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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
55/302

Lv55「露見」





 

 蔵人は意識を徐々に覚醒させながら寝返りを打とうと身をよじらせた。

「ほへ」

 間抜けな声がもれる。おかしい。指先が固定したようにピクリともしない。目を開けようとするが、ニカワのように目やにがまぶたに張りついて剥がれない。

 おいおい、酔ってる場合じゃねえぞ、俺!

 呻きながら身をゆすると、あたたかい布切れがそっと目元にやさしく当てられる。

 感覚的に細く長いものが指だと理解した。

 鼻先を甘い匂いが漂う。若い女のものだと確信した。

「うへへ」

 なにがおかしいのか自分でもよくわからないが、蔵人は薄ら笑いを浮かべると自然に半勃起状態になった。

 ほこほこした蒸気が徐々に遠ざかっていく。

 張りついた目やにが、誰かの手によって完全に除去されたのだ。

「んげっ!?」

 目を見開いて驚いた。

 鼻と鼻とが触れあうくらいの距離に冷たい金色の瞳がじっと蔵人を直視していた。

 ヒルダである。

「なんだよ、ビビるじゃねえか」

 乾いた声を出すと喉の奥がヒリついた。痛みに顔をしかめる。

 彼女は氷のような視線のまますっとはなれると、距離を置いて佇立した。

 すぐそばにはレイシーがうつむきがちに寝台へと腰かけているのが見えた。

「だっ! んんん、なんだあこりゃあ!?」

 立ち上がろうとして気づいた。手足が椅子へと鎖でぐるぐる巻きに縛られている。

 完全に身動きを封じられていた。

 椅子の背もたれに結えられた両手首に全力を込める。

「ふん、ぬぐぐ」

 外れん。

 半ば理解していたが、戸惑いの方が大きかった。

 冷たく重い金属の量感が手首にずっしりと伸し掛ってきた。

 わざと力が入らない特殊な拘束方法で縛られているのである。

 足首も椅子の前脚へと太い荒縄で縛られ、ご丁寧に蔵人の胴体は鉄の鎖で幾重にもグルグル巻きにしてあった。大きくあえぐと、胸元の鎖の輪がじゃらりと音を立ててゆれた。

「ふんぎぃいっ。はっ、ほっ。んむむむ。ダメだ。おい、こりゃいったいぜんたいどういうことなんだよぉ! ヒルダ、レイシー!」

「どういうこと」

 顔を伏せていたレイシーがか細い声で応えた。

 彼女の長い髪は幽鬼のように前へと流れ落ちており表情が見えない。

 屈託のない明るい性格だった彼女の姿はそこになかった。

 ケツの穴がきゅっとすぼまり、背筋が薄ら寒くなった。

 怯えながらヒルダに視線を向けると、彼女は無機物を見るような醒めた瞳をしていた。

「昨晩はずいぶんとお楽しみのようで」

 ええと、もしかしてこれってピンチってやつですかねぇ。

 酒精の混じった汗が額にどっとあふれた。

 やばややばい、なにがやばいって思い当たることしかないことが、よりやばいのだ。

 引きつった表情のまま身体をこわばらせていると、近寄ってきたヒルダがほっそりとした指を伸ばして頬に触れた。

 ひんやりとした指先が伸びきった無精ひげをカリカリとひっかく。

 目と目があう。なまじ整った容姿なだけに、ビスク・ドールのような精巧さを思わせた。

 つまりは非人間的なものに感じる違和感だ。

 彼女の感情が読めない。陰嚢がきゅっと収縮した。

「クランドさん。自分の胸に手を当てて考えてみてください。あなた、今日までどこでなにをしてらっしゃったのですか? 私たちふたりがどれだけ心配したと思っているんですか」

「うへへ、ごめんちゃい」

 おどけた返事を聞いたヒルダの表情が壮絶なものに変わった。

 蔵人が身体を拘束する鎖を軋ませながら身体をのけぞらせると、ヒルダの瞳はさらに大きく見開かれて、大粒の涙がボロボロとこぼれ出した。

「私のこと愛してるっていってくれたじゃないですかぁ」

「え、あ、ええええぇ!?」

 そんなこといったっけ?

 寝台に腰かけていたレイシーがわっと顔を覆って火がついたように泣き出した。

 髪を振り乱してシーツをかきむしりはじめた。

 ヒルダは深紺色の修道衣を波打たせてその場にしゃがみこむと、床板に顔を押しつけながら両手をどんどん打ち付けながら悲痛に満ちた叫びを上げた。

「あああああっ、裏切ったぁ! 私のこと裏切ったんだああっ!!」

「ずっとそばにいるっていってくれたのにいいっ!! 愛してるっていったあああっ!! 嘘つきいいいいっ! あたしのいちばん大事なものあげたのにいいいっ!」

 ヒルダに続けてレイシーが叫ぶ。

 蔵人はオロオロしながら顔面に滝のような汗をどっと流した。

「私だって初めてを捧げたのにいいっ!! くやしいっ!!」

 なぜ、ばれたし。

 蔵人は蒼白の表情のまま荒れ狂うふたりの女性を見ながら、冬の冷たい海を思った。どこまでも蒼く、重たげで、どこまでも深い底に落ちていく気分だった。

 だが、現実は変わらない。

「落ち着けし。レイディたちよ」

「うるさーい!」

「んぶっ」

 蔵人は投げつけられた枕で顔を打つと、目を白黒させて押し黙った。

「ばかっ、ばかっ、ばかっ!」

 ヒルダが金属的な声を上げながらヒステリックに拳を胸元に打ちつけてくる。彼女の拳が鎖に当たってじゃりりと断続的に音が鳴った。

「おい、ヒルダ。手ェ怪我するぞ!」

「うるさいし! やさしくするなああ、裏切りものおおおっ!」

「はい、すいません。黙ってます、ぼく」

 ヒルダもレイシーもある程度泣き疲れてくると、いったん作業を中止して涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れた顔を上げて蔵人を見つめ、再び泣き喚く作業に没頭した。

「うううっ!」

「おいっ、ちょっと待てって。うわああっ」

 寝台に顔を埋めていたレイシーはさっと顔を上げると椅子に縛りつけられた蔵人に殺到した。身動きの出来ない男に逃げ場はなく、そのまま椅子ごと後方に倒れこむ。濡れた顔が押し付けられて生あたたかい感触が頬に広がった。

「ずうーっと心配してたんだからっ! でも、こんなのってないよ!」

 レイシーは蔵人の胸に顔を埋めつつ、鋭く叫んだ。

「しゅ、しゅ、しゅいません」

「謝ったって遅いよおおっ、ばかっ、ばかっ、ばかあっ!」

「い、いつばれたんだな!」

「いまさっきですよ! クランドさんに寄り添うレイシーを見て確信しました! でも知りたくなかったぁああっ!」

「いだっ、いだいですっ、やめてください! ヒルダさん!」

 ヒルダは蔵人の頬をぎゅうぎゅう引っ張ると小さな手のひらで叩いた。

 じ、地獄だ。これは。

 蔵人は目を閉じて暴虐の嵐が吹き去るのをじっと待った。

 どんな哀しい物語も必ず終わりというものがやってくる。

 経験上、そんなことを知っていた。

 ヒルダとレイシーのなすがままにされつつ刻が過ぎ去るのをじっと待った。

「お、終わったか」

 蔵人は椅子ごとひっくり返りながら、まだ鼻をすすり上げるふたりを見て、ほっとため息をついた。ふたりは顔を寄せあってかなりの間、密談をかわしていた。もう感情が激することなく、淡々と話しあっているふうに見えた。

 真っ赤な瞳をした、ヒルダがレイシーの肩を支えながら近づいてくる。蔵人は精一杯媚びた笑顔を作ってみせたが効果はなかった。

「罰を与えます」

「え」

「ふたりで相談して決めました。私たちふたりを弄んだクランドさんに罰を与えます。ね、レイシー」

 レイシーはヒルダの言葉にうなづくとすんすん鼻を鳴らしながら、恨みを籠めた視線でジッと睨みつけている。

「ええーと、それはどういうことでしょうか。えええ、ちょっと待ってください。ぼく、ちょっと、このまま放置なのでしょうか。無言で遠ざかるのはやめて欲しいんですが」

 ふたりは蔵人の言葉を無視したまま扉の向こうへ姿を消した。

 おい。






 ふたりに放置されてからどれだけの時間が経過したのだろうか。

 密閉された室内はグングン気温が上昇し、もはや耐えようもない暑さになっていた。

「あじいぃ、重てぇえ。腰いてぇえ。ションベンしてぇ」

 この気温ならおおよそ昼くらいだろうと判断出来たが、だからといってなにかが変わるわけでもない。懲罰は未だ実行中なのだ。銀馬車亭の営業は日が落ちてからであり、助けを呼ぶなら人が一番多い時間に賭けるべきであろう。

 もっとも、この状態で店を開けるとは考えにくい。下宿に残したポルディナのことも心配ではあるが、今日はあのおかしな自称錬金術師を名乗る女と会う約束をしている。特に地図を持っているという部分は重要だ。

「クソッ、俺のナイストーキンであのばか女の地図を手に入れる予定だったのに。計画がぁあ。あっ、ちょっ、やばっ!」

 蔵人が下っ腹に力を入れると膀胱は破裂寸前になっていた。

 すさまじい尿意が立て続けに襲ってくる。

「ふうっ、ふううっ、この年でおもらしなんてシャレにならんぞおおっ! うおおおっい!

 俺が悪かったからぁあ、ジョロジョロだけさせてくれええっ!」

 脂汗をだらだら垂らしながら苦悶する。後ろ手に縛られた腕を懸命に動かそうと力を入れるが、ピクリともせず、わずかな隙間すらできないのだ。

 蔵人が、もお我慢するのやめちゃおっかな、と人間の尊厳を手放そうとしたとき、扉がかちゃと静かに音を立てて開いた。ヒルダの小柄な身体が扉のはしからはみ出して見えた。

 こちらをうかがうようにして、顔を半分だけ出してじっと覗き込んでいる。昆虫学者が虫を観察するような低い温度を肌で感じた。

「のおおっ、女神ヒルダよおっ、ぼくちゃん反省したからああっ、トイレいかせてっ!」

「トイレ?」

「そうそう」

 ヒルダはにっと笑うと、素早く扉を閉めた。

 ノブの締まる無骨な音が響く。

 蔵人の表情が絶望に染まった。

「うおおおい、そりゃないよお!」

「はーい、うっそー」

 絶叫を上げた途端に扉がすぐさまパカッと開いた。

 にやにやしたヒルダは白い歯を見せながら、小走りに近づいてくる。

 蔵人の目に泣きが入った。

「おい、勘弁してくれよもお」

「あららあ、ぜんぜん反省してませんねぇ。私とレイシーの処女を喰い散らかしたくせに。この野獣め!」

「たいへんおいしゅうございました」

「へえー」

 ヒルダの金色の目がすっと細まった。

 修道衣をひるがえして足が突き出される。

「ふごっ!?」

 蹴りは見事に蔵人の下腹部に埋まるとヒルダの顔が愉悦にほころんだ。

「おっ、ちょっ、これ以上は、本当に、マズイって」

「あららー、ひとでなしの浮気者のくせに口答えするんですかぁー」

 ヒルダは鼻歌混じりに蔵人の下穿きをズリ下ろすと、激しい尿意でパンパンになったものが顔を出した。彼女の目元にさっと紅色が刷かれる。細い指先が硬くなったテントにそっと添えられた。

「クランドさん、出したいんですか? 人前でおしっこじゃばじゃば出したいのぉ?」

「くっ、うっ。……ちょっと待てって。俺にそういう趣味は無いっ」

「うりうり」

「ほおおっ、ちょっ! やめてくれよおっ、放尿プレイとか俺には難易度高すぎですぅうっ!やめろっ、このっ、ドエロシスター! 破戒僧! 淫乱メス豚娘がぁあああっ! やめてぇえっ、先っちょホジホジしないでええぇ!」 

 蔵人の目の前で激しいスパークが飛び散った。

 脳裏にはいつか見た黒部ダムが木っ端微塵砕けて崩壊した。

 ああ、さよなら。俺の人間性よ。

 ダムは、見事なほど、完膚無きまでに決壊した。

「あははっ!! あー、なんかすっごく笑える」

 ヒルダはビクビクと余韻に震える蔵人のモノを指先で弾いた。

 許すまじ、ヒルダ。

 蔵人は復讐を誓ったまま心の仮面を深くかぶり直した。

「……許してよおお」

「もおお、本当に反省してるんですかあ」

「ああ、だから早くほどいてくれよ、これ」

 羞恥責めが終わったあと、ヒルダの態度は驚くほど軟化していた。

「まだ許したわけじゃないですけどぉ、お話くらい聞いたげますからねー。はいはい、はいっ、よいしょ」

 ヒルダが鼻歌混じりに拘束を開錠した。重くて太い鎖と縄から解き放たれると、蔵人は手足を伸ばして背骨をバキバキ鳴らした。放尿で汚れた下穿きとズボンを抱えたヒルダと視線がかち合う。

 蔵人は片目でウインクをすると、裸足のまま一気に床板を蹴って駆け出した。肩口から力任せに扉にぶち当たるとそのまま、螺旋階段を駆け下りていく。

 一瞬、あっけにとられたヒルダであったが、すべてを理解すると抱えていた衣類をその場に叩きつけ叫んだ。

「に、逃げたー!!」

「自由への逃走だ!!」

 蔵人の鍛えに鍛え抜いた足は早かった。ヒルダが追いつこうと銀馬車亭の表に出る。

 既に、その時点で蔵人の後ろ姿は大通りの向こう側で豆粒のようになっていた。

「どうしたの」

「逃げられました! このおおおっ」

 ヒルダは裾を持ち上げると素早い動きであとを追い出した。状況のつかめていないレイシーが戸口で目を見開いて呆然としている。

 とりあえず。逃げる。

 そして、家に帰ってポルディナのモフモフに顔を埋めてそれ以降のことを考えよう。

 蔵人は奇妙な妄想にとり憑かれながら外套の前をあわせて疾走した。

 だが、この格好はかなり走りにくいのだ。

「待てえええ! こら、待ちなさあああいい!!」

「いやだ! だって拷問する気だろおおっ!!」

「しない、しないから! ちょっとだけしかぁ!!」

「やっぱするんじゃねええかあ!!」

「……疾風の靴(ラピッド)

「無言で呪文を唱えるなあぁああっ!!」

 敏捷値を向上させる神聖魔術を使ったヒルダの姿が後方へとグングン迫ってくる。

 せり上がってくる恐怖を押し殺して両腕を強く振った。

 だが、元々の耐久値がかけ離れていたのだろう、しばらくすると距離を詰めていたヒルダは徐々にはなされていった。大通りの直線ルートを曲がりきれば、異常に複雑な路地裏に到達する。

 蔵人が逃げきれる、と確信した瞬間、ヒルダが叫んだ。

「誰か! その人、私をレイプしました!!」

「なあああっ!?」

 あまりのセリフに蔵人が速度を落とした。道行く人々がギョッとした視線で振り返る。

 さもありなん。

 ヒルダの深紺色の修道衣はところどころがよれており、頭部を覆うウィンプルはうしろにズレ落ち金髪がはみ出していた。素足のまま駆けたせいか、生白い太ももも露わになっている。その光景は良識ある人々にとって暴虐を受けたか弱いシスターそのものにしか見えなかった。

「こいつ、尼さん相手になんてェことしやがる!」

「おい、てめぇら! 手伝えや! こんな野郎を野放しにしちゃ、神さまに申し訳が立たねえ!」

「おい! 棒っきれ持ってこい! 人も集めろや! 逃がすんじゃねえぞ!」

「おい、ちょっと待て。その女のいってることは全然違うっての!」

 蔵人はつかみかかってくる敬虔なロムレス信徒たちを突き飛ばしながら抗弁した。

 だが、素朴な街の人々は涙を流しながら訴えるヒルダを信じきっているのか、目に義憤の炎をたぎらせながら勇猛果敢に打ちかかってくる。三人目を投げ飛ばしたところで、あわせていた外套の前がパックリ開いてアレが露出した。遠巻きにしていた街娘たちは黄色い声を上げて逃げ惑う。年増の婦人たちは、人垣を作って蔵人のモノを論評しはじめた。

「助けてください! また犯されちゃいます!」

「またって、なんだっ。またって!?」

 ヒルダは座り込んだまま続けて叫んだ。

「逃がさないでください! この人と一緒になって還俗します!」

「責任取れよ、男なら!」

「そうだあ、尼さんがかわいそうだろうがよお!」

「本当はヤだけど、これも神のお導きだと思うことにします。街の皆さまがた。私はその罪深い男に生涯かけて尽くして正道に立ち戻らせてみせます。いわば、殉教です! さあ、逃がさないでくださいまし!」

 ヒルダの扇動にヒートアップした群衆は、自分たちが物語の登場人物になった気分で興奮しきり前後の見境もなく蔵人に組みつきはじめた。

「お、おまえなぁ」

 蔵人は向かってくる男のひとりを首相撲からのチャランボをかまして放り投げると、いままでにない焦燥感に駆られながら血路を開きはじめた。

 髪を引っ張られる、頬を引っかかれる、足に噛みつかれる。

 もみくちゃにされながら大通りを抜けて逃げ切れたのはほとんど奇跡だった。






 蔵人は人気のない場所にまで来ると、壁に背を預けて荒い呼吸を整えた。

 全身は水を打ったように汗みずくである。

「ちくしょう、あいつらなにもわかってねえ。俺は、ただやりたいようにやっただけなのに!!」

 それが一番の問題なのである。

「クランド」

「ひうっ!? だ、誰だ!」

 びくつきながら振り返ると、そこには先程までいなかったレイシーの姿があった。

 彼女は苔むして朽ちかけた板塀の脇にひっそりと影絵のように立っていた。

 なんだよ、おっかねぇ。この俺としたことが、ビビってしまった。

 まあ、最近ではよくあることなのだが。

 レイシーはじっとうつむいたまま顔を上げようとしない。蔵人が外套の前をあわせてゆっくり近づくと怯えたように身を縮こませた。

「レイシー、さん」

 つい他人行儀に敬称をつけてしまう。それからレイシーの瞳をジッと正面から覗きこんだ。先程までのギラついた狂気は消え失せ正気が宿っている。それどころか、潤んだ目尻には盛り上がった涙がいまにもこぼれ落ちそうに震えていた。

「ねえ、いっちゃやだよ」

「え」

 レイシーは飛びつくように抱きついてくる。

 蔵人は慌てて抱きとめたが反動でその場に尻餅をついた。

 顔を上げた彼女と視線が交錯する。

 レイシーは両目からつうと涙を糸のように流すと顔をクシャクシャにして両手を両脇にまわしてきた。

「もしかしてもう怒ってないとか……」

 蔵人が都合のいい妄想をつぶやくと、即座にレイシーが喚いた。

「怒ってる! でも、クランドがいなくなるのは、や、や、やなのおおおっ!! 戻ってきてええええっ!! ずっといっしょに居てよおおぉおっ!」

 レイシーの顔を押し付けた胸元がじわじわと涙で濡れていく。蔵人は鳴き叫ぶ彼女の身体を強く抱き返すと地べたについた尻が冷たくなっていくのを感じた。

「落ち着けよ、どこにもいかねえから」

「逃げたあ」

「逃げるだろう、それは」

「逃げちゃやああぁ」

「無茶いうなよ。はああ」

 蔵人が深いため息をつくと、怨むような視線でレイシーが見上げてくる。

「ヤなんだあぁあ」

「なにがだよ」

「あたしのことキライになったんだぁあ。だから、奥さんのところに帰るつもりなんだぁあ」

「なんのことをいってるんだ、おまえは」

「あたし知ってるもん。クランド、奥さんがいるんだぁあ。あたしのことは遊びだったんだあ」

「は?」

 まったくもって理解できない思考回路だ。蔵人はレイシーをなだめすかして言葉の意味を汲みとった。どうやら彼女がいうには蔵人の外套に正妻の存在をほのめかす一文が縫いこめられていたということだった。

「ねえ、正直に答えてよ。奥さんのところに帰ったりしない?」

「あー、まあそういう話だったのかあ」

 シズカよ。なにがしたかったんだよ、おまえは。

「質問に、答えて!」

 なにをどう答えても彼女はきっとお気に召さないだろう。蔵人の脳裏に絶望の二文字がよぎったとき、路地の隅から近づく気配を感じ取った。

 口をへの字にしたヒルダがゆっくりと近づいてくる。やはりこちらも顔を伏せがちにしているので表情が見えない。頭を上げて天を望む。建築物によって四角に切り取られた青空がやけに目にしみる。

 こういう日こそダンジョンに深く潜るのがよさそうだと、胸の内でつぶやきながら立ち上がる勇気が湧いてくるのを静かに待ち受けた。






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