LV35「過去の足音」
レイシーは蔵人を見送ったあと、小さくあくびをしてから部屋に戻った。
早朝の街は、白い朝もやに包まれていた。さすがに、道を歩く人影もなかった。
昨晩は、珍しく遅くまで起きていた上に、禁じていた酒に口をつけてしまった。なんだか、はしたないことをしてしまったような気がする。ジンジンと頭の奥で疼痛がした。軽く顔をしかめる。
「いけない、いけない」
レイシーは自分がおせっかい焼きな性格だということを自覚している。それにしても、昨日と今朝とかなり蔵人の世話焼きにはいつも以上に力を入れてしまった。
「うーん、なんでだろ」
レイシーは寝台に仰向けになって、無理やり目を閉じた。早朝出かける蔵人のため、我ながら甲斐甲斐しく昼食用の弁当まで作ったのだ。早起きは苦手ではないが、数時間しか眠っていない身体を無理やり覚醒させたのはキツかった。昼前まで寝ていても、父に咎められることはない。いつもは、もう少し早く自発的に起きているのだが、今日は勘弁してもらおう。これから一眠りするのである。誰にいいわけするでもないが、若干のうしろめたさを残して、レイシーはしばし深い眠りに落ちた。
別段、レイシーが自堕落な生活をしているわけではなく、どうしても店が夜型のせいか、片付けもろもろ深夜にかかってしまい睡眠時間が確保できないという点があった。
また、当然昼間は店を開けたりはしない。客のほとんどは、地元の人間で日中はそれぞれ仕事をもっているからである。
この世界は、現代日本と違って、近世の江戸時代に近く、ほとんどの住民は、日が出る前に起床して活動し、日が落ちた頃に活動を終了して、夕餉をとって床につくのが一般的だった。わざわざ、高い油や蝋燭を消費して夜ふかしなどはしない。無駄に金がかかる上に、不健康で不道徳とされていたのだった。そういった意味では、レイシーは一般的に見て夜の職業の女に分類され、必要以上に世間の人々に引け目を感じていたのだった。
幼い頃から家の仕事を手伝っているとはいえ、まだ母が生きていた頃は、夜の帳が落ちれば階下の客たちの喧騒を子守唄に眠っていた。近所の幼なじみたちも、本当に小さい頃は分け隔てなく接していたが、長じて年頃になるとやはりそれとなく距離を置かれている。
母が死んだ後は、せめて店の賑やかしになればなどと、派手な衣装をまとって、ときには愛想をいい、唄を歌うなどしていれば、堅気の娘同士では話が合うはずもなかった。
自然、レイシーの知り合いは、夜の仕事を持つ女たちがほとんどだった。酒場の酌婦、唄い手、娼婦などがほとんどだった。彼女たちは、一見自堕落で破滅的な生活をしている人間ばかりだと世間一般の人々は思いがちだが、話してみれば素朴な性格の娘が多かった。
人口の流入が激しく、日夜金品や物資が絶え間なく動くシルバーヴィラゴはとにかく身ひとつあれば食える仕事がいくらでもあった。夜の仕事をする女性は地方出身者が圧倒的に多い。字もロクに読めず、身を文字通り粉にして働いて得られる報酬をピンハネされることもままあったが、無学な彼女たちはそれに気づくことすら出来ない有様だった。それらを黙って見ていられるレイシーの性格ではない。時には、代わりに契約書を読んでやり、客に対する恋文の代筆、孕んだ子供を認めさせる判事への嘆願書まで作成した。ここまで力になって慕われないはずもない。レイシーの夜の女たちに対する信頼度は相当なものだった。もっとも、そうなるとたかってくるのはまずカタギの男ではありえなかった。父のバーンハードの苦労も並大抵のことではなかった。
太陽が高々と中天に登ったくらいに、レイシーは再度起床した。
「ごっめーん、寝坊しちゃったよ」
「おはよう、まだ寝ててもいいんだぞ」
バーンハードはカウンターの椅子に腰掛けてパイプを更かしながら本をめくっている。
レイシーは、寝癖を気にしながら螺旋階段を降りつつ、辺りを見回した。それに気づいたバーンハードは苦笑しながら本を閉じると椅子を立った。
「クランドはまだ戻っていないよ。コーヒーでもとりあえず飲むかい」
「え、ええっと。べつに、クランド探してたわけじゃないよっ。ほら、今日はちょーっと寝坊しちゃったから、お店の掃除とか準備とか気になっちゃって」
バーンハードはそういって否定する娘が起き抜けでもしっかり化粧を施して、いつも以上に服装に気を配っている部分に気づき苦笑した。
あの青年は悪人ではないが、かといって到底まともな人間の部類ではなかった。バーンハードはあたりまえの父親として、娘の恋人、つまり将来の相手は堅気の商店の勤め人や職人などを希望していた。娘の性格を考えれば無理そうではあったが。
「おっはよう、レイシー。きょうも来たよぅ」
「あら、マーヤじゃない。おはよ」
スイングドアを開いて、派手な色合いの服装をした娘が銀馬車亭にあらわれた。レイシーの友人で、向かいの飲み屋に勤めている酌婦のマーヤであった。
「マスター、今日もいい男。たまには、うちにも飲みにきてよん」
「おはよう。お誘いはうれしいんだが、私も店があってね。老後の楽しみにとっとくよ」
「ぶー、つまんなーい。んで、んで、レイシー! ちょっと、ちょっと」
昼夜、逆転した生活をしていれば当然起きてくるのは昼過ぎになるし、店の掃除や食事の下ごしらえを終わったあとに、レイシーがぽっと出来る暇な時間に会えるのは夜の仕事を生業にする女たちばかりだった。
「なによ、きた早々」
「アンタ、また男引っ張り込んだらしいじゃない。ね、ね、ね。どんな男? いい男?」
「引っ張り込んだって、また人聞きの悪い。困った人をちょっと二階に泊めてあげてるだけだって」
「はーん」
マーヤは、カウンターに腰掛けると、コップに水差しの中身をついであおった。 濃い金髪の下で、半目になった瞳がニタニタと波打った。
「なによう、いやらしい笑い方ね」
「あたしのいい人ですっ、とかなんとかいって抱きついたそうじゃない。ジャンがウチの店で昨日はもーう暴れた暴れた。いやーお堅いあんたがそこまでするなんて、どんだけ、いい男だと思ってね。ね、ね、ね。二階にいるんでしょう。見せて、見せて!」
「ジャンが」
マーヤがいうジャンとは、銀馬車亭の常連である石工の職人である。大柄で無口な彼は毎日お店に来ては、ゆっくりと食事をしていつも唄を静かに聞いている姿が印象的だった。
レイシーにとって、あの物静かなジャンがいつもは飲まない酒を飲んで暴れたということ自体が衝撃的だった。
「ねえ、ジャンは平気だった? 誰か、ケガはなかったの!」
「……アンタねー。そういう態度とるから、男たちが調子に乗るのよ。この男殺しがっ」
「そんなっ、別にそんな気はないんだけどなぁ」
「あたしはアンタのそういうところ知ってるからいいけどー。で、いるんでしょ。ちょーっと呼んできてくんないかなぁ。一番に顔見て、店の娘たちに自慢するんだ。あの鉄壁娘を落とした男がどんなんだったか」
「残念でした、クランドはお出かけしてますっ。ここにはいません」
「え、うぞっ!?」
マーヤがバーンハードを見ると、彼は口ひげをわずかに動かしてから、首を横に振った。
「あーなんだよぉぅ、ちぇー、せっかくジャンのやつが決闘を申し込むとか馬鹿なこといってたから、ボコボコにされる前に顔だけでも拝んどこうかなぁと。ホラ、ジャンの拳でめためたぁっ、にされたら原型わかんなくなるじゃん!」
「ダメだよ、原型わかんなくしちゃっ。っていうか、なによっ、決闘って!」
「え。んんん、あ、あちゃー。つい、口が」
マーヤは口元を両手で塞ぐと、困ったようにバーンハードに視線を向けた。
「おいおいおい、店の前で暴力沙汰はやめてくれよ」
やめてくれよ、といいながらもバーンハードの目はちょっと笑っていた。あきらかに娘にたかる虫どもが潰し合うのを願う父親の真摯な瞳だった。
「っていうか、絶対ダメだってば。ああ、なんで止めないのかなぁ、マーヤもお店のみんなも」
「いやいやいや、どうせ酒の席の戯言だろうと。あ、あくまで、ありえないだろうけど、ジャンのやつ仕事が終わったあとの夕方くらいに銀馬車亭に来るってよん。あ、あああ!
そうだ、ちょっとお店に出る前に買い出しに行かなきゃだわ。そんじゃ、レイシー。頑張ってねー、この色女っ。パパも苦労するねっ」
マーヤは、激しく狼狽するレイシーとバーンハードに向かって去り際に投げキスを放ると、長いドレスの裾を両手で持ち上げて走り去っていった。
「あああ、もおおっ。ねえ、どうしよう、どうしよう。父さん、止めてね。もし、ジャンとクランドが喧嘩しはじめたら絶対止めてね」
「ふむ。だが、少々見てみたい気もするがな。はは、嘘だよ」
笑っていたバーンハードの顔が、不意にこわばった。レイシーは父親の不意の変化に戸惑い腰を上げた。
「どうやら、今度は私にお客さんのようだ。レイシーはここにいなさい」
「父さん、どうしたの?」
店の表から犬がけたたましく吠える声が聞こえてきた。続いて、女の金切り声と多数の男たちのはやし立てるような笑い声が続く。
バーンハードは年齢に似合わないフットワークで、スイングドアを弾いて外に飛び出した。あとを追うようにしてレイシーが駆けていくと、そこには先ほど店を出ていった友人のマーヤが五人ほどの男たちに取り囲まれているのが見えた。
「へへへ、姉さん。真昼間っから刺激的じゃねえか」
「こんな。日の高いウチから客漁りかよ。昨日は、あぶれたのかい」
「はなしてよっ、あたしはそんなんじゃないっ」
「へへへ、こんないい道具目の前でチラつかされりゃ、こっちだって場所も構わずその気になっちまうって」
「やめろっ、このお!」
男のひとりが羽交い絞めにされたマーヤの胸を乱暴に鷲掴みにする。
「いたっ、本当、やめてよお」
男の瞳に狂気が宿っているのが理解できたのか、強気なマーヤの口調がみるみる弱まっていった。
「へへ、しおらしくなりやがって。オレさまのモノで道具のすす払いをしてやるっていってるんだぁ、おとなしくすれば極楽に連れて行ってやるって」
「あたし、本当にそういうお店で働いているわけじゃないんです、勘弁してくださいよお」
本格的にマーヤの声に泣きが入った。怯える女を見て、男たちはますます調子に乗って肉づきのよい身体をまさぐりはじめる。横暴が続いたのはそこまでだった。
「おい、小僧ども。私の店の前で、堅気の娘さんに手を出すとはどういう了見だ」
バーンハードが一歩前に踏み出すと、目に見えない闘気のようなものが大きく膨れ上がった。薄いシャツの上からもわかるくらいに、鍛え上げられた胸筋が震えている。あきらかに貫禄違いだった。
マーヤに悪戯を仕掛けていた、まだ二十前後の無頼の男は、気圧されたように後ずさると仲間に目配せをした。
しかし、周りの男たちもやはり使いっぱしり程度の貫禄しか持ち合わせていなかった。
蛇ににらまれたカエルのように微動だにしない。
その隙をついて、男の手を振り払ったマーヤがバーンハードの胸に飛び込んでくる。レイシーは飛び出してマーヤを抱えこむとかばうようにして、男たちを睨みつけた。
「へ、へへ。なんでぇ、ちょっと淫売女をからかっただけじゃねえか、なにもそんな怒るこたァねえだろうが」
「訂正しろ。彼女は淫売じゃない。謝罪するんだ」
「へ、へへへ。なあ、みんな別に悪気があったわけじゃ」
マーヤに悪戯を仕掛けた男が、助けを乞うように周囲を見渡すが、皆が揃ったように視線をあさっての方向へと向けた。
男は、んだよ畜生、と叫ぶとぼそりと謝罪の言葉を口にした。
「それで、堅気の娘さんに悪さをしに来ただけなのか。小僧どもは」
「ち、ちげーって。俺たちは、チェチーリオ親分の使いで書状を届けに来ただけだ、いや、届けに来ただけです」
チェチーリオはいわゆるリースフィールド街周辺を縄張りとする貸元であった。
子分は、枝の組まで数えると二百は下らぬこの辺り一体の暗黒街の顔役であった。
同時に、領主から自警団長の認可を正式に受けており、制限された警察力と微罪ならばその場で裁くことができる司法権を持っていた。
また、街が危急の際には特定の要件を満たせば市民の男子から民兵を募る権利も持っていた。暗黒街のボスの顔と、権力側にとって使い勝手の良い犬の顔。
いわゆる二足の草鞋である。
レイシーは仕事柄、親分といわれるチェチーリオの噂話はしょっちゅう聞いていたが、一家の人間を見たのははじめてであり、違和感を拭えなかった。
何故ならば、彼ほど地元民に慕われている貸元も中々居なかった。だが噂とは違う、その部下の男たちの野卑さを目の当たりにして、恐怖と失望感は拭いきれなかった。
レイシーは、チェチーリオの子分から受け取った書状を読んでいる堂々とした態度の父を見て実に誇らしく思った。
「よし、書状は確かに受け取った。ひとつ聞くが、この書状の差出人はコルネリオとなっているがどういうことだ」
「知らねーよ。俺たちはただ、それを代貸からあんたに渡せっていわれただけだし」
男はバーンハードの視線を正面から受け止めることもできない。文字通りの小物だった。
「そうか。書状は確かに受け取った。それから、ひとつ覚えておいて欲しいのはこの辺りで悪さをすれば、ただでは済まないぞ。あまりにタチが悪ければ、私から直々に貸元に抗議に行かせてもらう」
「ひ、ひいいいっ。それだけは、勘弁してくれ。勘弁してくれよお、俺たちが心得違いをしてたあっ。大親分に知られたら、俺たち全員殺されちまうよおっ」
男たちは、誰いうとなく悲鳴を上げると風をくらってその場を退散した。バーンハードは、書状をふところに仕舞うと、怖い思いをさせたとマーヤを恐縮させるほど頭を下げて謝罪して店の中に戻っていった。レイシーが友人を気遣って声を掛けようとすると、彼女はバーンハードの大きな背中をうっとりとした恋するような視線で見つめていた。
「いいねえ、マスター。男の中の男だよぉ。ねえ、レイシー。アンタって、もし義母が出来たら、あんまりイジメないであげてねぇ」
「はああ!? ちょっと、なんの話をしてるのよ」
それにしても。マーヤがのぼせが上がるのも理解出来る。娘であることを差し引いて見ても、バーンハードは男らしかった。
レイシーは五年前母を亡くしてから、何度もいろんな女性に求婚される父を見ていた。
だが、頑なまでに再婚を拒否する父を見て、どれだけ母を愛していたかは理解できた。
実際、母の美しさはずば抜けており、レイシーの幼い頃は領主から直接側室にとの話があったくらいだった。
「だけど、自分より年下の母親は、ちょっと」
「ぷふふふふっ。ああん、マスター」
くねんくねん身体をよじらせるマーヤを見て非情に複雑な気持ちになるレイシーだった。
蔵人たちが道迷いの結界を通り抜けたところで最初の異変が起きた。
「妙だな」
「なにが妙なんですかぁ。もうお腹もすいたし、早く帰りましょー」
ヒルダはぶつくさ愚痴ると、腰に手を当てて伸びをする。あくまで自然な行為だった。
「この道ってのはメジャーなのか?」
「ええ? まあ、こっちルートはあまりメインではないです。ダンジョンも低い場所にしか通じてないですし。あくまで初心者用で、裏技みたいなものですけど。正規の冒険者なら事務所から潜りますよう」
蔵人は雑木林の向こう側でうごめく気配を敏感に察知した。真の迷宮への秘匿した通路の境であり、先ほどはここに管理者である冒険者組合の監視役が居た。やがて、ヒルダも迎えの事務員が来ないことに気づいたのか、怪訝な表情に変わった。蔵人が、小鼻を動かすと微量だが、血の匂いを嗅ぎとることができた。ギルド職員も素人というわけではない。誰かに不意を襲われたにしては鮮やかすぎた。
敵はひとりではない。おそらく、四人以上はいるだろうな。
蔵人がそこまで思考したところで、雑木林の向こう側が揺れて、ゆっくりと六人の男たちが姿を見せた。それぞれが、革鎧や鋼の甲冑で武装して、手に手に剣や槍を持っている。
中でも、もっとも殺意の炎で全身をたぎらせた男が一歩前に出ると槍を構えた。
「忘れもしねえ。てめぇ、クランド・シモンだな! フォルカーの兄貴の仇、取らせてもらうぜっ!」
「……は? フォルカー、誰だっけ」
剣の柄にかけた指が止まった。蔵人が惚けたように男の顔を見つめていると、爆発したような怒声が真っ赤な口から発せられた。
「ふざけんなああっ、忘れたとはいわせねえぞっ! 俺たちがジョシュヤ商会の傭兵をやってた時に手をかけた兄貴の名を忘れたとはいわせねえっ! へへ、だが、てめえも、あの黒ずくめの女もこのオレに止めを刺し忘れるとは抜かったな。オレの二つ名は、不死鳥のアレクサンダー。この背中の傷を目にして、見忘れたとはいわせねえぜ!」
アレクサンダーは、革鎧を外すとモロ肌脱ぎになって背中を見せた。そこには、深々とナイフの刺し傷の跡が見てとれた。
事実、アレクサンダーは蔵人が峠路で戦った時に相手した多数の敵のひとりだったが、乱戦でありなおかつ短剣を投擲したのはシズカだったので恨むのはお門違いである。
「ジョシュヤ商会っていうのも覚えてないんだけど。ごめん、マジで人違いじゃ」
「ふん、こいつを見ても、まだそんなことがいえるかよっ!」
「えー、なになに」
アレクサンダーは、蔵人の二メートル前まで進み出ると、一枚の紙封筒を放った。蔵人は警戒しながら、六十センチ四方のそれを拾うと中身から一枚のポートレートを取り出した。
「わー、随分な美人さんですね。エルフさんですかね」
蔵人が広げていたそれをヒルダが横から覗きこむ。蜂蜜色の美しい金髪に、抜けるような白い肌。抜ける空のように美しい蒼の瞳。忘れようもないドロテアの肖像だった。
「なんのつもりだ、これは」
蔵人の表情が一変して緊迫したものに変わった。ヒルダは、それを察したのか、一歩下がって心配そうに蔵人の顔を見上げた。
「ククク、このエルフ女とおまえはいい仲だったそうだなぁ。あいにくと、何度か失敗したからといって、ケジメを取るのを諦めようなほどヤワな商売じゃないんだよ、奴隷商人ってのは。来週、ジョシュヤ商会はこの女自身に、五百万P(※日本円にして約五千万円)の懸賞金を懸けるそうだ。特に、この件に関しては商会一の番頭であるホレイシオさまがご立腹でねぇ。あのエルフ女が、どれほど腕が立つとはいえ、どの程度逃げ隠れが出来るか。ククク、王国中の賞金稼ぎがこぞってあの女を捕らえにいくぞ。聞くところによると、ホレイシオさまは捕まえたエルフどもを残らずこのシルバーヴィラゴに連れてきて一匹ずつ解体ショーにかけるそうだ。そうだ、いいことを考えたぞぉ。クランド、おまえを生かしたまま捕らえておいて、このエルフ女の前に引きずり出してやる。おまえの前で、ククク一晩中この女の穴という穴を犯し尽くして、肉穴奴隷として嬲りつくしてやるう。くふふ」
「黙れよ」
いうが早いか、蔵人の長剣が鞘走った。銀光が夕陽の残光を反射させながらアレクサンダーの右腕に一筋の線を走らせた。
アレクサンダーの右腕にぴっ、と血の糸のような細長い線が通った。
一拍後、見事なまでに切り落とされた肉塊が、湿った土の上に音を立てて転がった。
「ぎいいえええっ!」
豚を絞め殺したような、苦悶の鳴き声が高々と上がった。
その叫びが開戦の合図だった。
蔵人は、アレクサンダーの顎を蹴上げて跳躍した。こっちのアキレス腱はヒルダだ。ちらりと後方に目をやると姿が見えなかった。
「早っ!」
もっとも、唯一の弱点は払拭された。戦闘力を失ったアレクサンダーはいつでも始末出来ると仮定して、残りの敵は五人だった。剣を握りながら、どっどっと鼓動がいつもより早まるを感じ、額に脂汗が流れた。別れ際に月を見上げて涙をこぼしていたドロテアの顔が頭の中をちらついて消えない。
集中しろ、集中だ。おまえは死にたいのかよ、蔵人。
自己暗示を強くかける。彼女たちのことは心配だが、いまはどうすることもできない。
なによりも目の前の男たちの方が、歴とした脅威だった。
蔵人の戦術は、腕っ節と度胸に頼った喧嘩剣術である。型も作法も無い。あるのは、剣閃のスピードと鋼や肉を断ち割る力だけだった。敵の武器は槍がふたりと剣が三人。いずれにしても、包囲されてしまえばその瞬間に勝負は決してしまう。蔵人は、敢えて槍を持った男に向かって躍り上がると、外套を羽ばたかせた。
「うおうっ」
狼狽した男が槍の穂先を蔵人の身体に合わせ損ね、無茶苦茶に振り回した。蔵人は、かろうじて切っ先をよけて男のふところに飛び居ると、長剣を胃の腑に向かって垂直に突き出した。刀身は真っ直ぐ男を貫くと主要な臓器を切断して男を絶命へと至らしめた。
蔵人は、聖剣である“白鷺”を水から引き抜くように滑らかな動きで男の身体から滑らすと、隣に突っ立っていた男の胴体を深々と薙いだ。
「ぐるえっ」
男が剣を取り落としながら、ぐらりと身体をくの字に折った。蔵人は、転がりながらその場を脱すると、地を這うようにして槍を構えた男の腰に向かって低く飛んだ。槍は、ある程度距離のある敵に関しては絶大な力を誇るが、距離を詰められるとまったくもって無用な長物に成り下がる欠点がある。焦った男が地を這うようにして飛びこむ蔵人を槍の柄で打つが、打撃では充分に足止めすることはできなかった。
蔵人の長剣が斜め上に向かって真っ直ぐな銀線を描いた。
長剣は、深々と男の胸を抉ると、赤黒い鮮血を辺りに飛散させた。
男の吐き出す血の塊が、蔵人の頭をぐっしょりと濡らした。
残ったふたりは、青ざめた顔つきで剣を握り締めると、じりじりと間を詰めてくる。
このふたりは、鈍色に光る鋼の甲冑で武装している。
先に仕掛けたのは蔵人だった。長剣を水平に構えると、地を蹴って駆けた。かがみこんで土くれを拾うと、視界の狭まった兜の庇の間に放り投げた。
「ぶわっ!」
目潰しを受けた男が鉄甲をつけたまま反射的に目の前を覆った。蔵人は、身を低くして体当たりをかけると、並んだふたりは不意を突かれて横倒しになった。
蔵人は、後方に跳躍すると落ちていた槍を拾い上げ、倒れたことでズレた腰の間へと穂先を突き入れた。目潰しを受けた男は、くぐもった声を上げると四肢を痙攣させ動かなくなった。
「ひいいっ、ひいいっ!」
最後のひとりは、狼狽したまま、付けた甲冑が重すぎて上手く起き上がれない。
両手を地面に突いたままズレた兜の間から、無防備な首筋を晒していた。
蔵人は、駆け寄ると、腰を蹴りつけて男の身体をうつ伏せにした。
右足で胴体を地面に押し付けて、男の首筋を白刃で存分に薙いだ。
男は甲冑姿のまま万歳の格好になると、大地に四肢を伸ばして動かなくなった。
蔵人が、荒い息をついて辺りを見回すと、アレクサンダーの姿がなかった。
「くそっ!」
もっとも、聞きたいことがあった男に逃げられ、胸の中がもやもやで爆発しそうになった。
「も、だいじょうぶそうですか」
どこかに隠れていたのか、ヒルダがそろそろと姿をあらわした。怯えの色が濃い。
「ああ、平気だ。悪かったな。どっか怪我はないか」
「私はばっちり隠れてたから大丈夫ですっ。それよりも、クランドさんは平気ですか。ああ、こんなに血が」
ヒルダはあうあういいながら、持っていたハンカチで蔵人の額を拭った。
「いや、返り血だから。にしても、一匹逃げられたぜ、ちきしょう」
「お強いんですねぇ」
しみじみとした口調で蔵人を見上げるヒルダの瞳に熱っぽいものが宿っている。
「怖くないのかよ、こんなん見て」
「いえいえ、隠れてましたからねっ。でも、すごいですっ、こんなにたくさん居る悪人っぽい……悪人ですよね? 人たちをばっさ、ばっさと。すごいです、まるで絵物語の騎士さまみたいですっ!」
「あー。まあ、おまえがいいなら、別にいいんだが」
現代日本の感覚でいえば、蔵人はただの大量殺人者であるが、この現実界のないファンタジーと中世ヨーロッパが入り混じった世界の人間の価値観をどうこう考えても意味のないことだった。
そもそも、現実世界でも、近代に至るまでフランスなどではギロチンによる処刑は見世物であり娯楽の一部だった。見物人は、よく処刑の見える位置のアパートにまで押し入り、場所取りに汲々とした。処刑場では見物人のために弁当まで売られていたほどである。
ヒルダの気持ちなど推し量ることはできないが、彼女はこう見えても生粋の貴族階級の出身だった。放蕩が過ぎて僧院に押しこめられても、常に彼女の中は新しい好奇心と刺激で飢えきっていたのだった。普通の感覚で考えることができない異常性は常に飽食で満ちた特権階級の中に生まれるものだった。彼女の中では、ばさばさと人を斬り殺す蔵人は、騎士物語の英雄譚に出る主人公そのものであった。
そして、夢見がちな少女の中には常に自分をヒロインになぞらえる癖がある。情報過多の現代と違って、それは醒めることのない麻薬のようなものだった。
誰しもが常に自分は特別でありたいと思い、もし手の届く場所にその幸運が舞い降りればつかんで離さないと思うのは当然である。ヒルダは今、自分の中で途方もない強烈な執着心が芽生えつつあるのを自覚しつつあった。
もっとも、蔵人の心の中は別の女性のことでいっぱいだったとは露知らずに。




