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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
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Lv4「働かなくてもメシは美味い」






 懲罰として蔵人に与えられたのは、監獄付近の伐採作業であった。王都の郊外に建てられたこの場所は、小高い丘の上に有り、周囲は森に囲まれゆるやかな斜面になっている。

 囚人の反乱を考えて、辺りには鋼鉄製の鎧と武器で装備した獄卒が五十人ばかり配置されており、撤去用に蔵人たちが使用を許可されたのは、歯のうすいノコギリと木製の鍬であった。周囲に生えた木々を切り落とし、残った根を鍬で掘り起こす。百人ばかりの労働に従事する囚人たちは、残らず負け犬の目をしていた。

 ここで蔵人は、四十絡みのマッキンリーという男と組んだ。

「というわけで、今日からオレが相棒だ。よろしく頼まぁ。兄弟」

 マッキンリーは、痩せこけたカマキリに似た顔をしていたが、案外と面倒見がよく、なにくれとなく労働のイロハを教授してくれた。

 とにかく、力を入れて働きすぎない。 

 伐採労働は、日の出から日の入りまで続く。最初から最後まで全力で行っていたら、とてもではないが身体がもたない。

 かといって、手を抜きすぎると、見張りの獄卒が容赦なく手にした棍棒で打ち据えてくるので、適度に手を抜きつつ、一定のスピードを保たなければならない。

「真面目にやっても刑期が短くなるわけでもなし。かといって、目をつけられれば、三日と生きちゃあいられねえ。適度にヤルこったよ」

 ビッシリと大地に根を張った切り株を、鍬で掘り起こしてモッコで担ぎ、移動させる。

 極めて単純な作業であるが、その労働強度は並大抵ではない。掘り起こした土は丁寧に埋め戻さなくてはならないし、周囲の森林は果てがないほど広く、どう考えても百人程度の力では終わりがくるとは思えなかった。

 おまけに、蔵人は古泉たちからは離されて、独房に入れられることとなった。

 労働中はおおっぴらに雑談をするわけにもいかないし、かといってひとりきりでは、房の中は退屈すぎた。

(ちきしょう。俺をボッチにさせる魂胆だな。さみしいぜ、おしゃべりしたいよう)

 カマロヴィチのあきらかな嫌がらせである。蔵人ひとりを仲の良い囚人から隔離させて、精神を追い詰めようという作戦である。十時間を超える肉体労働と、潤いのない単調な繰り返し。七日も経つうちに、蔵人の瞳から徐々に光が失われていった。

「それにしても、我慢できねえのはメシのマズさだ」

 朝、夕と配られる配給食は、下痢便のような粥に、僅かなトウモロコシのパンがひと切れである。タンパク質が一切与えられず、塩気は皆無だった。人間は塩分が抜かれると、徐々に覇気が失われる。現代日本の濃い味つけに慣れた蔵人にこの塩抜きは堪えた。

 終わりと希望のない生活。召喚者による釈放の目がなくなった日々は、延々と続く終わりのない道を無限に歩かされているようであった。

 事件は、八日目に起こった。

「なんだ?」

 蔵人がいつものように、マッキンリーと協力してモッコを担いでいると、森に近い斜面の下から囚人の叫びが聞こえてきた。

「やばい。やばい、やばいやばいぜ、クランド! 走れぇええっ!!」

「おい、ちょっ。なにがあったってんだよ!?」

 マッキンリーは狂ったように叫ぶと、モッコを放り投げて監獄目指して走り出した。

 囚人たちはライオンに追われるガゼルの群れのように、ひとつの意志を持ってとにかくその場を逃げ出していった。

 蔵人は訳も分からず、マッキンリーに倣って斜面を駆け上がった。奇妙なことに、獄卒は労働放棄を咎めようとせず、ゆっくりとひとかたまりになって視線を下方に伸ばしていた。戸惑いながら、同じように視点を下ろした。

 そこには、建物から離れて森の近くで作業していた囚人たちが、小さな黒いモノに群がられているのが見えた。

「なんだぁ、ありゃあ」

「あれは、ゴブリンだよ。この森の近くに住んでるやつらさ。たまにああやって襲ってくるんだ。クソッ!!」

 ゴブリンとは、このロムレス王国と周辺の国々全土に見受けられる、亜人であった。

 背は低く、猜疑心に富み、力は非力だが、繁殖力が強い小鬼に似た生物だ。

 公用語のロムレス語を介し、地方によっては人間種すら侮れない勢力を持つ部族もいる。

 特に珍しくはないが、蔵人はこの世界に来てはじめて見た、異形の生物であった。

 マッキンリーは、毒づくと、激しく舌打ちをした。獄卒たちは、囚人たちが襲われるのを、まるでショーを楽しむかのように手を振って見物している。賭けも行われているのか、あちこちで銅貨を入れるザルが回されているのが見えた。

 ゴブリンたちは、逃げ遅れた囚人たちを、短い銛のようなもので突き刺すと、手際よく倒していく。引き倒された囚人たちは、漁られた魚のように身体を激しく動かして逃げようともがいていた。悲痛な絶叫だけが、眼下に響き渡っている。

 見れば、ゴブリンの群れは動かなくなった囚人の首を切り落として、足を持って引きずっている。整然とした動きで、訓練された軍隊を思わせた。

「この辺りは、特に獲物が少ない。だから、あいつらはときどき、作業中のオレらを襲ってくるんだ」

 マッキンリーは青白い顔でブルブル震えながら、悔しそうにうめいた。恐怖がしっかりと張りついた背は、小さく縮こまって老人のようだ。それは、彼らの襲撃が幾度となく繰り返されていることを示していた。

「あいつら、人間を食うのかよ」

「いくらなんでも人間は食わないらしい。ゴブリンたちは、ああやって首を落とした人間を巣に持ち帰って、肉を刻んで家畜の餌に混ぜているらしい。山イノシシは、普通にウサギを食べるからな」

 蔵人は、青ざめながら、足元で行われている暴挙に打ち震えていた。知らず、前に進み出ていたのか。マッキンリーが肩を掴んで顔を左右に振った。

「下のやつらを助けようってんなら、やめろ。どうにもならない。あいつらは、数百はいるんだ。さすがに、武装した獄卒までは襲おうとしない。建物の近くにいれば、平気だ。それに、どこかで手に入れたかしらんが、剣や槍で武装している。素手じゃどうにもならない。逃げ遅れたやつのことは、諦めるしかねえ」

「けどよ」

「どうにもならねえよ。とにかく、森の近くで作業するときは、周りに目を配るしかないんだ。少しでもヤバイと思ったら、人のことなんか考えずに逃げるんだ。それが、ここで長生きする秘訣ってやつさ」

 蔵人が歯を食いしばったと同時のことだった。

 野太い男たちの絶叫に混じって若い女の声が聞こえた。

 視点を激しく動かすと、斜面のはるか彼方を走る、小さな影が見えた。

 灰色のローブが、引きちぎられ茶色の頭髪が風になびいている。

 顔を隠す奇妙な面は、どこかで見覚えのあるものだった。

「ありゃあ、マゴットだ!!」

 囚人の誰かが叫んだ。途端に、男たちが色めきだった。

「ごみ捨てに丘を下ったところをゴブリンどもと鉢合わせたんだ!!」

「こいつはまったくついてねえやつだぜ」

 よろめいてあえぐマゴットの背を、四体のゴブリンが追いかけている。

「待ってろ、いま助けてやっからな!!」

「おう、おれも行くぞ」

 義侠心に富んでいるのか。それとも助けた後の礼に期待したのか、下心を隠さないふたりの男がマゴットを助けようと丘を下っていく。威勢がいいのは声だけだった。男のひとりが、叫びながら駆け下る途中で、森の奥から矢が激しく射かけられた。

「うおおおっ」

 ひとりは、喉、腹、胸をたちまち射抜かれると、そのまま斜面を転がって絶命した。

 蔵人たちがいる丘の上からはかなり近い。ゴブリンたちの作業がよく見えた。青黒いつるりとした頭の小鬼たちは、いまだあたたかい肉の塊に刃を突き刺して丹念に処理していった。喉に短剣を埋め込んで、首を切断すると、邪魔だとばかりに斜面へ蹴り落とした。

 びゅうびゅうと血が吹き出す肉体の肩のつけ根に刃を差し込み、器用に腕を切り落とす。

 胴体と足だけになった死体は、まるで現実実のない物体に思えた。マゴットはすでに逃げる気力を失ったのか、そばで凍りついたまま座り込んでいた。完全に腰が抜けているのだろう。かぶっていたフードがはらりと外れ、頭部に突き出た奇妙なものがよく見えた。

「耳が……!」

 蔵人の視力はすぐれている。マゴットの頭上に突き出たふたつの耳は、どう見ても人間のものではなく、獣のそれだった。

「なんだ、亜人か。チッ」

「いくら女でも畜生風情じゃなぁ」

 蔵人がマゴットの頭上から突き出た奇妙な耳を注視していると、同情的に見守っていた囚人たちが続々と丘を離れて監獄の軒へと移動していく。

「みんな、どうしたんだいったい。亜人てなんだよ!」

「はぁ? いったい、おまえどこの出身なんだよ。ありゃ、耳の形からしてワーキャット族だ。畜生風情なんざ、命をかけて助ける意味もねえ」

 蔵人が呆然と立っていると、マッキンリーが疲れたような顔で、囚人の男の言葉を補足した。

「新入りのおまえにゃわからんだろうが、ここでは亜人の女を抱くと、獄から死ぬまで出られないってジンクスがあるんだ。マゴットもかわいそうに。だからあんな面をかぶって作業していたんだろうな。バレちまえば、きっとあいつのメシをよろこんで受け取るやつはいねえ。美味しい目を見れそうな噂は知ってたが。そうか、亜人か。そういうオチかよ」

 マッキンリーが背を向けた。獲物の解体を終えたゴブリンがマゴットのローブの裾に手をかけた。もはや悲鳴も出ないのであろう、小さな身体にゴブリンが群がっていく。

 蔵人の頬が火のように熱く燃え盛った。

 気づけば、鍬を抱えて走り出していた。

 背後から制止する声が飛んだ。

 構うものか。

 ここで、突っ立っていたら、俺は俺じゃなくなる。

 蔵人は鋭く吠えながら鍬をゴブリンの頭に打ち下ろした。

 ぐしゃりと、鈍い感触が手に残った。

 激しく脳天を打ち据えられた小鬼の怪物は四肢を痙攣させると、ドッと背後にひっくり返った。

「立て! こっちだ!!」

「え、あ……?」

 蔵人はマゴットをグイと引き寄せると、群がっていたゴブリンたちを蹴散らした。

 百八十三の背丈に、八十キロ近い目方の蔵人と、百四十足らずのゴブリンの身体では押し合いにすらならない。

 残った三体のゴブリンが叫びながら突っかかってきた。

 小さいとはいえ、それぞれが手に小ぶりの短剣を持っていた。

 蔵人は無我夢中で鍬を振り回すと、マゴットをかばって徐々に後退していった。

「うっ!?」

 目の前ばかりに気をやっていたせいか、周囲の観察を怠っていた。仲間の危機を察知したゴブリンたちが矢を放って援護射撃を始めたのだ。手首と、右肩、脇腹に矢尻が深く食い込んだ。ただの大学生だった蔵人は、文字通り生まれてはじめて命懸けで殺し合いをすることになったのだ。

 覚悟もクソもない。矢で射られたという事実だけが大きく脳裏に浮かんだ。

 痛みよりも恐怖が強い。

 背中にしがみついたマゴットの身体から震えが伝わってくる。怯えが伝染したのか、上手く身体が動かせなくなった。視界が急速に狭まっていく。

 真正面から突っ込んできたゴブリンの刃が、深く腹に突き刺さった。痛いなどというものではない。目の前が、真っ赤に燃えがあって、背筋の毛がゾッと逆立った。

 全力でゴブリンの首に右手を回すと、締めあげた。

 ゴリっと、骨の鳴る音がして、首を砕いた。血泡を吹く異形の怪物を見て、なにかが吹っ切れた。

 マゴットの手を引いて走った。

 背中に幾つかの矢が突き立った。

 しつこく追いすがるゴブリンの顔面目がけて鍬を振り下ろす。

 ボキッと鈍い音が鳴って、柄が砕けた。

 呼吸が激しく荒くなるにつれ、頭が茹だってなにも考えられなくなる。

 獄卒たちが必死の形相で近づいてくるのが見えた。

 チラリと背後を振り返る。

 多数の人間を目にして諦めたのか、ゴブリンたちが潮が引くように去っていく。

「もう、大丈夫だ」

 抱きかかえていたマゴットがギュッとしがみついてくる。

 意識が、引きちぎられるように寸断された。





 蔵人が再び意識を取り戻したときは、独房の冷たい床の上だった。頭の後ろから視線を感じる。顔だけをようやく上げると、そこには、瞳の大きな美しい少女が涙を湛えたまま、無言で見つめていた。

「よかった。気づいたのね」

「おまえは……」

 少女は十二、三くらいに見えた。茶色の髪が薄闇の中で静かに震えていた。

 大きな瞳は青みがかっており、全体的に愛くるしい顔立ちをしていた。

「あたし、マゴットよ。よかった、気づいてくれて。もう、目を覚まさないかと思った」

 マゴットは袖に顔を伏せて、シクシクと泣き出した。頭の上に、猫のようなふわふわした耳がぴょこんと飛び出ている。これが、囚人たちのいっていた亜人というやつか。コスプレとは違って、頭髪の中から直接突き出ている。犬や猫のものと基本は変わらない。よく見ると、作り物ではない証拠に、中にはビッシリと産毛が生え揃っている。ヒクヒクと小刻みに動くところを見れば、彼女の自前のものであることは間違いなかった。

「あ、耳」

 蔵人がジッと耳を見ていたことに気づいたのか、マゴットは気まずそうに手をやった。

 非難されはしないかと、怯えの色が濃い。不思議な形であるが、特に不快には感じなかった。ああ、そういうものかと、納得する部分が大きかった。

「ああ、別に俺はなんと思わねえよ。ただ、あんたみたいなやつを見たのははじめてだったから、ちょっと驚いただけだ」

「え、あたしみたいな部族。その、亜人を見たことがないって。あなたって、どこの田舎者なのかしら」

 マゴットは自分でいっておいて、言葉の意味に気づくとバツが悪そうに顔を歪めた。

「ご、ごめんなさい。その、田舎者って別に馬鹿にしたわけじゃないのよ。ええと、ええとその、おかしいな。あなたが気づいたら、お礼をとにかくいうつもりだったのに。ねえ、気を悪くしちゃった?」

「はは、いいさ。俺は気にしねえよ」

「はあっ、よかった。あのね、あのね。助けてくれてありがとう、ってそれだけは伝えたかったの。よかった。お礼をいう前に嫌われなくて」

 マゴットはホッと息をつくと、両手を胸の前で組み合わせて、うれしそうに微笑んだ。

 頬がリンゴのように真っ赤に染まり、目元はどことなく熱を帯びていた。

 子供なのに、なんともいえない色気があった。

 蔵人は、咳払いをすると、寝転がったまま頭を掻いた。

「ま、そうやっているところ見ると、お互い大きなケガはなかったみたいだな」

 話題を変えるようにいった。途端に、マゴットの顔がクシャクシャに歪んだ。

「よくないよう。あなた、いっぱい血が出てたんだよう。どうして、あたしなんか助けてくれたの」

「さあ、なんとなくだ。気づいたら飛び出しちまってたよ」

「なんとなくって……」

 格子の向こう側からそろそろと、細い腕が伸びてきて蔵人の頬に触れた。冷たく、なめらかな感触だ。驚いて起き上がると、照れたように視線をそらすマゴットの顔があった。

「ねえ、あなたの名前。教えてよ」

「俺は、志門蔵人だ」

「シモン?」

「いや、それは苗字で」

「苗字があるの? もしかして、あなたって身分のある方なの?」

「いーや、違くて。とにかく、名前は蔵人だ。クランドって呼んでくれや」

「クランド、うん。クランド」

 マゴットは、言葉の音が気に入ったのか、目を伏せたまま口元で名前を数回つぶやいた。形のいい小鼻がフンフンと鳴っている。子猫のような愛らしさだった。

「ねえ、クランド。よければ、あたしとお友だちになってちょうだい」






 その日から、蔵人とマゴットは友達になった。とはいっても、蔵人は檻の中である。

 マゴットと会えるのは、朝と夕の食事どきの二回だけだった。他の獄卒の目を盗んで会話をするのは中々難しかったが、ふたりはイタズラを楽しむようにこのおしゃべりを楽しんだ。聞けば、マゴットは十二歳でワーキャットという亜人に分類される一族だった。彼女は、自分が奴隷だということに特に引け目を感じず、正直に話していた。

 マゴットには、兄がひとりいて、いまは都で金を稼いでおり、今年中にも彼女を請け出してくれるとのことだった。

「ごめんね、あたしばっかり自由になって」

 彼女は頭の回転は早い方ではなく、ときどき蔵人の話にまるでついていけない部分があったが、辛抱強く話を聞き、理解することに努めていた。根は善良であるが、どうにも要領がよくないのか、ときおり他の獄卒に叱られていることがよくあった。

 蔵人とマゴットの仲が深まるにつれて、彼女は徐々に心を開いて、囚人であることも忘れたのか甘えてくるようになった。

(こんな子供だ。兄貴が恋しいんだろうな)

 大の男ですら泣きが入る陰鬱とした職場だ。奴隷として、二十四時間自由なく従事している彼女にも心の拠りどころが必要だったのであろう。

 さらに、一週間が過ぎる頃には、夜中にまで内緒で房の前に遊びに来るようになった。

 ワーキャットだけあって、マゴットは足音を殺すのは器用だった。

 また、蔵人のいる独房は、部屋の一番隅であり、隣室の男が老年であり、夜はぐっすり眠りこけて目を絶対に覚まさないことも有利に働いた。つらいこと、悲しいことがあると、マゴットは房の前に来て、ジッと涙を湛えた目で佇んでいた。その度に、蔵人は格子から手を伸ばして、マゴットの小さな頭を撫でてやった。

「みゃあ」

 マゴットは頭を撫でられている間は、ジッと目を細めて陽だまりの中の猫のようにしあわせいっぱいなくつろいだ顔をしていた。

 自分に妹がいれば、きっとこんな感じだったのだろうか。つらい日々にくじけず頑張るマゴット励まされ、いつしか蔵人の心にもあたたかいものが宿っていった。

 朝起きて、マゴットにいってきますと告げ、夜帰ってから夕食前に語って、ともしびが消えてからはこっそりと語り合った。蔵人は、伐採作業中に薄青色の花を見つけ、こっそり摘むとマゴットへ贈った。

「綺麗ね。ありがとう、クランド」

 彼女はしばらくすると、それを押し花にして常に持ち歩くようになった。

「うれしいな。本当にうれしいよう」

 マゴットはその押し花を押し抱くと、尻尾をぴょこぴょこ振って踊った。蔵人は、マゴットが房の前に来ると、格子の傍にできるだけ近寄って座った。こうすれば、木製の牢を挟んでも互いの体温を少しでも多く感じ取れるからである。蔵人は孤独だったが、それは日本でも同じだった。身寄りのない彼は、日本で帰りを待つものがいない。それでも、よくわからない世界で生きるのは、つらかった。慣習だけではなく、食うものひとつとってもすべて異質なのだ。ふたりは、まるで違う人種であっても、本当の兄妹のように身を寄せ合って心の均衡を保った。

「あたしの生まれたところはね、きれいな花がいっぱい咲いていた丘の上にあったんだよ。おじいちゃんと、おばあちゃん。お母さんやお父さん。たくさんの兄妹といっしょに、川へ遊びに行ったんだ。天気のいい日は、あったかい草むらで日なたぼっこをして、みんなでごろ寝するの」

 マゴットは過ぎ去った日々のことを目を細めて語るのだった。彼女の昔語りには、特別な出来事は起こらなかった。淡々とした取るに足らない日常。彼女が、どういう経緯で奴隷に身を落としたのかは知らないが、そこに至るまではどれだけの苦しみがあったのか、平凡な生き方をしていた蔵人には想像もつかなかった。

「お兄ちゃんはね、冒険者なんだ」

「冒険者?」

「うん。冒険者。いまは、都で頑張って働いているんだ。それで、お金を貯めてここを出たら、ダンジョンに行くっていってた」

「へえ。そりゃ、また。大冒険だな。どこかアテでもあるんかい」

「お兄ちゃんがいうには、王都からずっと南の果てに、迷宮都市があって、そこには冒険者たちがたくさん集まるギルドがあるっていってた。いつか、ここを出たらあたしとお兄ちゃんはいっしょに、ダンジョンに潜って冒険するの。そうしたら、きっとたくさんお金が稼げるよ! そうすれば、家族だって昔みたいに、いっしょに暮らせるようになるし。そのときは、クランドもここから出してもらえるように王さまにお願いしてみるよー」

「そうか。そんときは、頼まぁ」

「うん。あたし、クランド好き。だから、ここから出られたら、あたしとお兄ちゃんとクランドで冒険しよう!!」

「はは。そうだな、それがいい。ところで、その迷宮都市ってのはなんて場所なんだ?」

 マゴットは、頭を抱え込むと、唸り始めた。頭上の猫耳はペタンと寝てしまい、細長いしっぽはうねうねと動いている。

「シルバーヴィラゴ!」

 マゴットはいつも小さな豆本をこっそり持ち歩いていた。蔵人が暇のあまり見せてくれと頼むと、自慢そうにむふぅと鼻を膨らませながら、手渡してくれた。

「よ、読めねえ」

「実はあたしも読めないんだ。お兄ちゃんが迎えに来るまでに、読めるようになっておかないと」

 マゴットは足でまといにはなりたくないもんね、と寂しそうに笑い、大事そうに蔵人から貰った押し花の栞を挟むのであった。





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