Lv26「司教マルコ」
「いやー、拙僧は信じてましたよ。必ず、心の友であるクランド殿が助けてくれるって」
「いや、信じるもなにも、今日初対面のハズなんだが」
「気にしない、気にしない。これも、ロムレスのお導きですよ。さあ、遠慮しないでやっちゃって、やっちゃって」
酒場の一角でマルコは向かいあった蔵人に酒瓶を渡しながらはしゃいでいた。
蔵人は、蒸留酒をちびちび含みながら、フォークの先でつまみの豚の塩焼きを突き刺した。
たっぷりと脂の乗った豚肉を、鉄鍋にぎゅうぎゅう詰めの岩塩といっしょに入れて蒸し焼きにしたものである。
焼きたてのカリカリした黒パンに乗せて、上からレモンを数滴かける。
大口を開けて頬張ると、ジューシーな豚独特の旨みと脂が口いっぱいに広がり、黒パンのサクサク感が渾然一体となって味のハーモニーを奏でた。
脂を洗うように盃を飲み干すと、焼けるような酒精の喉越しの良さに吐息がもれた。
この店は深夜から早朝まで開いており、店内には宿を取り損ねた人々がゆっくり杯を傾けたり、部屋の隅で毛布にくるまったりして各々時間をつぶしていた。ほとんどが男で、皆身なりがひどくみすぼらしい。まともに宿をとって払いを済ませるほど、ふところに余裕のないものばかりが集まっていた。
「いや、遠慮なんかしないけど、でも、ここの金もぜんぶ俺が払うんだよね」
マルコは気持ち顎を引くと下唇を猿のように突き出し、顔は動かさず瞳の位置だけを器用に反らした。
――こいつ、殴りてぇ。
人の怒りを煽る顔つきだけは非常に上手かった。
「おい、ちょっと待て。なんだ、いまの顔」
「いまの顔? 顔ってなんですか? 拙僧、なにかいたしましたか? や、気のせいですよ。ぜんぶ飲んで忘れちゃいましょう。ほらほら」
「いや、したよね? 人を小馬鹿にしたような顔、絶対にしてたよね? いくら俺でも忘れられないことってあるよね?」
「知りませんて、ほらほら。忘れちゃいましょう! いいことも、いやなこともぜーんぶ、ぱーっと!」
「いや、いい思い出は忘れちゃダメだろう」
「まーまー、シルバーヴィラゴに着いたら、百倍にして返しますってば。ほら、拙僧こう見えても、教区ではカオですから。ね」
「いや、果てしなく怪しすぎんだろうが」
「まー気にしない、気にしない」
蔵人はなんとはなしにいっしょに行動するようになった男から勧められるままに杯を傾ける。不意に、周囲の声が一際高く大きくなった。
「だからよう、化物が住んでる島があるんだって。土地の者に聞いたから間違いねえ」
「おう、オレも聞いたぜ。なんでも、このクリスタルレイクには大小の島がいくつかあって、その中にはまだ手付かずの場所がいくつもあって、その中の未踏の場所で目にしたって話だろう。大方、見慣れねェモンスターを目にしただけじゃねぇか」
「バカだな、おまえは。これだけ船が行き交ってる湖でそんなもんがポンポン出たら、とっくにご領主さまが軍隊を派遣して討伐してるって。このアンドリュー地方の領主は豪傑で知られるバルテルミー閣下のお膝元なんだぜ」
「相変わらず耳が早いのかそれともどっか一本抜けてるのかわからないやつだな、おまえは。その閣下だが、近頃王都に行きっきりでちっとも帰ってこねえらしい。この湖で代官をやってるジョスラン準男爵は蓄財に目がねぇって話だ。細かい部分に目が行き届かなくてもしょうがあんめえ」
「なんでもかんでも否定しやがって。亡霊だよ、亡霊! モンスター以外の亡霊が出てくるんだって! よし、確かめるぞ。明日、小舟を借りてひとつ島巡りでもやってみようじゃねえか」
「冗談じゃねえよ。湖賊に襲われてくたばるのがオチだ。それに大きな問題が、もうひとうある」
「なんでぇ」
「俺は泳げないんだ」
オチがついたところで、大きな笑いが起きた。
蔵人はちょっと憤慨した。
隣の卓についた四人組の男たちががなりながら喋っているのだ。
「ふーん、モンスター以外のバケモノねぇ。坊さん。あんたはどう思うよ」
「さあ、基本ロムレスでは迷宮以外にはあまりモンスターはいないって建前になってますからねぇ。僻地は知りませんけど。土地の者が飲みすぎて見間違えたんでしょうよ。怖いですねえお酒は」
「おい、そんなに飲んで明日は大丈夫なのか」
「なになに、タダ酒と聞けば、ロムレス男児として飲めるだけ飲まなきゃ相手に失礼ってもんですよ! さあ、つまらない噂は別にして女の話でもしましょう!」
「誰もおごるなんていってないんですが、ねえ! 人の話聞いてる?」
「だははははっ。おい、ババァ酒だ!」
「最悪だよ、このおっさん」
蔵人は不良司教のペースに付きあわされ浴びるように杯を煽った。
やがて、疲れのせいもあって、いつしか蔵人は泥のように眠りに落ちていた。
「ううっ、さみぃ」
蔵人は完全に火の落ちた店内で、身体を濡れた犬のようにぶるぶる震わせた。辺りには、昨晩から飲み続けていた、船待ちの旅人たちが崩れたようにあちらこちらの卓に突っ伏している。
「そだ、そだ。ションベン、ションベン」
蔵人は尿意を思い出すと、厠の場所を思い出しながら、やや不確かな足取りで卓の間を縫って移動する。排泄を終えて、戸外から戻ると、まだ白河夜船の人々の間から寝息以外の音が聞こえてきた。視線を闇の中で動かすと、厨房の裏手から男女のささやき合うような声が確かに聞こえた。
「ふおおおっ、こっ、これは中々の技をお持ちで」
どこかで聞いたような男の声。粘着質な音が不意に止んだ。
「ふふっ、お坊さま。アナタも朝からすっごく元気ね。いま、すっきりさせてあげるわ。そのかわり、ねえ?」
「おおっ、承知してますぞ。ああ、だから、早く拙僧を極楽浄土へ、極楽浄土へ」
男は壁際で突っ立ったまま、女の横に貨幣をいくつか落とした。
安っぽい金属音が鳴り響く
目を凝らすと、次第に闇の中から男女の輪郭が浮かび上がってきた。
仕事上がりの小遣い稼ぎだろうか、商売女は真っ赤な長いウェーブのかかった髪をかき上げて蠢いている。男は、胸の白十字を握り締めながらなにかに対して懸命に祈る仕草をしていた。
というか、司教のマルコだった。
闇の中で、ガサゴソ動く衣擦れの音が大きくなる。
「あ、あのおっさん、衆人環視の中でなんてプレイを」
「おおっ、なんという罪深い行為をーっ」
(罪深い? 罪深いってなにが?)
「神よ、この罪深い子羊をお許しくださいっ! なんと、なんと淫らなっ! 拙僧は、拙僧は負けませんぞーっ、うううああっ! うびゅっ!!」
(おまえはいったいなにと戦っているんだ)
蔵人は呆然とした。
最後に女のくぐもった声が聞こえた。それで、すべては終了した。
マルコは脱力すると椅子の上にどっかと座りこむ。商売女は、さっと髪を撫でつけると店を早々に立ち去っていく。途中で蔵人に気づいたときだけ、わずかに恥じらいを見せた。
ベットリとした真っ赤な唇が目にまぶしかった。
「おっさん、あのさ――」
蔵人が、マルコに声をかける。
が、僧侶は壁際に沿ってズルズルと座り込むと余韻に耽り、まるで気づいていなかった。
「な、なんという圧倒的誘惑っ。だが、拙僧は今朝も勝った! 拙僧の聖水で、迷える子羊の糧を満たしてやった――はうっ!? い、いつから?」
「極楽浄土から、ってそれ俺の巾着じゃねえかっ。ゲッ、空だ! 船に乗れねーじゃねえか!」
マルコはなぜかしたり顔をつくると、自分の顔の前で指先を軽く振り自嘲をあらわにした。蔵人のこめかみがピクピク痙攣をはじめる。
「はは、拙僧もまだ青い。満ち足りぬ市井の女に施しを――うぐるぶっ!」
蔵人はとりあえずマルコの顔面を殴打した。
今朝乗り込むはずだった大型客船、レッドファランクス号が見える港の倉庫前で、蔵人とマルコは対峙していた。
「えひんえひんひん。なにも、殴ることじゃないですかぁ。ちょっと魔が差したっていうか……」
「魔が差したくらいで財布の中身カラッケツにされて我慢できるか。ったく、淫売女なんか引きこみやがって」
「ひんひん、スッキリしたかっんです、拙僧だって男なんですからね」
「人の金でスッキリするんじゃねーっ!」
蔵人が怒りをあらわにして吠えると、マルコは身をすくませ目もとに手をやって泣き真似を続ける。四十男の嘘泣きは途方もなくウザかった。
「えひんえひん、ひんひん。許してくれます? 許して」
「許すもなにも……おい、どうしたうつむいて」
「えひんひん、うっ……ゆるしてくだ、……おぼえええっ」
マルコは予備動作なしに壁に手を突くと一気に嘔吐した。あれだけ痛飲すれば無理もなかった。石造りの壁が吐瀉物でベタベタに濡れて蔵人の足元まで汚物が流れた。
「おい! 泣くかはくか、どっちかにしろよ。んもおおっ、きったねえし、クセーし、面倒なおっさんだな」
蔵人はマルコの背中をさすりながら、港の船着場で往生していた。シルバーヴィラゴ行きの船に乗るのは今朝をのがすと、あとは直近で一ヶ月後になってしまう。なんとしても、乗りこむ必要があった。蔵人は気分的にグズグズしたくなかったのだ。
「あの、だいじょうぶですか。お連れの僧侶さま、随分とおつらそうですが」
「いやいや、このおっさんただの二日酔いですから」
若い女の声。蔵人は反射的に振り返ると、目を見開いた。
「あの、なにか」
歳の頃は十七、八だろうか、容姿は整っていた。タレ目がちな瞳は大きく、極めて純朴そうだった。瞳の色は青みがかっていて、なんとなくはかなげな印象が強い。腰まである黒髪は艶がよく、頭上の角はバランスよく整っており、その下にはやや幅広な耳が生えている。特筆すべきは、その両胸だった。とにかく大きかった。赤い毛織のコットの上に袖なしシュルコを羽織っているが、服の上からでもわかるくらいに両胸は突き出ていた。牛の角と耳を持った亜人、ミノタウロスの娘である。
「いや、なんでもないっす」
牛娘はミリアムと名乗った。代々敬虔なロムレス信徒であり、マルコの僧服を見て手助けしようと声をかけたらしい。蔵人は、自分とマルコの名前を伝えると、とりあえず視線を巨乳から無理やり外した。
「わたし、ちょうどお薬の持ちあわせがあります。よければ使っていただけませんか」
鈴を鳴らすような品のある声がさも心配げに響く。善良さが全身からにじみ出ていた。
「じゃあ、申し訳ねぇが、このおっさんちょっと見ててもらっていいかな。俺は水を汲んでくるから」
蔵人は軽くミノタウロスの娘に頭を下げると、井戸を探して走り出した。
あぶねえ、もうちょっとでおっ立ったところを見られるところだったぜ!
目の前に娘の張り出した巨乳が浮かんでは消えた。これというのも、朝一でマルコに予期せぬ濡れ場を見せつけられたせいもあった。蔵人は、脳内でマルコを槍で串刺しにして、火で炙りながらぐるぐる回す行為を想像し怒りを納めた。どうにか親切な家で水を竹筒にくむと急いで元の場所に戻る。
「よし、水持ってきたぜ――って。あ!」
「あ、おかえりなさい」
「し、死ぬぅ、拙僧はもうダメですぅ」
そこには、地べたに座った牛娘に膝枕されながら呻くマルコの姿が見えた。
「ほら、僧侶さま。お連れの方が水を持ってきてくださいましたから。お薬を飲んでくださいませ」
「ああぁあっ、薬は飲むけどっ、いま、動いたら、拙僧苦しすぎてぇええ、死んでしまう」
「きゃん」
マルコはどさくさに紛れて顔を反転すると、正座したままのミリアムの胸元に顔をうずめ、こすりつける。大きなふたつの乳房が押しつぶされ、形を変えた。
ふざけんなよ、このクソ坊主がっ!
「本当におつらいんですね、さあ僧侶さま。わたしのような者の膝上でよければ、たっぷり休んでくださいな」
「おおおう、苦しむ隣人にここまで温情を見せるとは、功徳っ! 功徳ですぞっ!」
マルコは、水を得た魚のように押し付ける顔の動きを強める。どう見ても病人の動きではなかった。
ミリアムは心底、疑いを知らないような純な娘だった。彼女の瞳は慈母のようにやさしさをたたえ、マルコが本気で苦しんでいると信じてはばからない。
蔵人は、思わず反応してしまった自分と、ミリアムのやさしさにつけこむマルコのことを恥じた。猫の子を釣り上げるように、襟首を引っ張って引き剥がす。ミリアムに聞こえないよう、小さく耳打ちした。
「おい、おっさん。恥ずかしくないのか、自分のこと」
「んんん? 拙僧、病がちなもんで、このご婦人に恥じることなどなにもないですよ。そんなことを考えるのはクランド殿の心底が卑しいからじゃないですかねぇ。さ、早く拙僧を極楽浄土にお戻しくだされ」
蔵人は無言のままマルコの襟首をつまみ上げたまま、船着場に向かう。足元が湖面にさらされた時点で、マルコの泣きが入った。
「えぐっ、えぐっ。本気で捨てようとしないでくださいよおぉ。拙僧たちの友情はどこにいったんですかああ」
「そんなもんないがな」
木彫りのコップの水を粉薬といっしょに、しかめっ面であおるマルコを見ながら、ミリアムはくすくすと忍び笑いをもらした。
「どうしたん?」
「いえ、おふたりともとっても仲がおよろしくて。見ていて、あったかい気持ちになれます」
「そんなぁ、ま。クランド殿と拙僧は、ツーカーの仲ですから」
マルコは蔵人の背中をばしばしはたきながら、目尻を下げる。ぐひひ、といかにもいやらしい中年独特の濁った追従笑いが続く。蔵人は、ミリアムからバレないように、マルコの脇腹を力強くつねった。えひん、と猫をひき殺したような悲鳴が上がった。
「なにするんですかぁ」
「なにするんですかぁ、じゃねえだろ! 船賃どうするんだよ、ボケ!」
「それはいわないでくださいよ、せっかく現実逃避してたのに」
「悪いけどこの数ヶ月、現実からはどうやっても逃げきれないことを悟ったんだ」
「あの、おふたりはシルバーヴィラゴ行きの客船にお乗りになるのでしょうか。でしたら、わたしといっしょですね」
ミリアムは花が開いたように莞爾と微笑んだ。
「ええ、すっごい奇遇じゃないですか。実は拙僧シルバーヴィラゴの司教を勤めておりまして、向こうに着いたらいろいろとお役にたてると思いますよ」
マルコが舘ひろしのような渋い声をつくって自らの地位を誇示する。
「まあ、そんなおえらい方だとはつゆ知らず。数々のご無礼を、お許し下さい」
途端に、見た目通り純朴かつ、敬虔なロムレス信徒であるミリアムの瞳に尊敬の色が浮かんだ。蔵人とマルコの視線が交錯する。
中年男は勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、ミリアムが頭を下げた瞬間、左手の親指と人差し指を丸めて円を構成し、右の中指をその中に出し入れする卑猥なサインを見せつけた。
調子に乗りやがって、クソが。
ここでグダグダしていても仕方がないと思い、三人は波止場に停泊している客船レッドファランクス号に向かった。ミリアムはしきりに金の持ちあわせがないことをマルコに詫びている。気の毒になるほど、人の良い性格であった。
「え! 拙僧、お金がなくても船に乗せてくれるんですか」
「ええ、普通の旅人ならいざ知らず、いくらアコギな俺たちでもシルバーヴィラゴの司教さまからは銭を無理やりとれませんよ」
ガレオン船レッドファランクス号の船長アーサーは苦笑しながら、マルコにそう伝えると立派にたくわえた口ひげをしきりに擦ってみせた。
「よかったですね、司教さま。クランドさん!」
ミリアムも飛び跳ねながら両手をぱちぱち叩いて喜んでみせる。彼女の巨乳は、跳ねる都度に、ばいんばいん揺さぶられ、タラップの順番待ちをしていた後方の青年が股間を押さえて腰を後ろに引いた。
「ま、ともあれ。こんなおっさんでも役に立つこともあるんだな」
ミリアムを従え、マルコが颯爽とタラップを進んでいく。その後ろに続こうと蔵人が右足を出すと、船長が腕をとって、悲しげに顔を横に振った。
「え、もしかして、俺はダメってことなの?」
「兄ちゃん、残念だが。司教は特別。おまえさんまで特別扱いできるほど、ウチも余裕はないんだよ」
蔵人の顔色がさっと青ざめる。ふと視線を感じて顔を上げた。
そこには、かなり上まで登っていたマルコが微妙な顔つきで、じっと蔵人を見つめていた。
「司教さま」
「なんですかね、ミリアム」
マルコの顔がミリアムの声を耳にした瞬間、あっという間に相好を崩す。
――ちきしょう、赤ちゃんみたいな目ェしやがって!
「ま、残念だったな。次は一ヶ月後だから」
船長が気の毒そうに肩に手を置く。タラップの中間で、マルコが大声を出した。
「船賃のお金ちゃんと送りますからー。蔵人殿といっしょに行けないのは残念ですが、教会で待ってますよー」
あの野郎、勝ち誇りやがって。
マルコが叫ぶと同時に、ミリアムは思い出したように、持っていた袋からなにか包みを取り出すと、急いでタラップを再び駆け下りだした。マルコの表情が一瞬で凍りつく。
「ちょっと、ちょっと待ってください、クランドさ、ああああっ」
「おっとお!」
急いで駆け降りようとしたのか、ミリアムはタラップの階段で足をもつれさせるとバランスを崩した。蔵人は駆け寄って彼女の身体を抱きとめると、自然豊満な乳房に顔をうずめる形なった。
や、やぁらけえっ!
「ご、ごめんなさい。わたしったら、おっちょこちょいで」
「いや、我々の業界としてはご褒美です」
「え?」
「いや、こっちの話。んで、ミリアムさん、なにか俺に忘れ物でも」
「あー、そうですそうです。これこれ」
蔵人は、油紙に包んだものを両手を握って手渡された。ミリアムは、蔵人の目をじっと覗きこむようにして話しかける。男を勘違いさせる要素を多分に持っていた。
「あの、わたし船賃以外は本当にお金とかほとんどなくて。銅貨ばっかりで全然足りないと思うけどなにかの足しにしてくださいね。あと、残りはパンとかチーズとか、食べるものが入ってます。人さまにお見せするようなものじゃなくて恥ずかしいんだけど、お腹がすいたら食べてくださいな」
「ミリアムさん」
蔵人は素直に感動すると、こころ尽くしの贈り物を両手で抱え込んだ。頭上のマルコ。嫉妬に顔を真っ赤に燃え上がらせていた。蔵人は、小さく勝ったとこころの中でガッツポーズを決めた。ミリアムは、名残惜しそうに振り向き振り向き、再びタラップを登っていく。
「ふ、ふん。まあ、置いてきぼりになる蔵人殿にはいい手向けでしょう。それよりも、ミリアム。このようにいっしょに旅をすることになったのもなにかの縁、今夜はとっくりとロムレスの愛について実地をまじえた講義を」
「あなたっ!」
「ははっ、遅かったじゃないかミリアム」
ミリアムは一気にタラップを駆け上がると飛びつくようにして、若い豚人族の青年に飛びついた。ふたりは、しっかりと抱き合うと人目を気にせず濃厚なキスをかわす。マルコは石像のように硬化したまま、佇立した。
「あ、あのですねミリアム。そちらの方は」
「はい、司教さま。わたしの夫のゴードンです」
「妻がお世話になったようで。僕はゴードンと申します。乗り合わせたのもなにかの縁。
シルバーヴィラゴまでよろしくお願いします」
「は、はい」
マルコはセミの抜け殻のような表情で虚ろに返答した。
そして、蔵人はタラップの下で爆笑していた。
「おっさんっ、ザマぁああっ!! っやっべ、笑いが、とまら、んっ!」
石になったマルコを無視して夫婦は、ひそひそ話をはじめる。やがて、なにかが同意に至ったか、ゴードンは懐の巾着を取り出して船べりから岸に立つ蔵人に向けて放った。
「クランドさーん! 妻がお世話になりましたぁあっ。よければ、そのお金なにかの足しにしてくださーい!」
豚人族の青年は大きく叫びながら手を振る。蔵人は豚人族にあまりいい印象を持っていなかったが、彼のさわやかな行為は胸の中に春風が吹き抜けたような心地よさを味あわせてくれた。見ず知らずの人間にそこまでしてくれる親切な人物はなかなかいないものだ。
「おーい! ありがとなーっ!! それと、そのおっさんは危ないんで、なるべく距離をとるよーにっ!」
蔵人が大声で叫ぶと、ミリアムと青年は仲良く連れ立って船室に向かって移動する。続くマルコは亡霊のような足取りで左右によろめきながら、ゆっくり遠ざかっていった。
空元気で大声を張り上げてみたが、激しい置いてきぼり感は否めない。蔵人は、手元の巾着を上下に揺すりながら、中の小銭を数えると、それでも三千P程度はあった。シルバーヴィラゴ行きの船賃は最下等の大部屋でも三万Pはする。
「しかし、この世界に来てまでバイトなんかしたくないしなぁ」
幸か不幸か、ここは港である。力仕事の口はいくらでもあったが、蔵人は脳内で瞬間的にその選択肢を除外した。先ほどの乗船用のタラップは既に引き上げられ、船尾の方に、港湾労働者たちがせっせと物資の搬入を行っている。蔵人の瞳が、ある一点に集中し、イメージ的に頭上に白熱電球がピカリと輝きを帯びる。
「船、港、樽……すべてのフラグメントが、俺にゴーサインを出している。これは、もういっちゃうしかないだろう」
ロクな考えではなかった。
豚人族の青年ゴードンは、今年十七歳になる湖畔近くの村の炭焼きだった。
妻のミリアムは、ミノタウロスの娘で種族こそ違ったが、同い年の幼なじみだった。
周囲からの反対を押し切って去年結婚し、念願の夫婦旅行にはじめて出かけたのであった。オークでは、暗黙の了解で、娶るならエルフ、合法非合法は問わないという掟があったが、ゴードンは渋る長老たちや両親を説得し、なんとか一人前の夫婦と認められるようになった。
(エルフ以外だと子どもが産まれにくいっていうけど、別に子供を作るためだけに結婚するわけじゃないし、大丈夫だよな)
今回の旅でゴードンは、こころに期することがあった。すなわち、妻ミリアムとの夫婦和合である。初夜ではじめて愛しあったとき、彼女とは上手く交わることができなかった。有り体にいうと、ゴードンのモノが大きすぎて、ミリアムに恐怖心を植えつけてしまったことである。ふたりの仲は、正直かなりいいと思うが、ミリアムは夜になって一緒のベッドに入るとゴードンと愛し合うことを拒む傾向があった。せいぜい、三回に一回しか応じてくれない。若く、人並み外れた性欲の持ち主である彼にとってそれは苦痛以外のなにものでもなかった。
船内の板敷の最下等ともいえる客室でも、ミリアムは楽しげにあちこちを見て、日々の生活では見ることができないいろんな表情を見せてくれる。今回の旅で、上手く気持ちが和めば、今後の夫婦生活も、きっといい方向に流れていくだろう。
(そうだよ、自身を持つんだ、ゴードン。彼女は僕の妻じゃないか)
ほとんどのオークは気性が荒く、初見ではあらゆる人々に忌避されることが多かった。だが、彼女はなんの偏見もなくゴードンと対等に接してくれた。だからこそ、一生に一度しかだせないはずの勇気を振り絞って結婚にまでこぎつけたのだった。
(僕たちは式も上げていない。だから、今回の旅にプレゼントも用意したし)
ゴードンは、妻には内緒で荷物のひとつに彼女のサイズぴったりのウェディングドレスを用意してあった。シルバーヴィラゴには、ロムレス一の大聖堂があり、そこで改めて結婚の儀式を執り行うつもりだった。
(きっと喜ぶぞ、ミリアムは。よし、なんかやる気がでてきたぞ!)
「どうしたの、ゴードン。そんなに楽しそうな顔しちゃって」
完全に船酔いにうめく、マルコの背中をさすりながらミリアムが尋ねた。夢想にふけっていたゴードンは、目を白黒させながら慌てて返答した。
「はは、ほらはじめての船旅だから、さ」
「ふふ、相変わらずのんきね。あ、だいじょうぶですか。司教さま」
「の、のーぷろぶれむ。拙僧、船は大好きですよ。生まれ変わったらアンカーになりたいぐらい」
「それじゃ、沈んでますって」
ゴードンが苦笑をもらすと、船体が大きく横揺れをした。隣の板に座っていた男の肩がもたれかかる。
「すまねえぇな」
「いえ、お気になさらずに。しかし、ものすごい揺れですね」
「湖といってもこの大きさだ。海ほどではなくとも多少は揺れるだろうよ」
旅慣れているのか、男はそういって首を振ると、再び元の位置に戻って向かいあった仲間と話を続けた。
「ゴードン」
ミリアムが怯えた様子で視線をさまよわせている。
「なに、そこのお人がいったように船なんだから多少は揺れもするさ。気にしない、気にしない」
「そ、そうですよ、ミリアム、いや奥さん」
「どうしたんですか、司教さま。急にそんな口調で」
「いえいえ、旦那さんの前ではさすがに、ねぇ。これでも拙僧は空気の読める男でして」
「司教さま。妻のいうとおりかたっ苦しい言葉遣いはなしでいきましょうよ」
「そうですか? まあ、旦那さんがいうならねぇ。それじゃあ、あえてミリアムと呼ばせていただきますよ」
ゴードンはこのとぼけた司教のことも案外気に入っていた。船酔いはかわいそうだが、致し方ない。あとで、この空気の悪い船室から外にでて風にでもあたれば少しでもマシになるだろう、と思い階段の方に視線を移すと、ひとりの人間族の男が泡を食ったように駆け下りてきた。
「よう、どうしたんだい、そんなに慌てて」
「水でもいっぱいお飲みよ、さあ」
娼婦らしき旅の女が、男に汲み置きの水を渡す。男は、あっという間にカップの中をあけると、気管に水が入ったのか激しく咳き込んだ。
「ねえ、どうしたのかしら」
「さあ、なんだろう」
だが、次の男の言葉に、高をくくっていたゴードンの心臓は握りしめられたように縮み上がった。
「湖賊だ! 湖族がこの船を襲撃してきた!!」
死の王の黒い旗に群がる悪魔がやってきたのだった。




