Lv50「三途の川を三度渡った」
さすがにこいつは反則だろう!
と、蔵人は心の中で叫んだ。
「ストーリー上、こいつはラスボスの扱いだろう」
赤竜こと、邪竜王ヴリトラと野営地の開けた中央部で対峙し、改めてその異形を目前にした素直な感想だった。
まずデカイ。なんといってもデカイ。
翼を広げた横幅は、大型バスを二台ほど並べたくらいはあるだろうか。
もっとも体格を考えれば、翼はやや小さめの感が否めなかった。
ワタリアホウドリですら、最大翼長は三メートルをはるかに超えている。
つまりは、流体力学を凌駕する魔術理論に支えられて活動しているのだろう。
ゾッとするような凶暴な目つきをしていた。
蔵人は邪竜王の瞳を真正面から覗きこんで、強烈な頭痛と嘔吐感を覚えた。異常な毒気と電波のようなものが放射されているような気がする。間違いない。
蔵人は急激に胃の腑に鈍痛を覚え、舌打ちをした。
構えたグレートソードを正眼に構える。切っ先の震えはいっそう強くなった。逃げ惑う人々の声が間遠に聞こえる。現実感が乏しい。自分がまるで出来損ないのハリウッド映画の主人公に思えた。竜という怪物を前にして、改めて人間の矮小さを思い知った。
手にした大剣がチャチなオモチャに思えてきた。萎えそうな気力を無理やり奮い立たせてジリジリと前進した。徐々に邪竜王へと歩を進めた。じっとりとした汗が全身へとぷつぷつと湧いてくる。喉に異常な渇きを覚えた。きぃん、と耳鳴りのようなものが聞こえて、視界が徐々に狭まってくる。蔵人は自分の鼓動の音がどっどっ、と早鐘のように打ち鳴らされるのを聞きながら唇を舌で湿らせた。
威嚇だろうか、途方もない声量の雄叫びが轟いた。
負けじと蔵人も気迫をこめて咆哮する。
ふたつの赤らんだ瞳がはじめて感情を宿した。
邪竜王の巨大な顎が蔵人に狙いを定める。
決戦の潮合が極まった。
「コンコーン。さあ、試合開始のゴングだ、邪竜王!!」
蔵人が大剣を持って駆け出した。
同時に、邪竜王の口から極大の火球が続けざま吐き出された。
蔵人は地を蹴って跳躍した。空を切り裂いて走った火箭が背後の天幕を喰い破り、辺りを昼間のように真っ赤に染めた。
蔵人は握った大剣を水平に走らせた。銀線が闇を裂いて一条の光糸となって放たれる。
ごおん、と鉄の塊を叩いたような手応えがあった。痺れのあまり剣を取り落としそうになった。竜の右足。まともに入った斬撃だが、邪竜王はなんの痛痒も感じていないのか微動だにしなかった。まるで、赤子扱いであった。
ノータイムで竜は巨体を反転させると巨木のように太い尾っぽを振り回した。
掠っただけで即死できる打撃力だった。
全力で飛びすさってかわす。
ただ一度の回避に全力を費やす。
所詮は人間と竜である。獅子と地虫ほどの戦力さだった。
古来より、あまたの英雄が竜に挑み打倒することでその名を不滅にした。
蔵人はいまなら理解できた。
こんなバケモノ倒せるはずがない。
そう、人知を超えたなにかが働かなければ、とうてい抗しようはずもない。そんなものを持ち得ない人の身でありながら不可能を打倒するならば命を燃やさねばならない。全身の筋肉を限界まで行使して敵の一撃を避け切った。
ただその一点が竜にとっては軽いジャブであっても、蔵人にとっては最後の一撃になりえるのだ。
竜が振るった尾の一撃は周囲の天幕を紙細工のように弾き飛ばすと、天に向かって軽々と放り上げた。天幕はびょう、と轟音を発して高々と舞い上がり遠方に消え去った。圧倒的な威圧感。暴風雨の真芯に立つようだ。
蔵人は再び怯えを押し殺して再び前進する。地を蹴って駆けた。
身を低くして股の間を滑り抜けた。
狙いは柔らかそうな股間だった。
ギャリン、と鉄をぶっ叩いたような音がして刃先から火花が散った。大剣が竜の股下をこそぎながら走る。
だが、鋼より硬い竜の表皮は毛ほどの傷をつけることもなく、いとも簡単に剣の切っ先を削り取った。
折からの小雨でぬかるんだ地面に顔面をこすりつけながら転がって移動した。
大地へと羽虫を叩き潰すように、邪竜王の爪が叩き落とされた。竜の爪の一本一本それぞれがロングソード並の長さと鋭さである。
蔵人は自然三人の手練から常時突きを入れられているようなものだった。大剣を力任せに爪に向かって横殴りに叩きつけた。厚みで勝ったグレートソードは竜の爪をようやく跳ね上げることに成功したのだ。
起き上がろうとした瞬間、激しく肩を斬りつけられた。
割られた肩から激しく血が吹き出した。巨人の腕で押されたような感覚である。
目の前が痛みで真っ赤に染まった。
痛みは噛み殺せ。
ただの一瞬が命取りになる。
強く自分を鼓舞する。そうでもしなければ自分を保てない。
蔵人はそのままその場を駆け抜けて再び距離を取った。肩で息をしたまま大剣を構え直した。いまのやり取りで異常に体力を消耗した。
呼吸を整えようとするが、心臓は弾けそうなほど強く脈打っている。気をそらすため意図的に辺りへと視線を転じた。周囲に広がった炎の海で視界は良好であった。滝のように流れる汗で網膜が曇る。両手に握った得物を直視した。グレートソードの刃先はささらのようにギザギザに変わっていた。
「クッソ、なんてかてェんだよ!!」
ドラゴンの鱗はこの地上で最強の硬度を持っている。
アルテミシアの大剣は業物であったが、所詮は対人用であった。
竜種には微塵ほども通用しなかったのだ。
考えている暇はなかった。
否。
目の前の怪物がそれを許さない。
再び竜のファイアブレスが蔵人に向かって飛び出したのだ。
紅蓮の炎が闇を裂いて真っ直ぐに伸びた。横っ飛びでかわした。
「ぎひいいいいっ!!」
逃げ惑っていたひとりの冒険者がモロに炎を浴びた。火だるまになった男は絶叫を上げながら走り出すと天幕に手を突いた。一瞬で炎が天幕に燃え移ると、中に残っていた油壺に引火したのか一気に炎が燃え広がった。人肉の焦げる臭気が鼻先を殴りつけてくる。頭がどうにかなりそうだった。
蔵人は流れ落ちた汗で前髪をべっとり額に貼りつけながら、激しくあえいだ。邪竜王は身体を傾けると、その長い首を地面スレスレに伸ばして大きく口を開けた。
鋭い牙が目前に迫る。
蔵人は斜め前に飛び跳ねると、間一髪、目の前でガチっと牙と牙が噛み合わされる音を聞き背筋を凍らせた。
「伏せろ、クランド!!」
声に反応し、咄嗟に低くかがみこむ。頭上の空気を割って槍が飛来した。
肉を穿つ太い轟音が腹にまで響いた。
続けて邪竜王の絶叫が一際高く上がった。
アルテミシアの投擲した聖女の槍が邪竜王の左目を深々と刺し貫いたのだった。槍を投げ終わった彼女は甲冑を擦りあわせる音といっしょに駆け寄ってくる。
主をようやく見つけた犬のようだ。
「鱗は丈夫でも露出している部分はそうでもないようだったな」
蔵人は痛みに耐えかねて天に舞い上がった邪竜王を見上げながらつぶやいた。
目の前のアルテミシアが白く整った顔を寄せた。
燃え上がったような厳しい表情をしていた。
「おまえをひとりで死なせはしない」
「はあ?」
「おまえが死んだら私も死んでやる!!」
アルテミシアは激して叫ぶと、短剣を自分の首筋に当てた。白い喉の薄皮が切れて、つぅと糸のような血がわずかに流れた。
「だああああっ、いまはンなことしてる場合じゃねぇんだよ! それに、俺は死ぬつもりは毛頭ねえ。だから、おまえもどんなことがあっても死ぬんじゃねえ、約束しろや!」
「本当か」
「押し問答している暇はない、支援魔術を頼む。出来るな! 役に立ちそうなのは片っ端からかけてくれや!」
「ああ、それは可能だが。これだけは覚えておいてくれ」
「んんだよ! ああ、竜が降りてくるぞ!! さっさとしてくれ!」
「おまえが死んだら、私は尼になる」
「僧兵のおまえがいいますか!」
天に駆け上がった邪竜王ヴリトラは幾何級数的にスピードを増して蔵人目掛けて舞い降りてくる。大気を割って圧倒的な質量が飛来した。
周囲に殺気が横溢した。
真っ赤な弾丸となった邪竜王は、ちょこまか動く獲物に業を煮やしたのか一気にケリをつけるつもりである。
「魔力付与硬化! 守護の楯! 強化魔術! 疾風の靴!」
アルテミシアの口から流れるように連続魔術が解き放たれた。魔力の奔流が渦となって蔵人の全身を覆い尽くした。
武器強化、物理防御強化、腕力強化、速度強化の四重がけである。
魔術師ではないアルテミシアにとっては元々不可能に近い離れ業だった。
彼女の長身が崩れ落ちそうになった。
残った力を費やして懸命にその場から離れる。
――賽は虚空に投げられたのだ。
耳が痛くなるような轟音。
蔵人は自分に向かって吐き出された火球を身をひねって次々とかわした。業火の連弾はナパーム弾のように地上を焼き尽くして辺りを昼間のように照らし出した。ぬかるんだ大地が灼熱の温度でいっせいに乾ききった。
蔵人は全身の筋肉をねじ切るようにして反転すると、魔術の力を借りた異常なスピードで剣を竜の首筋に叩きつけた。があん、と鉄の砕ける音が響いた。グレートソードは半ばを残してへし折れると、回転しながら虚空を舞った。
全身が総毛立った。
死神が鋭い鎌を振り下ろすイメージ。
残った刀身ごと大剣を放り出そうと指先をわずかにゆるめた瞬間、邪竜王の顎が目前に迫る。
強い衝撃と共に蔵人は自分が呑みこまれていく音を確かに聞いた。
世界が暗転した。
脳みそがふやけてゼリー状になったような気分だった。
蔵人は竜に呑みこまれて自分の身体が念入りに咀嚼される音を、どこか人ごとのように聞いていた。幸いなことに痛みはなかった。酒を多量に摂取して意識がほどけていく感覚に似ていた。元々が竜に勝てるスペックなど持ち合わせていなかった。
そもそも、どうしてこの世界に呼び出されたのだろうか。自分が大学生だった頃の記憶が、まるで嘘のように思えてならなかった。この世界で経験したことがあまりにインパクトが強すぎて、それ以前の雑多なものをすべて薄めてしまうのだ。うひひ、と笑ってみるが、別段楽しい気持ちにならなかった。なんて無様な終わり方だ。
これで、こんな人生でよかったのだろうか。
(よくありません!)
女の声が聞こえた。幻聴だろうか。蔵人は脳内に直接響いてくる声の主を探そうとしたが、五体の感覚すらあやふやな状態を思いだし、早々にあきらめた。
(いきなりあきらめてはなりません!)
いや、だから俺の幻聴だろう。
それにしても、どこかで聞いたような声だな。
(だから、私ですよ勇者さま! 私です、オクタヴィアです)
知らん。
あんたいったい誰なんだよ。
完全にダウトだった。
(勇者さまを呼び出したオクタヴィア・フォン・ロムレスです! 思い出してくださいっ)
ああ、そういえば、うん。
だんだん、思い出してきたような。
……思い出したぞ、あのおっぱい!
(ち、ち、乳房のことは忘れてくださいなっ、もおおっ)
まあ、死後の世界だから誰が出てきても別段不思議はないか。
ついに俺は夜空の星になったのだ。
(死んでませんよ、もう! 勇者さまの生命に真の危機が迫ったので、ようやく私とのリンクをつなげることができたのです)
え、んじゃあ俺の人生はまだ続行?
(だんぜん続行中です。えっへん)
んんん、なんかガキっぽいんだけど。俺のお姫さまイメージが崩れちゃうなぁ。
ま、いいか。にしても、こうして会話できるなら最初からいろいろコンタクト取ってくれてもよかったんじゃないのかよ。
蔵人が愚痴ると、音声オンリーのオクタヴィアボイスがうっ、とつまった。
(不完全な召喚で勇者さまの位置が上手くつかめなくなっていたのです。勇者さまの回復力は基本私から流れてますから。今回、生死の淵をさまようほどの傷を受けて、それを治すために魔力の放出量が格段に上がったので、ようやくラインを正確にたぐることができたのです。それに、私が探知魔術を行使出来ないように、王宮魔導師のマリンがずぅーっと見張っていたんですよ。もっともマリンは現在、体調を崩して自宅に戻っているのでしばらくの間はこうしてときどきお話だけはできますので。それで、その。あのあの、その節は助けていただいてありがとうございました。本当は、直々に会ってお礼をいいたかったのですが。そういえば、ヴィクトワールを迎えに行かせたのですが、お会いにはなられておりませんの?)
ヴィクトワールという名前を思い出そうとするが、蔵人のしぼんだ脳は即座にその人物を思い出すことができなかった。
いや、誰も来ないぞ。
(こちらの手違いで投獄された勇者さまをお迎えに行かせて以来ヴィーは戻ってこないのですが。ごいっしょではないのですか?)
いや、知らん。
(どうしたのでしょうか。心配です、おろおろ)
というか、こんな話ししてる場合じゃないんだけどな。
(だいじょうぶですよ。私とパスがつながっている限り勇者さまは不死身です。いまから、任意的に私の魔力を一気に送りますので。そうすれば、傷ついた身体はあっという間に修復できますから! 随分と危険な目におあいになられているみたいですが、最後まであきらめないでください。どんな苦難にあっても、あなたが負けるハズはありません。だって、あなたは私が呼び出した勇者さまなんですから!)
そのせいでいま、エライ目にあってるけどな。
(……そのことに関しては、お会いしたときにお詫びいたしますから。オクタヴィアはいつでも勇者さまの勝利を願っております。では、お元気で!)
お元気で、じゃねえ!
おい、ちょっ、待っ――。
蔵人の全身に力が戻り、世界が再び光を取り戻した。
アルテミシアは、愛する男が目の前の巨大な竜に咀嚼されるのを目撃して、その場にへたりこんだ。
「あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
自分のものとは思えないような濁った絶叫が周囲に響き渡った。
もはや反撃する気力も起きなかった。邪竜王ヴリトラは蔵人の身体を頑丈な顎で何度も咀嚼すると喉を鳴らしてその残骸を飲み干した。骨と肉を粉々に砕き続ける音が耳元にへばりついてはなれない。
アルテミシアは自分の両頬に爪を立てて一気に掻きむしった。雪のような白い柔肌に幾本もの朱色の筋がすっと走った。
竜の赤く長い喉元が、人間の形に隆起しながら蠢いている。バラバラの肉塊になった蔵人の身体は、ひとかたまりになって食道を滑り落ちて胃の腑に収められた。
瞳が固定したまま凍ったようだった。焼け付くような感情がアルテミシアの毛先一本一本まで瞬間的に支配した。
「よぐも、よぐもおおおっ、わだぢのぐらんどぉおおおっ!!」
アルテミシアは視界を真っ赤に焦がしながら号泣した。
喚きながら両手を駄々っ子のように地面に打ち付ける。
悔しいという感情で全身が張り裂けそうだ。
頬を伝う涙が乾いた地面に次々と吸いこまれていった。
それから、突如としてドス黒い負の感情が湧き上がってくる。
失せていた力がみなぎった。
身体中の血潮が炎のように燃え盛っていくのを感じた。
「許さん、許さんぞおぉおお! 殺してやる、殺してやるからなぁああっ!!」
アルテミシアの表情からは完全に人間らしさがかき消えていた。やわらかな目元は夜叉のように激しく釣り上がり、噛み締めた歯の根がギリギリと軋んだ音を立てた。
彼女の瞳。
それは、目の前で我が子を殺された野獣のように純粋な殺意で満たされていた。
アルテミシアが感情に突き動かされたまま、最後の武器である腰の短剣を引き抜いたときに、変化は生じた。
最後のメインデッシュをたいらげて、半ば恍惚の表情を浮かべていた邪竜王が苦しげな声を上げだしたのだった。巨躯の怪物は短い手足を無茶苦茶に振り回しながら身をよじっている。時折、口から漏れる不完全な炎の吐息が音を立てて不格好に虚空を焦がした。
「どうしたんだ、いったい」
殺意を削がれた格好になったアルテミシアは、短剣を持ったまま呆然とその場に立ったまま事の推移を見守っていた。
邪竜王は苦悶の表情でついには、どう、と轟音を上げて大地にのけぞると腹ばいになって、ひときわ高く叫んだ。
邪龍王はうつ伏せになったまま、巨大な翼を無為に動かすと、ついには長い首を天に向かって高々と伸ばした。
竜の首筋。
目を凝らしてみると、一点に裂け目が生じていた。
「ま、さか」
そのまさかであった。
竜の喉元の一部の裂け目はみるみるうちに大きく広がると、鋭い刃の切っ先を覗かせた。
キラリと白い刀身が周囲を焦がす炎を反射して妖しく輝いた。
「うそ、うそ」
アルテミシアは両手で自分の口元を覆うと、大粒の涙をこぼしながら、その奇跡を瞬きもせずにじっと見つめた。
竜の喉元の裂け目から青黒い独特の血液がザッと流れ出した。
――同時に、ひとりの男が体液と共に裂け目から地上へと転がり出た。
「クランド!!」
それは、竜の牙で粉々に噛み砕かれ完全に死んだと思われていた、志門蔵人の姿だった。
蔵人は長剣白鷺で邪竜王ヴリトラのもっとも皮膚の薄い部分。すなわち喉元の部分を掻き切ってようやく現世に生還を果たしたのだった。
「無事だったのか、無事だったのかクランド!!」
駆け寄ってくるアルテミシアの姿に目を転ずると、長剣とは別に持っていた奥の手を放り投げた。黒い円錐状の物体は、軽い音を鳴らして地上を転がると、彼女の足元で止まった。
「これは、ワイバーンのっ!」
「そうさ。やつの毒針だ。そいつで、ヴリトラのハラワタん中を引っ掻き回してやったのさ」
いうが早いか、蔵人は外套の前を割って長剣白鷺を引き抜くと邪竜王の背中に向かって一直線に駆け出した。
うなりを上げて迫り来る竜の尾の一撃を跳躍してかわした。
紅の鱗がかすれあって軋んだ音を立てる背中に飛び乗ると後頭部を目指して一気に駆け上がった。
ワイバーンの毒が内臓から全身にまわりつつあるのか、ヴリトラが身体をよじって苦悶するたびに、蔵人は刃のように尖った鱗にしがみつかなければならなかった。足場の悪い竜の背に乗って、決死のロデオがはじまった。
ずりずりと腹をこすりつけながら移動する。衣服が破れて、胸元から下半身までがおろしがねですり下ろされたようにズタズタになった。
そうしてようやく、二本の角が見える後頭部の際にまでたどり着いた。
長時間はもたない。
そう判断して、剣を持った右腕を振り上げた。
だが、振り下ろす前に一瞬躊躇した。
白鷺はあくまで対人用の武器であり、竜を殺すための耐久力は持ちあわせてはいない。
勝機は一度だけだろう。迅速さの上にも狙いは一部の隙もない的確さが要求された。
「アルテミシア! こいつの弱点はなにかねぇのか! まともにやったってウロコが硬すぎて剣が利かねえ!」
「伝説によれば、赤竜の首筋には一枚だけ違うウロコが存在しているはずだ! そこを狙うんだ!!」
お互いの声が交錯した瞬間に、ヴリトラは苦しみに耐え兼ねたのか、地上を蹴って天に向かって舞い上がった。巨大な両翼が強く羽ばたいて、一気に高度が上昇する。
無論、急速に高度が上がれば、酸素濃度や気温が一気に低下する。モンスターの中でも最強の耐久度を誇る竜種ならばともかく、蔵人の身体がどこまで耐え切れるかは甚だ疑問だった。
ならば、決着を急ごう。
風を切って邪竜王が天の階を駆け上がっていく。
蔵人の全身は冷たく凍りつき、流れた血潮はみるみるうちに凝固した。
舌を出して野良犬のようにあえぐ。肺の中から根こそぎ酸素が奪われていく。
剣を持った手から感触が失われていく。
冴え冴えとした月光の光に目を細めながら託された短剣を投げつけた。
ひょうと、夜気を切って銀の光が走った。短剣は狙いたがわず、残ったヴリトラの右目を突き刺すと完全に視界を封じた。
ぐらりと、ヴリトラの身体は浮力をなくして真っ逆さまに下降をはじめた。
浮遊感の中で、蔵人は眼を凝らし続け、ようやく一枚だけ明らかに差異のある半紙大の竜鱗を探り出した。
「フィリッポの供養だ、テメェの首は頂いてくぜ!!」
蔵人は満身の力を込め、急所目がけて長剣を振り下ろした。
鋼の砕ける音と共に、白鷺の刀身の半ばが砕け散った。
透明感の高い音がして、半紙大の逆さ鱗は真っぷたつになった。
埋まった刃の切っ先を叩き込むようにして、欠けた残りの刀身を全力で押し込んだ。
真っ赤な胴体が火を噴いて燃え上がる。赤竜の特異性である、炎を創り出す元となっていた引火性ガスを製造する体内器官が傷による体温の急上昇でオーバーヒートしたのだ。
苦悶の絶叫が天に轟いた。
「見えたか。そいつが三途の川だ! 邪竜王!!」
ズブズブと肉を割りながら長剣は進むと、ツバ元まで埋まると固着した。
赤竜は雄叫びを上げて全身を強く震わせる。蔵人は両手で剣を握ったまま虚空に身を躍らせながら必死にしがみついた。
「それにしても」
つくづく自分はついていない。
昨日と今日、そしていまで都合三度も三途の川を渡るハメになるとは。
誰かがいっていた。
人は死ぬと天に召されて星になると。
冗談じゃない。
頭上で瞬く星々など願い下げだ。
もし、今度生まれ変わるとしたら、地を這う虫で充分だ。
踏みつけにされる人生でも構わない。
なにもできずに瞬くだけの据え物よりも、泥にまみれてあえぐ虫けらのほうが生きてるって思えるだろ。
真紅に輝く流星となって、巨大な肉塊は地上へと墜落した。
ここに至って民衆を恐怖に陥れていた邪竜王ヴリトラの伝説は終焉を遂げた。
アルテミシア率いる残存部隊の捜索は三日後に竜の遺体らしきものを発見した。
彼女たちは、邪竜王が流れ落ちた方角に向かって険阻な山道を踏破し、その骸を前にして目を見張った。
深い谷底に横たわるヴリトラの身体は完全に炭化していた。数人の男たちが証拠として首を切り取る作業に従事していた。
「すげえ、こんなものをやったっていうのかよ、副隊長は」
「人間業じゃねえや。これで、名実ともに黄金の狼の名はロムレス全土に響き渡ったってことか」
「身震いがするぜ。この俺もその一員ていうと、街の女たちが放っておかねえぜ!」
「ったく、調子のいい野郎だぜ。おまえなんかはただ逃げまわっていただけだろ」
「なんにせよ、アルテミシア副隊長、いや聖女アルテミシアさまの名は伝説に残るぜ」
「ああ、竜を単独で撃破したってんだからな! 俺は心底誇りに思うよ。副隊長のことをよ!!」
男たちは軽口を叩き合い、沢のあちこちを懸命に歩きまわるアルテミシアを尊敬の眼差しで見つめていた。
一方、アルテミシアは金色の髪を振り乱しながら、小川の流れをものともせずに、周囲を血眼になって探していた。
(絶対に生きている。だって、約束したんだからっ!)
色を失ったくちびるでひとりごとをつぶやく彼女の耳に男たちのざわめきが飛びこんできた。
「おおおーい! ここに、なにか落ちてるぞ!」
「なんだぁ? こりゃ、鞘か」
アルテミシアは人垣を割って騒ぎの中心部に駆け寄った。
川岸の流れが澱んだ場所にそれはひっそりと佇んでいた。
白金造りの鞘は流れに洗われたのか表面はぴかぴかに陽光を移して輝いていた。
細かい流木に絡まって、上手い具合に斜めに立った鞘はまるで墓標のように厳かだった。
「あ、あ、あああっ」
アルテミシアは腰まで浸かる川の水を切って進むと、両手を広げて鞘をしっかりと両胸に強く抱きしめた。
全身が瘧にかかったように強く痙攣する。
涙をあふれさせながら、鋭く息を吐きだした。
「死なないって約束したじゃないか!!」
聞く人の胸を打つ、悲痛な哀切の叫びが、冷たい風の吹きすさぶ夏の谷底を響き渡った。
アンドリュー伯領地記録簿によると、邪竜王ヴリトラは、クラン“黄金の狼”の副官アルテミシア・デュ・ベルクールの手により討たれり、とある。
記録の中に他の名は残されていない。




