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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
49/302

Lv49「終極点」






「どうやら、この毒針にはダウナー系の麻薬と同じ成分が含まれてるっぽいな」

 蔵人は切り落としたワイバーンの毒針を拾い上げると、しげしげと見つめた。

 長さはおおよそ四十センチほどであろうか。

 針の先端には返しはついておらず、美しい円錐型をしていた。

 墨石とそっくりな色と硬さであった。

 先端の部分に極小の穴があり、そこから毒を射出する仕組みになっていた。

「ダウナー系?」

 聞き慣れない言葉なのか、アルテミシアが眉間に眉を寄せた。

「なんつーか、妙に欝な気分になったり死にたくなったり、こう気分がひゅーんと急降下するんだよ、意味もなく。ま、良い子ちゃんのアルテミシアは知らないだろう」

「むむ。クランドはまた私を馬鹿にしているな。だうなんとかは知らないが、要するに薬物のことだろう。そういえば、私も洞窟内で毒に当たったら妙に気分が落ちこんだな。いまは時間が経ったから毒が抜けたのか平気だがな」

「おまえは刺されてなかっただろう。なんで、ワイバーンの毒に当たったんだ?」

「それは、おまえの……ど、ど、どうでもいいだろうが!」

 アルテミシアは急に頬を林檎のように真っ赤にすると、ぷいと横を向いた。

 蔵人は彼女の反応に戸惑いながら、拾った毒針やらウロコやらを革袋に詰めはじめた。

「なにをしているんだ?」

「いや、戦利品だ。ほら、なにか貴重な素材としてさばけるかもしれないだろ」

「ホクホク顔のところ悪いが、たぶんワイバーンの鱗は二束三文だと思うぞ。戦ったとき、さほど苦労しなかったろう」

「さほどって、アンタ」

「こいつは、竜種としては一番下等な部類でトカゲに近いとか揶揄されていたが、モンスターの平均値で考えれば充分強い。それでも、素材としての価値はないのだ」

「うぞっ!? マジでかよ。こんなに苦労したのに」

「割に合わぬ敵だったな。毒針と身入りの少なさ。こいつが、冒険者に嫌われる理由のふたつだ」

 蔵人はワイバーンの死骸を蹴りつけると、剥ぎ取ったウロコを半泣きで叩きつけはじめた。

 アルテミシアは癇癪を起こした子どものような彼の態度に困ったような笑みを浮かべた。

「ともあれ、攻略依頼は完遂した。だが、噂にしおう邪竜王としては少々物足りなかったな。さ、幕営地に戻って、少し休もうではないか」

「ああ、あれっ? そういえば、他のやつらは?」

「うむ。それも少し気になっているんだ。おまえが連れていた道化とアーノルドとソシエはどうしたのだろう。無事に戻っていればいいのだが」

「ああ、そういやフィリッポの姿が見えな、い!?」

 回収した長剣のコジリで死骸をつついていた蔵人の身体が、がくりと崩れた。

 咄嗟にアルテミシアは腕を伸ばして抱きとめた。

「な、んだ。急に力が入らねえや」

強化魔術(ストレングス)で身体能力をフルに使ったからだ。アレは反動がすごい。もっとも、支援魔術がなければ勝つのはちょっと難しかっただろうな」

「なーんでおまえは平気なんだよ」

「私は支援魔術をかけなかった。その差だろう」

「マジで?」

「疑い深いな。本当だよ」

 蔵人はアルテミシアの困ったようなややタレ目がちな瞳を見て、つくづく才能の差を思い知らされた。

 落ちた長剣を拾って腰の革ベルトに落としこむ。

 剣の柄を握った腕にまるで力が入らない。

 指先の震えが伝わって鞘がカタカタと鳴った。

「マズイな、これは」

 蔵人の怯えを察したのか、アルテミシアが力強くいった。

「なに、仕事はもう終わった。それに、もしものときは私がおまえを守ってやる」

「これを見越して、自分に魔術をかけなかったのか」

「ふたりとも動けなくなってしまえばもしものときに困るだろう。それでなくても、この辺りはどんな凶悪なモンスターが出てきてもおかしくない。竜は倒しましたが帰り道でやられました、ではいかにも格好がつかないだろう?」

「以外と現実的なんだな」

「女は皆、現実的な生き物なんだ。男と違ってな」

「夢見る乙女かと思ってた」

「ばか」

 蔵人は肩を借りながらゆっくりとした歩調で村までの道を移動した。

 ふたりは、ほぼ変わらない背の高さなので歩行には支障はなかった。

 日は落ちたばかりで、辺りはまだ完全な闇ではなくうっすらと周囲の地形を読みとることができた。

「待て、誰かいるぞ」

 アルテミシアが低くつぶやく。蔵人は目を細めて前方を見やると、挽肉の谷(ハンバーガー・バレー)の最後の上り部分に小さな影を見つけた。

「おまえ、フィリッポじゃないか!」

「あいたっ! ちょっと、ひどいじゃないか!」

 蔵人はアルテミシアから肩を振りほどくようにしてフィリッポに駆け寄った。押された拍子に彼女は尻餅を突いて抗議の声を上げた。

「おい、だいじょうぶか! しっかりしろよ、おい!!」

「へ、へへ。兄貴」

 フィリッポの全身は見るからに激しく傷ついていた。

 だぶついたまだらの衣装は、ところどころが引き千切られてカギ裂きになっている。

 緑の帽子は埃まみれで、流れ出た血で左腕は真っ赤に染まっていた。

 明らかに激しい暴行を受けていた。

「なんというひどいことを。強く気を持つのだぞ」

 アルテミシアはフィリッポに向かって治癒の魔術を施した。回復の光(ヒーリングライト)の淡いブルーの光が道化の全身を包んでいくにつれ、蒼白だったフィリッポの表情へと徐々に赤みが差した。

「さ、さすが神官騎士さまで。兄貴、この方を大事になさってくだせえよう。おいらみてぇあなモンにまで、こんなもったいねえ神のご加護を授けてくださるなんて。顔かたちだけじゃなくて、こころまで美しい方だ」

「世辞などよい。こら、道化。無理に起きるのではない」

「そうだ、フィリッポ。寝たままでいいから話してくれ。いったい、なにがあった」

「おいら決して逃げたわけじゃねえ。こ、これを」

 蔵人はフィリッポの差し出した小瓶を受けとると、蓋を開けて匂いを嗅いだ。

「毒消し。そうか、おまえ、俺のために」

「なんだか、兄貴、元気そうだけど。はは、余計なおせっかいだったかな」

「そんなこたぁ、ねえ! さっきから、刺されたところがジクジク痛むんで助かったぜ!」

 蔵人が小瓶の中身を一気に飲み干すと、フィリッポは満足げに目を細めた。

「えへへ、やっぱ兄貴はやさしいなぁ。おいら、頑張った甲斐があったよう」

「誰にやられた!」

「ちょいと、冒険者さんたちのテントへお邪魔したときに、見つかりやして。ワン公をけしかけられるやら、石を投げられるやらで。ドジ踏みやした」

「緊急事態だったんだ。正直に話せばウチの者だって……」

「そいつは違いやすぜ、騎士さま。どんな非常時だって、おいらのような半端者の話を世間さまが真面目に取り合っちゃくれねえのは普通のことなんで。元より下賤の身。人さまのお情けで生きてるような人間ともいえないおいらたちのようなモンは、ときにはドブネズミのような真似事でもしなくちゃ、本当に必要なものは手に入らねえんで。騎士さまは本当におやさしい方だ。けんども、おいらのような人間にやさしくしてくれる兄貴や騎士さまのほうが珍しいってことなんで」

「そんな」

 アルテミシアが口ごもる。蔵人は無言のままフィリッポを背負うと歩き出した。

「おい、背負うなら私に任せてくれ」

「いや、こいつは俺の弟分なんだ。これくらいはさせてくれよ」

「兄貴」

 蔵人はふらつく足を無理やり前に出して坂道を登り出した。背中で、鼻をすすり上げる音が聞こえる。感極まったフィリッポが泣き出したのだった。

「男がそう簡単に泣くもんじゃねえ」

「すいやせん、すいやせん」

「フィリッポ、ひとつ聞きてえことがある」

「へい」

「おまえ、もしかしてこの村に縁のある人間なんじゃないか」

「へへ。お見通しでしたか。兄貴のおっしゃる通り、おいらここの生まれなんで」

 フィリッポは幾分逡巡したあと、あっさりと口を割った。

「おいら生まれつきこんな身体なんで。野良仕事をロクに手伝うこともできねえ。口減らしの為に十のとき、人買いに売られたんで」

 なんとなく想像はついていた。よそ者を泊める宿がないにしても、金を払って土地の百姓に頼めば、一晩程度はなんとかなったのだろう。

 村の中心部から離れた物置小屋に向かったときも、竜の巣へといく道筋も、フィリッポの歩き方は道を調べておいただけでは説明のつかないような慣れた足取りだった。

「この村が貧しいのは竜が襲いはじめたからそうなったってわけじゃねえんですよ。元々がたいしたモンがとれるわけでもねえんで。けど、少なくともおいらが叩き売られる十年前はこれほどひどいありさまじゃなかった。邪竜王だかなんだか知らねえが、そんなわけのわからねぇバケモンが暴れまわってると聞けば、許せねえじゃねぇですか。ここには、まだ、おいらの親兄弟が暮らしてるんでさ」

「おまえ」

「おいらのやることなんざ、いっつも間の抜けてることばっかりで、それでなくてもなんの役にも立たねえ半端者。なにができるってわけでもねえが、矢も盾もたまらず駆けつけたんで。兄貴がご無事って、ことは竜の方は」

「ああ、なんとかな」

 蔵人の言葉を聞くと、背負われていたフィリッポの身体が強く硬直した。

「兄貴の努力に水を差すようで申し訳ねぇが、あいつはおいらが子供の頃に見たバケモンじゃあねえんで。本物の邪竜王は、まだ生きてやす」






 フィリッポの言葉が真実だったことはすぐに証明された。山路を踏破して村にたどり着いた蔵人たちが見たものは、辺りを覆い尽くさんばかりに舞い上がる紅蓮の炎の渦だった。

 軍隊と冒険者たちの野営地は、暗闇に咲いた無数の薔薇のようにあたり一面の天幕が真っ赤な炎で覆い尽くされていた。

 逃げ惑う男たちや娼婦の悲鳴に混じって、あらゆる物が焼け焦げて火の粉を天に巻き上げていた。

 被害は野営地のみにとどまらず、隣接していた農村の半分以上が真っ赤な炎の舌に舐められて燃え上がっている。

 木材の弾ける音に混じって逃げ惑う農婦の悲鳴や、子どもの泣き声が耳を聾さんばかりに響いていた。

「そんな、ようやく倒したというのに」

 アルテミシアが愕然とした表情でつぶやく。

 野営地を暴れまわっているのは、先ほど苦労して倒したワイバーンと同種のものであった。

 総勢四体である。

 ワイバーンたちは手当たり次第といった形で人々を蹂躙していた。

 領主の揃えた兵士は農民を軍役によって無理やり徴募したものであり、はじめから戦意は甚だ乏しかった。兵隊たちは算を乱して潰走すると、あとに残されたのはおこぼれを狙ってやってきた各地の商人や娼婦たちだった。

 ワイバーンが陣幕を紙切れのように吹き飛ばし、長い首を伸ばして人々をついばんだ。

 砕かれた肉体は辺りに血の雨を降らせながら、崩れたテントの布地を赤く染めていった。

 夕餉どきというのもついていなかった。熾された火の気は折からの強風に煽られ、すさまじいスピードで伝播していく。狂奔の渦は人々から冷静な思考を残らず刈りとった。

 その場に踏みとどまって戦おうとする冒険者はごく一部であった。まるで連携の取れないまま個々に立ち向かっていく者たちから、次々にワイバーンの牙と毒針に命を落としていく。まさしく阿鼻叫喚。この世の地獄がビスケス村に再現された。

 混乱を避けて丘に移動した蔵人たちの元へと村人たちが幽鬼のような足どりで集まってくる。

 もう、おしまいだ。

 農夫の誰かがそうつぶやくと、ひとりがその場に腰から崩れ落ちた。連鎖的に村人たちはその場にしゃがみこんでいく。

 蔵人は背中が生暖かく濡れるのを感じた。

 フィリッポが声を押し殺して泣いているのである。

 なんとかしてやりたいと、切に思う。

 だが、ワイバーン一体を倒すのですら危うかった。不死の紋章が自分にはあるとはいえ、傷を回復させたのちの激しい疲労感は癒えるどころかますます強まっている。

 蔵人は右手をそっと伸ばして長剣にふれた。指先の震えは止まらず、いっそう倦怠感は強まっていた。眉間にしわを寄せて柄を握り締めた。それを見とがめたアルテミシアが無言で首を横に振っていた。

「クランド。確かに悔しいが、もう我々の手の及ぶところではない。私たちに出来るのは、一刻も早くシルバーヴィラゴに戻って鳳凰騎士団の出馬を要請することだけだ」

 シルバーヴィラゴにはアンドリュー伯虎の子の一個師団が常駐していた。ワイバーンがいくら凶悪なモンスターであっても、最新鋭の整った装備を持つ軍勢の前では無力である。

 もっとも百万を超える人口を持つ大都市の各地に分散された兵を招集するとあれば、ビスケス村はおろか、付近数十ヶ村のうちどれほどの被害が出るかはわからなかった。

 また、シルバーヴィラゴにもっとも近い“いらずの森”では敵対しているダークエルフの動きが活発化しており、おいそれと兵を動かせない理由もあった。

 列挙した理由はシルバーヴィラゴに住む人間ならば誰でも知っていることである。アルテミシアは自分の口にした言葉がどれだけ空虚なのかを改めて理解したのか、恥じたように顔を伏せた。

「おい、なんだよ、あれは」

 眼下の燃え盛る村を見ていた男が絞り出すような声をだしてうめく。蔵人たちが視線をその先に転ずると、一同は示し合わせたように目を見張った。

 その怪物は、いままで人々を思うさま蹂躙していたワイバーンよりも、はるかに大きな体躯をしていた。

 燃え盛る炎と月の光に照らされて、全身の真っ赤な鱗が輝いていた。

 大きな翼が羽ばたくたびに、ワイバーンたちが怯え切った声を上げる。

 振り上げる指先の個々の爪はそれ自体が鋭い剣のように太く凶悪だった。

「あれだ、あれが本物の邪竜王ヴリトラ。おいらのおとっつぁんを殺したバケモノだ」

 フィリッポの声から完全に感情が抜け落ちていた。

 邪竜王の正体。

 それは、竜種の中でも上級四種に数えられる赤竜(レッドドラゴン)だった。

 赤竜はワイバーンを追いかけながら、口を大きく開けて白々とした牙を暗夜にきらめかせた。

 赤竜の口腔には特殊な可燃ガスを発生させる気管が存在しており、任意的に高熱の炎を発生させることができる。

 赤龍が雄叫びを一際高く上げると、業火が真っ直ぐに目前のワイバーンに向かって吹きつけられた。火だるまになったワイバーンが叩き落とされた羽虫のようにあっさりと地上に落ちてゆく。

 赤竜は、中空でワイバーンの胴体に牙を立てるとくわえたまま地上に降り、それから悠然と食事に取りかかった。

「なんてやつだ。ワイバーンはあいつのエサなのかよ」

 本来赤竜はロムレス王国よりもはるか南に位置する地域にしか生息しない生物である。

 通常夏季には人里に姿を見せないはずのワイバーンが頻繁に出没するようになったのはすべてこの赤竜が原因だった。

 ワイバーンの主食とする中級モンスターを赤竜がすべてたいらげてしまったのである。

 そして、赤竜のとどまるところを知らない食欲の対象となったのは、下位種にあたるワイバーンだった。

 赤竜は一匹目のハラワタを喰い終わると、首を天に向かって垂直にし、地を蹴って飛び上がった。

 遠目にもそれは一個の赤い弾丸だった。

 上空を旋回するワイバーンに向かって襲いかかると、巨木のような極大の尻尾を振り回して、ハエのように二匹を地上に叩き落とした。

 死が目前に迫ったとようやく一匹のワイバーンが理解したのか、背を見せてその場を離脱した。飛龍と冠されるように、ワイバーンの速度は疾風のようだった。

 だが、赤竜は彗星のように一瞬でその差をゼロにすると、一瞬で片羽を噛み千切ってワイバーンの飛行能力を奪った。

 赤竜は地上に落ちた三匹がもがいているのを見ると、カッと口を開いて紅蓮の炎吐きつけて動けなくした。

 そばにいた気骨のある冒険者が弓を構えたが、赤竜はハエを払うように尾の一撃を加えた。

 男は瞬間的に膨大な衝撃を受けると全身の骨を粉々に砕かれて絶命した。

 竜種という最強生物の前では、人間はあまりにも無力だった。

「このままでは、援軍が来るまでに付近の村々はすべて全滅してしまう」

 アルテミスがふるえる声を出した。村人たちはすでにすべてを諦め切ったのか、ほとんど声に反応することなく凍りついたように目の前の光景を眺めていた。

「兄貴、ここでおろしてくだせえ」

 フィリッポは蔵人の背中から降りると、よろけながらも自分の足で立った。

「おい、待て。道化。なにを考えている。やめろ」

「騎士さま、止めねえでくだせえ」

「馬鹿な、みすみす死ぬとわかっているものをどうしてそのまま行かせられようか」

「だったとしても、このままあのバケモノの好き勝手にはさせておけねぇんだ! 確かに、おいらは人間以下の半端者かもしれねえが、てめえの生まれた村がメチャメチャにされるのをこれ以上黙っては見ていられねえんだ! おいらの大好きなおとっつぁんを食い殺したあのバケモノへせめて一太刀なりとも切りつけてやらにゃあ、あの世へ行っても浮かばれねえよ!」

「よせ、行くな!!」

 フィリッポは制止の声を無視して、一気に丘を駆け下っていった。連れ戻そうと蔵人たちが身を乗り出すと、その背に向かって甲高い女の声が浴びせられた。

「待って、待ってよクランド!」


 蔵人が聞き覚えのある声に振り返ると、いつの間にかそこには難を逃れてきた娼婦の一群とマリアの姿があった。

「行かせておあげよ。それが、あの子のやりたいことなんだよ」

「なにがやりたいことだ! おまえらフィリッポとは俺なんかよりずっといっしょにいたんだろうが! このまま行かせたらあいつ確実にくたばるだけじゃねえか! あいつが死んでもなんとも思わねえのかよ!!」

「思わないわけ無いだろう! フィリッポはあたしの血を分けた実の弟なんだよ!!」

 蔵人は呆然としたままマリアの顔を見つめた。彼女の顔は奇妙に歪んだまま、涙をこらえていた。

「そうだよ、あたしが十四、フィリッポは十のときに実の母親に売り飛ばされたんだよ! でもね、恨んじゃなんかいないよ。オヤジがあのバケモノに喰われてからは、母さんがどんだけ苦労していたか知ってたから。七人もいる兄妹を食わせるには誰かを人買いに売りとばさなきゃ年貢も払えなかったからさ! ここのアンドリュー伯は都に行きっぱなしでロクに帰っちゃこない。代官はやりたい放題で、咎める人間すらいやしない。街で働けばいい? 冗談じゃない、字も読めない、畑を耕すしか能のない百姓が街に行ったって出来るような仕事もないんだよ。あたしら百姓は畑にしがみついてなきゃ生きてはいかれないんだ。あたしは娼婦だ。この世に男さえいれば、いくらだって銭は稼げるんだ。だから、どんな泥水をすすったって歯を食いしばって、銭を貯めて、家族のために送り続けてきたんだ。ねえ、クランド。知ってたかい? 代官がいうには、この世で一番悪いことは領主に年貢をおさめないことなんだってさ。え、おさめなかったらどうなるって? 決まってるだろ、そんなの。縛り首さ。あたしはきょうまで、母さんや兄さんたちを縛り首にさせないために頑張ってきたんだ。それなのに、ご領主さまの兵隊も冒険者たちも残らず逃げだした。誰も守ってくれない、誰も守ってくれないんだ! 村もめちゃくちゃにされちまった。今年の収穫はこれでぜんぶお釈迦だよ。あたしとフィリッポが力を合わせて守ってきたものがぜんぶダメになったんだ。だから、止めないでおくれよ。せめて、あの子の人生に悔いがないようにさせてあげてよ。お願いだよ」

 マリアの頬へ一筋の涙が流れた。蔵人の瞳に火柱を上げて崩れていく藁葺き屋根が目に入った。眼下の村々が赤い炎に舐め尽くされていく。

 もはや、人の住める場所ではありえなかった。

 脳裏にポルディナの凍えきった哀しい瞳が蘇った。

 マリアとポルディナ。

 種族が違えどもふたりは同じだった。

 蔵人はあの日見た、緑の笹舟がきらめく小川を渡りきる場面を想像してみた。

 だが、幾度脳裏に思い描いても、笹舟は無残に白く大きな渦に呑まれて粉々に砕け散った。

 渡りきることはできない。

 そう運命づけられている。

 だったら、その小舟を俺が渡してやらぁ。

 長剣を握り締める。

 震えはもう消えていた。

 蔵人が腰をかがめて草地のグレートソードに手を伸ばすと、アルテミシアの表情が蒼白になった。

「まさか、おまえまで馬鹿なことを」

「安心しろよ。そこまで考えなしじゃねえや。ところで、邪竜王の懸賞金だが。参考までに聞かせてくれ。見当でいい、おおよそどれくらいに出ることになってた」

「はあ? ああ、攻略依頼の懸賞金は額にもよるが、一ヶ月以上はかかるだろう。しかし、なんでそんなことを聞く。やっぱり!」

「そう、そのやっぱりだ。一ヶ月後じゃ間に合わん。邪竜王討伐の懸賞金、俺の取り分はマリアにくれてやってくれや」

 蔵人は大剣を背中にかつぐと、外套を翻しながら風のように麓の村目指して走り出した。後方で叫ぶアルテミシアの声がどんどん小さくなっていく。

 知っている、自分でも愚かなことをしていると。

 本当に今度こそ命取りだと自分でも思った。

 あのワイバーンをあっという間に四体も屠った赤竜は真の意味で怪物だった。

 あのバケモノを切り倒す自分がまるでイメージできない。

 勝ち得ない。微塵も自信がない。

 蔵人は恐怖に怯えながらも、目に見えない巨大なものが自分の背中を押し続けていることに気づいた。

 怒りである。

 理不尽な暴力に対する怒り、無力な自分に対する怒り、そしてなによりもそんな邪悪に屈しそうな自分の魂に対する怒りだった。

 斜面を下りきって野営地にたどり着くと、周辺一帯にはいまだ逃げ惑う兵士や冒険者の姿があった。

 彼らがこの村に来た理由は、冒険や功名、付随する莫大な利益のためだったはずであった。

 だが、想像し得ないほど巨大な赤竜の存在の前にはすべての薄っぺらな虚栄心は残らず剥がし落とされ、最後に残ったのは生物としてもっとも原始的な欲求である生存本能のみであった。

「返して、返してよおぉ! それは、あたしのおたからなんだよおおっ!」

「うるせええっ!!」

 蔵人が女の絶叫に振り返ると、そこにはひとりの農婦から首飾りを取り上げようとしている重騎士ステファンとそれを取り囲む四人の男の姿があった。

「ねええ、そこのひと! あの首飾りは、あたしのにいちゃんが嫁入りのためにって送ってくれたたからものなんだよお! 取り返しておくれよお!」

「へ、なんだてめえ。そうか、あのときの腰抜けくんじゃねえか」

 巨漢の重騎士ステファンは脂ぎった顔を歪ませながら農婦を突き飛ばすと、蔵人に向かって吐き捨てた。

「どうした! えええ、文句があるってツラじゃねえか。チッ。ワイバーン一匹っていうからこの俺さまがわざわざこんな田舎くんだりきてやったってのに。領主の兵隊は腰抜けだし、アルテミシアの息のかかった野郎どもはいうことは聞かねえわで、胸糞悪すぎだろうが! ってことは、帰りの駄賃に金目のモンと女の一匹や二匹くれえお持ち帰りしねえとワリにあわねえやっ! あああん? この土百姓女が! 俺さまの肉穴奴隷にしてやるっていうんだから、感謝の意味もこめて金目のモンは残らず吐き出さんかい!」

「そんなの頼んだ覚えないよう! ばか! ぶた!!」

「ンだと、クソ百姓がああああっ!!」

 ステファンが手斧を農婦に向けて振りかざした。

 蔵人が走り出そうとした瞬間、天幕から小さな影が素早く駆け出し農婦を突き飛ばした。

 手斧がサッと閃くと、鈍い音と共に小さな影が転がった。

 飛び散った血飛沫が天幕の脇にある木箱をドッと音を立てて打った。

「……うそ。にいちゃん」

 農婦は血に染まった緑の帽子を握ったまま尻餅をついたまま放心状態でいった。

 蔵人の目の前には深々と背中を断ち割られたフィリッポの姿があった。

 ステファンがふてぶてしく唾を吐き出すとフィリッポの顔にかかった。

 一瞬で、蔵人の理性は霧散した。

「おおおおおおっ!!」

 蔵人は絶叫に近い吠え声を上げるとかついでいた大剣をステファンの腹に向かって放り投げた。

 分厚いグレートソードは異様な音を立てて旋回しながら弧を描いた。

 ズン、と肉を断ち切る音と共に、大剣の刀身の半ばがステファンの腹に深々と埋まった。

「あ、え? な?」

 ステファンは持っていた手斧を指先から滑り落とすと、その場に膝をついて崩れ落ちた。

 同時に蔵人は腰の長剣を抜き放っていた。

 長剣が鋭い音を立てて真一文字に振り下ろされる。

「ぎぃやあああああっ!!」

 蔵人の長剣が真正面からステファンの顔面を真っ二つに切り落とした。

 ステファンは顔面を両断されると、赤黒い血飛沫と砕かれて破片となった前頭葉を撒き散らしながら全身を痙攣させて絶命した。

 残った四人の男は持っていた箱を放り投げると、剣を構えた。

 蔵人は身を低くして男の腰に向かって剣を走らせた。

 銀線が飛び散る火の粉を叩いて虚空を切り裂いた。

 絶叫が甲高く上がった。

 男は脇腹を深々と断ち割られると泳ぐように前方に倒れ込む。

 怯えて逃げ腰になった男に向かって蔵人は高々と跳躍した。

 白刃が半円を闇夜に刻んだ。

 男は喉元をえぐられると剣を取り落として両手で自分の傷口を覆う。

 袖口を流れ出た血液がぐっしょり濡らしていく。

 最後に低くうめくと、眼球をぐるんと反転させて絶息した。

 男の一人が狂ったように剣を前後に振り回しながら突っこんでくる。

 蔵人は男の足を引っかけて転ばせ、左手に持ち替えた長剣を逆手のまま水平に振るった。白刃は存分に男の腹を薙ぐと内蔵を断ち割って男を絶息させた。

 最後のひとりは女のような悲鳴を上げながら背を向けて逃げ出していく。

 蔵人は落ちていた手斧を拾うと勢いをつけて投擲した。

 ひゅんひゅんと軽快な音を立て旋回する。

 手斧は逃げ出した男の右即頭部に突き立った。

「にいちゃああん」

 農婦が小柄なフィリッポに取りすがって泣いている。蔵人は片膝を突くと目を細めてくちびるを噛み締めた。フィリッポの傷は深くもはや手の施しようはなかった。

「……カロル。泣くんじゃねえ。兄ちゃんはこういう運命だったんだ。……へへ、兄貴。カッコつけて飛び出した割にはまったくもって締りのねえことで。へへ」

 フィリッポは血泡をはくと、よろよろと立ち上がった。

「だめだよおお、にいちゃああん! 寝てなきゃああっ!」

「兄貴、そういやおいら兄貴にゃ道化らしい芸のひとつも見せてなかったんで。……最後にひとつ見ていってくだせえ」

 そういって薄く笑うと、どこから取り出したのか綿の玉を取り出しジャグリングをはじめた。

「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。どうした、カロル! 黙って見てねえでなんとかいったらどうでぇ!」

 カロルは顔を伏せて泣き声をさらに高く上げた。

 胸を打つ悲痛さが耳に残った。

 芸をはじめたフィリッポは痛みなど無かったかのように、宙に玉を投げては取りと、素早い指さばきを見せた。時折、動物を真似たマイムを織り交ぜ、滑稽に振舞った。

「うまい、うまいぞ、フィリッポ! おまえは世界一だ!」

 蔵人は感情を隠すように大声を放った。カロルの叫びが続けて覆いかぶさった。

「にいちゃああああんっ!」

 宙に投げた玉が順繰りに伸ばした右腕へ着地していく。

 五つ目の玉が綺麗に揃って並ぶと同時に、フィリッポはその場に崩れ落ちた。

「……兄貴。おいらぁ、自分のことをずっと半端もんだと思ってた。生まれついてのこの身体がたまらなく嫌いだった。でも、……いまは好きになれそうな気がしやすよ。これを……」

 蔵人は手渡された短剣を受けとると深くうなずいてみせた。

「おまえは半端者なんかじゃない。ちゃんと妹を守ったんだ、もう、立派な一人前さ」

「……えへへ。うれしいな、……おいらは、もう半人前じゃねえ。……一日だけだけど、兄貴といっしょに……いられてよかったよ。なぁ、……このケガが治ったら、冒険に連れて行ってくれるかい、兄貴」

「ああ、連れて行くさ。どこへだって」

「いやだあああ、にいちゃあああんん! 死んじゃやだああっ!!」

 カロルが泣きわめいて身体を揺すった。

 反動で、真っ赤なつけ鼻がポロリと落ちる。

 フィリッポは夢を見ているように安らかな顔のまま、もう目を覚ますことはなかった。






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