Lv36「雨音の中で」
帰り道、ヒルダのはしゃぎようは異常なほどだった。馬車の中でも、道を歩いているときでも常に喋り通しだった。
元々、口数は多い方だったので知っている人間が見てもそれほど目立たない程度だったが、あからさまに蔵人の身体に触れる頻度が増えていた。馬車が揺れたといっては肩に寄りかかる、道を歩いていて小石が跳ねたといっては手を取る、返り血で汚れた顔や衣服を公共の水場で拭うさまは、長年連れ添った夫婦さながらといった様子であった。
そのくせ、他人の目をしっかりと意識して冷静さを失なってはいなかった。人さまが、やりすぎだという風に眉をしかめる程度にまで陥らない巧妙なバランスだった。
だが、蔵人はヒルダの興奮状態を一過性のモノとしてしかとらえていなかった。
事実は違うのだが。
一方、蔵人の頭の中を占めていたのはドロテアのことだった。アレクサンダーの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。来週にもジョシュヤ商会はドロテアに五百万P(※約五千万円)の懸賞金を懸けるという。人間の生命が塵芥並のこの世界では破格だった。数万Pですら命のやりとりになるこの世界で、上記の値段は、飢えた野獣どもを引き寄せるに充分な価格だった。ドロテアの腕前は飛び抜けているが、彼女の精神力には妙な弱さが垣間見えた。忘れたし関係ないと思い切れば楽なのだが、一旦浮かび上がってくれば、もはや他の事を考える余裕すら残されていなかった。第一、元の彼女たちの隠れ家の位置すら正確に掴んでいない。今となっては蔵人に出来ることは、彼女たちが逃げ続けられるよう祈るくらいだった。
「どうしたんですか、やっぱりどこか怪我してましたかね」
「いや」
喉の奥に小骨が刺さったように、蔵人の精神を蝕み続ける。こういう日は、浴びるほど酒が飲みたくなる。酔うには雰囲気が重要だった。昼間の煌々とした光は健全な道徳心を刺激して脳を酔わせないのである。幸いにも辺りは、日が落ちて暗くなりつつある。そういった意味では、さかずきを傾けやすい時間帯になっていた。
街の街燈に灯された光が、蔵人の疲れきった姿を炙りだしていく。肩を落とした背中を見ていたヒルダの表情も落ち着きを取り戻し、口数が少なくなった。一日の労働を終えた人々が、快活な表情で笑いさざめき心地よい疲労と共に家路に向かっている。こうして一日が過ぎていく。貴族の生まれであるヒルダは元々労働と無縁であったが、典型的日本人であった蔵人は無為な一日の終わりに勤勉な人波に揉まれるとわけもなく強い羞恥心を覚えた。それは、民族的な習性なのだろうか、享楽的に人生を生きると決めてみても、骨の髄まで遊民になりきれない部分があった。誰かが努力して汗を流す、モノが造られカタチになる。あるいは、目に見えない部分でなにかに打ちこむ。蔵人は、時々自分がまったく動かない車輪を回し続ける二十日鼠であるような錯覚を覚える。彼は、極めて真面目な学生ではなかった。時には、自分には人格的欠陥あるのかと思うほど、物事や人に執着出来ない部分があるのを感じる。講義にはほとんど出ず、バイトに汗を流して時間を潰し、そうして出来た貴重な金を惜しげもなく蕩尽している自分がいた。
「んん、どうしたのですか」
蔵人は歩みを止めて、横を歩くヒルダの顔を見た。ほのかなランプの赤茶けた光の中、改めてじっくり顔を眺めてみる。びっくりするくらいの目鼻立ちの美しさだ。美人は三日で飽きるというがそういった次元ではない。蔵人が合コンで気を惹こうとした女の顔が、ヒルダを目の前にすれば出来損ないの泥細工にすら思えた。そういった意味でも現実感が常に薄かった。いつでも、自分は夢の中にいると錯覚してしまう。おそらく脳が自然にバランスを取っているのだろう。
とにかく早く酔いたい。歩幅を急に早めて銀馬車亭に向かう。
「ちょっと、なんとかいってくださいよ。なんで、いま私の顔見たのですか? んん、なにかついてましたかね」
ヒルダが小走りになった。蔵人は胸元に腕を突っ込むと、くしゃくしゃになったポートレートの存在を確かめ、頭を振って奥歯を噛み締めた。
しばらく進むといくらか見慣れた店舗が連なっているのが視界に入る。すすけた、銀馬車亭の前に赤のドレスをまとったレイシーの姿があった。
「もう、遅いよ。どこいってたの、クランド」
蔵人の姿を見つけたレイシーは、ほっとしたように顔をゆるめた。可憐な表情に対比して波打つ豊満な胸が艶かしいのである。レイシーは、片手で蔵人の胸を打つ真似をしてから、ようやく寄り添うように立っているヒルダの姿に気づいた。
「はじめまして、私は司教マルコよりクランドさまの案内役を仰せつかりましたヒルデガルド・フォン・シュポンハイムと申す教会のシスターでございます。今日から、七日ほどお世話になります。街衆の慣習にはいろいろ不慣れな点もございますが、なにぶん世間知らずの若輩者です。いろいろご迷惑をおかけしますが、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
ヒルダは玲瓏とした声で告げると莞爾と微笑み、気品すら漂わせた物腰でレイシーの目を真っ直ぐ見つめた。
レイシーのくつろいだ表情が一瞬にしてこわばり、蔵人を見る目が戸惑ったような視線に切り替わった。
「ねえ、ちょっとどういうことなの。司教ってなに? 今日は、お仕事探しにいったんじゃないの」
「ああ、ちょっと知り合いに会って成り行きでな」
「もお、勝手なんだから」
「おい、なんだよ」
レイシーは自分でも理解できないほどいつもは絶対にしない放肆な姿勢で蔵人に寄りかかって見せた。蔵人が連れてきたのがシスターなのはともかく、若く美しい女であるという一点が許せなかった。蔵人は、昨日会ったばかりの男で、それほど親しくも恋しいとも思っていないはずだった。
だが、寄り添うように立つふたりの姿を見ると、夕方店先であった無頼の男たちからの悶着もあり、無性に胸の中で煮えたぎるような澱がどろどろと攪拌されていくのを感じた。
暗い熱情に突き動かされるように、本能的に媚態をつくった。静かな笑みをたたえている目の前のシスターの顔がわずかにひきつるのを確認すると、レイシーは喉の奥で誰にも聞こえない声をくふふともらしていた。
今日は騒ぐ気分じゃない。
蔵人はレイシーにそう告げると、借りている大部屋の寝台に腰掛けて運ばせた酒とつまみを静かに口に運んでいた。階下からは、男たちの騒ぎ浮かれる声と、どたどた足踏みをするような大きな音が鳴り響いている。目の前には、枕元の椅子を引っ張ってきて、ちょこんとそれに腰掛けているヒルダの姿があった。開けっ放しの窓から、冷たく感じるほどの夜風が吹いてくる。カラになったさかずきに手酌で酒を汲もうと指先を伸ばすと、冷たい表情をしたヒルダが酒瓶を取り上げて、手ずからそそいでくれた。身の厚いグラスが琥珀色の酒精でなみなみと満たされる。蔵人は、じっと自分を見続けて微動だにしないヒルダを見て、軽く身震いをするふりをしてみせた。
「おいおい、なんだよ。その顔は。なにが気に入らないってんだよ。今夜はさすがに同衾しろとまでいわねえから安心しろよ」
「感心しませんね」
「え」
「あのレイシーとかいう酌婦のことです。あの女は、クランドさんのためにならないと思いますよ」
「なんで、そんなに攻撃的なんだよ。おまえ、あいつに靴でも隠されたんか」
「女の勘ですよ」
ヒルダはそういうと、ふっと鼻を鳴らして薄く笑って見せた。
蔵人は無言でさかずきを置くと、指を伸ばしてヒルダの小鼻をねじり上げた。
「ひぎいいいっ!? なにするんでしゅかあっ」
「うっせーボケ。俺は酒は楽しく飲みたい派なんだ。辛気くせー話すんじゃねえ」
「し、しどい。ミステリアスな女でせめてみたのにぃ。ううう。私の鼻がまたちぎれたぁ。それに、さっき騒ぐ気分じゃないっていってたのにぃ」
「うるせー、もぐぞこの野郎。気分なんか酒飲んだ時点で騒ぎたくなるに決まってるじゃねーか。おい、つまんねーな。なんか、芸やれ、芸!」
「えええ、この話でそこに持っていきますかね、普通」
「もぐ」
「いやあああっ、もがないでくださいっ。あー、もおお。わかりました。わかりましたから。それじゃですね、シスターらしくありがたい説法をば」
「やっぱもごう。もいだら、なにか新しい世界が見えてくるかもしれないし」
「絶対酔ってますよね、シラフでそういう行動取らないですよね、普通」
「この俺を普通の枠に閉じこめておけると思うなよっ。まったく、あのマイケルですら身体を張って鼻をもいでみせるという芸を見せたのに。おまえは、芸人の風上にも置けない女だな」
「私芸人じゃありませんっ」
「まったく、文句ばっかりいいくさって。あー、そうだ、アレしかねえな。お座敷芸といったら、アレだ!」
「な、なんですか。ちょっ、モギモギ系はナシにしてくださいね。いくら酔ってるからってやっていいことと悪いことがあるんですからねっ」
ヒルダが怯えたように鼻を交差した両手で防御すると、後ずさる。追うようにして、蔵人が寝台から飛び降りた。
「……由緒正しき闇のゲーム。野球拳でござるよ」
「なんでしょうか。私、激しく身の危険を感じます」
「気のせいでござる。では、ルールを説明するでござる」
蔵人は身を縮めているヒルダに向かって野球拳のルールを噛み砕いて説明した。もっとも、その前にじゃんけんの意味を教えこむことの方がはるかに時間をついやしたのだったが。酔いがいい感じに回っているせいか、話が幾度も前後した。
「いやです」
「は」
「普通にいやですよ。どうして脱がなければいけないのですか。そおいうのは、恋人同士か夫婦の間柄で行うものであって、そもそも遊びでしてはいけないと思います」
「本心は」
ヒルダの瞳をじっと見つめる。彼女は、もじもじと人差し指を目の前でこつこつ突き合わせながら、恥じらってこたえた。
「ここは、人目が多いので途中で気が乗ってきたら自分を御しきる自信がないからです。その場合は、私の火照った身体はどうすればいいんですかっ。責任とってくれるんですよね、ていうかとれよおおっ」
「俺は権利とか要求とか委託とかは好きだが、責任とか義務とか束縛って言葉が嫌いなんだ」
「でしょうねえ、そうだと思いましたよ!」
「肩の力抜けよ」
「きいい!」
所詮、酒の席の話など意味のないことばかりである。蔵人は、ヒルダ相手にぐだぐだたっぷり管を巻いたあと、ばったり倒れた。視界の向こう側で、赤い光がチカチカ揺れている。酔いなどいずれ醒める。決して醒めないのはこの異世界が真実であるということだった。
翌日、雨粒が軒を打つ音で目が覚めた。蔵人は、床の隅で剣を抱き寝していた。レイシーかヒルダがかけてくれたであろう毛布を剥ぎ取ると、軽く伸びをして螺旋階段を降りた。
「おはよー」
「おはよう」
「おはようございます、クランドさま」
すでに起床していたレイシー、バーンハード、ヒルダの三者がそれぞれあいさつの声を投げかけた。ヒルダは相変わらず猫をかぶっている。それも一ダースほどだ。
蔵人は、軽く頭上で手を振っておはようというと、伸びきった長髪をがしがしかき回し、バーンハードの入れてくれた濃い目のコーヒーをすすった。
レイシーとヒルダは、昨日の微妙な邂逅とは打って変わって、女同士打ち解けたのかぺちゃくちゃ仲睦まじく顔を寄せあっておしゃべりをかわしていた。
「買い物? いいけど、わざわざ三人で行くんかよ」
バーンハードの作ってくれた、トーストとゆで卵の軽食を食べ終わると話の流れからか、娘ふたりの買い物に付き合わされることになった。冒険者組合の加入料も、昨日逃したアレクサンダーの動きもなんとなく気になった。
本日の買い物先は雑貨店だった。銀馬車亭は、毎日使う食材のほとんどは仕入先が決まっており、たまに足りないちょっとしたものを買い足すくらいしか基本はしないらしい。小降りではあるが、雨は降り続いている。この世界の人間は、基本よほどの大雨以外は気にせずに行動するのが普通だった。
ヒルダやレイシーも、ほとんど天候を気にせずあたりまえのように外出している。雨が降れば、どれほど小雨でも必ず傘をさす習慣のある日本から来た蔵人にとっては、最初は激しいカルチャーショックであったが、もう慣れた。ご多分にもれず、女の買い物は無意味に時間を空費するものだった。
ヒルダとレイシーは、小さな店内の、精巧な造りの日本製品を見慣れた蔵人にとって、手にとって見る気にもなれないほど稚拙な造りの道具を、あれやこれやと品評しあっている。第三者の視点で観察すると、あきらかに主導権はレイシーが握っていた。彼女たちは、年頃からいえば日本ではちょうど女子高生くらいであろう。容姿こそ白人そのものだが、ああやってきゃっきゃっとはしゃぎまわる様子は蔵人にとって愛くるしいように感じられた。
蔵人が軒先で所在なげに突っ立っていると、先に会計を済ませたレイシーが軽やかな足どりで寄ってきた。
「へへ、いろいろ買っちゃったよ。ごめんね、今日は無理につきあわせちゃって」
「いいさ。上げ膳据え膳せわしてもらってるしな」
「ヒルダも、はじめてあったときは、うううーって感じだったけど話してみると、すっごくいい子だったよ。なんか、ちょっとズレてるけどね」
「あいつのズレってぷりをちょっと、といえるおまえもかなり変わり者だけどな」
「えへへ、自覚してるよ」
レイシーは、紙袋抱えたまま空を見上げていた。昨日まで、毎日晴れていた天が、濃いグレーの雨雲で覆われている。それでも湿度が基本的に低いせいか、身体にまとわりつくような不快感はあまり感じられなかった。
「ねえ、昨日どこでなにしてたの。血、たくさん服についてた」
「ああ。ちょっと、もめたんだ。もう、大丈夫だ」
レイシーは蔵人の腰に下げた白鞘の長剣をちらちら見ながら哀しげな瞳をした。
「ねえ、クランドはやっぱりこの街に冒険者になりに来たの」
「そうだ」
「冒険者ってすっごく危険だって聞いてるよ。あたし、できればさ、クランドにそんなことしてもらいたくないな。余計なことだろうけど」
「ヒルダにもいわれたよ」
「できればあたしは、いっしょにお店を手伝ってくれるとうれしいかなって」
「レイシー。どうやら、楽しいおしゃべりはここまでみたいだな」
蔵人が身構えたのに気づいたレイシーは、店の前へと男が五人ほど集まって来たのを見て身を固くした。いずれも昨日、銀馬車亭の店先でマーヤに悪さを仕掛けた無頼たちである。貸元チェチーリオの手下なら、真っ当な人間でないことは見当がついた。昨日とは違って男たちはいずれも無言で近づいてくる。手に手に短剣を持って構えていた。飢えた狂犬のように追い詰められた目をしている。どの男も顔の一部分に作ったばかりの真新しい青あざが出来ていた。
「レイシーだな。おまえのオヤジのせいでオレたちはコルネリオの兄貴にヒデー目に合わされたんだ。今日は、なにがあろうといっしょに来てもらうぜ」
じりじりと近づいてくる男たちに怯えてレイシーは、蔵人の背に隠れた。
「なんでえ、てめえはっ。オレたちは泣く子も黙るチェチーリオ一家のモノだっ。こいつが目に入らねえのかよっ!」
「やれやれ、世の中バカが多すぎてたまらねえなぁ」
蔵人がため息をつくと、外套の裾を握っていたレイシーの指に力が入る。
「レイシー、ちょっとはなれててくれ。ゴミを払い落としてくらぁ」
「野郎!」
男が短剣を振り上げる前に蔵人は長剣を引き抜いていた。聖剣“白鷺”は片刃の直刀である。剣の峰を返す。半円が風を巻いて走ったと思うと、したたかに顔と胴を打ち据えられた男が弾かれたように道へと転がった。峰打ちとはいえ、鋼の棒でしたたかに打ち据えられれば即死する可能性もあった。
ここに、男たちと蔵人の認識の違いがあった。
ヤクザ者とはいえ、シルバーヴィラゴという一定の治安が保たれた場所から一歩も出たことのない人間と、呼吸をするように人を斬り続けてきた蔵人の人間の命に対する価値観の違いだ。
「いぎいいいっ、いでえっ、いでえよおおおっ!!」
男は顔面を真正面から痛打され、鼻血をたっぷり撒き散らしながら道端に転がって悶絶した。雨で濡れた石畳に真っ赤な血がどんどん広がっていく。量的にはそれほどたいしたものではなかったが視覚的効果は充分だった。
「このおっ」
男たちの中でも兄貴分だったのだろうか、度胸を見せるために短刀を構えたまま真正面から男が突っ込んできた。
だが、悲しいかな。目線は定まらず、腰が完全に引けていた。
人を一度も傷つけたことのない腕前だと見て取れた。
蔵人は長剣を水平に走らせると、男の胴を迎え撃つ形で打ち据えた。胸骨を砕く手応えを感じた時、男は悲鳴を上げながら身をふたつに折ると激しく嘔吐をはじめた。
おそらくここまで本格的にやりあう心づもりなどなかったのだろう。銀馬車亭の外であり不意をつく。唯一、厄介なバーンハードという男の存在もない。レイシーという小娘ひとりかどわかすのは鼻歌まじりだろうと、軽い気持ちで出かけた結果、彼らを待ち受けていたのは血で血を洗う旅を続けた屈強な男だった。蜘蛛の子を散らすように、男たちはその場を一斉に逃げ出した。蔵人は、打ち据えられた痛みでしゃがみこんでいる男の首根っこをつかまえるとぐいと引っ張った。
「おい、待て。いったい、どういうつもりでレイシーを襲ったんだ。そのチェチーリオとかいうヤクザに頼まれたのか」
「ひいいっ、違うんだよぉ。銀馬車亭のバーンハードがウチから金を借りてたのは本当なんだよおおっ。昨日は、催促ついでに脅しをかけただけで。今日は、別口でぇ」
「レイシー、本当か」
「うん。銀馬車亭は火の車だったのは本当だから、父さんがチェチーリオさんからお金を借りてたのもたぶん本当だったと思う。昨日だって、なんとなく気づいてはいたけど。いくらなんでもいきなりさらうとか、そんな話になるなんて聞いたことないよ」
「行きがけの駄賃で頼まれただけなんだぁ。勘弁してくれよう。今日、レイシーをさらおうとしたのは、コルネリオ兄貴の客分でペラダンっていうおかしな男に無理やり頼まれたんだぁ!!」
男はそこまで叫ぶとかっと両目を見開いて、ごぼごぼと血泡を吐き出した。胸元に視線を移すと、目には見えないなにかが男の胸板を刺し貫いていた。ヒヤリとした感覚が背筋をチクチクと間断なく刺激する。蔵人は、男から手をはなすと、剣をしっかり握りしめて振り返った。道の向こう側から人影が見えた。
不意に、天の黒雲の流れが早まって雨足が強まりだした。
その男は奇妙な格好をしていた。真っ白な仮面をすっぽりかぶっており、肩からは灰色の外套をなびかせていた。背は蔵人と同じ程度に高く、全身が引き締まったような肉づきをしていた。手にはイチイの木を削って先端に水晶を埋めこんだ杖を持っている。年齢は見当もつかないが、身動きは一部の隙もないしたたかさが見てとれた。
「お初にお目にかかります。シモン・クランド。私は、魔術師のペラダン。以後お見知りおきを。しかし、さすがあの血塗れギリーを倒しただけのことはある。昨日の、森での手並みといい中々の腕前ですね。剣士としては、合格点をつけられますよ」
「なぜ、俺のことを知っている」
「目的の達成に必要な事柄は、微細に至るまで調べ上げ情報を検討する。冒険者の基本ですよ。そして、レイシー・アップルヤード。あなたとは、初対面ですが、そうは思えませんね。まったくもって、感慨深いです。だが、感慨に浸っている暇もあまりないのです。貴女は私と来ていただきましょうか」
ペラダンが音もなく一歩踏み出すと、遮るように蔵人が立ちはだかった。
「はい、そうですかとレイシーをおまえみたいに怪しいやつに渡せるわけないだろうが。まったく、まわりくでぇことしやがって。来るなら最初から自分でこいよ」
「フム。だが、私は最初にレイシーへと使いを出しましたが。ああ、その時もクランド。君が邪魔をしてくれましたね。レイシー。オールディとヤングディという兄弟に会ったことを覚えておりませんかね」
「会ったけど、あの人たちどんな用件かもいわなかったし」
「困りましたね。貴女が私の元に来るのは、バーンハードも納得ずくの話ですよ」
「父さんが、うそよ!」
「おい、ペラダンといったな。仮にレイシーを渡して、どうするつもりなんだよ」
「どうするって、決まってるじゃありませんか!」
ペラダンは一際声を高く張り上げると、大きく哄笑した。身を仰け反ったまま、耳を塞ぎたくなるような歓喜に満ちあふれた声を辺りに響き渡らせる。天が抜け落ちたような豪雨が、白い仮面を強く叩く。反動で、わずかにズレた隙間から金色の髪が覗く。
「どうやら、お茶してはいサヨナラって用件じゃなさそうだな」
「クランド。どうやら目的達成のためには貴方をどうしても倒す必要性がありますね。一度だけ機会を与えましょう。私は別段貴方に恨みがあるわけではない。ここで目をつぶって引くというのならば、今後はこちらから特に手を出したりもしませんよ。取り引き、というわけではありませんが」
ペラダンは、懐から小箱を取り出すと中身を開けてみせた。
薄暗い中でも見事に光るバイオレッティッシュブルー。
小粒だが、その輝きは美しかった。
「この宝石を進呈します。極めつけの値打ちものですよ。叩き売っても、二十万Pは下らない。怪しむならば、この足で冒険者組合直営店まで付き添ってもいい。それだけの資金があれば、君の夢だった冒険者になることは当然のこと、腕のいい仲間を集めてクランを結成できます。知ってますよ、冒険者組合の事務所でひと暴れしたのでしょう。この業界は噂が広まるのが早い。ダンジョンに挑みたいのでしょう。あの場所には、すべての夢が埋もれています。成功すれば一攫千金も夢ではない。現に、そうして一介の浮浪者がひと財産築いたなどいくらでもある話です。たかが、女ひとりじゃないですか。男なら挑戦するべきですよ。金を掴むんです。そうすれば、もう銀馬車亭のような安酒場のシラミの沸いたベッドに寝起きすることもない。小さな家を一軒建てて、若い女奴隷をいくらでもはべらすことができる。京楽に耽って、人生の悪徳を極め尽くすことができるのです」
正直なところ。ペラダンの言葉に心が動かなかったといえば嘘になる。
今の蔵人は無一文に近く、冒険者の資格すら買い取ることができないのだ。
今日までの旅の道のりを思い出す。何日も地図すらない道を足を棒にして歩き続けた。米粒ひとつ、パンくずひとかけら口に入らない日が、十日やそこら続くのは日常になってしまった。飢えた日は、道端の雨水を飲んで乾きを癒し。腹をすかして、腐った食物を口にし、額に脂汗をかいて唸った。毛布一枚ない路傍で野良犬のように身を丸めて過ごし。時には野盗の上前をかすめて幾度も斬り合いになった。
訳のわからぬ世界に無理やり呼び出されて獄にぶちこまれ。
マゴットを見殺しにし、マリカを置き捨て、ドロテアを見捨て、シズカを置いてきぼりにし、ミリアムをこの手にかけて、グレイスと別れた。
すべて自分で決めた選択だといわれればそれまでだ。
だが、正しいからこそ腹も立つし、胸の中に詰まった黒々とした靄が消えない。
ここはしがらみがねえ、好き放題に生きるんだとうそぶいても、それはすべてやけっぱちの強がりに近かった。知り人ひとりいない異世界では、野垂れ死にしたとしても、手を合わせて祈る人間すらいない。
レイシーのこわばった顔を見つめた。
濡れそぼった砂色の髪が顔に張り付いている。
蔵人の向けた視線とかち合った。
心細げな視線とすがるような瞳の色が、置いてきぼりになった仔犬を思わせた。
「もっとも、そんな安いペテンに乗るクランドさまじゃねえ。いいか、ペラダン。俺は残らず憂いを吹き飛ばす名案を思いついた。知りてえか?」
「是非とも」
「とりあえず、テメーをたたっ斬って宝石の真偽を確かめる。偽物なら、おまえの骸を粉々にして川に流す。本物なら、叩き売ってレイシーと一晩飲み明かす。どうだ」
もはや叩くように振りつけてくる雨粒に打たれながら、レイシーの瞳が大きく見開かれるのが見えた。
祈りすら得られない孤独な世界で、手を差し伸べてくれたレイシー。
甘さの捨てきれない蔵人に、彼女を切り捨てる選択肢などえらぶことはできなかった。
「確かに名案ですね、私もそうしますよ。惜しむべきは交渉が決裂したというところですか。実に惜しいですね。輝かしい若者の未来をこの手で摘み取るというのも」
ペラダンは自信たっぷりにいうと杖を構えた。
降りしきる雨音が、ふたりを包みこんでいく。
蔵人が長剣を上段に構えるのと、ペラダンが杖を振り下ろすのは同時だった。
「氷の矢」
掲げた水晶が真っ青に輝くと、氷柱が幾重にも打ち出された。
蔵人は咄嗟に石畳へと身体を投げ出す。窪みにできた水溜りを転がりながら、左腕に灼けるような痛みを感じた。
つららのような氷の矢が左腕を深々と刺し貫いていた。裂けた外套が流れ落ちる鮮血で染まっていく。なんとか顔を起こすと、眼前を青白い光が再度きらめいた。剣を振るう間もなく、みじめな格好で転がりながら距離を取った。続けざまに放出される氷の牙が避けた地点を抉っていく。砕けた石片が豪雨の中宙に舞った。
「あれだけ大きな口を叩いて、出来ることは逃げ回るだけですか。それではまったくもって芸がなさすぎる」
「ジャック・スパロウの次は、ハリーポッターかよ。まったく、飽きさせないでくれるぜ!」
蔵人にとって魔術師である敵とは、はじめての対決であった。確かにペラダンのいうとおり逃げ回るだけでは遠距離攻撃である魔術の矢にいずれ仕留められるだろう。痛みや恐怖に怯えている時間はない。勝負をかける時だった。蔵人は左腕を顔の前にかざしながら一気に距離を詰めた。身を低くして、一気に飛び上がる。氷柱は一度に三、四本しか射出できないらしい。不死の紋章の身体を持つ自分ならば耐えることが出来るはずだ。
「ではこういう趣向はどうでしょうか」
ペラダンが杖の向きを店側に向けた。蔵人はこころのどこかで、ペラダンがレイシーを標的にすることはないと安心していたところがあった。
事実、それは間違いではなかった。
ペラダンが杖を向けた先には、会計を終えて店から顔を出したヒルダの姿があった。
まるで状況を理解していないのか、弛緩しきった表情だった。
全身の身体から血の気が一気に引く。
ペラダンの立ち位置からは充分な射程範囲内だ。
無防備な側面を晒す魔術師を長剣で両断する自信はあった。
だが、その場合ヒルダの命は保証できなかった。大人の腕ほどある氷の矢を真正面から受ければ彼女の体はズタズタに引き裂かれるだろう。文字通り、意味のないとばっちりを受けて死ぬのだ。一命を取り留めても、一生治らない傷跡が残るだろう。魔術師の杖の先端が明度を一層強める。ペラダンの詠唱と同時に身をよじってヒルダに向かう射線へと身をさらけ出した。
レイシーかヒルダか。
蔵人は自分の名を呼ぶ絶叫を、痛みの中で途切れ途切れに聞いた。下腹が放たれた氷の牙を残らず受けきったのだ。頭の芯から、つま先まで焼けつくような激痛が走る。 全身が、カッと熱くなったり凍えるように寒くなったりした。横向きに倒れこみながら呼吸が止まった。降りしきる雨が妙にぬるく感じられた。一瞬、気が遠くなって意識が切断されそうになる。口元からこみ上げてきた血泡を無理やり呑みほして意識を保った。しびれ切った足のつま先に全力で力をこめた。
まだ、勝負は終わっちゃいない。
終わっちゃいないんだよ、畜生。




