Lv31「湖水は紅に澱んだ」
クリスタルレイク中央にある、無数にある島の停泊地のひとつに、敵船であるブラックスネーク号とレッドファランクス号を見つけるのは、それほど難しいことではなかった。
グレイスの水蛇であるジェイミーの速度は、帆船のような風に左右されるちんけなスピードではなかったし、黒蛇党の船長だったグレイスにとって、湖賊たちがどこでどのように船を停めて補給を行うかなどはすべて手の内だった。
バルバロスたちは、客船を鹵獲したあと、ほとんど航行せずに、もっとも近いアジトのある島に移動しただけであった。
蔵人とグレイスは、波打ち際の岩陰から沖合に停泊する船を見ながら、顔を寄せあって話し合いを行っていた。
「この岩鼻島は、あたしたちのいくつかあるアジトのひとつなんだ。当然、とらえた人間を閉じこめておく檻もある。荷物になる一等室の乗客はぜんぶここに置いていくはずだよ。もっとも、バルバロスはものすごく用心深い。あたしをつかまえるまえに、船を降りることはないだろうね」
「なら、単純にブラックスネーク号を狙って奇襲をかければいいわけか」
「単純て。おそらくバルバロスのバカは、自分の周りをガッチガチに固めてる。あたしから寝返った奴らも心底あいつに従ってるとは思えない」
「なんでよ」
「なぜなら、バルバロスは元々が湖畔の土地の生まれじゃないからさ。黒蛇党のほとんどは、食えなくなった漁師や百姓とか土地の人間なんだ。悔しいけどあいつには、妙なカリスマがあった。若くて、脳みそがからっぽな若い連中は、バルバロスの駄法螺をまともに信じるような単純なやつが多かったけど、歳かさで食えなくなった連中は、あからさまにバルバロスを嫌ってるやつらもたくさんいたんだ。いまも、本心から従ってるとは思えない」
「半々、てとこか」
「そこまで、いなくても、五十、せめて三十人こっちに手を貸してくれるやつが居れば、勝負になるっていうのに」
グレイスは、パイレーツハットをいじりながら苦い顔をする。
「その、勝負、一口乗らせていただきましょうか」
どこかで、聞いた声に蔵人が振り返る。そこには、人生を舐めくさったような顔つきの中年男が、自身に満ちあふれた顔つきで、いつの間にか突っ立っていた。
「てか、おっさんじゃねえか。なんだ、生きてたのか」
「失礼ですね。拙僧は、神にいつでも守られているのです。で――」
マルコはわざとらしく咳払いをすると、ダンディな口調でグレイスに流し目を送った。
「そちらの、ご婦人は? は、まさか、あなたも湖賊の魔の手にっ」
「あ、あはは」
グレイスは中年のノリについていけないのか、愛想笑いを浮かべた。当然、刺すように自分の胸元を凝視する不快さに耐え切れなくなったのか、そっと蔵人の背中に半身を隠す。
「きいいいいっ、なんでクランド殿ばっかりいい目にぃいいっ!」
マルコの瞳が嫉妬で醜く釣り上がった。
「ねえ、クランド。この人、誰?」
「危険な宗教者だ。口を利くと孕まされるぞ。気をつけて」
「嫉妬! 美女に軽口を叩く、クランド殿に嫉妬!」
「んで、馬鹿な話はこれくらいにして、ここからは真面目にいこうか」
蔵人の仕切り直しが入ると、司教マルコは炯々たる目つきで滔々と語った。
自分は湖賊の人心を収攬することに成功した。そして主流派の悪逆な賊たちは、昨晩の宴会で疲れきっている。頭目である、バルバロスを討ち果たすのはいましかない、と。
ほとんど、話半ばに聞いていた蔵人たちだったが、マルコがわざとらしげに右腕を上げると、背後の雑木林からガサゴソと音を立てて男たちが姿を現した。
「マジかよ、嘘だと思ってたけど、案外やるじゃんか」
「へへー」
「ちっす」
頭をかきながら、照れくさそうにふたりの三十すぎの男が藪を漕いで姿を見せる。
「てか、モーティマーにジャン。あんたら、生きてたのかい!」
しかも、グレイスの子飼いだった。
「ふふ、どうです。拙僧の人徳は。中々のものでしょう」
「あー、えーと。おっさん、まあ頑張った方だよ」
「なんですか、その励まし方。ていうか、拙僧こっちの美女に褒めてもらいたいのに」
マルコは恥ずかしそうに、もじもじと身体をよじる。グレイスが、うげ、とあからさまに嫌そうな顔をした。
「しっかし、あんたたちふたりだけでもよく助かってくれたね。よかった」
グレイスが目もとに指をやってにじみ出る涙を拭う。それを見た、モーティマーとジャンは決まり悪げに身体をゆすると、やがてジャンが口を開いた。
「別に、俺たちもただ黙って姿を消していたわけじゃありませんぜ。お嬢、実はとっておきの策ってやつの仕込みがありましてね――」
ジャンの話した策はこうだった。
いままで、ふたりが姿を消していたのは、ただ怯えて隠れていたわけではない。内密に、船内の反バルバロス派を結集させ、一気に反撃の狼煙を上げる機会を狙っていたのだということである。その為には、旗印であるグレイスの存在が必要不可欠であった。
だが、幸運にも今日、この絶好の機会に再びめぐり逢うことができた。バルバロスたちは、前夜の宴会で酔いつぶれ、そろそろ日が高いというのに、二日酔いで起きてくることはまずない。
「へへ、こっちでさぁ」
蔵人たちは、モーティマーとジャンたちの先導でブラックスネーク号に潜入した。
目指すは、バルバロスが酔いつぶれているはずの宴会場である。
手はずでは、まず最初にバルバロスの首を上げ、味方に決起をうながすことになっていた。ジャンの言葉通り、船内には見張りがひとりも立っておらず、あちこちにだらしなく多数の湖賊が酔いつぶれて寝こけていた。酒の匂いが鼻を突くほどに漂っている。襲撃の成功を目の前にして、グレイスはモーティマーの浮かない顔つきを見て首をかしげた。
「どうした、辛気臭い顔して」
「いや、なんかこういっちゃアレですが、妙に上手く行き過ぎてるような気がして。おい、ジャン。ちょっと様子を見てみねえか」
「どうした、どうした」
「わっぷ、急に立ちどまらないでください、クランド殿。拙僧の高い鼻がつぶれますっ」
「ジャン、おめえなんのつもりだ――」
モーティマーがジャンの肩に手をかけたのと、振り返った相棒の手にしたナイフが脇腹を抉ったのは、ほぼ同時だった。
蔵人がジャンの腰を蹴りつけると、グレイスとマルコを両脇に抱えて扉から飛びのく。
槍衾が木製の扉をジャンごと貫いて、あたりに血飛沫が撒かれた。
「どうやら上手い具合にハメられたようだな」
蔵人たちは、広間に集まっていた男たちに背を向けると、階段を駆け上がる。既に、袋の鼠と知っているのか、湖賊たちは無言のまま包囲の輪を閉じていく。甲板に躍り出ると、船首から船尾に至るまで男たちが得物を構えて埋め尽くしている。
さすがの、マルコも軽口が叩けないのか、鯉のように口をパクパクと開閉している。中空に上った太陽が、ブラックスネーク号を蒸し焼きにするかのごとく、陽光で舐め尽くしていた。
「いよう、会いたかったぜ、グレイスちゃんよう」
「バルバロス!!」
隻眼隻腕の湖賊は、ミリアムの腰を抱き寄せながら、酒瓶を片手にゆっくりと近寄ってきた。蔵人たちは、ぐるりと男たちに囲まれながら、ひといきれで息がつまりそうなほどだ。碇を下ろしてあるブラックスネーク号はそれでもわずかに揺れている。
「やっば、クランド殿。拙僧、こんなときだけど、やっぱり、揺れる乗り物は――」
「あんた、長生きするぜ。まったく」
蔵人は、こんな状況でも船酔いをするマルコを見ながら、いくらか冷静さが戻った。
「まったく、こんな古典的な手にひっかかるとは、所詮漁師娘の浅知恵なんぞはこの程度。元々、黒蛇党の頭の器じゃなかったのよ! なあ、てめーら!!」
バルバロスの言葉に、側近らしき十名ほどの男が哄笑する。彼らは、周囲の湖賊たちとは、武器も衣服もあきらかな隔たりがあった。蔵人とミリアムの視線が、はじめて交錯した。彼女の瞳は、哀しそうに沈んだ色をしていた。類推する必要もなく、彼女がバルバロスにどう扱われていたかは、一目瞭然だった。
彼女は、純白の花嫁衣装を着ていた。決して上等はいえないが、その服を着てどれほどの恥辱を味わったのだろうか。奥歯を深く噛み締めていたのか、かすれた軋みがもれた。
「グレイスぅ、これからおまえが俺さまの肉奴隷として奉仕すると誓うなら、命だけは助けてやっても構わんぞぉ。んんん? ここにいる、ミリアムのようになぁ!!」
「いやああっ!!」
バルバロスは、横に立つミリアムのスカートを後ろからめくると、全員に見えるように晒した。
「はっはー! ミリアム。皆にとっくりと見てもらうんだ! おまえは、夫がいるにも関わらず、用意した花嫁衣装のまま、たっぷりとバルバロスさまにかわいがってもらった淫売だとなぁああ!!」
グレイスは顔色を真っ青にして、口元に両手を当てた。同じ女性として、どれほどの屈辱か理解したのだろう。マルコも、甲板に両膝をついて、胸元に下げた白十字を強く握り締める。湖族の輪から、耳を劈く絶叫がひときわ高く上がった。
ゴードンが周囲の男たちを突き飛ばしながら発狂したように、突進してきた。
オークの巨体が本気で動き出せば、人間の力では抗しようがない。
ゴードンは、あらゆる恥辱も屈辱も耐えようと思っていた。事実、耐えてきた。愛する妻が、目の前で嬲られようと、自分が臆病者よ、寝取られ男だのと蔑まされても。
ただ、一点だけ。
犯してはならない部分があった。聖域だった。
ミリアムを守ると決めた。それは、口先に終わってしまった。現に、ゴードンが奇妙な冷静さを保っていたのは、無意識の内に強い自己保身が働いていたからかもしれない。
だが、ミリアムの神聖にして侵すべからず、最後の部分がついに破壊された。
ゴードンにとって、触れてはならない大切な部分が、野卑な男の手によって黒く塗りたくられたのだ。
「ちっ! 血迷いやがって、おまえら片づけろい!」
バルバロスの命令一下、側近の男たちが持っていた槍や剣を代わる代わる投擲した。目を血走らせて、グレイスが短刀を引き抜いた。蔵人は、彼女の肩につかみかかるのと、穂先がゴードンを針鼠にするのは同時だった。
「あああああああっ!!」
完全に理性を放棄したゴードンは、腹や右目、胸元、肩や足を貫かれても、進撃をやめない。血煙が甲板に撒き散らされ、周囲の男たちもその凄惨さに目を背けだした。
「ゴードン!!」
白いドレスをひるがえして、ミリアムが駆け出す。バルバロスの瞳が嫉妬の炎で滾った。
「ミリアムぅうう!! あれだけ俺さまがかわいがってやがったのにぃい!! まだ、その豚野郎のことをおおおっ!!」
バルバロスの振り下ろした剣が、ミリアムの背中を深々と抉った。
「ううっ」
それでもミリアムは痛みをこらえてゴードンに向かって走り寄る。純白のドレスは胸元まで真っ赤な血で染まり、彼女はまるで一輪の薔薇を抱いたように遠目には見えた。
「ゴードン。ごめんなさい、ああ。痛かったでしょう、こんなに。ごめん、汚れてしまってごめんねぇ」
「ああ、許してくれ、ミリアム。僕がもっと早くに勇気を出していれば、君をあんなやつに汚されることもなかったのに」
ゴードンは血泡を喉に逆流させながら、ミリアムを抱きしめた。
「いいのよ。もう、なにもいわないで」
ミリアムは、静かに目を伏せるとゴードンの巨躯にもたれかかる。
それは、巨木の下にひっそりと咲く、一輪の花のようにはかなげな光景だった。
「ミリアム、僕は」
「あなた、わたしたち、死ぬときはいっしょだよ」
ミリアムは、血泡を吹いて目を細めると、苦しそうに眉をしかめた。誰がどう見ても、助からないほどの致命傷であったことは間違いなかった。
周囲の湖賊たちからもしわぶきひとつない。
幾人かが、目元をおさえながら剣を取り落としていく。
「なんでぇ、なんでぇ! まるで、田舎芝居じゃねえか!」
バルバロスが息を弾ませて男たちを煽るが、一旦消え去った士気はそうそう戻ることはない。それどころか、バルバロスの子飼いを除いた湖賊たちは冷たい視線を船長に向けはじめていた。
「クランドさん、そこに居ますか。最後に、お頼み申します」
「ゴードンさん。俺は、ここだ」
「僕はもう目が見えない。頼むから、最後の瞬間だけは、夫婦でいさせてください。お願いします、お頼みしますと、図々しいことばかりですが、他には誰にも頼めないっ」
ゴードンは自分の身体から引き抜いた剣の柄を蔵人の声がする方に向けて差し出すと、よろよろと船べりの方に向かって歩いていった。
既に呼吸が止まりつつあるミリアムを抱きしめて、ゴードンは無防備な背を向けた。
オークの頑健な身体は、掻き毟られたように皮膚が破れ、内蔵がはみ出し垂れ下がった臓器を自分で踏みつけていた。
助からない人間に引導を渡す。それは、生き残った勝者だけができる、唯一の方法だった。
闇だ。
蔵人の意識を真っ黒なものが塗りつぶしていく。感情が消えていくのを感じた。剣を握る手指の感覚がない。ミリアムの笑顔と、別れの際聞いたゴードンの男らしい声だけが幾度も頭の中で反響した。
蔵人は、勢いをつけて走り出すと、ゴードンとミリアムの身体をひとつにするように、深々と長剣を突き刺した。
最期にゴードンは、かすかな笑みを浮かべ、最愛の妻を抱きしめたまま、ゆっくりと船べりから落下し、湖水に消えていった。
青白い湖は、陽光にきらめきながら、一瞬だけ水面を真っ赤に澱ませた。
「おい、おまえらどこに行く! 船長はおれだぞおっ!!」
蔵人が背後に顔を向けると、戦況は一変していた。湖賊たちは、バルバロスの子飼い十名ほどを除いて、それぞれ武器をその場に放り出すと、続々と船を降りていった。
「待てよっ、おい! おまえ、いまなら幹部待遇にしてやるからっ、なっ!」
男は冷たい視線だけを返すと、バルバロスの手を肩から振り払いいった。
「オラたちは所詮はぐれものだが、あの夫婦を見てなにも思わねえほど腐れてもいねえ。だいたいが、調子のいいことをいって酒や女をひとりじめにしてたのはおまえさんたちだけだしな。それに、おめえさんは結局のところ土地の者でねえから、こんな無茶苦茶を続けられるんだ。皆で話して決めただ。オラたちは、やっぱ魚獲って暮らすのが一番だ。あとは好きなようにやってくんろ」
「お、おまえらあああっ!!」
バルバロスが真っ赤な顔をしてみても、船を降りる男たちは百を超えている。ゴマメの歯軋りとはこのことだった。
その内、ブラックスネーク号に誰かが火を掛けたのか、船体が赤々とした火で包まれていく。この場に残ったのは、蔵人たちとバルバロス一味のみになった。
「くそっ! 出直しだっ、グレイス、せめておまえだけでも!」
バルバロスが一歩前に踏み出ると、外套の前をぴったりと閉じた蔵人がうっそりと立っていた。短剣を抜きかけたグレイスを制止して一歩前に出る。小柄なバルバロスは気圧されたようにたじろいだ表情を見せた。
「なんだ、おまえは――あびゅっ!?」
不快げに鉤爪を前に出すが、きらりと銀線が走ったかと思うと、義手はあっさり切断されて甲板に転がった。
蔵人は完全に表情を消したまま、外套の中で抜き放っていた長剣を突き出した。
バルバロスたちに向かって、殺気を隠すことなく発した。さすがに感づいたエルモを含めた十一名は瞬時に散開すると、得物をそれぞれ抜き放った。
「なんだぁ、おまえは。いったい、この俺さまになんの恨みがあるんだっていうんだああ」
「おまえにゃなんの恨みもねえが、ゴードンたちの意趣返し、させてもらうぜ」
怒りに燃え上がった蔵人の動きは獣のように荒々しかった。狼狽気味の男たちに向かって真正面から突っ走ると、飛び上がって長剣を斜め上から叩きつけた。
「おぐえっ!」
男は蔵人の刃を顔面に受けると、目鼻を完全に抉られ叩き潰したスイカのように真っ赤な断面をさらけ出してあお向けに倒れ込んだ。
蔵人は、ひとりを屠ると、うろたえた様子の隣の男に狙いを定めた。
白刃が真月を描いた。
男は、右脇腹を深々と断ち割られると、泳ぐように前のめりになった。
蔵人は半身をずらしてさけると、背後から男の首筋に長剣を力いっぱい叩き込んだ。
うなじから入った刃は、男の首を両断すると血飛沫を飛び散らせた。
勢いのついた男の首は勢いよく飛ぶと、燃え盛る炎の中に踊り込む。
咆吼したまま、蔵人は勢いをゆるめることなく、正面の男に向かって白刃を振り回した。
刃物同士が噛みあう金属音が甲高く鳴った。
受太刀にまわった男は力負けすると、船べりに押しつけられた。男の体格は、オークと遜色のない巨躯であったが、鬼神の乗り移ったごとき蔵人の動きの前では無力だった。
男は大木のような腕に、血管が浮かぶほど満身の力を込めているが、ぐいぐいと船の手すりに押し潰されていく。男の表情が醜く歪んだ。
蔵人の長剣が、男の身体を完全に船べりに押し込んだ。
白刃がギラリと陽光を反射し凶暴にきらめく。
斜めに走った銀線が男の首元を断ち割った。
「ちきしょう!」
「いっせいにかかるんだっ」
「殺せえええっ!!」
男たちの怒声と船体を焦がす炎音が入り乱れて飛びかった。
セールにも火が燃えうつり、帆柱がゴーゴーと音を立てて左右に揺れている。
火の粉が舞うように辺りに飛散していた。
蔵人は、外套の裾を割って大きく跳躍した。
吹きつける強風が音を立てて漆黒の羽を波打たせた。
長剣が風を巻いて唸る。
蔵人が、降り立つと同時に、男の顔面へ垂直に銀線が走った。男は獣のように吠えると、脳漿を甲板に撒き散らしのけぞった。握っていた手斧が、甲板の血溜りに転がった。
間髪入れず、左右から男たちが迫る。
蔵人は、逆手に持った長剣を右後方に突き出した。長剣は、右から駆け寄った男の胸板に深々と突き刺さって心臓を抉った。
直後、左から襲い来る男の刃風を感じた。身を低くしてかわし、同時に剣を抜き取った。
蔵人は、左手で白金造りの鞘を持つと上方に振り上げた。刃をはじかれた男の胸元がガラ空きになった。
蔵人は、飛びこむようにして諸手突きで相手の胸へと刀身の半ばを埋没させた。
「おおうっ!!」
奇妙な吠え声と共に、男は全身を大きく震わすと、血反吐を吐いて横倒れに伏した。
残った男たちは怯えが極まったのか、立ち向かうことなく背後を見せて駆け出した。
蔵人は、叫びながら逃げる男たちの背中に長剣を振るった。
風を巻いて走った銀線が後頭部に叩きつけられる。
男は、脳髄を飛散させて顔から甲板に突っこんで息絶えた。
蔵人は、脱兎のごとく逃げ去ったもう片方の男の背に長剣をすべらせた。男は、無防備な背中を深々と断ち割られうつ伏せに倒れ込んだ。蔵人は、男の背中に右足を乗せて固定すると、両手に持った長剣を満身の力をこめて振り下ろした。長剣が、男の心臓を深々と刺し貫いた。男は、低く呻くと、どろりとした血をにじませながら絶命した。
「なにやってんだ、まとめてかかるんだよおっ!」
バルバロスの叱責に、ふたりの男が破れかぶれに殺到する。
蔵人は、身体をよじって外套を回転させた。風雨に晒され、泥と塵を吸い込んで重みを増した外套が向かってきた男の顔面を力強く打ち据えた。鈍い音と共に、呻き声を上げ、男は座り込んだ。
蔵人は、尻餅を突いた男の喉笛向かって、刃を水平に走らせた。鋭い突きが喉仏を喰い破った。男は、口をぱくぱく数回開閉すると、赤黒い血潮を傷口から噴水のように撒き散らし、白目を剥いて絶息した。
残ったひとりは、頭を左右に振りながら、目をつぶったまま剣を突き出してきた。
蔵人は、足を伸ばして男の体勢を崩すと、長剣を胴体に向かって横殴りに叩きつけた。濡れ雑巾を壁で叩くような鈍い音が鳴った。焦げた船体に血液が降りかかり、音を立てて蒸発する。
男は、割られた腹から臓物をはみ出させながら、虚ろな瞳で二、三歩歩くと膝を折って絶息した。
「エルモっ、エルモぉおおっ!! 俺を守れえっ!」
バルバロスが怯え切った声で叫ぶと、黒の目出し帽をかぶった男が蔵人の前に立った。
「なかなかやるじゃないか、若造。この双剣のエルモをせいぜい楽しませてくれよ」
エルモと名乗った男は、腰の二本の剣を抜き取って十字の構えをとる。
蔵人は、腰をわずかに落とすと、長剣を水平に寝かせて迎え撃つ。
エルモは豪語するだけあって、かなりの使い手だった。蔵人が受太刀に回ると、叩きつけられた双剣の重みは並大抵のものではなかった。高い金属音と共に、火花が散った。蔵人は体勢を崩したまま後方に転がりながら、周囲に視線を伸ばした。
二刀を使いこなすというのは、両手にかなりの筋力がなければ不可能な芸当である。
強敵を倒すには、一撃必殺を狙う必要がない。身体のどこか一部分を傷つければ、そこから動揺が生まれ、勝ちへの道標も自ずと見えてくるはずである。
「そらあっ!」
エルモはさらに一歩踏みこむと、二刀を振り下ろした。仰向けになりながら、長剣を水平にして再び受けた。
右肩に熱い衝撃を感じた。血飛沫が飛び散り、右頬を濡らした。
完全に力負けしたのか、頭の芯まで痺れるような豪打だった。なんとか立ち上がろうと身体を起こした時、エルモが両剣を振りかぶるのが見えた。無意識に左手を伸ばすと、指先に手斧の柄が触れた。死を覚悟した瞬間、エルモが目を見開いて半身になった。一条の鋭い輝きがエルモをかすめて船べりに突き刺さった。
「貴様ッ!!」
エルモの怒声が響いた。グレイスが、蔵人を助けようと短刀を投げつけたのだ。
「クランド!」
悲痛な甲高い声が木霊した。
その隙を見逃すはずもなかった。蔵人は、引き寄せた手斧をエルモの足元に向かって全力で投擲した。手斧は円回転しながら、エルモの右足をわずかにかすめて船板に突き刺さった。エルモが、低く呻きながら体勢を崩した。起き上がるには充分な時間だった。蔵人は立ち上がりざまに、外套を肩から剥ぎ取ると、エルモの顔面に投げつけた。
「うおおおっ!」
上方の視界を遮られて混乱したエルモが両刀を闇雲に突き入れた。蔵人は、地を這うようにしてエルモの足元に飛びこんで、存分に長剣を横に薙ぎ払った。左足の脛を叩き割られたエルモが、野太い悲鳴を上げながら倒れ込んできた。
蔵人は、長剣をすくい上げるようにしてエルモの心臓に深々と埋め込んだ。
エルモは、両眼を見開きながら、両手に持った剣を床に落として、舌をだらりと垂れ下がると息絶えた。
「待ってくれよ、俺を斬るつもりかよ、兄さん。か、勘弁してくれ。な、なんでもするからさぁ! つ、償うよぉおおっ。なあ、グレイス! おまえからも、口添えしてくれっ。甲板掃除でも、下働きでも、奴隷扱いでもいいんだっ。た、頼むよ。命だけはっ」
バルバロスは、蔵人とグレイスの顔へと交互に視線を移しながら、泣き喚きながら命乞いをした。グレイスの顔は怒りの余り紅潮し、くちびるがわなないていた。
「お願い、早く黙らせておくれ」
グレイスは目を伏せて、震え声を出した。
蔵人が燃え盛る炎を背に、一歩前に踏み出した。バルバロスは小娘のように身を縮こませながら、顔面をひきつらせた。
「おまえが許されるかどうかは、あの世でふたりに会ってから聞いてくれ」
蔵人は、長剣を大きく振りかぶると、ひざまずいていたバルバロスの顔面に叩き落とした。銀線が、顔面から胸元まで垂直に走った。
「いぎいいいっ!!」
バルバロスは獣のような断末魔を上げると、赤黒い切断面から血潮を吹き散らして横倒しになった。蔵人が、胴体を蹴上げると、死骸は燃え盛る船体の炎と黒煙に巻き込まれやがて見えなくなった。ゴミにはふさわしい末路だった。
蔵人はグレイスの肩を抱くと、外套ですっぽり包みこみ静かに歩き出した。
すべての悲しみから遠ざけるようにして船から遠ざかっていく。
岸辺に降りると、背後にブラックスネーク号が炎に舐め尽くされ轟々と唸りをあげて燃え盛っているのが見えた。
グレイスは真っ青な空の下で、天も焦げよと吹き上がる炎の渦を見つめ続けた。
そして、静かに涙をこぼしながら、千切れた黒蛇の旗印をもう一度、強く握り締めた。
「おかしら、よかったんですかい?」
「なにが。それから、あたしのことはおかしらって呼ぶな。船長と呼べ、船長と」
グレイスはモーティマーの言葉を訂正すると、そしらぬ振りをしながら眼下の向こうへ走っていく帆船を見つめていた。あれから、解放されたレッドファランクス号は当初の予定通りシルバーヴィラゴに向かって旅立っていった。グレイスは、あの戦いの後、自分の下で湖賊を続けたいと戻ってきた仲間を集めて、一からやり直すことにした。バルバロスのような不心得ものを出さない為にも、自分をもう一度磨き直さなければならない。
これからは、受け継いだ地盤も自分を助けてくれるラフィットもいない。
誰にも頼らないんだ。
こころの中でつぶやくと、ずきりと小さな痛みが走った。
「あーあ、クランドの兄貴がいてくれりゃ、怖いもんなしなのになぁ」
「あのなぁ、堂々とあたしの貫目を批判するなんて、いい度胸してるじゃないか」
「いやいや、そんなつもりじゃありませんて。これからは、俺も、少しは自分の頭で考えてみます。なにが、一番いい方法なのかってことを」
「ま、お互いさまってとこか。あたしも、二度とこんなことの無いようにしっかりしなくちゃ」
岸壁から湖に視線を向けると、青白く輝いた眩しい光が、夏の日差しを照り返しながらキラキラと宝石のように瞬いている。
蔵人は自分が泣いて頼めば、きっとそばにいてくれただろう。
だけど、それはなにか違う気がした。あの男にはあの男の、自分には自分のやるべき道がきっとあって、それはまったく同じでなくても、それぞれにとって大切なものであることには違いないのだ。無理に、男の道を変えさせるなど、美しくないと感じただけだ。
あの男は命をかけて黒蛇党の旗を取り戻してくれた。なら、取り返した旗をより強くするのは自分の役目だろう。その程度やり遂げなければ、船長と名乗るわけにはいかないだろう。
ふと気づくと、以前よりはるかに少なくなった男たちが、母親を心配するような子どものように、心細げな瞳で自分を見つめているのに気づいた。
グレイスは、風に吹かれてかしいだ帽子の眉庇を直すと、太陽のきらめきに負けないくらい莞爾と微笑んで見せた。




