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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第2章「迷宮都市シルバーヴィラゴ」
33/302

LV33「銀馬車亭」




「随分と年季の入った造作で」

「普通に古いっていいなさいよ。まったく、おかしなところに気を使って」

 銀馬車亭は古い造りの酒場だった。店舗の一番目立つ場所には、馬車の形をした看板がかけられている。長年風雨に晒された木材が、濃い飴色にくすんでいる。

 レイシーにうながされるように、入口のスイングドアを開くと、蔵人はかつて見たジョン・ウェインの西部劇を思い出した。

 まだ、昼間なので営業はしていないらしい。カウンターの向こう側に、かなり体格の良い、五十年配の中年男性がグラスを丁寧な手つきで磨いていた。

「お帰り、レイシー。そちらの方は、お客さんかい」

「ただいま、父さん。彼は、クランドっていうの。今日から、二階の空き部屋に泊めるから。じゃ、あたしちょっと部屋の用意してくるからっ」

 レイシーは、蔵人に向かって軽く手を上げると、たたっと軽快な足音で螺旋階段を駆け上がっていった。

 途端に、無骨な初対面の中年男と二人きりにされる。

 甚だ、気まずかった。

「あー、その、本当に泊まったりはさすがにしねえからさ。なんか、迷惑かけちまったな」

 レイシーの父、バーンハードは綺麗に刈り揃えた口髭を震わせながら、鳶色の瞳で蔵人をじっと覗きこんだ。

「いや、好きなだけ泊まっていくといいさ。娘は、相当なおせっかい焼きだが不思議と男を見る目はあってね。あれが良しと認めたのなら、君が悪人のはずもない。私は、ここのマスターでレイシーの父、バーンハードだ。ま、困った時はお互いさまさ」

「その、そうしてくれると確かに助かるんだが。マジで、持ち合わせがないんだ。正確には、盗られたというか」

「そうか。この街は確かに栄えているがタチの良くないヤツも多い。気の毒だが、スられたお金は戻って来ないと思うよ。ま、若いんだから、しっかり食って、寝て、たっぷり汗流して働けば、金なんかいくらでも稼げるさ」

 バーンハードは鷹揚に微笑むと、磨き上げたグラスを指先ではじいた。心地良い、乾いた音が店内に響いた。

「それで、ジロジロこっちをうかがってる君たちはなんなんだい、ジョン。クレイグ、プルート」

 バーンハードが、店の軒先で飢えた熊のようにウロウロしている顔見知りの商店街の男たちに声をかけた。先ほど蔵人を追い回していた男たちである。

 レイシーの咄嗟の機転と、料金を立て替えたことにより、一応は鎮静した集団であったが、もちろん納得は出来ていないのであろう。

 蔵人の手を引いて歩くレイシーの後ろを、主人のあとをつけ回す犬っころのように、団子状態になって追跡していた。

 幾度かレイシーが吠えた後に、ようやく姿を消したかに見えたのだが、彼らの心のマドンナの発言に承服しかねた一団は真意を探るべく、斥候に勤めていたのだが、ついに露見する次第となった。

「だってよ、マスター。レイシーちゃんが、わけのわからん男にたぶらかされてると思うとよぉ」

「そうだ! 我ら、リースフィールド街の姫君が心配でいてもたっていられなくって」

「オレらのレイシーちゃんがよおおおおぅ」

「私の娘だ。そもそも、いったい、どういう話になっているんだい? まだ、なにも聞いていないのでなんともいえないよ」

「実は――」

 蔵人は、ことのいきさつを、一から彼らに説明した。冷静になってみれば、彼らは極めて純朴で常識人だった。ただ、日頃娘のように思っているレイシーのことを強く思う余り過剰に反応しすぎたに過ぎない。食い逃げを追うのは彼らの死活問題もあったろうが。

 誤解は見事に氷解した。

 商店街のオヤジたちがいなくなったところで、蔵人はバーンハードとふたりっきりになった。元々、縁もゆかりもない男同士である。気詰まりだった。蔵人は、うっそりとその場に立ちつくしながら、伸びきった無精髭をゾリゾリと音を立てて指先でしごいた。

「その、お嬢さんはなんだって俺のようなゴロツキ風情にかまいたがるんだい。この風体を見りゃ、たいていの堅気の娘さんは避けるもんなのに」

「そりゃ、あの子の気質ってもんだ。ええと、君はクランドっていったかい。とにかく、レイシーは子どものときから、捨て犬や捨て猫を拾っては面倒を見るような性分で、大きくなったらなったで、今度は人間だ。食うに困った人間と見りゃ、片っ端から連れてきて二階に押しこめて世話を焼きたがる。そりゃ、自分でいうのも娘はあの器量だ。いままで、問題らしいことが起きなかったといえば、嘘になるが、だいたい娘に諭されると盛りのついた獣みたいなやつでもだいたい聞き分けるんだ。男親としては、やめてもらいてえってのが本音だが、私の目の黒いうちは好きにさせるつもりにしたんだ。なんていうか、もう諦めがついた。それに、私はそれなりに腕っ節には自信があってね。まさか、クランドがそんなおかしな気を起こすとは思いたくはないが、な」

 バーンハードは腕まくりをすると、丸太ん棒のように太い腕に力こぶを作ると、白い歯をこぼして笑った。腕力には自信のある蔵人だったが、バーンハードの鍛え上げた巨木の瘤のようなそれは、さらに上をいくものだった。

「たんと食って、もっと大きくなったら考えてみるよ」

「おう。若もんは、そうでなきゃな」

 バーンハードは蔵人の物言いが気に入ったのか、背中を手のひらでバシバシと打った。蔵人はあまりの衝撃の強さに、身を折ってむせた。

「あーっ、父さん、クランドをいじめちゃだめっ」

「いや、レイシー。父さんは別に」

 レイシーは、二階の踊り場から軽やかに駆け下りると、蔵人の手を取ってかばうように自分の背後に引き寄せた。たちまち、大柄な蔵人が小柄な女性の背に隠れるという奇妙な立ち位置が出来上がった。

「もう、父さんなんか相手にしちゃダメだよ。行こ、クランド。部屋に案内したげる」

「お、おう」

 案内された二階の部屋は、寝台が六つ並ぶ大部屋だった。古い造りではあるが、掃除の手は隅々まで行き届いており、レイシーの細やかな性格がうかがえた。通りに面した大窓は開かれて、涼しい風が室内を通り抜ける。横に立った、彼女の砂色の美しい髪が風に流れて、さらさらと音を鳴らした。

「こんな季節だから昼間はあっついけど、夜は案外涼しいよ。ん」

 レイシーは、両手を突き出すと片目をつむった。意味を測りかねて逡巡し、ゆっくりと彼女の手を取ると両手で包みこむ。女性らしく、やわらかで小さな手のひらだった。レイシーの頬にさっと朱が掃かれた。

「じゃ、なくて。ほら、もうわかるでしょ。その外套だよ。ボロボロだし、汚いし。洗ったげるからよこしなさい」

「いやいや、これはいいですよお」

「いえいえ、よくないから」

 蔵人はため息をつくと、外套を脱いで手渡すフリをして、寝台に置いた。

「なんで渡すふりをするかっ」

「いや、これがないとなんか落ち着かなくて」

「んんん、まあいいけど」

 脱げば脱いだで、常時着古した衣服の汚れが余計に目につく。レイシーが小鼻をひくひくうごめかせている。

「ねえ、あんまりいいたくないけど、すっごくにおうよ。身体最後に洗ったのって。……やっぱいいや。聞くの怖い。ねえ、服は洗濯しとくから、その間にお風呂屋さん行ってきなよ。そこの角を曲がった先にあるからさ。服は、……はいこれ。父さんのお古だけどクランドも身体おっきいからたぶんサイズは合うと思うよ」

 いくらか古びているが、手入れのきちんとされた上下の衣服を手渡された。サイズが合うかは着てみないとわからない。上っ張りを脱ごうとボタンを外しはじめると、レイシーは黄色い声を上げて後ろを向いた。

「目の前で着替えはじめないでっ、ばか」

「わ、わるい。あとにするわ。んでな。非常にいいにくいんだが、ひとつ相談があってさ」

 蔵人が困ったように、ポケットの中身を引っ張り出すと綿埃がふわふわと宙に舞った。

 察しの良いレイシーは、しょうがないな、と半ばうれしそうな口調で巾着袋から銅貨を取り出すと、当然のごとく蔵人に手渡した。

「んもお、しかたないなぁ」

「いいのかい?」

「いいのもなにも、どうせ素寒貧でしょう。ごはんのお代も払えないくらいだし」

 蔵人は、小腰をかがめて頭を下げる。両者の力関係が決定した瞬間だった。






 蔵人は、共同浴場で垢を落として、数ヶ月ぶりに髭を丹念に剃り上げると生き返った気持ちになった。風呂といっても、日本式のお湯を張る浴槽式ではなく、蒸気を室内に送りこむ、いわばサウナ式であったが長旅の垢を落とすには充分だった。

 蔵人は、木陰に入ると街中を吹き渡る風に目を細めてこわばった関節をほぐした。

 昼間、頭の上をギラついていた金色の太陽はどこにもなく、濃い夕闇が街中を覆っていた。田舎の村や街では、おおよそどんなに遅くとも、夜の九時くらいになれば明かりを落として寝ついてしまうのだが、このシルバーヴィラゴではあちこちの店先のランプには油がなみなみと注がれ、その量からかなり遅くまで営業することを示していた。

 蔵人が銀馬車亭に戻ると、自分たちの仕事を終えた商店主たちが、テーブルやカウンターのあちこちですでに一杯はじめていた。

 店主であるバーンハードは、カウンターで酒を注ぎながら蔵人に目配せをした。

 すでに、事情を聞いたからか、昼間とはうって変わり、街の男たちはかなり気安げに接してきた。

 広いとはいえない店内のテーブルとカウンターの席はすでにいっぱいで、二階の吹き抜けの渡り廊下部分にも立ち飲みの客が酒をあおっている。

 圧倒された蔵人が立ちすくんでいると、常連客らしき男がカウンターの席を詰めて場所を作ってくれた。礼をいって腰を下ろすと、大ジョッキにつがれた酒が回ってくる。

 バーンハードが無言のまま指で自分の喉を指し示していた。暑さのせいもあってか、喉も乾いている。エール酒を一気に飲み干すと、周囲の男たちが一斉に声を上げた。

「いける口じゃねえか、兄ちゃん。そらそら、どんどん飲めや」

「おう、風呂屋行ってきたのかい。随分、男前が上がったじゃねえか! ま、昼間は悪かったな。がはは」

「おいおい、過ぎたことを蒸し返すんじゃねえ。えーと、名前はなんていったか。クランド、そうかクランド! 俺たちはもう兄弟だっ、兄弟なら酒を断るんじゃねえぞ! 飲めっ。今日は、俺がじっくり飲み方を教えてやる」

「この店は狭いからな、人でもないし、注文した料理は各自取りに来なっ」

「狭いは余計だぜ」

「フォークが足りなければ、どんどんまわしてやっちくれっ。助け合いだよ、酒飲みはっ」

「おい、マスター。塩気を利かした豚の腸詰め焼きと、エール酒三杯だ!」

「胡椒があったら、テーブルに寄越してくんなっ」

 どの男たちも酔っている上に、自分がいいたいことだけしゃべっているので収集がつかない。

「にしても、毎日こんだけ繁盛してりゃ食うには困らんな」

 蔵人が、周囲の熱気に煽られながら肉の燻製をかじりながらつぶやく。

 やがて、隣に座っていた、比較的酔いがそれほど回っていない二十代後半くらいの職人が、せわしなく視線を動かしはじめた。

「おい、どうしたんだ」

「いやいや、そろそろ時間かな、と思って。お、来た来た」

 男はサカリのついた猿のように椅子を立ち上がると、指笛を狂ったように吹き鳴らした。

 連動するようにして、店内の男たちが螺旋階段から降りてくる人物に向かって熱烈なラブコールを送りはじめた。蔵人が、つられるように視線を向けると、そこには昼間とはうって変わった装いのレイシーがいた。

 砂色の髪をアップにしているせいか、整った顔立ちがはっきりと見えて、一種の風格すら感じさせている。

 淡い桜色の口紅が、ランプのほのかな明かりに照り映えて妖艶に見えた。

 真紅のドレスをまとっており、深い胸ぐりからのぞく白い胸の谷間が輝いている。

 二の腕まですっぽり包む長い手袋もドレスと同色の赤であった。

「レイシーなのか」

 蔵人が、あまりの変わり具合に、声をかけあぐねて突っ立っていると、彼女は辺りをきょろきょろ見回したあと、ようやく声の主が記憶の中の男と合致したことに口を大きく開いて驚倒した。

「もしかして、クランドなのっ。やだっ、ぜんっぜんわからなかったわ! ……うん、こっちのほうがすっきりしてて、すっごくカッコイイよ!」

「おいおい、そりゃこっちのセリフだぜ」

「んんん? あ、もしかして、このドレスのこと」

 レイシーは、恥ずかしげに口元に手をやるとうつむいた。

「あはは。ほら、うちは一応、飲み屋だしさ。あたしみたいなのでも、歳が若いってだけでけっこうお客さまが喜んでくれるのよね。それで、夜はこんな感じでお店に出ているのデス」

 あはは、と決まり悪げにレイシーが微笑むと、周囲の男たちから猛烈な応援が飛び出した。

「いようレイシー!」

「待ってました、今夜もよろしく!」

「俺っちはこの瞬間のためだけに生きてるんでぃ!」

 蔵人が、半ば周囲のノリに怯えながらおどおどしていると、レイシーはかばうように一歩前に出た。

「騒がないのっ、まったく。んで、あたしがやるのはこうやって酔っぱらいの相手をしたり、父さんの作った料理を運んだり」

 レイシーが、店内の中央部分、ちょっとした傾斜の作られた、見ようによってはステージに見えなくもない部分に移動すると、騒いでいた男たちが、電池の切れた機械のように一斉に静まりかえった。蔵人が、かたずを呑んで身をすくめると、レイシーが大きく息を吸いこんだのが見えた。

 それから、レイシーのくちびるがゆっくり開くと、朗々とした美しい声が響き渡った。

 途切れることなく、たっぷりとした声量で唄が流れはじめた。

 普段の彼女とは別人のように、蠱惑的で人を惹きつける声だった。

 蔵人は、手にしたグラスの酒を干すことを忘れ、ただ彼女の歌に聴き入った。

 かつて、プロのライブを何度か最前列で聞いたことがあったが、レイシーの唄声は、それらとはまるで比較にならないほど、強い輪郭と力を持っていた。歌詞自体は、男女の切ない恋心を歌った現代人からしてみれば素朴なものであったが、あらゆる意味で地力が違った。聞いているだけで脳髄の芯が痺れてきて、背中と脇と手のひらに細かい汗がびっしりと湧いてくる。喉がカラカラに乾いてくるのだが、手を動かす動作によって起こる雑音すらためらいが生まれる美声だった。

 音楽など人並み以下の興味しか持たない蔵人すらこのていたらくである。現代人とは違って、気軽に音楽を楽しめない状況にある人々が彼女の歌に魅せられないはずがなかった。

 酔っていたはずの男たちの目が、ひとりの女性を見るというよりも、なにか尊い対象を見るような憧憬の色に染まっていく。これなら、昼間の騒ぎの際に、レイシーに異常に執着した意味がわかった。

 音楽とは、ある意味宗教を凌駕する部分がある。

 それぐらいに、レイシーの歌声にはいつまでも聞いていたいと人に思わせる力と凄みがあった。伴奏なしのアカペラがここまで人を魅きつけるものなのか。すべてを歌い終わったレイシーが小さく頭を下げると、もはや音楽会場と化した銀馬車亭から、鳴り止まない拍手と歓声が割れんばかりに室内を揺るがした。






「酒飲んで、飯食って、いい歌を聞いて眠くなったら寝る、と。まるっきりディナーショーだな。ううん、このコンボは老後に取っておきたかったのに」

 蔵人は、階下で騒ぐ酔客たちの喧騒を間遠に聞きながら、あてがわれた寝台に横になった。そもそも、蔵人はいくら酔っても、一定時間経つと急速にシラフになる体質もあり、キリがないので寝ることにしたのだった。うっかりすると、冒険者組合(ギルド)への加入料十万(ポンドル)のことが頭をかすめる。

「軽自動車が買えちまうぞ。まったく、ボリすぎだよなぁ」

 そもそもが、受付であれだけの騒ぎを起こしておいて、普通にまたのこのこ出かけようとしている部分がこの男の恐ろしさでもあった。むしゃくしゃしながら、枕をぼすぼす殴りつけていると、入口のドアをノックする音が聞こえる。

「開いてるぜ、へえんな」

「まだ、起きてるー。えへへ」

 蔵人が呼びかけると、頬を酒精でほんのり染めたレイシーが部屋の中にするりと滑りこんできた。

「おい、レイシー。ここはおまえの家なんだから、いちいち断る必要はねえよ。それに、そもそも鍵なんざかかっちゃいねえじゃねえか」

「あはは。それはそうだけどー、仮にもここはクランドが泊まってるんだから、それなりに気を使わないと」

 レイシーは上機嫌で頭をふらふら揺らしながら、寝台に腰掛けていた蔵人に倒れこんできた。咄嗟に、両手を伸ばして受け止める。

 蔵人は、少女のやわらかな感触に、幾分股間を硬化させながら、努めて冷静に彼女を隣に腰掛けさせた。

「あやや、ごめんなさい。あたしとしたことが」

「飲んでるのかよ。飲み屋のお姉ちゃんは商売だから、たいてい口つけてもフリだけだと思ってたんだが」

「違うのー、あたしだっていつもは飲まないけどー、今日はー、なんとなく飲んじゃいましたっ」

 レイシーは、きゃっきゃっと甲高い声で叫ぶと、両足をじたばた交互に激しく動かした。

 完全に酔っぱらいの動作であった。

「ねえークランドー」

 レイシーは、とろんとした瞳で、蔵人の肩に両手をまわしながらしなだれかかる。

「なんだよ」

「なんでもないよー」

 うおおおおっ、メンドくせぇっ。

 シラフで酔っぱらいの相手をするほど鬱陶しいことはない。割れた白桃のような、彼女の胸がチラチラ視界に入るたびに理性が崩壊しそうになった。

 レイシーってやっぱ軽い女なのだろうか、と蔵人が考えはじめた時、なにかを察知したのか、レイシーがすごい勢いで頭をぶんぶん左右に振りはじめた。

「うおおおっ、憑依霊っ」

「ちっがーう! べっつに、あたしはクランドが思ってるような安い女じゃないんだからねっ」

 この状態でそれをいうか、と蔵人は思った。

 レイシーは、完全に抱きついたまま、潤んだ瞳を近づけると、熱っぽい吐息でささやいた。

「ただねー、なんというかねー。えへへ、昼間はぁ、ありがとうって、それをいいたかった、の」

 レイシーは糸の切れた繰り人形のようにがっくり力を抜くと、もたれかかったまま寝息をかきはじめた。誰かどう見ても、いいわけのできない状況である。

「レイシー、俺はこのあと、どうすればいいんだ」

 蔵人は完全に寝入ったレイシーからどうやって脱出しようか、自家製脳内コンピュータをフル稼働させはじめた。夜は、まだまだ長かった。






「いってらっしゃーい。夜になるまえに帰ってきてね。おかしな人に絡まれないでねー」

 早朝、蔵人はレイシーに弁当を作ってもらうと、勇躍銀馬車亭を出発した。あのあと、彼女はむっくり起きると、自室に戻っていった。

 バーンハード曰く、よくあること、らしい。深く考えるのがバカバカしくなったので、その一連の事象を脳内から切り捨てた。起き抜けの彼女の顔には、酔いの名残が一切見受けられなかった。そうでもなければ、飲み屋でメシを食ってはいけないのだろう。

 だから、深く考えないんだってば。 

 蔵人が、勇躍向かったのは、シルバーヴィラゴの中でもっとも有名な宗教施設、ロムレス大聖堂である。マルコが司教を務める教会で、おそらく、先日会ったシスターもここに在籍しているだろう。絶対に落とし前はつけてやる。不退転の覚悟をみなぎらせながら、蔵人の足取りが一定のリズムを刻んで、スピードに乗った。長旅で鍛え上げられた健脚は、まだ明けきらぬ朝もやの中の街の住人を振り返らせるに足る早さだった。

 金色の太陽が静かに昇りはじめる中、ロムレス大聖堂に到着した。

 白を基調とした重々しい雰囲気の佇まいは見るものを畏怖させるに充分な効果を持っていた。無数の尖塔が、天に向かってそびえ立ち、その前に立つものはすべからく厳粛な面持ちにならざるを得ない。だが、蔵人には関係なかった。

 朝早くの習慣だろうか、年若いふたりのシスターが大扉の前を掃き清めている。紺色のローブは、あのときの小娘が身にまとっていたものと同一だった。いまや、清浄さを体現する法衣すら、蔵人の前ではイメクラのコスにしか見えなかった。許さんぞ、安っぽいコスプレ娘共がッ。

「おはようございます。お早いです、ね」

 蔵人の形相を真正面から直視したのか、細面の清純を絵に書いたようなシスターの顔が恐怖でひきつった。

「お、なんだ、開かねえぞ」

 蔵人が、大扉に手をかけると中から鍵が掛けてあるのか、ぴくりとも動かなかった。力任せに、どんどんと拳をぶつける。威勢の良い音が、朝もやを裂いて響いた。

「ちょっと、なにをなさるのですかっ。朝の礼拝の時間までは開きませんよっ」

 怯えて青くなったシスターに代わって、もう片方が噛みつくように蔵人の行動を非難した。

「んじゃ、開けてくれや。ねーちゃん」

「ね、ねーちゃ……なんと無礼な。そもそも、大聖堂の大扉は司教さま以外に開けることはかないませんっ」

「おらあっ、おっさん! いるんだろっ、さっさと出てこいやーっ! この蔵人さまがケジメとりにきたぞーっ、いるのはわかってんだーっ、出てこなんだらブチ破るぞーっ!」

 開けられないとわかるやいなや、蔵人は両拳で大扉を打ち付けながら、マルコを呼び出した。ほとんど、知り合いのアパートを訪ねるノリである。無論、ここはあくまで礼拝堂であり、人間の居住区ではないのだがイマイチ理解していなかった。シスターから見れば、権威と静謐の象徴を汚物で塗りたくるような行為であり、異常者にしか見えなかった。

「狂人ですわ」

「……自警団を、いや白十字騎士団(サンクトゥス・ナイツ)の方々をっ」

 総勢三千を超す精強な騎士団が呼び出され、蔵人の生命が霧のように儚く消えようとしていたその時、ひとりの男が朝もやの中、粛然とその場に降り立った。

「なにしているんですかっ、もおおっ、クランド殿ぉおっ」

 いわずと知れた、シルバーヴィラゴ教区の大元締、司教マルコである。






「まったく、拙僧がたまたま間に合ったから良かったものの。あとちょっとで白十字騎士団(気違いども)を呼ばれるところだったんですよ。感謝してくださいね」

 誤解(※半ば誤解ではない)が解けた蔵人は、大聖堂内の応接室のソファに腰掛け、マルコと共に朝の茶を喫していた。

「ああ、ワリーワリー」

「絶対反省してませんよねっ」

「あ、お姉ちゃん、このあと時間ある」

 蔵人の隣には、朝方会った清楚系と勝気系のふたりのシスターが侍っていた。

 むろん蔵人の強烈な要望である。

 清楚系はイルゼ、勝気系はコルドゥラと名乗った。

 イルゼとコルドゥラは、強力な自制心を持って蔵人のセクハラに耐えていた。共に信仰心のなせる技であった。

「もおおおっ、ウチはそういうお店じゃないんですからっ、拙僧の魂の拠り所を汚さないでくださいよおおおっ」

「ああんっ」

「きゃっ!」

 蔵人は無言のまま、イルゼとコルドゥラの左右の胸を軽めにつかんだ。イルゼは顔を真っ青にしておののき、コルドゥラは目を釣り上げて親の敵のように睨んだ。

「だから、やめてくださいってばああっ。拙僧の築き上げてきた聖域がああっ」

「んで、どこまで話したっけ」

「ほっとんど、なーんも話してないでしょう。クランド殿がここに来て行ったことは、大扉の前で騒いで、穢れ無き子羊たちのパイオツを揉んだだけですっ」

 マルコがキレ気味に茶器をソーサーに叩きつけた。蔵人の顔から、チェシャ猫のようなにやにや笑いが消えない。マルコはくちびるを強く噛んで奥歯を噛み締めた。

「ええじゃないか、にんげんだもの。ミツヲ」

「誰ですか、ミツヲって。また謎の人物が。……ま、詳しく話を聞かなくても、おおよそクランド殿の財布から小銭をギった人物は想像つきます。ろくに教会の仕事を手伝わずにフラフラしてる人物なんて、ねぇ。ひとりしかおりません」

「ええ、確かに」

「それは、司教さまのいうとおりですねっ」

 イルゼとコルドゥラはマルコの言葉に同意を示した。

「いっでぇっ!?」

 太ももに指を這わせていた蔵人は、コルドゥラに手のひらの皮を思いっきり捻られ、涙目になった。マルコがあからさまにざまあみろと、見下した視線をぶつけた。蔵人は眉間にしわを寄せて切ない表情になった。

「で、このお話の落とし前はどうつけましょうか。神に仕える者が堂々と罪を犯すとは。……ねえ、ヒルデガルド」

 応接室の扉の隙間から、げっ、と呻くような声が聞こえた。マルコは意外にも俊敏な動きを見せると、ソファから転がるようにして飛び降りざま、扉を内側に引っ張った。

「はわわわっ」

 ノブを握っていた小柄な人物が、無様につんのめると、毛足の長い絨毯に顔から倒れこんだ。

「いったーい、あれ。あはは、どもども」

「どこへ行くのですか、お話はこれからですよ」

 マルコが厳粛な面持ちで、小柄なシスターの肩を掴む。

 彼女こそ、蔵人から魔術的な指技で銅貨をくすねとった教会一の厄介者、ヒルデガルド・フォン・シュポンハイムであった。


 




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