Lv48「不死身の男」
朝焼けに照らされながら崩れ落ちる蔵人の姿を見ながら、アルテミシアの頭の中は一瞬真っ白になった。
蔵人にかばわれたという事実だけが明白に残り、遅れて激しい激情が彼女を襲った。
手負いの獲物にトドメを刺そうと、ワイバーンが真っ直ぐに向かってくる。
朝の冷気を切り裂いて、木枯らしのような乾いた音が甲高く響いた。
「ふ」
アルテミシアは握った槍に全力を込めると真っ直ぐ向かってくる竜に向けた。
怒りと絶望が一緒くたになった感情で全身を燃え上がらせた。
「ふざけるなああっ!!」
白銀の槍は風を巻いて一直線に走った。
空気を引き裂いて光のように流れたその一撃は竜の脇腹を存分に薙ぐと、辺り一面に青黒い体液を雨のように音を立てて降らせた。
ワイバーンは、痛みのあまりに鼓膜を聾さんばかりの絶叫を上げると、空中へと飛び上がった。
アルテミシアは荒い息を突きながら痺れる右手を見やった。
充分な手応えだったが、あの化物は悠々と空を飛びまわっている。
さすがは生物上では最高峰に分類される竜種である。
並のモンスターならば一撃で屠った会心の一撃を受けても悠然と大空を駆けていた。
「アルテミシア」
「クランド、大丈夫か。いま、私が助けてやるからな。回復の光!」
アルテミシアは仰向けになってうめく蔵人に向かって治癒の神聖魔術を唱えた。
彼女の手のひらからは、淡いブルーの光が蔵人に向かって放射された。
自己治癒能力を活性化させる簡易回復術であった。
だが、彼の苦痛はまったく軽減されることなく、それどころか全身は死人のように青ざめて小刻みに痙攣をはじめた。
ワイバーンの尾には、強烈な毒があるという。彼女は、自分が解毒の魔術を使えないことに歯ぎしりをした。
もっとも、魔術にはそれぞれ適性があり、個人の努力では習得できないといった部類も存在する。アルテミシアは神官騎士だけあって武芸には長けていたが、使用できる神聖魔術は初歩の回復魔術と幾つかの無属性支援魔術だけだった。
「ダメか。よし、待っていろ。いまから幕営地に戻って毒消しを――」
「危ない、副隊長!」
その声にアルテミシアが振り返った瞬間、後方の男が舞い降りたワイバーンに鷲掴みにされたのを見た。
「はなせえええっ! おびゅっ!!」
男の胴体はワイバーンの下肢が力をこめると、紙細工のようにクシャクシャに潰れた。
四本の趾がぐっと開く。バラバラと音を立てて、上下に分断された男の身体が真っ赤な体液と臓物を撒き散らし、音を立て大地に墜落した。
「おげえっ!」
その光景を直視した男が、こらえきれずに胃の内容物をビタビタとその場に吐き出した。
えづくのをこらえて剣を構える他の男たちも、異様な恐怖感と戦いながら握った柄をカタカタと震わせていた。
肉塊を放り出したワイバーンは、間髪置かずに再び男たちを狙って鋭く急降下した。
竜の鋭い牙は長剣を幾重にも連ねたように強靭だ。
反射的に皆がその場を飛び退くが、ショックで棒立ちになった者がふたり取り残された。
緑の烈風が低い音を立てて集団を突き抜けた。
同時に、ふたりの男が革鎧ごと胸と脇腹を食い破られ、声もなくその場に倒れた。
飛び退いたひとりが反撃を試みようと弓を構えた。
矢をつがえようとするアクションに気づいたのか、ワイバーンは狙いを定めると再び弾丸のように風を切って飛来した。
「おわああっ!!」
男が矢を放つよりもはるかに素早くワイバーンは空を切り裂いて疾駆する。
すれ違いざまに毒尾の一撃を男の胸元に浴びせた。
竜の尾は剣のように研ぎ澄まされている。
ビシッと、濡れた雑巾で乾いた戸板を叩いたような音が響いた。
鋭い毒針は真一文字に男の中心部を刺し貫くと、同速で抜き取られた。
「え、お、え?」
男は自分の胸元に穿たれた暗渠を見ると、信じられないといった様子で、血泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
口元からはどす黒い血液がごぼごぼと音を立てて流れ出し、顔や手足は墨を塗ったように一気に青黒く染まった。瞳孔が開き、呼吸が続いて停止。蔵人の受けた傷よりも毒の注入量が多かったのだろう。瞬間的に絶命した。
周囲を見回すと突然の奇襲攻撃で残りの六人も完全にうろたえている。
アルテミシアがこの場に引き連れた冒険者たちは、間違いなく黄金の狼のクラン中で、十指に数えられる凄腕だった。
だが、ワイバーンを前にしては、まるで駆け出しの初心者のようにいとも簡単に四人も葬られてしまった。
血液と嘔吐物の混じった激臭が、アルテミシアの鼻を鋭く突く。連鎖的にこみ上げる吐き気をこらえると、頭上を旋回するワイバーンをにらみ、平静を保とうと努めた。
(落ち着くんだ、アルテミシア。クランドを安全な場所に確保してから、いったん引いて態勢を整えよう。遮蔽物のないこの場所で戦うのは不利だ)
「密集隊形を取るんだ! それから、岩壁まで後退するぞ! アーノルドとべゴット、ルーカスは前衛、トマスとリック、ソシエは後方支援だ!」
アルテミシアが声を張り上げると、皆はいっせいに訓練通りの隊形を整えた。前方の三人は槍の穂先を揃えてワイバーンを牽制し、後方の三人はクロスボウを構えて射線を重ねた。一気に陣形を組み上げると、一隊はじりじりと後退した。
アルテミシアたちが一箇所に固まったのを見て警戒したのか、ワイバーンは攻撃を中止すると、翼を羽ばたかせながら地上に降り立った。身の毛もよだつ声で吠えると、長い首を転がった骸にぐっと伸ばした。
「まさか」
「ちくしょおおっ!」
「やめろっ、やめろおっ!」
呆然とするアルテミシアたちを尻目に、ワイバーンは大きく口を開くと悠然と死体を貪りはじめた。
尖った鋭い牙が陽光を反射させてきらめいた。
ワイバーンは死体を頭から丸呑みにすると幾度か顎を上下させた。
にちゃっ、にちゃっと肉塊が食道を降りていく音が響いた。
ブツリ、と千切られた骸の足が地面に転がり落ちる。
男の履いていた真新しい編上げ靴の底がぴかぴかと光っていた。
「や、やめてくれぇええ」
脇腹を食い破られた男はまだ息があったのか、ずりずりと地を這って逃げようとしている。体液にまみれたピンク色の大腸が裂かれた左脇腹から露出していた。
ワイバーンは次の獲物に狙いを定めると、男のはみ出したハラワタに牙の先を引っかけて弄ぶように動かした。
「いだああっ、だずげでぇえっ」
男は苦痛を口にしながら両手の指を地面に突き刺してもがく。
乾いた土煙が沸き立った。
やがて、ワイバーンはハラワタ引っぱり遊びに飽きたのか一気に男を口元までたぐり寄せると、かっ、と大口を開いて一瞬で飲みこんだ。
長い首を真っ直ぐ持ち上げて一気に嚥下する。
太い喉元か滑り降ちる男のシルエットの形に歪むのが見えた。
「やめろやああっ!!」
「おいっ! 待てよっ。……クソがっ!!」
「待て、陣形を崩すな!」
仲間が惨殺されるのを見て恐慌に陥いったルーカスが槍を抱えて突撃する。追従する形でアーノルドがそれに従った。
瞬時に、アルテミシアは後方の岩肌に、かつて銅山の採掘調査のために穿たれたと思われる、幾つかの人工的な洞穴を確認していた。
「私は彼を後方の洞窟に収容する。しばらく持ちこたえてくれ!」
アルテミシアは四人の部下に告げると、蔵人の八十キロ近い身体を楽々と担ぎ上げた。
洞穴はせいぜい大人ひとりが屈んでやっと入れるというくらいの穴である。
そっと蔵人の身体をその場に横たえると再び槍をひっつかんで走り出した。
一瞬目を離した隙に死闘は開始されていた。
地上には、すでに側頭部を陥没させられたルーカスとリックの姿があり、べゴットはワイバーンに咥えられたまま、ブンブンと虚空を振り回されていた。
「やめてぇええええっ!!」
べゴットは胴体の半ばを鋭い牙でがっちり固定されたまま弄ぶように宙を旋回している。
「くそおおっ! べゴットを離しやがれえぇえ!!」
トマスが泣き叫びながらボウガンの矢を発射した。
彼の射撃の腕は確かなものだった。
発射された矢は、動き回るワイバーンの右目に狙いたがわず突き刺さった。
「やったか!」
「うぎゅるっ!?」
べゴットは変な声を漏らして、白目を剥いた。
痛みに驚いたワイバーンは反射的に咥えていたべゴットを噛み締めて、絶命させたのだ。
「あ、ああああ」
トマスは持っていたボウガンを取り落とすと、両膝を突いて呆然となった。
ワイバーンは低くうなると、尾っぽの毒針を音もなく滑らせてトマスの腹に深々と突き刺した。ドッ、と肉を打つ鈍い音が鳴る。
トマスは背中まで突き抜けた毒針を首をそらして見ようとしたが、瞬間的に致死量をはるかに超える生物毒を流しこまれ瞬間的に絶息した。
(全滅する、このままでは)
アルテミシアは槍をしごいて跳躍するとワイバーンの尾っぽに向けて叩きつけた。
だが、打ち合いを嫌ったのか毒針を素早く引き抜いて戻すと、大きく羽ばたいて高々と天に向かって上昇していった。
「アーノルド、ソシエ!! ここは私が引きつける! おまえたちだけでも戻って援軍を連れてくるんだっ!!」
「わかりました! それまでは、なんとか持ちこたえてください!!」
アーノルドは歯噛みしながら叫ぶと、一度も振り向くことなく窪地を離脱した。
アルテミシアは、わざと大声で叫びながら槍を振り回して辺りを無意味に駆け回った。
逃げていったふたりを追いかけると危惧したが、窪地に散乱した骸に未練があるのか、上空をぐるぐるとひたすら飛びまわっている。
「さっさと降りてこい。この私がカタをつけてやるぞっ!!」
だが、いくら彼女が挑発しても空に逃げられたのでは勝負どころではなかった。
アルテミシアが頭上をにらんで為すすべもなく立ちすくんでいると、背後に激しく動く空気の流れを感じた。
強烈な野獣の臭気が辺りに立ち込めた。
瞬時に迫る刃風を身をかがめてかわす。後ろも見ずに、槍を全力で後方に繰り出した。
山を揺るがすような吠え声と肉を切り裂く強い手応えを感じた。穂先を引き抜きながら反転すると目前に黒壁のような巨体が牙を剥いてうなっていた。
「巨大灰斑熊! こんなときにっ!!」
四メートルを超す巨体には、その名を冠した由来に基づく虫食いのような灰色の斑点が散らばっていた。巨大灰斑熊は二本の後ろ足で立って、四本の前足で獲物を狩るという深山にのみ生息する大型モンスターであった。
「竜一匹で手こずっているというのに、今日は厄日だな」
身を低くして巨大灰斑熊の股の間をすべり抜けた。
真っ直ぐに蔵人を収容してある洞窟に向かって走る。
狭い洞窟の前では槍を放棄せざるを得なかった。
巨大灰斑熊はもはやアルテミシアに興味を失ったのか、窪地に残されたご馳走を狙ってワイバーンと争いはじめたのだ。二体の怪物が怒号を上げながら激しく争っている。
アルテミシアはあえぎながら兜を脱いだ。
全身から沸き立つようにじっとりと汗が吹き出してくる。
外の争う声が突如として消え去る。
奇妙な沈黙が辺りを覆った。
顔を出して様子を窺った。
奇妙なことに、二体のモンスターは争うことをやめて、それぞれの領域が自然と決まったのか仲良く骸を貪りはじめたのだ。
まだ、血の滴る肉を咀嚼する音が耳元に忍び寄ってくる。
無慈悲な響きが耳朶を打つたび、気が狂いそうになった。
「そうだ、クランド殿!」
アルテミシアは仰臥したまま微動だにしない蔵人に視線を向けた。
口元に手を当てるとかすかだが呼吸の動きが感じられた。
「失礼する」
血で真っ黒になった胸元の衣服をくつろげると、大胸筋から数センチ下がった場所に、ちょうどソフトボールくらいの穴が深々と穿たれていた。
回復の光の効果だろうか、傷口はすでにうっすらと血が固まっているが、それでもじくじくとわずかに青黒い奇妙な体液が染み出していた。
「苦しいか! 苦しいだろうな、頑張れ、気を強く持つのだぞ、クランド殿!」
アルテミシアは既に聞こえてはいないだろう蔵人に声をかけながら、上着をすべて取り去って、自分のサーーコートの上に横たわらせた。
「これは……」
ひう、と上げそうになった悲鳴を無理やり飲み込んだ。
すでに蔵人の上半身いっぱいに、強烈な生物毒のためにドス黒い斑点が無数に浮き出ていた。
厚い胸板がかすかに上下しているのを見ると、かろうじて命脈が繋がっているとわかるが、誰が見てもわかるほど明白に死が迫っていた。
アルテミシアは幼い頃からロムレス教の信仰心厚い典型的な貴族令嬢であった。
だが、生まれつき一際身体が大きく、自分自身も武芸を好んだため、必然的に信仰と社会奉仕のふたつをまっとうできる白十字騎士団への道を歩むこととなった。
自分が人並みに男の元へ嫁いで子を産み、あたりまえの生活を過ごすなど不可能だと知っていた。年頃になれば、心配した父が縁談を幾つも持ってきたが、誰も彼もが自分の顔を見た途端に、片っ端から断った。自分の将来の伴侶は、どんな相手だろうかと、慣れない化粧をして、怯えながらも着飾ってみせた努力はすべて水泡に帰した。
仕方がありませんよ、父上。私を貰ってくれる殿方など、いるはずがありませんから。
涙を流して枕を濡らした。無理に笑って見せるたびに、自分は人並みのしあわせなど望んでいないと取り繕わねばならないことがたまらなく苦痛だった。
どんな男でも初見で自分を見れば、後ずさり引きつった笑みを浮かべた。その度にどれほど自分が傷ついたのか誰も知らない。知るはずがない。
アルテミシアは強いのだ。大きくて強いものが、傷ついたりするはずがないのだから。
ますます武芸に打ちこんで腕前が上がれば、それを役立てられるのは闘争の場でしかない。黄金の狼に入り、人々に仇なす害獣を率先的に狩れば狩るほど、アルテミシアの威名は天下に鳴り響いた。
だが、本当はそんなものなど必要なかった。強くなればなるほど、自分を囲む輪の広がりは、狭まるどころか大きく遠ざかっていった。一度も誰にも抱きしめられずに死んでいくと思えば、恐ろしくて夜も眠れない日が度々あった。ベッドの中で、ひとり己を慰めると、快楽のあとは無性に虚しさが胸の内をひたした。
「クランド」
奇妙な男だった。はじめて会ったとき、彼は怯えを見せるどころか、きらきらとした瞳で強くアルテミシアの胸元を見入ったのだ。そんな反応をした相手ははじめてだった。だから、強く印象に残ったのだった。
鎧を付けた上からコートを羽織っていたのだ。ふくらみなどわかろうはずもないが、その無邪気な滑稽さには、なんとなく憎めない奇妙なおかしみが同居していた。
「絶対に助けが来る。それまで、気をしっかり持つんだ」
アルテミシアは蔵人の傷痕に口をつけ、毒液を舌で舐めとって吐き出した。
意味のない行為であるとわかっている。そんなことでも続けていなければ、迫り来る絶望と閉塞感で頭がどうにかなりそうだった。
純粋な意味で黄金の狼として討伐するならば、蔵人など放って置いて、幕営地に戻り迎撃態勢を整えて再び襲撃を行うのがあたりまえの行動だった。一個の組織としては、かけられた懸賞金の多さは運営上喉から手が出るほど必要なのだ。
アルテミシアの行っていることは、人道という建前を棚上げすれば組織に対する歷とした背信行為だ。
同じクランの一員でもない目の前の男のために、隊の規範を無視した行動を取っている。明らかな懲罰行為であり、副隊長としての義務を放棄していた。
「……今度こそ、クランを追放かな。いや、男ひとりのために仲間を見殺しにしたとあれば、名誉ある白十字騎士団も私を追い出すだろうな」
アルテミシアは幾度も毒液に舌を浸したせいか、激しい頭痛を覚えて意識を失いそうになった。強烈な速度で気分が沈んでいく。底なし沼に自ら飛びこんだような気持ちだった。
「それでもいいさ」
邪竜王は強すぎた。闘志を欠いたまま斬り合っても倒せるとは思えない。
それに、どうせクランの援軍も間に合わないだろう。洞窟の外が、薄暗くなりつつある。地面を叩く音で、ようやく雨が降っていることに気づいた。
「怖いよ、クランド。本当は私は臆病者なんだ。ひとりじゃあんな化け物に勝てないよ」
返答はない。胸が潰れそうなほど激しい心細さが全身を満たしていく。
声をかけて欲しかった。大丈夫だと励まして欲しかった。
世界でたったひとりのような孤独感が押し寄せてくる。
アルテミシアは蔵人の前髪をかき上げると、そっと唇を寄せた。
「約束を履行するぞ。起きないおまえが悪いんだからな」
金色の波がふわりと蔵人の顔を隠した。ふたつの影は、そのまましばらくひとつになったまま静止した。
アルテミシアは、「はあっ」と熱いため息をつくと、唇をそっと離した。
彼女は、白手袋が汚れるのも構わずに蔵人の大きくて分厚い手を握り締め、自分の顔を寄せて頬ずりした。
つむった瞳から涙がこぼれ落ちる。
こぼれ落ちた雫が、傷口にふれた瞬間、蔵人の胸元が急激に青白く光りだした。
「な、なんだ。これは……」
アルテミシアは呆然としたまま、光の渦に巻き込まれた。
蔵人の胸元に刻まれた勇者の証。不死の紋章が生命の危機を感じ取ったのか、急激に発動したのだ。瞬く間に暗渠の空間が激しい聖光に包まれ、あらゆる存在が塗りつぶされていく。
「いったい、いまのは」
不意に、いままで微動だにしなかった男の指先がぴくりと動くのを感じた。
「クランドっ!」
「う……」
「気がついたのか、おおっ、神よ!」
アルテミシアは顔をくしゃくしゃにすると、泣き笑いの表情で両手を合わせて祈りを捧げた。
「どこだ、ここは……」
「つらいか、苦しいのか。もうすぐ、援軍が来るぞ! う、うそじゃないんだ。本当だぞ。そうだ、私に出来ることならなんでもいってくれ!」
「……すごく、くるしい。なにか、気をまぎらわしたい」
「なんだ!」
「君の、おっぱいを見せてくれ」
「お、おっぱい。そ、そうか」
アルテミシアは顔全体を真っ赤にすると、意を決したように甲冑を外した。
蔵人の要望にはすべて応えてあげたい。
ゆるぎないいとおしさがアルテミシアの感情を支配していた。
いとも簡単に、上着をするすると脱ぐ。
羞恥のあまり、耳の先までゆでたように朱で染まっていた。
純白のブラが目にまぶしいほどである。百七十八センチと体格の良い彼女の乳房は、その大きさに比例したどこに出しても恥じることのない、超爆乳であった。
美しいお椀型である。長年の修練のため大胸筋が鍛えられているせいか、少しのたるみもみられない芸術的な張りを持ったものだった。
「頼む、なんとかいってくれ。私が阿呆みたいじゃないか」
アルテミシアは目を伏せたまま、恥らいながら顔をそむけた。蜂蜜色の髪が、胸元にさっと流れた。白い肌と金の対比がより際立った。
「スイカだ……いや、なんでもない。アルテミシア、ありがとう。それと、お願いついでに、さわらせてくれないか」
「好きにしてくれ、もう」
蔵人は手をそっと伸ばすと、スイカのような大きさの爆乳に指先をうずめた。
「おお、デカイ。しかも、やらかい。女神よ」
「ば、ばか」
こねるようにして、適度な弾力とやわらかさを楽しむ。徐々にアルテミシアの息が荒くなっていく。
「も、もおいいか。これ以上は」
「ああ。おまえのおかげで、すっかり良くなったぜ」
「ばかもの。少し調子が良くなったからって――!?」
振り向いたまま驚愕した。蔵人の身体にそっと手を伸ばすとふれて確かめた。
「ない、斑点が」
アルテミシアが驚くのも無理はなかった。なぜなら、彼の全体に巣食っていた毒が、最初から無かったかのように消え失せたからか。
「あいにくと、俺の身体は特別製なんでね。ほら」
「あたたかい。なんだ、これは」
蔵人の胸元に薄く光る紋章に指を這わす。
淡い光はやがて、雪が溶けるようにして形を失った。
「この紋章は俺がくたばりそうになると勝手に発動するんだ。ある程度は、操作できるんだが。いや、今回は結構やばかったな。って」
アルテミシアの目もとにじわじわと大粒の涙が盛り上がってくる。彼女は、高い鼻梁にしわを寄せると、子供のようにわっと泣き出した。
「ばかっ、ばかっ! できるんなら、なぜ最初からやらないんだっ! おまえはっ、私がどれだけ心配したと思っているんだ!」
「わっ、ちょっ、待ったって。ごめっ、痛いって。痛いよ!」
蔵人は泣きじゃくるアルテミシアを抱きしめると、目尻の涙をそっと指でぬぐった。
「私は心配したのだぁ。ばかぁ……」
「ほっときゃ良かったのに。俺たちゃ競合相手だろうが」
「助けたのにもんくいうなぁ……」
「ああ、よしよし。泣くな泣くな」
「子供あつかいするなぁ……」
「わかったよ」
蔵人はアルテミシアの唇にそっと口づけると、立ち上がって肩を鳴らした。
「さあ、竜退治の大詰めだ。俺を殺しきらなかったことを後悔させてやろうじゃねぇか」
窪地に到着した時点ではまだ夜が明けたばかりであったが、世界は既に夕闇が迫っていた。中央部には喰い散らかされた遺体の破片があちこちに見えた。
この場所にいれば、餌にありつけると踏んでいたのだろうか、洞窟内から蔵人が姿を見せると巨大灰斑熊が吠えながら仁王立ちになった。
ほぼ同時に、闘争の気配を察知したのか、頭上にある巣穴からワイバーンが飛び立った。
「先にあのデカブツを片づけよう。抜かるんじゃねえぞ」
「ああ、任せろ」
迷いを吹っ切ったのか、アルテミシアの顔に迷いはなかった。
彼女は腰のグレートソードを蔵人に手渡すと、聖女の槍を構えて穂先を怪物たちに突きつけた。
蔵人は手渡された大剣を抜き放つとずしりとした重みに野太い笑みを刻んだ。
長さが二メートルはある大剣はその重みゆえ、両手持ちではなければ扱えないシロモノだが、巨大モンスターとやり合うには心強い得物だった。
「来るぞ!!」
叫ぶと同時に、アルテミシアがまびさしを下げた。
戦闘の口火を切ったのは巨大灰斑熊だった。
巨体が大地を揺らしながら突撃してくる。ぬかるんだ泥を跳ね上げ、轟音が鳴り響いた。
「魔力付与硬化! 強化魔術!!」
蔵人の隣を疾走しながら、アルテミシアが続けざま呪文を唱えた。武器強化と身体強化の連続魔術だ。
巨大灰斑熊が突っ込んできた。蔵人は小刻みにステップを踏んで四本腕の連続攻撃をかわすと、泥土の中を滑りながら大剣を思う存分叩きつけた。
巨大灰斑熊は絶叫を上げると、バランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。
「このおおおっ!!」
飛びこむようにしてアルテミシアが巨大灰斑熊の右目に深々と槍を叩きこんだ。聖女の加護を得た神器は白く発光しながら、ぞぶぞぶと音を立て眼窩から大脳へと突き進んでいく。
強大な熱量を帯びた槍が沈むにつれて焼け焦げる肉の音と煙が辺りに立ちこめた。
痛みに耐え兼ねたように巨大熊が前足を狂ったように動かした。
「どうした! どこを狙っている!」
アルテミシアは槍から手を離すと前足の攻撃をかわした。
のけぞりながら、足の裏全体を使って石突きをバックキックする。
半ばまで埋まっていた聖女の槍は後ろ蹴りの衝撃でずるずると、巨大灰斑熊の大脳を焼き焦がしながら前進し、後頭部を突き破って穂先を露わにした。
巨大灰斑熊が倒れたのを確認したワイバーンがアルテミシアを狙って急降下した。
三本爪が落ち行く夕日の残光を乱反射させながらきらめいた。
蔵人は魔術で強化された身体能力をフルに発揮させて、巨大熊の身体を一気に駆け上がった。
満身の力をこめてグレートソードを振るった。
大剣がビュウと異様な風切り音を立てて弧を描いた。
ワイバーンは差し伸べた両足を刈り取られると絶叫を上げて再び飛翔した。
切り裂かれた傷口から青黒い血液がざっと流れ出す。
ばら蒔かれた竜の血が、巨大灰斑熊の毛皮を叩くように打った。
ワイバーンが傷ついた身体で懸命に羽ばたこうとしている。
蔵人は巨大熊の後頭部に駆け寄って、突き出た槍の穂先を直接握り締めた。
「おおおおおっ!!」
左手に全身全霊の力をこめた。鋭い刃が手のひらに食いこんで血を流す。アルテミシアが叫ぶ。痛みのあまり、頭の中に火花が激しく飛び散った。迫り来る吐き気と背筋から立ち昇る悪寒を噛み殺して槍を一気に引き抜いた。
飛び去っていく竜の背が小さくなっていく。
蔵人は巨大熊の背を転がりながら、全力で槍を投擲した。
聖女の槍は流星のように真っ直ぐ直線を描いて飛んだ。
赤と黒の混在する世界を裂いて、槍は吸いこまれるようにワイバーンの胴体を串刺しにした。耳を聾する叫び声が竜の口から尾を引いて流れた。
蔵人は地面にまで転がり落ちると、泥土を踏みしめながら落下地点を目指して疾駆した。
大剣を両手で握り締めると落ち行くワイバーンが最期のあがきと、尾の毒針を繰り出してきた。
「二度も喰らうかよ!!」
蔵人は大剣を水平に振るった。
うなりを立てて銀線が弧を描いた。
竜の毒針は根元から断ち割られるとドッドッとぬかるんだ地面の上を転がった。
蔵人は大剣を両手突きで前方に放り投げた。
大剣は凄まじい速さで虚空を滑るように走ってワイバーンの顔面に深々と突き刺さった。握り締めた刃をひねるようにして振り切った。
竜の頭部は噴水のように真っ青な血飛沫を吹き上げ、ゆらめいた巨体が地響きを立てて大地に転がった。
「やった、やったぞ」
蔵人が両肩であえぎながら膝を突くと、駆け寄ったてきたアルテミシアが背中から抱きついてきた。勢い余って泥土に顔から突っ伏す。
「おまえな――」
文句をいおうと泥まみれになった顔を上げると、今度は正面から感極まった彼女の抱擁を再び受けた。
「すごい、すごいすごいすごいぞ! 最高だ、おまえは!! なんて男らしいんだ! 文句なしだ!!」
蔵人は泥の海に押し倒されながら、興奮しきったアルテミシアから降るようなキスの嵐を顔中に受けた。背中がたっぷりと泥に浸かって気持ち悪い。ぬかるみの冷たさが身に染みた。
だが、満面の笑みを浮かべる彼女を見ながら、自然と全身のこわばりが溶けていくのを感じた。
泥まみれの両腕でアルテミシアを抱きしめる。
彼女も負けじと全力で抱き返してきた。
すごい力だった。というか、完全に蔵人の膂力を上回っていた。
肺が圧迫され気管が狭まった。知らず、涙目になる。
「奇跡みたいだ。私、絶対にダメだと思ってた」
「そんなわけねえだろ。なんせ俺は、不死身の男だからな」
蔵人はぎりぎりと背骨を軋ませる力に咳き込みながら、もうダメかも、と思った。




