Lv23「旅立ちの朝」
蔵人の目に最初に映ったのはシズカの顔であった。
恐怖に染まっていた表情が、氷が溶けるように穏やかに変わっていった。
「どうして、あんなバカなことを」
天井を見上げると、いつもの小屋の中であった。シズカの様子を見れば、特になにか狼藉をされたという様子もない。自然に安堵のため息が漏れた。
「そうか、シズカは無事だったんだな。よかった」
少女は傷ついたように顔を歪めると両手で顔を覆った。昼間は気温が高いが、夜は極端に冷え込む。蔵人は寝台から身を起こすと、はしに腰掛けたままうつむくシズカの隣に身体を移した。
「なにが無事だ。あやうく死ぬところだったんだぞ」
「それがおまえの目的じゃないんかい」
蔵人の言葉。それはふたりの仲における大前提だった。シズカは一瞬、言葉の意味が理解できないようにキョトンとして、それから取り繕うように怒鳴った。
「それはっ。私の手で果たさないと報酬は受け取れないんだっ」
「そっか。な、シズカ。ひとつ提案があるんだが」
「なんだ」
「俺と、来ないか」
「来ないかって、どこに」
「俺はこの村を出たら、シルバーヴィラゴに向かう。そこには、すんげぇ大迷宮があるんだってよ。暗殺なんてつまんねぇことやめて、俺と冒険しよう。迷宮の奥にはいままで見たことのないお宝やわけのわからん不思議な生き物とかがいっぱいいるはずなんだ。どうだ、ワクワクしねえか。ふたりでテント担いでよ、いっしょに探索して、同じテントで一緒に寝て、飯は鍋やら鉄板持ってって、いろんな料理作るんだ。酒飲みながらくだらない話しして、焚き火見ながら朝までフィーバーだ。お宝手に入れたら、でっけー屋敷も作ろうぜ。どうだ、楽しいことが目の前にいっぱい転がってんだ。拾わなきゃ嘘だろ。人生なんて楽しんだものがちじゃねえのか!!」
「ああ、それは、そうできたら、楽しいな」
シズカは目を嬉しげに細め、それからそっと閉じた。
長いまつ毛が、燭台のかすかな明かりの下で震えた。
「でも、行けないんだよ。私は」
「そ、か」
なんとはなしに無言の時間が流れる。夏虫が、かすかに鳴く声が聞こえてきた。
「なんであんなことしたんだ。おまえは」
「なんでといわれても。そりゃ、あれだろ。俺たちは仮にも夫婦だからな。夫が妻をかばうのはあたりまえだろ」
「ああ、やっぱり」
「やっぱり、なんだよ」
「おまえは、バカなんだな」
「おいっ」
シズカは顔を伏せたままつぶやいた。
洗い髪が垂れて顔を隠す。表情は確認できない。間が持たずに耳たぶを触っていると、ちらりとこちらを見ながらなにかいうのが聞こえた。だが、彼女にしては声量が小さすぎて判別できない。自然、聞き返した。
「え、なに?」
「少し、目をつむってくれ。私が、いいというまで開けるな」
「あーはいはい。わかりました、わかりました」
蔵人が目を閉じたまま寝台にひっくり返ると、しゅるしゅると衣擦れの音が聞こえた。
まさか、いや、しかし。いくらなんでも、そんな都合のいい話が。
「いいぞ。こっちを向け」
逡巡している間に、すべては完了した。
覚悟を決めて、目を見開いた。
黒く、豊かな髪がほのかな光の中で波打っていた。
形のいい小ぶりな乳房はお椀型だ。薄い桜色の乳頭はしっかり固くなっているのが見えた。細く長い脚は抱え込んだらあっさり折れてしまいそうなほど華奢だった。
下の秘部は、淡い茂みで覆われている。
丁寧な処理がされており、彼女の几帳面さが出ていた。
極めつけは、肌の白さだ。
新雪を固めたように輝く肌のキメは同じ人間とは思えないほど美しかった。
一点特徴といえば、右の乳房のやや下側に小さな黒子がちょこんと見えた。
シズカ・ド・シャルパンチエは、生まれてはじめて自分の意思で、異性に裸体を晒したのだった。
「なにか、いったらどうだ」
シズカの顔が羞恥で紅色に染まる。緊張が限界に来ているのだろう、小刻みに肩が揺れていた。
「ああ、そうだな。月並みだが、すごく綺麗だ」
「あ、ありがとう」
シズカは両手を胸の前で組むと座りこんだ。むぎゅ、と押しつぶされるような格好の乳房の間にくっきりとした谷間が生まれる。
「クランド、ひとつだけ先にいっておく。勘違いするな、これは、憐れみだからな」
「憐れみ?」
「ああ、おまえを私が殺すことに変わりはない。それは規定事項だ。だが、この二ヶ月の間におまえはよく尽くしてくれた。それで、なにか褒美にやろうと思ってな。とりあえず、女も知らずにあの世に行くと生まれ変わった時には牝のラバになるといういい伝えもあることだし。それでは、あんまりだと思ってな」
「なんだよ、それ」思わず苦笑がもれた。
「とにかく! つべこべいわずに受け取れ。欲しくないのか、私が」
蔵人の瞳を不安そうに覗き込む。彼女が精一杯の勇気を振り絞っていることが、痛いほど理解できた。
彼女が俺の命を欲しているのは真実だが、いまそれは脇に置いておこう。
そっと、少女の肩に両手を回す。
シズカの瞳のゆらぎが、いっそう激しさを増した。
「欲しいさ。ずっとこうしたいと、思っていたんだ」
「あっ」
蔵人はシズカを抱き寄せると、くちびるをそっと重ね合わせた。
少しでも緊張がほぐれるように、髪を手櫛で梳く。震えがとまった。
「やっぱり、かわいいな、シズカは」
「クランドぉ」
今度は、シズカ自身が両手を回してきた。ふたりはそうすることが自然のように抱きしめあうと、今度は情熱のままに、唇をあわせた。
はじめはおずおずとぎこちなかった舌の動きが次第に情熱を帯びていく。
ふたりは互いの口内に舌をすべりこませると、舐るようにしてお互いを絡み合わせ、唾液を交換した。蔵人は、シズカを抱きしめながら彼女の長く美しい黒髪に指を通した。清らかな河の流れのように、冷たくすっと五指が沈んでいく。甘い匂いと、火のように燃える肌の熱さが脳裏を支配した。
もはや、そこには建前も理性もなく、一個の肉塊だけが存在した。
「クランド、好きっ、好きっ」
「シズカ、いくぞっ」
ふたりは全身全霊をこめてひとつに溶け合い、やがて、それがすべてになった。
蔵人は寝台に仰向けになりながら目を閉じていた。
交合のあとのけだるい独特の感触が残っている。シズカは、蔵人の胸に顔をうずめながら、指先で傷跡をそっと撫でた。
「まだ、痛むの」
「いや、どうってことはない」
「本当にすぐに治るんだな。でもあとが残ってる」
シズカは降り落ちてくる髪をかき上げながら、快癒して残った傷跡にそっと舌を這わした。やんわりとしたくすぐったさが背筋を駆け上がる。右手で黒髪をゆっくりと梳くと、彼女は目を細めてぎゅっとしがみついてきた。そうしていつまで抱き合っていただろうか、シズカの口からいままでの経緯が断片的に流れ出した。
彼女は、王家に連なる貴族であること。
惣領の兄が居て、常に病がちでその治療に多額の金が必要なこと。
そして、自分がいままで暗殺者として暮らしてきたこと。
正直なところ、蔵人の命を欲しているのはかなり高貴な身分であるだろうということ。
「クランド、私は兄を捨てておまえとはいけない。きょうまで、家名を絶やさないためだけに生きてきたのだ。そのために、この手で数え切れないほど人の命を殺めてきたんだ。いまさら、人間らしいしあわせなど望むことが分不相応なのだろうな」
蔵人は無言のまま目を開くと、虚空に視線をさまよわせた。
いうべきことなどない。所詮、現代人とは感覚が違うのだ。家名を尊ぶこの時代の人間の気持ちの葛藤は想像もつかなかった。
重い。果てしなく。
シズカの足が完全に治ってしまえば、もはや手負いであるということもいいわけにできなくなる。そうなれば、いやがおうにもこの少女と命のやりとりをしなければならなくなるのだ。
「せめて、夜が明けるまでは、嘘でもいいいの。夫婦でいさせて」
嘘と承知で。
蔵人はシズカの身体を引き寄せると、強く抱きしめた。
いままでよりずっと強く。
朝の夜露の匂いで、蔵人は目を覚ました。寝台の傍らには、シズカがうつ伏せのまま深く寝入っていた。無理に起こすのは忍びないし、そもそもどんな顔をして別れを告げればいいのかわからなかった。
おそらく、次に会うときは刃を握っての邂逅になるだろう。ひどく、虚しかった。
蔵人は、履物を革製のしっかりした半長靴に履き替えて、腰に長剣を落としこみ、ズタ袋を背負えば準備は完了した。
元々、持ち物などほとんどない。最後に、世話になったアルフレッドに先に出立することをなんといいわけしようか考えながら歩き出すと、寝台から毛布のこすれる音がした。
「ぶわっ」
振り返ると同時に、頭から布切れが投げつけられた。拾いあげるとそこには、手製で縫われたと思われる墨染の外套が目に入った。
「毎日寝転んでばかりで暇だったからな。それに、そいつを身につけていれば私も探しやすい」
寝台に顔を向けると、シズカは枕に顔を伏せたままの格好であった。長い黒髪が乱れている。少女の身体が小さくふるえだすのを見て、視線をそむけた。
蔵人はあえて無言のまま墨染の外套を着込むと、前をぴったりあわせて戸外に飛び出した。
まだ夜は明けきっておらず、周囲の山々が濃い朝霧の中で墨絵のようにぼんやりとしていた。
清涼な空気の中、村の唯一の出口である吊り橋に向かって歩き出す。
朝の早い農民たちもまだ仕事には出ておらず、古ぼけた農村には人の気配を感じられなかった。細い農道を蔵人の孤影だけが動いている。
途中、昨日獅子族のギリーと争った茶屋に差し掛かった。井戸の向こう側に、新しく埋められた土盛りがよっつになっており、子供くらいの石が墓標がわりに建てられていた。そっと、ひざまずいて両手をあわせ、再び歩き出す。よっつの土盛りのうちふたつはならず者、残りふたつは貴族の夫婦だろう。悔いても仕方がないことだ。遠くに行けば自分もきっと忘れることができるだろう。
この先、シズカたちがあいつらと顔をあわせないことを祈りながら足取りを早めた。
吊り橋に向かって一定のリズムに乗って歩く。やがて、橋を見下ろす小高い丘陵に立つと、入口付近で数人の男たちがもめているのが視界に入った。
「そんな、急に通行止めっていわれても。おらたちは、いつもここを通って向こう側の入会地に行ってるだ」
「うるせえ! とにかく、今日からここは通行禁止だ。それとも、なにか。おまえたち呑百姓が俺たちギリー一家に歯向かうってのかよ! いいか、この疾風のエルマーさまに逆らうってのは、ひいては血塗れギリーさまにさからうってことになるんだ! いいのかよ!」
「ギリーって昨日の」
「そうだぁ! ギリーさまにかかっちゃ、剣を習った貴族ですら子供扱いってもんだ!
命がおしけりゃとっとと失せやがれぇ!」
エルマーと名乗った若い小男は、小ぶりのナイフをチラつかせながら、ふたりの農夫を追い払うと、ニタニタ意地の悪い笑みを浮かべた。
農夫たちは泡を食って農具を担ぎながら丘を足早に登ってくると、立ちすくんでいる蔵人に声をかけた。
「旅人さん、あそこにゃタチの悪いならず者が橋を塞いでるだ。悪いことはいわねえ。無理に通らねえほうがいいと思うぞ」
四十年配の農夫は日焼けした真っ黒なしわだらけの顔を歪めながら、悔しそうに吐き捨てた。
「この橋以外に村を出る方法はないのか」
「どうしてもっていうなら、橋から反対側の村はずれに一箇所だけ下に降りれる崖があるだ。そこから河づたいに上流に登っていけば向こう側の山に行ける古い橋が掛かってるが、まる一日かかってしまうべ」
「そんなことしてたら、おらたちゃ仕事になんねぇ」
「んだんだ」
比較的若い農夫は鼻息荒く、名主さまに相談すると息巻いて村に戻っていった。
「さて、困ったな、と」
ギリーという盗賊の手下が村の出入口を塞いでいるというならば、どうせよからぬことを企んでいるに違いない。
蔵人が無理に排除をしなくても、村人が付近の領主に駆け込めば、ケチな盗賊は早々に姿を消すだろう。どういきがっても、数十人の小悪党が完全武装した騎士たちの軍団に勝てるはずもないのだ。
どのくらい思案していたのだろうか、とうに夜は明けきっており、空には水の雫がしたたり落ちるような青い空が広がっていた。
蔵人は、間の抜けた話だが、一旦村に戻ろうと思い切り、ズタ袋を背負いなおすと、元来た道を引き返しはじめた。
しばらく、農道を進んでいくと幾人もの農夫たちとすれちがった。もはや誰もが野良に出かけていて、百姓仕事に勤しんでいる時間帯なのにこの状況は異様だった。
途中、泡を食って駆けてきた若い農夫と真正面からぶつかる。大柄な蔵人に比べて小柄な男は尻餅を突くと、バネじかけみたいに跳ね上がり、目を白黒させながら唾を飛ばしながら話しだした。
「お、おめえさん、ヘレンの小屋に居た乞食夫婦じゃねえか」
「乞食って」
真っ当な百姓に比べれば、無為徒食を続けていた蔵人たちはそう見られても仕方がなかった。苦笑をもらしながら頭をかいていると、小男はじれったそうに蔵人の胸につかみかかり、片手を振り回した。
「おまえンところの物置小屋が火事だ! なにをのんびりしてるだ!」
「なんだって!?」
「それに、見慣れない男たちが刀を振り回しながら暴れてるらしい。アルフレッドとかいう亜人は斬られたぞ!」
蔵人は、小男を突き飛ばすと弾かれたように駆け出した。
こころのどこかでなにかの間違いに違いないと決めつけながら、足取りばかりは宙をかくようにしておぼつかない。アルフレッドの住居が見渡せる村の小高い中央部に到着した時、眼下の向こうに赤々と燃える家屋が目に映った。
村人が小屋の周囲にひしめいている。
アルフレッドの母屋は真っ赤に燃え上がって、すさまじい火の粉を吹いていた。物置小屋は類焼したのだろうか、隣接する一部分がわずかにくすぶっているが燃え広がるのも時間の問題だろう。
蔵人が、農夫たちを突き飛ばして中に飛び込むと、そこには既に朱に染まって倒れているアルフレッドの巨体と、シズカの身体にのしかかっている男の姿が見えた。
「おい、おまえが乞食の旦那の方か。昨日はおまえをたっぷりかわいがってやったんだ。今日は、女房の方をかわいがらなきゃ釣り合いがとれねえやな」
見張りに立っていた三人の男が狡猾そうに目を光らせている。抜き身の剣には、真っ赤な血糊がべったりと張り付いていた。
「シズカを狙うのはわかったが、どうやってアルフレッドまで斬ったんだ。おめえら三下風情が叶う相手でもねえだろう」
蔵人が感情を消したまま尋ねた。
「誰が三下だとぉ! おら、見ろ。このガキを捕まえてやったら、途端におとなしくなっちまったのさ。臆病者が利いた風な口を聞きやがって。いまから、目の前で女房をたっぷり犯してやる! おまえにも、おれたちの溜まり場に来てもらうぜ。いやとはいわせねえからな!」
男はドミニクの首根っこをつかみあげると威勢良く怒鳴った。
少年は、倒れ込んだ父親のそばに駆け寄ろうともがいている。
蔵人の怒りは一瞬で理性のメーターを振り切った。
前を合わせていた外套をはねのけると、銀線が真っ直ぐに飛び出した。
「うぐえあ!?」
長剣は男の喉笛を深々と抉りきると後方まで突き抜けた。
「野郎!」
隣の男が繰り出す刃を、外套を振り回してはねのける。
蔵人はドミニクを咄嗟に抱え込むと部屋の隅に放り投げた。
同時に、しゃがみこみながら長剣を低い位置で振り回す。
刃は男の脛を断ち割ると血飛沫を舞わせた。倒れ込んでくる男の身体を左腕で抱え込むと、逆手に持った剣を背中から胃袋に深々と突き刺した。
「ちきしょおおっ」
残ったひとりが突っ込んでくる。蔵人は男の背中から剣を抜き取ると、目をつぶって飛び込んできた男から半歩身体を開いてかわす。長剣が水平に動いた。刃は男の脇腹を切り裂くと、濡れた雑巾を叩きつけたような音を鳴らした。
「な、なななな」
一瞬で三人の仲間を倒されたことで気圧されたのか、シズカを押し倒していた男が顔を上げた。蔵人は、男の一人が使っていたナイフを拾い上げるとすかさず投擲した。
刃は真っ直ぐに飛来して男の顔面中央部に突き刺さる。絶叫を上げてうしろにひっくり返った。
蔵人はシズカに視線を向け、彼女が気丈にうなずくのを確かめてからアルフレッドに駆け寄った。
「兄ちゃああん。父ちゃんの血が止まらないよう」
ドミニクは小さな手のひらを傷口に押し付け流れ出る血潮を懸命に止めようと努力していた。くふん、と鼻を鳴らしながらそれでも泣かずに耐えている。健気な様子がいっそう胸を打った。
蔵人は、アルフレッドを抱き起こすと割られた胸と腹の傷口を見た。元々病気がちであり抵抗力も弱っている。素人目に見ても、助かるたぐいのものではない。隣に座り込んだシズカを見ると彼女は眉間をしかめて首を左右に振った。
「クランドどのか。いや、これは不覚じゃった。この儂としたことが、こんな小僧どもに遅れをとるとは。いや、歳はとりたくないもんじゃ」
「すまねえ、黙ってたけど昨日、ギリーってやつらともめたんだ。さんざん世話になっていながらこんな風になるなんて。詫びても詫びきれねえよ」
「いや、どうやらこやつら狙いはクランドの奥方だけではなかったようだ」
「父ちゃん」
アルフレッドは、もはや無言のままドミニクの頭を何度か撫でると、低くうめいた。
「クランドどの、剣を」
アルフレッドは差し出された剣をふるえる手で握り締めると、自分の金色のたてがみを切り落とした。
「これを、妻に。儂の、愛した……」
「アルフレッド!」
蔵人は遺髪を両手で受け取ると、アルフレッドの両手を強く握り締めた。
獅子は最後になんとか笑みを形作ると、糸の切れた繰り人形のようにガクンと首をのけぞらせた。絶息したアルフレッドは、すべての苦しみから解放されたかのようにやすらかな顔をしていた。
「確かに遺髪は受け取ったぜ」
「兄ちゃん」
「なんだ、ドミニク」
「おいら、獅子の息子だから。我慢したよ。男は、どんなにつらいことがあっても、けして泣いちゃいけないって。いつも、父ちゃんが……」
ドミニクは、崩壊しそうな涙腺を懸命に墨守して涙をこらえている。シズカは、ドミニクの背後から両手を回して抱きしめると、抑えた声を出した。
「いいんだ。本当に悲しいことがあったら、泣いたっていいんだ」
シズカは慈愛をたたえた瞳でドミニクの顔をのぞき込む。少年は、ふるふると頭を左右に振って否定するが、やがてこらえきれなくなった涙が大粒の雫になって流れ落ちた。
蔵人は、アルフレッドの腰から白鞘の長剣を抜き取ると、ドミニクに両手で抱えさせた。
「ドミニク。今日からおまえを守ってくれる者はどこにもいない。この、剣に誓って母さんを守ってやれ。いいな」
「う、ん」
少年は泣きながら父の形見である剣を抱きしめた。
「そろそろこの小屋もやばい。アルフレッドは俺がかつぐから」
「ちょっと待ってくれ」
シズカは蔵人を制すと、倒れていた男に近づいた。
「立て、まだ聞きたいことがある。どうせおまえは死ぬのだから、残らず吐いたらすっきりするぞ」
シズカがかろうじて息の残っている男を締め上げると、途切れ途切れに男は白状した。
第一の狙いは、元騎士のアルフレッドが持っているロムレス三聖剣のひとつ、“白鷺”という銘の剣であるということ。
この白鷺という名剣は、常にアルフレッドが腰に帯びていたが、それと知られることはなかった。
ある、密告がなければ。
「それをギリーに教えたのは誰?」
「知らぬは亭主ばかりなり、か」
男は捨て台詞をはくと、血泡を吹きながら絶命した。もうこれ以上の情報は収集できない。彼女は、男の首元から手をはなして眉をひそめた。
シズカを連れてくるという行為はあくまでそれに付随する案件のひとつに過ぎなかった。
問題は、アルフレッドの持っている剣が途方もない価値を持っていると知っているのはこの村ではたったひとりだという事実だ。
蔵人は、燃え落ちる小屋から抜け出すと、ドミニクに命じてシズカを連れて身を隠すことを命じた。ヘレンはたまたま昨日から隣り村に出かけていているというのも幸いだった。
こちらとしては、ふたりのことだけを考えてことに当たればいいのだからだ。
「待て、クランド。私も戦うぞ」
「おまえはまだ足が治ってないんだ。杖なしで歩けないやつになにができるんだよ」
シズカはくちびるを噛み締めると悔しそうに睨んだ。
「それは、おまえが死んでしまえば、私は使命を果たせない! 絶対にひとりでは行かせない!」
「うるせー、俺の女房だったらおとなしくいうことを聞いてろよ!!」
蔵人の怒号に目を見開くと、シズカは困ったような表情で顔を伏せた。
「そうか。わかった。ただし、無茶はするな。私たちも逃げに徹する。おまえも、あのギリーとは戦うな。獅子族の強さは人間族の比じゃない。ましてや、クランド程度の腕前では一刀で切り伏せられるだけだ」
「あーはいはい。わかってるって。ほら、さっさと行けって」
シズカたちが雑木林に駆けこんだ直後だった。
物見高い農夫たちの人垣を割って、武装した集団が蔵人の周りをとり囲み始める。
その数、三十人。
荒くれ者の集団から、頭ふたつ飛びぬけた獅子族の男が、巨大な戦斧を担ぎ上げたまま近寄って来るのが見えた。
「よう。また会うんじゃないかって期待してたぜ、今度は楽しませてくれよ」
これで何度目かになる、蔵人の命をかけた大勝負がついにはじまったのだった。




