表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
47/302

Lv47「挽肉の谷」






 ビスケス村は、戸数四十四戸、人口百五十六名の貧しい村であった。

 昔より地味に乏しく、生産品といえば、麦と数種の野菜くらいである。

 一時期は、竜王山の麓に良質な銅の採れる坑道が幾筋も発見されてわずかな間は繁栄を誇った。

 しかし、すべてが掘り尽くされると国中から集まった人々は潮のように引いていき元の寂れた村に戻ったのだった。

 若者たちも一定の年齢になると、近距離にある大都市シルバーヴィラゴに移住して職を探すのが一般的な共通認識であった。

 現在、村人のほとんどを占めるのは、動けない老人と出稼ぎのために置いていかれた子どもたちだった。

「兄貴、今夜はどこかに宿をとりましょうか! といっても、この村にはよそ者を泊める宿なんぞあるわけねぇし」

 蔵人は、はしゃぐように自分の周りを飛び跳ねるフィリッポを見て憂鬱そうに顔をしかめた。これが人並みの身体なら荷物持ちくらいには使ってやろうと思ったかもしれない。

  だが、小人のフィリッポには当然ながら戦力とは期待できないし、重たい荷運びができるわけもないのである。

「なあ、フィリッポ。おめえをまだ連れていくなんてひとこともいっちゃいねえぜ」

「あれえ、兄貴。もしかして、おいらがなにもできねえと思ってらっしゃるんで。確かに、おいらの身体はちいせえが、そのかわりといっちゃあなんですが、斥候としては抜群ですぜ。ちょっと考えられねえところにだって入りこめるし、手先は抜群に器用なんだ。雑務や力仕事は、その、あんまり自信はねえが、荷運びだってなんだって頑張りますぜ!」

 フィリッポは蔵人のザックを背負うとよろつきながらもしっかりと立って見せた。蔵人を見上げる目つきは、まるで飼い犬が主人にこれでいいのか、と問うような切なくなるような従順さが見てとれた。蔵人は膝を折って、目線を合わせてから訊ねた。

「おめえ、年はいくつなんだ」

「へえ、今年で十七になりやす」

「そっか、俺より三つも下か。なんだって、たいして知りもしねえ俺にくっついて竜退治なんざしたいと思ったんだよ。やっぱ、金か」

「金はきれぇじゃありません。けど、なんというか、兄貴をはじめて見たとき、素直にすげえっ、て思ったんだ。聞けば、わざわざたったひとりで街からこんなところまで竜退治に来たっていう度胸も並々ならねぇし。それに」

「それに?」

「案外、お人好しそうだから、かな」

 フィリッポはえへへ、と人懐っこい顔で笑った。

「ったく。どうせ、俺はお人好しの大馬鹿だぁ、よく見抜きやがったな。しっかし、おまえは元々マリアたちといっしょに来たんだろうが。あいさつもなしに抜けて来ていいのかよ」

「姐さんたちが稼ぎ場に着けば、とくにおいらのすることはありやせんよ。それに、だいたいがおいら自体、店の旦那……ああ、あの盗賊どもに切られちまったオヤジの道楽で連れてこられたもんで。娼家にだって旦那が居たからお情けで置いてもらってたようなもんだったし……」

 フィリッポはそこまで話すと、決まり悪げにつけ鼻をゴシゴシと擦ってみせた。

 元々が厄介者だったのだろう。

 女衒の男の旅の慰みに連れてこられた道化は、主が死んだ時点で道具としての需要を失ったのだった。

 彼の瞳の中には、やりきれない情けなさと寂しさが入り混じっていた。

「姐さんたちは、この村でひと稼ぎしたら、また街に戻って商売を続けるだろうけど、たぶんそこにはもうおいらの居場所はねぇんだ。だから、せめて兄貴にくっついて、戦えないまでも、最後までそばにいれば、街に戻ったとき、贔屓筋の旦那の誰かが買いとってくれると踏んだんだ。頼んます。銭の分け前をくれなんていいやせん。竜を引きつける囮だってなんだってやってみせます。だから、おいらに兄貴の伝説を見届けさせてください!」

 フィリッポは子どものような小さな身体を折って土下座すると、悲痛な声で必死に頼みこんだ。

「……仕方ねえ、どうなっても知らねえぞ。好きにしやがれ」

 蔵人はフィリッポの案内で近くの農家の物置小屋に入りこむとごろ寝を決め込んだ。

 遠くの野営地から冒険者や兵隊たちの喧騒が夜風に乗って聞こえてくる。

 マリアたちだけではなく、各地の目ざとい商人や娼婦の群れが多数入りこんで荒稼ぎを決めこんでいるのだ。

 小屋の中に焚き火を作り、持ってきた干し肉を炙ってふたりで腹の中に詰めこんだ。真夏ではあっても、シルバーヴィラゴよりはるかに海抜高度があるこの村では夜になれば肌寒くさえあった。

 フィリッポの話によると、村を襲う竜の巣らしき場所には既に検討がつけてあるとのことだった。クラン“黄金の狼”を出し抜くには、夜中に出発してまだ竜が眠りについている朝方を攻撃するのが良策だという結論に達し、早々と就寝した。

「なあ、フィリッポ。おめえ、随分とこの村に詳しいじゃないか」

「兄貴。おいらは、仮に兄貴みてえに腕の立つ剣士さまに会わなかったとしても、旦那のところから抜け出して、誰か手頃な冒険者にくっついて一旗上げようと思っていたんで。これから行く先の場所を事前に調べておくくらいのことはしておきますよ。兄貴は、案外そういう細かいところが抜けてるんだなあ。でも、任せておいてくだせえ。そういうところは、これからおいらがきっちりしますんで」

「抜かせ」

 目をつぶって外套をひっかぶると泥のような眠りが全身を包んでいった。

 やがて、焚き火が消える直前と同時に寒さで目が覚めた。

 蔵人の体内時計は、おおよそ夜中の三時頃を指し示している。小屋を出て夜空の星明かりに照らされながら、小高い丘に登る。後方から、目をこすりながらフィリッポが近づいてくる気配を感じ、振り返らないまま眼下の野営地に顎をしゃくった。

「見ろ。あいつらは昨日のご乱交で白河夜船だ。酒をたらふく飲んで旨い飯を喰らい、女を腰が抜けるほど抱けば、次の日は使いものにはならねえや。さ、行くぜ」

「あ、ちょっと待ってくれよ兄貴」

 フィリッポの案内で丘を降りて、山裾を覆っている濃い樹林に分け入っていく。この世界で夜半に明かりを用いずに行動する人間はほとんどいなかった。

 現代日本のように、どこもかしこも舗装された歩きやすい道など皆無である。整備されていない道を歩行するのは、通常よりもはるかに労苦を伴った作業なのであった。大きな石ころがある、太い木の根がある、深い暗渠がある、といった天然の凸凹が旅人の行く手を遮るのである。

 さらには、野生動物、モンスター、盗賊など人々の命を脅かすものなど枚挙にいとまはなかった。

 だが、数ヶ月もの間、荒野を旅してきた蔵人はそのようなことは慣れきっていた。

 今日のように、月明かりが充分ならば野生動物のように、細かい部分にまで目が行き届いているのである。

 やがて谷底に下る道に出ると、不意にフィリッポが怖気づいたように足を止めた。

「どうした、いきなり立ち止まって」

「いえ、ここは地元の人間も恐れて普段は立ち寄らねえ場所なんで、つい」

「それはいったいどういう理由なのだ。是非、私も知っておきたいものだ」

「そいつは、ってうわあああああっ!!」

「おおおおっ、なんだあああっ!」

「きゃああっ!」

 蔵人が飛び上がって距離をとると、そこにはギルド(冒険者組合)で別れたままであった、クラン黄金の狼の副隊長にして白十字騎士団(サンクトゥス・ナイツ)に所属する長身の美女、アルテミシアの姿があった。

「てか、いまの悲鳴って」

 アルテミシアは兜のまびさしを引き下げると、ごほん、とわざとらしい咳払いをした。

「む。先日は、失礼した。かようなところで出会うとは奇遇であるな、クランド殿」

「いや、きゃああっ、って」

「さあ、なにかの聞き違いであろう。騎士である私が、かように婦女子のような情けない声を出すわけがない。な!」

 アルテミシアは後方の木々に向かって念押しすると、影に潜んでいた十人ほどの男たちが姿を現した。誰もが副隊長のいいわけに苦笑をこぼしながらも、一片の隙もない身のこなしから、かなりの熟練した冒険者たちであると推察できた。

「なんだ、上手く出し抜いたと思ったのにな」

「考えることはご同様だよ。ここにいる十人は、私が選んだ精鋭でな。誰もが腕の立つ使い手だ。邪竜王の首は、私たちがもらったぞ」

「おい、あの樽野郎は」

 蔵人がステファンのことを尋ねると、アルテミシアはぷいと顔をそむけて頬をふくらませた。男の中のひとりはつかつかと近寄ると照れたようにいった。

「兄ちゃん、クランドとかいったか。あんときは、あの糞豚をよくやりこめてくれたな。胸がすかっとしたぜ。だいたい、あの人外デブは調子に乗りすぎてんだよな。全員が全員部外者を嫌ってるわけじゃないんだ。それだけはわかってほしい」

「へえ。アンタたちは、昨夜は酒も女もやらなかったのか」

 蔵人が男たちに話しかけると、アルテミシアは手にしていた槍の石突きを地面に打ち付けると堰を切ったようにしゃべりだした。

「あ、あ、あ、あいつらは、これから神聖な大業を行うというのに、酒は飲むは、う、う、う、薄汚い娼婦と戯れるは、ふ、ふ、ふ、不潔極まりないやつらだ! 私は、副隊長としていままで何度かダンジョンに潜ったことがあるが、そのときはこのようなことはなかったというのにっ! 不埒極まりない! あんなやつらと大業が成せるかっ!」

 アルテミシアは紅潮した顔で目の色を変えて吐き捨てた。

 どうやら、戦いの前に男が女を買うという事実を受け入れられなかったらしい。

 そこには、彼女の潔癖すぎる偏った精神性があらわれていた。

「さすがにダンジョンの中までは娼婦たちもついて行きやせんしね」

 あっけにとられたままアルテミシアの前に立ち尽くす蔵人にフィリッポが耳打ちをした。

「なあ、アルテミシア。おまえ、討伐の遠征に参加するのははじめてなのか」

「ああ、いつもは私がついていくというと皆が嫌な顔をするので自粛していたのだが。まさか、私の目を盗んでこんな神をも恐れぬ悪徳に耽っていたとは……」

 蔵人は顔を引きつらせながら、彼女の顔を見やった。

 アルテミシアは、自分の胸に手を当てながら顔を伏せ、深くため息を吐いている。心底悩んでいるという風だった。

 なまじ、長身なだけにそのかわいらしい仕草がアンバランスで余計に乙女らしく感じられた。命をかけた冒険や殺し合いの前に、男が女を抱きたいと思うのは本能なのである。明日をも知れぬ身である以上、瞬きの間でも酒に酔い、女の柔肌の熱い感触を味わってこの世に心残りを残しておきたくはないものである。

 蔵人が男の生理について考えを巡らせていると、アルテミシアはさっと顔を上げると懇願するような視線を送ってきた。

「まさか、クランド殿はあいつらとは違うよな? 昨晩は、み、み、みみみ淫らな商売女などにうつつなどを抜かしてはおらぬよな? な?」

「あ、あたりまえだ。俺は今日の決戦のために酒も喰らわず女も抱かず、納屋の中で簡素な食事のみを済ませてこの場に望んでいるのだ。……おい、フィリッポ。笑うんじゃない。俺は嘘をいってないだろ」

「へ、へい。昨晩の兄貴は、きっちり精進をしておりますよ。昨晩はね」

「そうか! やはり、貴殿は他の男たちとは一味違うな! そう思っていたのだ。なんという、清冽な心の持ち主なのだ。それに比べて……」

 アルテミシアは蔵人をピュアな瞳で真っ直ぐ見つめたあと、配下の十人をじろりと横目でにらんだ。男たちは今度ははっきり困ったように笑うと決まり悪げな態度を取った。ご多分にもれず女も酒もやったが、次の日には残らない程度といった風に自制をしたのだろう。そもそも冒険者の存在自体が社会の規範を外れた存在なのだ。そこまで、強い道徳観で縛り付けるのは酷というものだろう、と蔵人は思った。

「これ以上グダグダ話を続けてもしょうがない。それよりも、フィリッポ。さっきの話の続きだ」

「ぐ、グダグダ。私の話がグダグダ」

 アルテミシアが軽くショックを受けているようだが、蔵人は無視して話をうながした。

「へい、この先を抜ければ幾分広い場所に出ます。だが、問題はその谷間なんで。以前も、幾度か村を襲う竜を事前に討伐しようと領主様が兵隊を何度か送っているんですが、狭すぎて数人ずつしか通れねえんで不覚をとっているって話を聞きやした。空から襲ってくる竜に殺された兵隊や冒険者は数知れず。骸を回収するにも、ロクに近づけねぇんで、野ざらしになった霊がうろつくなんていわれてるらしいんで。死骸をあさりに来たモンスターにバラバラにされた血肉がそこいら中に撒き散らされてるってんで、ここは人呼んで挽肉の谷(ハンバーガー・バレー)と呼ばれております」

「挽肉の谷かよ。そんじゃあ、せいぜいバンズに挟まれて邪竜王の朝飯にならないよう急いで抜けるとするか」

「……グダグダってゆった」

 アルテミシアは幾分子どもっぽく拗ねていた。

 どうやら、かなり引きずる性格のようだった。

「それはもういいいっての」

 蔵人は外套をひるがえすと、先頭を切って狭隘な谷間へ向かって進んでいく。そのあとに、フィリッポと黄金の狼の冒険者たち、アルテミシアが続いた。

 冒険者たちの手に持ったランプの明かりで、辺りは充分に視界を確保できたため、進軍のスピードは上がった。谷間に足を踏み入れたとき、様相は一変した。

 なんともいえない陰惨な空気が谷全体に立ちこめている。加えて、鼻を横殴りするような腐った匂いで軽い疼痛が、蔵人の右後頭部を襲った。

「くそ、たまらねえぜ。この腐った臭いは」

 フィリッポは完全に怯え切ったまま蔵人の外套にすがりついて歩いている。冒険者たちは、それぞれ武器を引き抜いていつでも戦闘に入れるよう身構えていた。

「気をつけろ、クランド殿。来たぞ」

 隣に並んだアルテミシアが小さく耳打ちした。いわれて前方に視線を置く。

 ランプの光でぼんやりと照らし出された谷の岩肌近くに、ぼんやりと紫色の影がしゅるしゅると音を立て浮かび上がった。

「ラルヴァだ。おそらく、ここで無念の死を遂げた人たちが悪霊となったのだろう」

「マジかよ。さすが、ファンタジー」

 紫色の影は、次第に凝り固まって人間に近い姿を形成すると、地面を滑るようにして向かってきた。

 その数二十。

「ひいいいっ、兄貴、来やしたぜ!」

「フィリッポ、おめえは隠れてろっ!」

「ま、待て! クランド殿!」

 蔵人はアルテミシアの制止を振り切って飛び出すと、革袋の中から大ぶりのナイフを取りだし、ラルヴァに向かって真っ直ぐ飛びこんだ。

 もちろん、この後に肝心要の竜退治が控えているのである。頼みの綱である腰の長剣白鷺はなるべく温存しておきたかった。

「成仏しやがれっ、このお!」

 蔵人はラルヴァに向かってナイフを叩きつける。

 銀線が斜めに走って悪霊を両断した。

「あれ?」

 蔵人は振るったナイフになんの手応えもないことに気づき顔を上げた。

 目の前に迫ったラルヴァは落ち窪んだ瞳と口を大きく開き、両手を挙げて襲いかかってきた。

「のおおおっ、なんだぁ!」

「クランド殿! ラルヴァには聖別した武器しか通用しない、いったんこちらまで戻るのだ!」

「それを先にいえっての! うおっと!」

 蔵人はラルヴァの相手の生気を奪うドレインタッチを紙一重でかわしながら、器用に後退してくる。

 援護に出たアルテミシアの動きは、甲冑を着こんでいるとは思えないほど素早かった。

「たああっ!」

 アルテミシアは長さ三メートルはあろうかという白銀の槍をしごきながら駆け寄ると、疾風の速さで突きを繰り出した。

 研ぎ澄まされた穂先はラルヴァの胸元を安安と貫くと、刺した速度と同じくらいで手元に引き戻される。熟練された達人の技であった。

 ラルヴァは地獄の底から聞こえてくるような形容し難い断末魔を上げると、全身を霧散させて消えた。

「この聖女の槍(ホーリーランス)は大聖堂の祝福を受けた業物だ。おまえたち下衆な悪霊ごときに使うはもったいないが、我らの大善を阻むとあらば躊躇はせんぞ!」

 長身のアルテミシアが大身の槍を突き上げて吠えると、それを皮切りに配下の十人が猛然と亡者たちに襲いかかった。

「兄貴ィ」

 フィリッポが下唇を噛み締めて悔しそうに外套の裾を引く。

 兄貴兄貴と奉られていた蔵人にもメンツがあった。このまま、悄然と引き下がっていてはこの先どうにも格好がつかない。

「むむむ。あ、そうだ」

 蔵人は革袋の中から茶色の小瓶を取りだすと、中に入った液体をナイフにじゃばじゃばと振りかける。

「兄貴、そいつはいってえなんですかい?」

「ああ、知り合いのシスターにもらった聖水だ。これで、勝つる!」

 ――クランドさん。これは、ありがたーい聖水です。朝な夕な、神にお祈りする時に使ってくださいね。あっ、聖水っていっても私の体内で製造した黄金水じゃありませんよ。あれ? なにか期待しちゃいましたか? 期待した上、どんな悪徳に励むおつもりでしたの? うふふ、クランドさんの、へ・ん・た・い。……ちょっと待ってくださいよ、なんで距離を取るんですか。いや、ホントにヒルダの一番搾りじるじるじゃありませんよ。でもでもぉ、クランドさんがお望みなら、恥ずかしいけど、ヒルダ頑張っちゃいます! ……えーと、はは。冗談ですよ、じょうだん。あー、マジで傷つくんで引かないでくださいますう? おーい、遠いよー。愛しあったふたりの距離が遠ざかっていくよー。おーい、マイダーリーンんん。ちょっと、落ち着いて話し合いましょう!

 蔵人は聖水を受けとったときの世界一くだらないやり取りを思いだし、遠い目つきになった。

 マジであいつの黄金水じゃないだろうなぁ。

 もしそうだったら、縁切りかな。

 蔵人は聖水(未確認)で濡れたナイフを掲げると、ラルヴァの群れに再度襲いかかった。

「とりゃああっ! やったか!」

 蔵人が半ばヤケクソで一体を切りつけると、悪霊はおぞましい声を張り上げながら霧になった。

「さすがヒルダ汁だぜ! 効果は抜群だ!」

「やるじゃないか、クランド殿! よし、おまえたち、黄金の狼の意地を見せろ!」

 アルテミシアの叫びに呼応し、谷のあちこちで戦っていた戦士たちから勢いづいた声が湧き上がって共鳴し、割れんばかりに辺りを木霊した。

 数十分後、誰ひとりとして命を落とすことなく、挽肉の谷の戦いは終焉を告げた。

 生者たちの勝利であった。

 戦闘ののち、互いの力量を認め合った蔵人とアルテミシア率いる黄金の狼たちは険悪なムードになることなく距離を進めた。夏の日の出は案外と早く、世界が水色に染まっている。蔵人と肩を並べて歩いていたアルテミシアが弾んだ声で話しかけた。

「それにしてもクランド殿の剣の腕は中々のものだ。我々はあのような無礼な行為を働いたにも関わらず、まるで気にした様子もないさっぱりとした気性。おまけに、他の殿方たちとはちがって、ふ、ふ、ふ、不潔な娼婦たちを寄せ付けぬ清廉さ。貴殿は、なんという素晴らしい御仁なのだろうか」

「あ、あはは」

 蔵人はアルテミシアの中で勝手に高まっていく実像とかけ離れた幻想のような存在にちょっと辟易しながら、薄い作り笑いを浮かべた。

 いくら女心に鈍感な蔵人でも、あからさまな彼女の態度は理解できた。

 違うからね、おまえの考えている人間と、俺の本質はどこか違うからね! 

 ていうか、たぶんそれは俺じゃねーし!

「あ、クランド殿。隊列を離れてどこへゆくのだ。私は貴殿とまだまだ清談をかわし合いたいのに」

「いやあ……ははは。小用だ」

「んんん、そ、そうか。よし、全体小休止だ!」

 アルテミシアは頬を赤らめると、突如として隊の動きを止めた。

 ――あいつ、俺と競いあってること忘れてるんじゃねぇか!?

 蔵人は口元をヒクつかせながら、集団を離れると茂みに向かって移動し、放尿を開始した。

「うー、小便小便」

「だはは、連れション連れション」

「おう、クランド! おめえ、結構中々いい持ち物をぶら下げてんじゃねえか! うらっ!」

「おいいいっ、なんで筒先をこっち向けるんだあああっ! やめろおおおっ! あああっ!? ズボンにっ、ブーツにっ!」

「兄貴たちいっ、そんなに飛ばさんでくだせえっ、おいらの頭に雫がっ、雨がっ!」

 蔵人は陰茎の先を小刻みに振るって雫を落としながら、隣の男に話しかけた。

「そういや、おまえンとこの副隊長さん、いっつもあんなにフレンドリーなのかい?」

「いや、いつもはむすーっと、すました顔して命令する以外はロクに口もきかねえよ。あんなにはしゃいだ顔して、むすめむすめらしくしてるのは、おれたちはじめて見るよ。な」

 男が同僚たちに同意を求めると、仲間はそろって首を縦に振った。

「んじゃあ、どうして」

「……ん、まあ単純に副隊長とおめえさんのウマがあったってこともあるんだろう。それに、おめえさんは随分といい体格をしてなさる。おれらのほとんどは、副隊長より背がこまいし、男として見られてなかったのかもな。それに、副隊長の槍さばきを見たろう? 腕っ節は立つは、背丈は並外れてデカイはで、いままでほとんどの男に女あつかいされなかったんだろうな。あれだけの美人なのに、かわいそうにな」

「そうなんか」

 現代の日本人に比べてこの異世界の人間たちの平均身長は異常に低かった。

 おそらくは、庶民たちがロクな食事をせずに栄養状態も悪かったことにも起因していたのだろう。

 人種的には、人間族は白人系がほとんど占めていたが、びっくりするほど背の高い人間は街中を歩いていてもまず見ることはなかった。

 蔵人の身長は百八十三と日本人としては高い。

 そういった点でも、ほぼ大女扱いされていた百七十八は背丈のあるアルテミシアから見れば釣りあいがとれた。彼女にしてみれば、自分より背丈も身の厚みもある蔵人の隣を歩くということは心地よいのである。それが、憎からず思う相手とならばなおさら好ましく思えたのだろう。

「それに、クランド。さっき、副隊長がよろけたときに、さっと手を差し伸べて腰を抱いたりしただろう。いやあ、あれは見ていてやるなっ、と思ったよ。元々彼女は貴族の生まれで夢見がちな部分があったんだろうが、もう完全にアンタにのぼせ上がってるね、あれは」

「まさか、そのくらいで」

 男尊女卑の激しい時代であり、むしろ男が女に気を使うなどは軟弱とされた世界であった。蔵人にとってよろけた女性に手を差し伸べたりするのはそれほど大きな意味はなかったとしても、アルテミシアにとっては、また違う受け取り方があったのだろう。

「ま、観念して副隊長を頼まあ」

「よっ、お熱いね! ご両人!」

「おまえさんたちなら、きっと丈夫な子が産まれるはずだよ!」

 男たちは口々に勝手なことをいいながらその場を去っていった。

 ニヤニヤ笑いを隠しもせずに、両手を頭のうしろで組んだフィリッポと目が合う。

「兄貴、いいじゃねえですかい、軽く抱いちまえば! あの女騎士さまは少しばかり大きめかもしれねえが、すげえ美人だし、気立ては良さそうですぜ。それとも、喰いでのある女はお嫌いで?」

「そうはいってねえが、気楽にペロッといくわけにもいかねえだろ。なんか、思い込みも強そうだしな。ま、竜をぶっ殺したあとにでも考えるさ。どうせ、街に戻ったって会えるだろうしな」

 アルテミシアの元に戻ると既に夜は白々と明けはじめていた。

 しばらく、進むうちに開けた谷底の開けた窪地に到達した。開けた空間の向こうには、竜王山に沿うようにして岸壁が覗いており、約十メートルほど頭上には大きな暗渠がぽっかりと独立したように浮かんでいた。

 岩肌のあちこちには緑の茂みが点在しており、傾斜はそれほど急ではなかった。

 特に道具を使用せずとも、ある程度身の軽い人間ならば誰でも登っていけそうなものに見えた。

「兄貴。あの、洞窟の中に竜がおそらくはひそんでいるはずですぜ」

「うむ」

 蔵人は両腕を組みながら、顔をしかめる。傍目には、どのように仕掛けるかを思い悩んでいるように見えるが、実際は全然違うことを考えていた。

 蔵人の本心としてはアルテミシアに一発決めたかった。

 長身の上美形である。鎧やその上のサーコートからもすぐわかるくらい豊満な身体をしている。だが、ネックとしては、異常にあとを引きずりそうな性格をしていることである。

 場合によっては蔵人のハーレム計画が頓挫する危険性を孕んでいた。

「やりてぇ、でもぉ、くそっ」

「どうしたのだ、クランド殿」

「いや、いろいろとこの先の展望をな」

「うむ。敵に会う前に幾つもの腹案を練っておく。戦士として素晴らしい心構えだ」

 上品に口元をほころばす美女を前にして、蔵人は脳裏の中で彼女を裸に剥いてベッドの上で組み敷く妄想をしていた。あまりにアルテミシアが報われなかった。

「さあ、あの洞窟をどうやって攻めるかだが」

「待った!」

「んむぐっ」

 蔵人はアルテミシアの口元を塞ぐと、自分のくちびるに人差し指を立てた。

 男たちもその異様な雰囲気に気づいたのか、それぞれが得物を取りだすと、じっと頭上の空間に見入った。

「どうやら、敵さんとっくにこちらにゃ気づいてたようで」

 激しい風が動くのを感じた。

 蔵人は咄嗟にアルテミシアの腰に抱きつくと引き抜いた剣を振るった。

 ガッ、と刃に強い歯ごたえを感じると折れるのを防ぐためにあえて剣を手放した。

 周囲から悲鳴にも似た叫びが次々と上がった。

「あれが、邪龍王ヴリトラ! やはりワイバーンだったのか!」

 アルテミシアが低くつぶやく。

 翼を広げた全長は十メートルをはるかに超す大きさだった。

 全身は緑がかった色をしており細かいウロコによってびっしりと覆われていた。

 頭部からは尖った白い二本の角がそり返るようにして生えており、瞳は知性を感じさせない凶暴さのみが窺えた。

 カッと開いた口には灰色の乱杭歯が禍々しくきらめいている。

 三本指の爪はどことなく巨大なニワトリを思わせる既視感があった。

 蔵人は飛んでいった剣を拾おうと身を起こしかけた。

 同時に、世界が均衡を失って反転した。

「クランド殿。その胸……」

 ふるえる声で指摘されて、ようやく気づいた。

 蔵人の胸元には、ソフトボール大の穴がぽっかりとえぐったように口を開いていた。

「え、あ」

 目の前のワイバーンが誇示するように、長く尖った尾っぽを、まるで蛇が鎌首をもたげるようにして見せつけている。

 その尾っぽの先には、黒ずんだ蜂のトゲのような鋭い突起が赤黒い粘液をじくじくとしみ出させていた。

 そういえば、聞いたことがある。ワイバーンの尻尾の先には、毒が。

「クランド殿ぉ! クランドぉお!!」

 遠くでアルテミシアの声を聞いた。

 蔵人は胸元から股間に奇妙な生あたたかさを感じ、視線を落とす。

 ――ああ、これは俺の血かぁ。

 急激に全身が熱くなったり寒くなったりした。

 口内からだけではなく、瞳から、耳から鼻の穴からと堰を切ったように、どっと真っ赤な鮮血が流れ出す音を聞いた。

 眼前の竜が大きく羽ばたいて首を伸ばすのが見える。

 蔵人は脳から全身に向けて回避の信号を全力で送った。

 だが、地面についた手は立ち上がる補助をするどころかその場に吸いついて離れない。

 真っ赤な怪物の瞳が目前に迫ったとき、最後に思い浮かぶことはなにひとつなかった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ