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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
37/302

Lv37「奴隷商人」





 蔵人は立ち上がった。激痛をこらえながら、左腕に刺さっていた氷の矢を引き抜く。どろりと血にまみれたそれを放り捨てる。宙に投げ出された氷の塊は大気に魔力を放散させ硬質な音と共に砕け散った。

「クランド、貴方はいままでほとんど私のような魔術師と戦ったことがないのでは。もっともそれは幸運なことだといえる。だからこそ、今日まで生き残れてこれたというのだからっ」

 蔵人は、纏っていた外套を外して左手に持つと、振り上げて水溜りに叩きつけた。飛び散った水の飛沫が大きく跳ね上がった。

 胸元の不死の紋章イモータリティ・レッドが淡い光を帯びて輝き出す。ペラダンが再び杖を振りかざす前に地を蹴って駆け出した。

「懲りない人だ。氷の矢(アイスショット)!」

 ペラダンの氷の矢が雨を裂いて射出される。一方、蔵人は手に持った外套を振り回しながら、ジグザグにステップを切って疾走した。左手で振り回す外套は、塵埃や雨水をたっぷり吸いこんで厚みを増した盾になっていた。数本の矢は勢いをつけて振り回される外套に当たると弾かれて方向を変えた。

「おおおおっ!」

 蔵人が大きく吠えながら跳躍する。長剣がうなりを上げて銀線をまっすぐ描いた。ペラダンは、のけぞりながらも肩を切り裂かれると後方に飛び退いたまま杖を振るった。

影の拘束(シャドウバインド)

「なっ」

 蔵人が地面に降り立った瞬間、足元に黒いサークルが出現する。飛び上がろうと力をこめると、膝の位置まで泥沼に嵌ったようにたちまち足が沈みこんでいった。続けてサークルからは真っ黒な縄状の魔力の塊が飛び出すと、それらは幾重にも蔵人の身体のあちこちへと張り付いて動きを封じた。

「いまの一撃は良かった。惜しむらくは、私を倒せる好機はいまの一度だけだったというのに生かせなかったのは至極残念だ。ふむ、さきほど与えた傷が治りかけている。君の身体には不可解なリジェネレーションでもかけてあるのか。実に興味深い。が、この剣ならばどうかな」

 ペラダンは、刃の先が波状に歪んだ短剣を抜き放つと、動きを封じられた蔵人の膝にためらいもなく突き入れた。

「んぐっ!」

 刃の埋まった先に激しい痒みを覚えた。その後を追って、悶絶するような痛みがすべての感覚を焼き払った。ペラダンは鼻歌交じりで刃先を動かしている。特殊な形質の波状の刃は、蔵人の肉の内部を細かく引き裂きながら、ぶちぶちと筋肉の繊維一本一本を丹念に破壊していく。膝を折って座り込みたい衝動にかられた。かろうじて握りしめていた長剣が指先から離れ、黒いサークルの外へと滑っていった。

「クランドっ!!」

 レイシーの泣き声が雨音を貫いて耳元まで届く。

 彼女の声だけが折れそうな闘志をつなぎとめている。蔵人は目の前のペラダンを睨みつけると、飛びかかろうとするが魔術の縄が全身を縛り付けて両手をそれ以上伸ばせない。呼吸と心音だけが荒くなっていく。

「無駄ですよ、私の拘束魔術はそう簡単にやぶれません。それより、どうです、かっ!」

「あぐっ」

 ペラダンは勢いよく短剣を引き抜くと、蔵人の胸元に向かって二度刃を振り下ろした。

 蔵人の胸元は、十字型に切り刻まれると、衣服から染み出した真っ赤な血が胸全体を濡らしていった。指先一本一本が痛みでぴんと伸びきった。脳髄の芯まで響くような痛みが、間断なく襲ってくる。血の混じったよだれが口元から流れ出た。

「この剣は怨嗟の牙といって、中々使い勝手のいい魔術道具(マジック・アイテム)です。この、特殊武器なら、魔術付与(エンチャント)された人間の身体でも充分に効果を与えることができる」

「もうやめてくださいっ! あたしに用があるなら、あたしだけにしてくださいっ。クランドには関係のないことじゃないですかっ」

「ほう。それは、本当かねレイシー。私としても、まったく無関係の人間を傷つけるというのはいささか心苦しい。本来、私が用があるのは君と、君の父親バーンハードだけですからね」

「そうです、クランド。その人と、あたしは一切関係ないです」

「そうなってくると、私の調査が間違っていたことになる。ならば、重ねて尋ねるがこの男は無関係であるのにどうして君を無頼者たちや私から守ろうとしたのだね」

「それは――」

 レイシーは徐々に弱まった雨の中で、小さく肩を震わせていた。たっぷりとした灰色の髪がぐっしょりと濡れて顔半分を覆っている。昼間だというのに分厚い黒雲が空をさえぎって、世界を薄暗く染め抜いていた。

「さあ、あたしが同情で宿を世話してやっただけなのに勘違いしただけじゃないですか。昔からそうなんですよね。気の毒だと思って親身にあれこれ気を使ってあげても、自分に気があるかと勝手に解釈して、あたしのまわりをうろちょろばっかりして。今日だって、買い物するから荷物持ち程度にわざわざ連れてきたのに、番犬代わりにすらなりゃしないじゃない。ほら、お兄さん。あたしを見て、どう思います」

「フム。さすがに、銀馬車亭の歌姫といわれるだけのことはある。美しい」

「――そうでしょう。あたしは、学もなけりゃ頭だってからっぽかもしれないけど、母さん譲りの器量の良さじゃ、そこいら辺りの小娘には負けない自信があるんですっ。どうして、こんな野良犬風情とどうこうなった仲だなんて邪推したんですか。迷惑ですよ。こんな駄犬はっ」

「そうですね。レイシー、貴女の美しさは、並の貴婦人をはるかに凌駕しています。いや、白状しますとね。私は、バーンハードとは古い知人でね。かつて彼とかわした約束を履行してもらおうと思いましてね」

「約束って」

「貴女をもらうことですよ。髪の毛一本から、つま先まで」

 レイシーは、一瞬困惑したままペラダン見つめた。が、すぐに媚態をつくると甘えるような声を出してペラダンに向かって歩み寄っていく。

「そうですか。だったら、もういいじゃないですか。こんな負け犬は放って置いて、あったかいところで休みましょうよお。勝負は、とっくについているじゃないですか」

 レイシーは、ペラダンの腕を抱き寄せると自分の胸にわざと当たるように抱き寄せた。

 蔵人から遠ざけるようにしてぐいぐいと腕を引っ張った。

 魔術師の表情。白い仮面でうかがえないが、きらりと奥の瞳が冷たく光った。

「そうですか。いや、貴女がバーンハードと違って話のわかる娘で手間が省けた」

 感謝します、とペラダンはいうと蔵人を縛っていた拘束魔術を解いた。貼りついていた黒い魔力の縄が、大気に溶けるように霧散していく。

「雨に濡れるのも飽きた。さ、行きましょうか。我が花嫁レイシー」

 ペラダンは振り上げた短剣を真っ直ぐに走らせた。蔵人は、肩口から脇腹まで斜めに切り下げられるとうつ伏せの形で石畳に倒れこんだ。

「私は敵を倒すたびに必ず、戦利品(トロフィー)としてなにかその相手を象徴しているモノをコレクションしているのです。そう、君の場合はさしずめこれですね」

 ペラダンは、蔵人から外套を剥ぎ取ると器用にくるめて肩に担いだ。

「クランド。君の首をはねなかったのは、私の肩を切りつけてくれた礼です。驚きでしたよ。この十年、この私に手傷を負わせた者などいなかったのに。死にゆくまでの時間をたっぷりと味わってください。もっとも、貴方が目指していた冒険者のほとんどは、このように誰にも看取られることなく、暗闇の中で息を引き取っていくのですから。街中であれば、誰かが死骸を片づけて埋めるくらいのことはしてくれるでしょう」

 降りかかる雨粒が後頭部を叩いている。

 ペラダンに引かれるようにして、街路の向こう側に消えていくレイシーの振り返った横顔を確かに網膜に焼き付けた。

 使い慣れない蓮っ葉な口調でわざと蔵人を罵るレイシーの声は悲しみに満ち溢れていた。

 あれが魔術。

 これが魔術師。

 まったくもって完敗だった。

 蔵人は、いままでの敵が雑魚のように思えてきてならなかった。

 魔術を使って的確に遠距離攻撃を行い、疲れたところを魔術で拘束して、ゆっくりと止めを刺す。

 あらかじめ魔術の種類が分かっていればなんていわない。

「けど、あんなオモシロ仮面に負けるようじゃ、ハーレムの道は遠すぎるぜ」

 血が流れすぎたのか、ほとんど身体の感覚が麻痺している。魔術でえぐられた傷は塞がりかけているが、怨嗟の牙で受けた傷はそのままだった。倒れこんだまま指先を伸ばして長剣を引き寄せる。刃を引き寄せて鞘にしまうだけが重労働だった。

「さあ、コンテニューといこうか」

 白鞘を杖にしてなんとか立ち上がろうとする。四度ほど倒れて、ようやくバランスをつかむことに成功した。

 一歩一歩の足取りが、果てしなく重い。背中に鉛をどっしりと積まされているようだ。

 肩で息をして、すり足で進む。

 大通りに出て辻馬車を拾おう。大聖堂にいけばマルコがいる。傷薬くらいは分けてくれるだろうし、頭を下げればレイシーの足取りを追うことくらいに協力してくれるだろう。

 不意に、ヒルダのことを思い出した。

 辺りには気配すらない。

 罪のない彼女を怖がらせて迷惑をかけてしまった。うまく逃げ延びていてほしい。

 蔵人のこころは申し訳なさで一杯だった。

 頭の奥がチリチリと焼け火箸を突っこんだように痛んでいる。

 視界の向こうにある街並みは、白いもやがかかったように霞んでいた。

 馬のいななきと、街路の石畳を滑る車輪の音が聞こえてくる。

 蔵人は最後の力を振り絞って道の前に走り出すと、身体に大きな衝撃を受けて、意識を完全に切断した。






 荒々しい風が轟々と耳元で唸っている。唸りはやがて全身を突き刺す、冷たさに変わっていった。蔵人は身を縮めて寒気から少しで身を守ろうとするが、吹きつけてくる雪がどんどん体温を奪っていく。目を見開こうと全身に力を入れるが、まぶたが凍りついて少しも動かすことができない。鼓動が駆け回ったあとのように早くなっていく。喉の奥に泥を押しこめられたように息が詰まる。苦痛のあまり手を差し伸べると、柔らかいものに確かに触れた気がした。

 瞬間的に意識が覚醒した。

 甘ったるい香の匂いが鼻先に漂っている。

 蔵人が目を見開くと、目の前にはひとりの女が座っていた。

 歳の頃は、十五、六くらいだろうか、黒真珠のような大きな瞳が見下ろしている。

 栗色の髪を肩まで切りそろえている。

 ほとんど表情が動かない。冷たさを感じるほど整った美貌だ。

 特筆するのは、頭から生えている犬のような耳である。

 なんの冗談だろうか、と思ったが蔵人は人のファッションにはケチをつけないことにしているので、敢えて彼女の犬耳に関しては見なかったことにした。かけられていた毛布は上等なものだろう。身体が沈みこんでいた寝台も、値打ちものだろうと推察された。部屋に視線を凝らすと、豪奢な調度品が置かれている。チリ一つない掃除の仕方から、かなりのお大尽の持ち物であるとわかった。胸元に手をやると、包帯が巻かれ手当がされている。

 不思議なことに、魔術道具(マジック・アイテム)で与えられていた傷がほとんど塞がりかけていた。

「君が手当してくれたのか」

 ありがとう、と続けようとしたところ、蔵人の頭の上からだぼだぼと生ぬるい液体がそそがれた。無言で、犬耳少女の顔を見つめる。彼女は、カップをゆっくり寝台脇のテーブルに置くと厳かにいった。

「手がすべりました」

「すべった? というか、いま逆さまにしてぶっかけたよねえ」

 犬耳少女は無言のまま、ぷいと横を向くとそのまま静止した。

 表情がまるで変わらないので、感情を読むことができない。

 黒を基調としたお仕着せに、純白のエプロンをしている。頭につけたヘッドドレスのそばから生えている犬耳がぴんと真上に突っ立って居る。わたし怒っていますよ、ってところだろうかと蔵人は思った。

 んん、本物なのか?

 蔵人がじっと見つめていると、視線を感じたのか犬耳少女は椅子から立つとドアに向かって歩いていく。臀部の部分に生えたふさふさの尻尾がゆらゆらと左右に揺らいでいた。

 茶色く立派な尻尾に気をとられていると、ドアノブに手をかけた少女が動きを止めていった。

「貴方にずっと付き添って回復魔術(ヒーリング)をかけ続けていたのは、小柄なシスターでしたよ。それと、どんな理由があっても女性にあんな顔をさせる殿方は最低です。私は、貴方を軽蔑します」

「ちょっと――」

 蔵人は飛来したお盆を顎に食らって寝台から滑り落ちた。犬耳少女が、振り向きざまにドアの隙間から投げつけたのだった。

 なぜ初対面の少女にいきなり軽蔑されねばならんのだ。理解し兼ねる。

「いやあ、目を覚まされましたかな。ウチの者がとんだご無礼を」

 蔵人が床から立ち上がると、いかにも商人然とした恰幅の良い五十代ほどの男が部屋に入ってきた。男の隣には、ぎょろぎょろと目ばかりを光らせる小男がつき従っている。いかにも腰巾着という風体だった。

 男はシャイロックという奴隷商人だと名乗った。大通りに飛び出した蔵人をはねた馬車に乗っていたそうだ。蔵人は自分の名前を告げると、シャイロックに感謝の礼を述べた。

 蔵人のやったことはほとんど当たり屋同然の所業である。にも関わらず、自らの屋敷に運び治療まで行うとはこの世知辛い世界において中々できることではない。蔵人は、シャイロックに両手を合わせて拝むと、彼は鷹揚に笑って見せた。

「それで、ヒルダ、いや俺に付き添ってくれてたシスターは……」

「ええ、彼女ならしばらく席を外すといっていましたが、アントン」

「そのシスターならば、さきほどお帰りになられました」

 アントンと呼ばれた小男が主に向かって告げた。彼は胡散臭そうに蔵人をじろりとにらみつけると、無言のまま長剣“白鷺”を手渡した。暗にさっさと帰れといわれているくらい、いくら鈍感な蔵人でも気づいた。ヒルダはおそらく、これ以上ゴタゴタに巻きこまれることを恐れて逃げたのだろう。無理もなかった。蔵人の中に彼女を責める気持ちは一片もなかった。蔵人が長剣を腰に落とし込むと、いつもは気にならない重みがずしりと腰に響く。血が流れすぎたのだ。青白い顔をしながら額に手を当てると、シャイロックが傍まで近づいていった。

「まったくウチの番頭は情が薄すぎて困る。どんな理由があったかは、無理やりお聞きしません。だが、こんな狭い世の中で二度も顔を合わせるなど中々ありえないことだ」

「二度目? 悪いがシャイロックさん。俺はアンタに会ったことなんぞ記憶にはないが」

「貴様、会頭に向かってなんという口の利き方を!」

「アントン、いちいち話の腰を折るでない。いやはや、失礼。あなたとは、確かセントラルリベットの大通りでお会いしましたよ。よくよく縁があるような気がしてなりません。先ほどの娘。もっとも、まだ買い手のつかない奴隷ですが、見覚えありませんかな」

「いや、あんな美人に一度会えば忘れるはずもないと思うけど」

「……はは、そうですか。ならば、そういうことにしておきましょうか。もっとも、あの娘の方は忘れたくても忘れられないでしょうが」

 蔵人が頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、シャイロックは話を切り替えた。

「クランドさん、私は王都では少しは名の知られた奴隷商人でね。特に手をかけた娘は売買品とはいえ、これという人物にしか売り渡したくないのですよ。さきほど部屋から出ていった、ポルディナという戦狼族(ウェアウルフ)の娘だけは、これという主人が見つからなくて、少々困っているのですよ。ふむ、失礼ですが少し顔を見させて頂いてもよろしいかな」

「ああ、別に構わないが」

「では、失礼して」

 命の恩人でもあるシャイロックの要求である。中年男と鼻先を突きあわせて見つめ合うなど不気味なことこの上ないが、断れる状況でもなかった。シャイロックはまじまじと蔵人の顔を至近距離でじっくり眺め終えるとほうっとため息をついて恍惚の表情になった。

 そばに控えていた小男のアントンがにわかに顔面神経痛にかかったように引きつった。

「会頭」

「いや、失礼。クランドさん、私は若い頃から人相見が趣味でして、これまでに数え切れないほど人さまの顔相を見続けましたが。ふーむ、実に珍しい」

 珍しいを連呼し微動だにしないシャイロックを前にし、蔵人の表情は徐々にこわばったものになっていった。幸いにも、ペラダンの怨嗟の牙で受けた傷もほぼ塞がっている。ヒルダが治療魔術を使えたのは軽く驚いたが、レイシーの身柄を奪われたいま、グズグズしている暇は無さそうだった。

 蔵人は、アントンに時間を尋ねると、ちょうど日付が変わる直前だと知った。意識を失ったのが昼前後くらいなら、おおよそ十二時間ほど経過している。バーンハードも買い物に出たまま帰らない娘のことを心配しているだろう。とにもかくにも一度戻らねば。それにあの魔術師との因縁は娘のレイシーよりも、父であるバーンハードのほうにありそうな雰囲気だった。

 シャイロックはまだまだ蔵人と語りたがっていた様子であったが、緊急であることのみを告げると、そこは年季の入った大商人である。手早く銀馬車亭までの専用馬車を用意してくれた。蔵人は、後日礼も兼ねて屋敷を来訪することを約束すると、慌ただしく屋敷を出ていった。

「会頭、なんどもいうようでひつこいでしょうが聞いておくんなさい。確かに、あのボロ雑巾みたいな若造とは縁があるような気がしますが、どうしてここまで馬鹿丁寧に扱うんですかい? 以前に乞食同然の冒険者風情を拾ったときは、適当に金を渡してそれまでだったじゃないですか。大奴隷市を控えたこのクソ忙しい時期に、わざわざご自分の時間まで割いて。おまけに、商品とはいえ、値打ちモノのポルディナにまで看病させて。万が一にもあの若造が妙な気起こしたらどうするんですかい」

戦狼族(ウェアウルフ)の力は常人の十倍ですよ。もっとも彼が本気になれば抵抗できる娘はいないでしょうがね」

「いってる意味がイマイチわかりかねます」

「アントン。やはり、おまえは遊びが足りない。いや、余裕ですかな。それよりも、クランドさんの顔相はすごい。正直、彼の顔を見た途端、今回の市自体どうでもよくなりましたね。まったく」

 アントンは、主であるシャイロックの身体が小刻みに震えていることにようやく気づいた。大商人であるシャイロックが商売をそっちのけで気にする青年の顔相とはいったいどのようなものであろうか。知らず、せり上がった唾を飲みこんだ。

「あたしは人相見はやらないんで、会頭の驚きがいまひとつわからんのですけども。それほどですかね」

「私はこの三十年で数え切れないほど多数の人々の顔相を見ました。いままで、もっとも優れていたのは隣国のエウロパの若殿くらいだったが、クランドさんはさらにすごい!」

 アントンはシャイロックがエウロパの若殿こと現エウロパ皇帝を引き合いに出したところで話を真面目に聞く気を無くした。皇帝が若殿と呼ばれていたのは二十年も昔の話で、現在は乱れきった王国に秩序をもたらした現代の生きる伝説である。そんな英雄と、浮浪者同然の若者を比べること自体が間違っているのである。

 シャイロックは商売人としては文句のつけ所のない男だが、往々にして組織のトップは妙なものにハマるのである。それが占いだったり、女だったり、迷信みたいな世迷言だったり、霊的な信仰であったり。人相見がさしずめシャイロックにとってはそれに当たるのであろう。

「彼の相は龍顔。いわゆる王者の相です。ひとたびときを得れば、どこまでも駆け登っていく。この世のすべてを手に入れる可能性のある相です」

「会頭、少しお疲れなのでは」

「別に、私は狂ってなどおりません。とはいえ、可能性は可能性。機会があればいろいろ話あって、出来るだけの手助けをしてあげたいと思っています。店に影響の出ない範囲で」

「まったく、驚かせないでくださいよ。あたしゃ、会頭がそっちの方面にいってしまわれたかと思ってしまいましたよ」

「道楽で店を潰すほどまだ耄碌はしておりません。だが、龍顔には絶えず危機がまとわりつきます。現にいまも、彼の身には苦難が降りかかっているらしい。願わくば、この屋敷に彼が五体満足のまま訪ねてくることを願っておりますよ。心の底からね。ねえ、ポルディナ。あなたもそう思いませんか?」

 アントンが振り返ると、ドアの隙間から小さな足音が遠のいていくのが聞こえた。

「驚きましたね。あの生き人形みたいなポルディナが男に興味を持つなんて」

「ふふ、アントンそのいい方は父親みたいですよ」

 アントンは主の言葉を受けると、わざとしかめっ面を作って怒ったようにそっぽを向いた。






 蔵人が辻馬車から飛び降りると、闇の中に静まり返っている銀馬車亭の姿が、月夜に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。いつもなら、店の中からもれ出る光と酔客の上げる声が騒々しいくらいであるが、今日に限っては死んだように静まりかえっていた。

 スイングドアを開けて店内に足を踏み入れる。蔵人の履いた長靴の音だけがこつこつと静寂を割って響いていた。カウンターには、小さなランプがひとつだけ灯してあり、そこには酒瓶を片手にだらしなく顔を伏せているバーンハードの姿があった。彼は、蔵人の姿を見るとふらついた身体をようやく縦にして、謝罪の言葉を述べはじめた。

「すまないな、クランド。君やレイシーをなんの関係もないゴタゴタに付き合わせてしまって。シスターに聞いたよ。なんでもすごい大怪我をしたとか。ああ、関係のない彼女まであんなに怯えさせてしまって。本当にいくら詫びても、詫びきることができないよ」

 バーンハードは身をよじってカウンターに突っ伏すと、片手を振って飲んでいた酒瓶やグラスを薙ぎ払った。食器のいくつかが、激しい音を立てて床に転がり落ちて割れた。

 銀馬車亭の主人にいつもの貫禄はなく、小娘のようにたださめざめと身を折って泣いている。蔵人は彼の態度に苛立ちを覚えながら足元の皿を踏み割った。

「詫びなんぞどうでもいいんだ! なあ、バーンハード。あんたなら、あのペラダンってやつがレイシーをさらっていったことと次第を一通り知っているんだろう。いや、そんなことよりも、いま大切なのはどうやって彼女を取りかえすかってことだろうが。あんたの大切なレイシーを、あんなイカれた仮面野郎の花嫁にしたってロクなことになりゃしないぜ! 本当にそんな約束したっていうのかよ!」

「花嫁。そうか、ペラダンはそういったのか。ある意味、やつがしようとしている目的は明確だよ。それを、私はよく知っている」

「目的ってなんだよ、いったい。それよりも、あんたはどうして怒らねえんだ! たったひとりの娘が無理やりさらわれたんだぜ!」

「たぶん、いつかこうなることを私は知っていたんだ、ホラ」

 バーンハードは一枚の手紙を取り出すと、蔵人にかざして見せた。ランプの薄明かりの中、蜜蝋で封をした宛名がくっきりと浮かび上がるが、蔵人はこの世界の文字を読みとることはできなかった。

「俺は字が読めねえんだ。なんて、書いてある」

「結婚式の招待状だ。ペラダンとレイシーの。式は、今日から五日後、いや日付が変わったから四日後の深夜一時に執り行うと書いてある。レイシーは、今年で数えの十七になったが、生まれた日が四日後の深夜一時なんだ。補足として、式当日に持参金として百万(ポンドル)用意しろ、と。用意できない場合は、その場で花嫁を奴隷商人に引き渡す、と書いてある」

「な――ふざけんなっ! あんたはそんなふざけた条件そのまま丸呑みするっていうのかよっ! 早く、やつの居場所を教えてくれ。いまから、俺が乗りこんでたたっ斬ってやる」

「違う、違うんだクランド。どんな条件を突きつけられても、私は呑むしかないんだ。だが、百万(ポンドル)を渡したところであいつが正直に娘を返すとは思えない。ペラダンは、ただ私を苦しめたいだけなんだ。友を裏切ったこの私を。できるだけ長く、深く」

「なあ教えてくれ。俺はあんたが自分の命惜しさにペラダンの言い分に従ってるとは思えない。いったい、あんたとペラダンの間になにがあったんだ」

「私は、かつて冒険者だった。ペラダンと知りあったのも、今日みたいな夏にしてはうすら寒い夏の夜だった」

 バーンハードは重たい口をゆっくりと動かすと、魔術師ペラダンとの因縁を話しだしたのだった。






 レイシーはペラダンに途中で目隠しをされたあと、馬車に乗せられた。どれだけの時間が経過したのだろうか、不意に抱きかかえられて運ばれる感触を覚え、思わず身をこわばらせた。レイシーの頭の中で蔵人の傷ついた姿と心配そうな父の顔が交互にあらわれて消えていった。しばらく経って、目隠しを外されるとそこはどこかのお屋敷の一室だった。

 目の前にはペラダンが無言で佇立している。白っぽい仮面のせいで表情がうかがえないのがより不気味だった。

「そんなに緊張しないでください。私たちはもう夫婦同然ですから」

 緊張をほぐそうといっているのだろうが、レイシーにとっては逆効果だった。見知らぬ男と密室でふたりきりというだけで寒気がするほど気分が悪いのに、相手はすでに夫のような態度で接してくる。ちらりと、視線を室内の中央に向けると豪奢な寝台が目に入った。

 子供ではない、これからあの場所で好きでもない見も知らない男に組み敷かれると思うと、恐怖と悲しみで胸が張り裂けそうだった。

「とはいっても、それはカタチだけのこと。この私が、貴女をあたりまえの妻のように愛すと思ったら大間違いですから。いい気にならないでくださいね、バケモノ風情が」

「それって、どういう意味ですか」

 レイシーはムッとして言い返すとペラダンをにらみつける。そもそも、父がかわした約束うんぬんなどはまったくもって自分には関係のないことである。

(なんか、だんだん腹が立ってきた! こんなわけのわからない男に好きにさせたりしないんだからっ)

「どうもこうも、ありません、よ!」

 パンと甲高い音を立てて頬が鳴った。しばらくしてやってきた痛みと頬の熱さにレイシーは自然と両膝を折ってその場に座りこんでしまう。

「え、あ?」

 殴られた。なんの理由もなく。

 先ほどの決意はどこへやら、肉体的な痛みと恐怖におののきガクガクと膝が震えだす。

 目尻に涙が盛り上がってくる。

 レイシーは、自分は女だから、なんとなく絶対に暴力などはふるわれないと思いこんでいたのだった。その考えが目の前で根底から突き崩された。頭の中では、目の前に対する反感が消えないのだが、ちょっとした暴力で簡単に肉体は支配されてしまう。情けなさと恐怖で涙がボロボロと溢れ出した。

「立ちなさい、立てェえ!!」

「ひ」

 聞きなれない男の怒声に、レイシーは反射的に身を起こそうとするが、膝から力が抜けていって満足立つことができない。

「早くしないかっ!」

「は、はいっ」

 割れるような怒声を耳元で上げられる度に恐怖で身がすくむ。レイシーの頭の中はこれからなにをされるかという恐怖でもはやほかのことは考えられなかった。

「脱ぐんだ」

「え、な、なにを」

「聞こえないか、服を脱げと私はいいました」

 レイシーは、紙のような真っ白な顔つきで目の前の男のいった意味を噛み締めて、深く絶望した。






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