えるなんて思わなかった。おまえら、生きろよ。生きられるだけ生きるんだ。そうじゃなきゃ、嘘だ」

「ジイさん、まだくたばんじゃねえよ! せっかく外に出られたんだ、ホラ、もうすぐ朝だぜ! 起きろってば!」

 マーサが泣きながら、古泉の胸元を揺さぶる。

「クランド。おまえは、そのツラじゃまだ諦めてねえようだな。マゴットを救いたいのか」

「そうだ、けど。それだけじゃねえ」

「バカなやつだぜ。もっとも、男ってのはどいつこいつも同じようなもんだ。いいか、勇気と無謀を取り違えるな。ああ、逃げ出した俺がいってもなんの説得力もねえか。あとは、まぁ頼むぜ」

 山の端を明るい陽が頭を出していた。

 冷たい朝の空気が、蔵人の喉に滑り込む。

 深い新緑が燃えているように目に映る。

 古泉の、かさかさになった手が蔵人の手に古びた革袋を握らせた。

 革袋を逆さにすると、精巧な首飾りが現れた。

「こんなもん、どこに隠してたんだ」

「蛇の道は蛇ってやつさ」

 古泉は減らず口を叩くと、にっこり笑った。

 枯れ木のような古泉の皮膚は日々の過酷さを思わせた。

「あの日渡すつもりだったんだ」

 古泉の手から力が抜け、だらりと垂れ下がった。

「マリアンヌ」

 古泉の首が横にがくりと崩れる。

 三人は、なにごとも為すことができず消えていった魂を包み込むように、三方に立ち尽くしていた。

「俺たち、ここで別れよう」

 蔵人はひきとめるふたりを振り切って山を駆け下りていた。

 無人の道を全力で駆け下りる。

 やらなければならないことが出来たんだ。

 蔵人の胸板に輝く不死の紋章が一際大きく輝き出す。

 全身の疲労が薄皮を剥ぎ取るように消え去っていく。

 剣を握り締める拳には、いままでにない力が宿っていた。

 明けきった真昼の太陽が頭上を照らしている。

 青白い空に浮かぶ雲がゆっくり流れていた。木々を揺らして街道に出ると、火事によってくすぶっていた監獄が浮島のように緑の中にそびえている。

 もはや警戒は解いたのだろうか、城壁の中には修理をするために呼ばれた近在の土工や職人が忙しそうに立ち働いていた。

 蔵人は、囚人服の上着を脱いで裂くと、ぐるぐると胸元の紋章を隠すように巻いた。

「待て、ちょっと」

 藪から進み出ようとした肩を止めるものがいた。振り返るとそこには、マーサとヤルミルが息を切らしてしゃがんでいた。

「おい、見くびんなよ。どうせやるなら、声くらいかけてくれたっていいだろーがっ!!」

「そうです、僕たちは仲間じゃないですか」

「おまえら」

 蔵人はふたりと軽く打ち合わせると、うなずいて、ときを待った。

「うおおおっ、火事だあああっ!!」

「畜生、囚人どもがまた襲ってきたぞおおっ!!」

 建物の裏手から、灰色の煙が立ち上っている。ヤルミルとマーサの陽動作戦だった。

 残っていた兵たちがバラバラと駆け去っていく。

 蔵人は息を大きく吸い込むと、堂々と歩いて行った。

 昨日はピクリともしなかった鉄の大扉は大きく開いている。

 中央部には、カマロヴィチが巨体を震わせ矢継ぎ早に指示を出している。

 周りには、昨夜の騎士たちはなかった。僥倖である。カマロヴィチの側には、平服を着た官吏らしき男と弓を持った四人の歩兵の姿だけがあった。

 蔵人の動きに気づいたのか、ひとりの歩兵が顔を動かした。ほとんど同時に蔵人は床を蹴って駆け出すと、剣を構えてまっすぐ突っ込んだ。

 カマロヴィチの狼狽した顔がぐんぐんと近づいてくる。

 慌てて歩兵が弓をつがえ一斉に放った。

 蔵人は、身をかがめて幾つかをかわすが、左腕と右胸、腹に直撃を受けた。

 内蔵を抉る激しい痛みをこらえながら、それでも突進をやめない。

 風切り音。

 ふらつく右足に矢が刺さる。

 続けざまに脇腹へと左右の横合いから繰り出された槍が突き刺さった。

「ちき、しょう」

 思っていても、身体は動かなかった。右脇腹から槍を引き抜かれた。

 トドメとばかりに、男が槍を胸元に狙いをつけた。

 蔵人が迫る穂先の白いきらめきに目を細める。

 同時に、サッと正面へと割り込む小さな影が差した。

「クランド……」

 マゴットは胸元で槍の一撃を受けると、弱々しく微笑んだ。

 衝撃で言葉が出ない。

 彼女がいつも持っていた豆本が胸元から落下した。

 薄青色の押し花はヒラヒラと宙に舞い、栞から剥離した花弁は粉々に散った。

 カッと頭の中が真っ赤に燃え上がった。

 蔵人は怒号を上げて歩兵を引きずりながら槍ごと身体を前進させる。

 喉元を血の塊が逆流する。

 行く手を遮ろうと剣を振り上げた歩兵に血しぶきを吹きかけた。

 左右から斬撃を受ける。

 まだだ。

 蔵人には技術がない。肉壁をやぶる武器もなければ、力も並である。

 ただひとつ、ひとより勝るものがあるとすれば。

 契約により与えられた無限の再生能力のみ。

 蔵人は、手傷をものともせず肩に食い込んだ刃ごと体当たりをすると、押し負けた歩兵がのけぞった。

 力任せに剣を振るう。なにしろ防御を考慮する必要がないのだ。

 腕を斬り裂かれながらも振り抜かれる斬撃に顔を打ち砕かれ歩兵が後ろに倒れこむ。

「ひいいいっ」

 昨夜の騎士団とは違うのか、カマロヴィチを囲んでいた歩兵が思わず後ずさる。

「なによぉ、アタシを守りなさいよぉ!」

 カマロヴィチは声を上げて辺りを見回すが、獄卒たちも手傷を負ったものが多く、様子を窺っている。身を挺して守るほどの信頼は両者にはなかった。

 そんな身体をして、俺ひとりにも立ち向かえないのか。

 蔵人の形相に怯えたカマロヴィチがさらに後退した。

「な、なによ。その光は」

「勇者だ」

「あれが、伝説の」

 蔵人の胸元に巻いてあったボロ切れが剥がれ落ち、室内を青白い輝きが満たした。

「なんなんのよぉ、ソレ」

 カマロヴィチが指し示した先。

 致命傷と思われるような刺し傷が、時間を巻戻したかのように復元していく。

 これが、蔵人に残された唯一にして全。

 その名も、不死の紋章イモータリティ・レッド

 身体中のあちこちに刺さっていた矢は、傷口の肉が瞬く間に盛り上がり、矢尻がぷっと吐き出された。

 輝きが収まると、胸元には王家の紋章が遠目でもわかるほどに光り輝いていた。

「ひいいいいっ、やっぱ勇者様だあっ」

「王家の紋章だああああああっ」

 迷信の根深い時代である。

 遠巻きに見ていた男たちが、残らず腰を抜かして遁走を始めた。

 この場にいる獄卒も職人も元は正せばほとんどが平民や百姓の出である。

 勇者や王家といった単語を聞いただけで戦意を喪失した。

 貴族が全人口の数パーセント以下の状況では、言葉こそが力だった。

 そもそもが、逃げる理由を探していたという前提状況もあったのだ。

 すべてが蔵人に有利に働いたのだった。

 やぶれかぶれになったカマロヴィチが槍をひっ掴んで前方に繰り出す。

 蔵人は身を反らして避けると、カマロヴィチの胴体を深々と横薙ぎに切り裂いた。

 赤黒い鮮血が蔵人の横顔を濡らす。

「あ、あぼぇ」

 巨体の男は、両膝をつくと両手を前に突き出すようにして顔面を床へと滑らした。

 床一面が放出された血で湖面を広げていく。

 頭上から俯瞰すれば、真っ赤に咲いた薔薇のように見えるだろう。

 カマロヴィチはあえぎながら懐に手をやる。

 蔵人が巨体の後方にまわると、カマロヴィチは毛むくじゃらのごつごつした手つきで古びた櫛を握り込む。

 カマロヴィチは苦痛から解放されたようにまどろんだ顔つきになった。

 ごぼ、と音を立て黄色い泡を口の端から噴出させた。

 奪われた恋人と、その先のすべて。

 もしかしたら、自分にもありえたかもしれない未来。

 無意味と吐き捨てるには、失ったものが大きすぎた。 

「カマロヴィチ。テメェを殺す。文句はねえだろう」

 蔵人は、剣を上段から太い猪首に叩き込むと獄卒長の首を切断した。





 あお向けになっていたマゴットの側には、ヤルミルとマーサが青白い顔で立っていた。

 蔵人は、血塗れで息も絶え絶えな彼女の側に膝を突いて顔を覗き込んだ。

「どうして俺なんかをかばったんだ」

 マゴットは、バラバラになった押し花の残骸を胸に持ったまま、白い顔で泣き笑いの表情になった。

「ああ、お兄ちゃん。やっと、迎えに来てくれたんだ……」

 目の前に誰がいるのかすでにわかっていない。

 マゴットは、夢の中で大好きな兄に会えたのだ。

 蔵人は、心が隅々まで冷えていくのを強く感じた。

「たくさん、冒険、しようね……」

「ああ、約束だ。きっと、お宝を俺が見つけてやる」

 マゴットはしあわせそうに、ピンと猫耳を弱々しく振って眠るように目を閉じた。

 青い花弁がマゴットの頬に降りかかる。

 最後に至って、ようやく、蔵人はその花の名前を思い出した。




 


 誰もいない峠の道を登っていく。

 眼下には先ほどまでいた牢獄の姿が小さく見えた。

 蔵人は、古泉が渡せずにた宝石の首飾りを手のひらで転がした。

 古泉の話と、宝石の首飾り。

 勇者の愛した美貌を誇る姫。

 妹のように遇した侍女。

 そして、それらを遠巻きにして見守っていたひとりの兵士。

 蔵人は首飾りを指先で弄びながら視線を眼下に落とした。

 遠心力を利用して、遥か足元を流れる谷底へ向かって投げ入れた。

 さよなら、マゴット、と胸の内でつぶやいた。

 山鳥の鳴く声が、静かな稜線に向かって冴え渡る。

 足早に遠ざかっていく蔵人の背中を、沈んでいく夕日が燃えるように照らしていた。


 勿忘草わすれなぐさの花言葉は、真実の愛。

 もうひとつは、私を忘れないで、とある。










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[一言] もう何度目になるかわからないが、また読み返したくなったので再読。 何度読んでも色褪せない面白さ。
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