LV20「傷」
シズカ・ド・シャルパンチエは歴としたロムレス王家の氏族である。
特にシャルパンチエ家の騎士は代々武勇に優れ、初代ロムレス王に仕えて数々の武勲を残した創業四名臣の家格を持つ屈指の大貴族であった。
だが、その無骨な一族の気質か、他家と折り合いをつけるのは不得手であり、武勇一辺倒な一族は次第に功臣の中でも孤立していった。
建国以来、歴史に名を残すその一門も長い年月の後に、要職からはじかれ、家財は傾き、いまや衰亡の直前にあった。
頼りにするべき重臣たちは、次から次へと他家に移り、彼女が十五歳のときには、貴族としての最低限の体裁をとり繕う余裕もなく、下男下女は最小限の人数しか雇えなくなっていた。
父母は貧窮の中で早世し、七つ年上の兄はかろうじて出仕を許されているが、生まれつき身体が弱く寝込むこともしばしだった。
シズカは物心がついたときから既に、自分の嫁入りは諦めていた。使用人すらロクに雇えない経済状態の為、家のことは料理から炊事までひととおりこなした。こんな極貧の家でも忠義を尽くす家臣は少なからずいた。腰の曲がった年かさのメイドは家事百般をシズカに教え、彼女は真綿が水を吸い込むようにそれらを吸収していった。
また、皮肉なことに彼女は武芸においては天賦の才があった。彼女は、家宰の騎士から武芸のすべてを学んだが、決してそれを好んではいなかった。
シズカは、美しい容姿と貴婦人にふさわしい物腰を持っていたが、それはあきらかに必要のないものであった。ろくな家作もなく、あらゆる他家から避けられる彼女を無理に娶るとする貴族もおらず、彼女はこのまま兄の面倒を見ながら老いさらばえていくしかないと自分の人生を半ば諦めていた。
そんな中、兄の病状は急激に悪化した。家名を保つためには、唯一の男子を失うわけにはいかない。そもそも、王家はもはや慢性化した財政難の為、ひとりでも多くの貴族を廃して領地を召し上げたいのである。嫡男の早世は領地召し上げの絶好のチャンスであった。
女子であるシズカが遺領を継ぐという方法もないわけではないが、どう考えても目減りは避けられそうにない。兄の病はますます篤く、高額の薬代はどうにもできるものではなかった。
もはや売るものは、この身ひとつのみ。
シズカは、滅多にしない化粧を施し、蒼白な表情のまま、金満家で知られる存じ寄りの貴族の家を訪ねた。もちろん、自分の肉体を金に変えるためである。好色な貴族は、はじめ舌なめずりをしたが、よくよく考えれば害が多いことに気づいた。シズカを抱けば、繋がりができ、妾として遇さなければならなくなるやもしれない。シャルパンチエ家は半ば朽ち果て、立て直すためには、家財を傾けなければならない。収支が折り合わないと判断し、彼女を追い返そうとしたが彼の中にも一片の情はあった。彼女の腕前は、聞いている。彼にはひとりの政敵がおり、ひとつ上の職に任官するためにはどうしてもその男が邪魔だった。貴族は暗い笑みを浮かべると、花のように着飾ったまま寝台に座るシズカに近づくと、その耳元に囁いた。悪魔の誘惑を。
その日以来、シズカは剣を振るい続けた。
わずかな金貨で、薬湯を買い、兄の命脈をつなぐ。
剣を無軌道に振るうたびに、こころが枯れ果てていくのを感じた。
女としての屈辱か、人としての恥辱か。
数え切れないほど人の命をあやめ続け、自分の顔から表情が消え落ちていくのを知っていても、殺し合いの螺旋から降りることはできない。兄の病はよくならず、自分はまるで砂地に水をまきつづけているのかと思うほどだった。
いつものように、仲介者の男を通して依頼を受ける。
どこの誰だろうと、構わない。金を受けとる。剣を振るって殺す。自分の人生はこれだけだ。そして、これから先も変わらない。
殺しという作業に倦みはじめたその時、彼女はその男に出会った。
シズカの人生は、いま大きく変わろうとしていたのを、彼女は知らなかった。
王都から南下して、ウォーターウォーク、クリアベイ、ポリカニオ、ソードモント、オレンジポイントと六つの街を越えていくと、ドロテアたちが住んでいた双龍山が見える。
双龍山麓のパープルベイから南西には、ロムレス第五街道が真っ直ぐ伸びており、終着点には、ロムレス第三の繁栄を誇るシルバーヴィラゴがある。
別名、冒険者の街。
ロムレス最大といわれる、“深淵の迷宮”に最も近く、人口の流入は凄まじい。また、冒険者やその組合、物流業者や観光客など落とす金も桁違いである。
「あっちいな、オイ」
蔵人は、中天に上った太陽を半目で睨みながら、街道を歩く。
寒さの消えたこの季節はかなり過ごしやすく、野宿も以前ほど苦痛ではなくなっていた。
現金収入を持たない彼が今日までどうして過ごしていたかというと、ほとんど野盗まがいのことをしていた。
シルバーヴィラゴに続くロムレス第五街道は人通りが激しい上に、周辺にはほとんど人家がない。人家がないということは、警察権が及ばないということであり、治安は非常に悪く、旅人はすべて自己防衛をしなければならない。裕福な商人や旅慣れた平民は、数十人単位で隊を組み移動していく。王家の軍が過去に敷設した石造りの街道は古びてはいるとはいえ、抜群に使いやすかった。通行量のある昼間はそれほど危険ではないが、それでもほとんど関係なしに盗賊は跳梁していた。
蔵人の狙いはそれだった。戦いがはじまれば、隙をついて乱入し、ときには傷つきながらも物資を奪い、または奪われたりした。彼は、この世界に来て幾度も剣を振るったが、以外と自分にこの生き方があっていると思うようになっていた。そもそも、彼は普通の大学生であったが、時間通り行動したり、決まりきった動きをとるのは苦手だった。この世界では、少なくとものたれ死にと隣り合わせとはいえ、起きたいときに起き、食いたいときに食い、寝たいときに寝てもなんの不都合もない。そして、まわりも別段それを批判したりしない。この、風潮は素晴らしかった。彼には、この空気があっていたのだった。現代社会では、いい大人が仕事もせずに駅前のベンチで何日も寝ていたら確実に通報される。蔵人は、街道沿いの宿場町で、前述のような自由系民ともいえるすべてから解き放たれた人間をたくさん見たが、住民はすべて許容していた。と、いうか風景の一部だった。
「あぁ、あのおっさん? オレのオヤジが若い頃からいるらしいぜ」
浮浪系自由民のことを街の人間に聞いても、このような返事しか返ってこない。そもそも、自分に影響を及ぼさない他人のことなどは、靴の裏よりどうでもいいらしいのだ。
ときどき、路地裏などで、子どもだったらしい死体が倒れているのを見た。一大事とばかりに、日本人としての尻尾が残っていた蔵人は、周辺の人々に伝えたが、反応がいまひとつだった。
のちに、それに関して地域住民の人は野良犬が死んでいるくらいにしか感じていないことが判明したときは、そのユルさに、脳が揺れた。もっとも、地域に住んでいる子どもが川で溺れ死んだときには、街中が大騒ぎになっていた。顔見知りは、また別らしい。
よく考えてみれば、俺もたくさん人殺してるし。
まあ、生きるためだけど。あれ、これもしかしてやばくね?
深く命の意味について考えようとするが、自己矛盾を引き起こしそうなのでやめた。
結局、自分に必要なやつは生きていて欲しいし、気に入らない奴はぶっ殺す。
これでいいんじゃね?
蔵人は、適当な結論を出すと、自分の進むべき道がシルバーヴィラゴにあると結論づけて、とりあえず生きる指針にした。この世界では、すべて自己責任なのである。
くだらないことを思い返したり、ドロテアのおっぱいを思い出したりしながら、喉の渇きをごまかすのも限界だった。街道の脇の石壁を乗り越えて道を逸れ、林をゆっくりと移動する。水の匂いが近い。
蔵人は、小川に駆け寄ると、躊躇せず顔を突っ込んで飢えた犬のように水を飲み干す。現代世界では自殺行為だった。頭まで川面に浸かりながら目を細める。動物的感が働いたのか、首筋が急にちりちりとひりつき、玉袋が収縮する。
「うおおおっ、なんだぁ!?」
蔵人は、岸から渓流に身を躍らせると殺気の主に目をやる。
そこには、腰まで伸ばした黒髪を川風にそよがすシズカの姿があった。
「もう、追いついちゃったわけね。これで、何度目だよ」
蔵人は剣を構えたまま、無言の少女を前にため息をつく。エルフの里で別れたあと、彼女は何度も襲いかかってきた。確かに殺気ははある。
だが、日が経つにつれ、彼女の剣の冴えはどんどん鈍くなっていくのがすぐにわかった。
気分にムラがあるというのか、熱気のようなものを感じない。
逃げては追いつかれ、追いつかれては逃げる。その繰り返しだ。
「なあ、最近どうしたんだよ。どっか、調子でも悪いんか」
はじめて会った時の殺気は確かに、自分を明確に殺すという覇気があふれていた。だからこそ、涙を呑んで里を出たはずなのに。なんだが納得がいかない。
「こっちも殺されたくはないんだがなぁ」
ため息をつくと同時に、ここ何日か無かったほどの速さでシズカの剣が水平に振られた。
蔵人は、小川に飛び込んでかろうじてかわす。
激しい飛沫が、シズカの黒髪を強く打った。
「おいっ。いきなりやる気出してんじゃねーよ! 別に、頼んでないからな!」
「……」
「だああ、無言で詰め寄るなっ。って、元々無言か」
シズカは身を丸めると、猫科の猛獣に似たしなやかさで突っ込んできた。
左胸から肩を激しく切りつけられ、真っ赤な血が陽光に踊った。
激しい痛みで、目の前がちかちかと火花が散った。
しゃがんでしまいそうな痛みをこらえ、後方へ飛び退くと剣を抜く。シズカの瞳。感情が完全に死んでいた。得物を構えながら、川の中央部へと移動する。
同時に、傷口が縫い合わされるイメージを思い浮かべる。
蔵人の胸元の不死の紋章が青白く発光した。
何度も、使ううちに自分の能力は把握できた。浅い傷ならば、ほとんど瞬時にイメージを操作して治すことができる。
だが、フットブレーキと同じで、短時間で多用するとダレる。
つまりは、効きが格段に悪くなるのだ。
経験上、時間経過と共に傷は回復するのだが、別に痛みが消えるわけではない。臓器の怪我に至っては、口だけ塞いで、中身は後で徐々に治っていく感覚がある。どの程度まで傷が治るか加減が判らない。また、試したいとも思わなかった。
「マジでやるってのかよ、ちくしょう」
蔵人はざぶざぶと水を掻き分け移動する。対岸までは数メートルだが、次第に流れが早いのに気づいた。シズカは、表情を消したまま徐々に距離を詰めてくる。背筋を冷たい汗がつ、と流れ舌に異常な疼痛を覚えた。
向かい合って相手の顔を眺めていると、異様な錯覚に陥っていくのを感じた。
それは、シズカの容姿があまりにも日本人に似ていたからだ。顔だけ見れば、アイドルグループのユニットにでも居そうだが、目つきの鋭さと口元の引きしまった厳しさは、それらと隔絶していた。不意に、シズカの身体が前方に飛び出したかと思うと、水中に消えた。目を凝らすと、もがくように水面に両手を突き出している。
「は、ははは。深みにはまってやーんの」
蔵人は笑いながら、この好機に乗じて逃げようと反転した。ある程度離れてから、様子がおかしいことに気づく。
「もしかして、泳げないのか」
シズカは流されながら水面に時折顔を出し、もがいている。曲刀も既に手放しているのか、苦悶の表情を浮かべながらただ両手を夢中に動かしていた。泣き出しそうな瞳と視線がかち合う。蔵人は、胸にこみ上げてくるもやもやを無理やり飲み下そうとしたが、うまくいかず、大きく舌打ちをした。
「くっそ。回収したら、両手両足へし折って穴人形にしてやる」
シズカは流れの途中でなんとか岩につかまると、大きくあえいだ。それから近づいてくる蔵人を見て、眉をしかめた。
「待ってろ、絶対に手を離すなよ」
蔵人は剣を放り投げると、水を切って泳ぎだした。ふたりの距離があっというまに近づいていく。シズカは、胸元から短剣を取り出すと片手を岩から離して身構える。
「バッカ! なにやってんだ、泳げねーくせによっ!」
シズカが短剣を投擲した瞬間、視界から完全に消えた。流れに飲み込まれたのだった。蔵人は、大きく息を吸い込むと、水中に潜る。滝口がぐんぐん迫って来る。
ふたりは、濁流に身を躍らせながら滝壺に飲まれていった。
幼い頃の夢を見ていたような気がする。
シズカは、薄皮を剥ぐように意識が覚醒すると、あたたかい手の感触に目を細めた。
大きくごつごつしたそれに指を絡ませる。なにかにつつまれているようで、途方もなくこころが安らいだ。自然に、瞳に熱いものが流れた。大きな手が、額を撫でさすっている。
鼻を鳴らして、頬ずりをする。小さな子どもに戻ったような気がしたが、案外と悪くなかった。浅い覚醒を何度か繰り返しながら、全身にかかった膜が剥がれていく。すぅと目を開くと、そこには見慣れていたあの男の顔があった。
「おまえは」
「起き抜けにそりゃねえだろ」
シズカは身を起こそうとして、両足に激痛を覚えた。脊髄反射で腰に手をやるが、そこには使い慣れた曲刀はなかった。両手を足に伸ばすと、あてられた添え木が巻きつけられている。
「残念ながら、両方まとめてイっちまったみてぇだな」
無腰であることの焦りと、戸惑いで思考が数秒停止した。
「にしても結構かわいらしい声してんだ。つーか、はじめておまえの声聞いたよ」
浅く黒く面長。眉は木炭のように太くどこかアンバランスだった。
無精ひげが顔全体を覆っている。瞳は、好奇心の強い獣のように強く輝いていた。
クランド・シモン。
シズカが王家に命じられた暗殺の標的だった。
王女に召喚された勇者だという補足事項以外は、情報はない。そもそも、シズカにとって標的は顔すら知っていればなんの不都合もなかった。
もう、一度起き上がろうと試みるが、両足首とも感覚がない。低く呻くシズカを蔵人が気遣い心配そうな視線を向けた。周りを見渡す。彼女のまるで知らない場所だった。
「ん? ここか。いや、俺とおまえがブッ倒れてるのをアルフレッドっていうおっさんが助けてくれてよ。親切にも休む場所まで貸してくれたってわけよ。ここは、元々馬小屋だったらしくて、ちっとクセーが勘弁してくれよ。あと、イロイロ突っ込まれんのが面倒なんで俺ら夫婦ってことにしてあるんで、ヨロシクメカドック!」
いわれて周りを見ると、ひどく薄暗いが使い古した板塀が目に入った。それでも怪我人に配慮したのか、寝床には真新しい藁が敷き詰めてあり、寝転んでいるだけなら十分すぎるものだった。
「それで、どうして私を生かしておいた」
「おいおいおい。生かしておいたって、そもそも殺すつもりなら助けやしねーって」
怪しい。シズカは、にやにや笑う男を前に困惑していた。
「おまえ、頭がおかしいんじゃないか。私はずっとおまえの命を狙っていたんだぞ。いまだってそれは変わりない」
「まあな。俺も自分の甘さには反吐出そうになってるんで、そこは責めんといてや。それに、なんの見返りもなしに助けたりしやしねーって」
蔵人の目つきが自分の胸の膨らみを凝視しているのに気づき、苦笑が漏れた。とうに女を捨てたつもりなのに。シズカは、かつて自分から貴族に身売りしようとしたことを思い出し、少しだけ懐かしくなった。
「……身体か」
じろりと睨みつける。蔵人は、鳩が豆鉄砲で機銃掃射されたような顔になると硬直した。
両者とも無言。猿のように下唇を剥いて、蔵人がいった。
「おまえって、案外自意識過剰なのな」
シズカは、真っ赤に顔が熱くなるのを感じ、反射的に顔をそむけた。
「おっ、赤くなった。真っ赤や。シズカ、かわいいよ、シズカ」
蔵人が手を打ってはやし立てる。シズカは恥辱のあまり顔を伏せた。
「おのれ、人をいつまで嬲るつもりだ」
シズカはぎりぎりと歯を噛み締めると、両手を頭の後ろで組んでひっくり返った。
「なになに? 反抗期」
「好きにしろ」
「マジで?」
蔵人が、ゆっくりと覆いかぶさってくる。
目をつぶった振りをして、髪の中に仕込んだ針を握り込む。近づいた時に、これで盆の窪を一刺しすればどんな男もひとたまりもない。この手で幾度となく標的を葬ってきた。女を抱こうとするときは、どんな男でも無防備になる。いままでの経験上なんの問題もない。シズカは自分の容姿が相手の嗜虐心を誘うことを熟知していた。
「と、いわれても、ね」
「……っ!」
振り上げた右手首をつかまれ、あまりの膂力に針をとり落とした。
見抜かれたか。
自然にふてくされた顔つきになっていたのか、機嫌をうかがうような口調で声がかけられた。
「なあ、とりあえず一時休戦にしないか? いろいろおまえに聞きたいこともあるしな」
「私がベラベラしゃべると思ったか」
「いや、さっきからかなり会話していると思うが」
「……」
「拗ねるなよ。スゲーめんどうな女だな。しょうがねえ、譲歩してやるよ。よし、ひとつ交換条件といこう。俺はある程度おまえの体力が回復するまで面倒を見る。その代わり、おまえは俺を狙わせた相手の黒幕についての情報を出せる範囲でかまわないから教えろ」
のんびりした口調で話す男の顔を見ながら、腹の中で嘲笑った。どうやら、この男のお人好しさは極めつけらしい。そもそも、依頼主の素性など自分は知らないのだ。両足を折ってしまったいま、この男を追うことは出来ないが、わざわざそばにとどまってくれるならば、願ったり叶ったりというべきか。この男もそばで過ごすうちに、隙をみせるだろう。
ありもしない情報と使い勝手のいい下男を手に入れたのだ。
「いや、禽畜か」
自分の世話をしてくれる上に、さらに命まで差し出してくれる。これほどの献身は愛し合った男女の仲でもありえないだろう。
「わかった、その交換条件呑もう」
「ホントだな? ホントにもう、襲ったりしないか」
「ああ、我が家名と誇りに誓って」
シズカが真面目くさった口調で誓うと、蔵人が微笑んだ。
なんの疑いも抱かない、実に晴れ晴れとした笑顔だった。
少し、胸が痛んだ。
自分は、どんなことがあっても目の前の男を斬って後金を貰い、家で臥せっている兄の為に薬を持ち帰らなければならない。
誓いに意味などない。
暗殺者には誇りなどないのに。
「もう目を覚まされましたかな」
シズカと蔵人の話が途切れるのを待っていたかのように、小屋の戸口をくぐるようにして、大柄な体躯が姿を見せた。
獅子の頭に金色のたてがみが美しい、獅子族の亜人、アルフレッドだった。背丈は二メートルに近く、鍛え上げられた胸板は目を見張るほどに分厚い。
どことなく元気のない様子は、病がちであるせいかもしれないが、それを補って余りある存在感があった。
「わざわざ、こんなむさ苦しいところまで申しわけない」
如才なく蔵人が頭を下げる。普段の様子から、もっと尊大に振舞うと思っていたが、その腰の屈め方は中々堂に入っていた。
「むさ苦しいとは、はは。いってくれる。ここは儂の家の小屋ですぞ。まったく、クランド殿はおかしな人だ」
アルフレッドはしわがれた声で笑い飛ばすと鷹揚に胸をそらした。腰には長剣を下げており、鞘は白銀で凝った装飾が施されていた。物腰は洗練されており、威風の中に優雅さを兼ね備えている。着ている服は、かなり年季が入っていたが高価な生地を使用していた。
夫婦であると伝えてある以上、余計な口を利いて怪しまれるのも億劫だった。
シズカはアルフレッドに対し目礼をすると、従順な妻を振舞うために起き上がろうとしたが、たちまちに制止された。
アルフレッドという男はかなりのフェミニストらしい。蔵人の背中に隠れるようにしてやりとりに耳を澄ませていると、獅子の陰からじっとこちらを見つめている子どもと視線があった。
亜人特有の耳と、獅子族の特徴であるたてがみから、混血であると窺い知れた。
年の頃は十かそこらだろうか。くりくりとよく動く大きな瞳がせわしなく自分たちを観察している。新しいおもちゃを見つけた好奇心ではちきれんばかりだ。
少年はアルフレッドの一粒種でドミニクという名だった。
「なぁなぁ、姉ちゃん。足折ったんか。痛いんか」
少年は、茶色い瞳を無邪気に輝かせ、板で固定された足先を棒っきれでつついている。子どもゆえに手加減なしのせいか、遠慮呵責なしに傷へと響く。微笑を浮かべながら、なんとか平静を取り繕った。
(この、クソガキ)
シズカは頭の中でドミニクを撫で斬りにした。
「こら、ドミニク。クランド殿の奥方に失礼であろう」
口ではたしなめながらも、アルフレッドの顔はだらしなくゆるんでいる。マタタビを嗅いだ大きな猫のようだ。よほど息子がかわいいのか、鼻にかかった声を出しつつ喉を鳴らす。はっきりって不気味だ。
「いえ、アルフレッドさま。私は構いませんよ。男の子などすべからく元気なものです。これから先行きがさぞ楽しみでしょう」
シズカが外面を取り繕った温和な声を出すと、蔵人が驚愕の表情で凝固しているのが視界の隅に入った。当然、無視だ。
「そうかのお。いやぁ、親バカといわれようが、ドミニクは儂に似ず物覚えがよくての。よく、神童といわれるものほど大成せんというが、我が子もその口かと思うと心配で心配でたまらんて。まだ、数えで六つだが身体も儂に似て大柄になりそうで、すぐ服がちびてしもうて困るわ」
シズカは口元に手を当て、ほほほ、と追従笑いを決めこむ。
「とはいえ、静養場所がこんな小屋のみとは心苦しいが、よければ治るまで何ヶ月でもゆっくりしていってくだされ。いまは、都落ちをしたとはいえ、公爵家に仕えていたこのアルフレッド、若い頃は十人からの食客を常時置いていたくらいじゃ。潰えのことなど気になさらずにの」
「じゃあね、兄ちゃん。姉ちゃん。あとで、おらと遊んでや」
ドミニクが、手を引かれながら名残惜しそうに去っていく。
小屋にはふたりが残され、静寂が戻った。
シズカが無言で脇腹を肘でつつく。蔵人は、夢から覚めたような面持ちで瞬きすると、水をかぶった犬のように頭を激しく振るった。
「なんだ、あの貴婦人ぽい口調は。どこぞの、お貴族様の生霊でも憑依したのか」
歴とした貴族である。だが、この男にそんなことを伝えるつもりも意味もなかったので、無言の行を通した。
「まーた、だんまりか。んでよ、あのアルフレッドっておっちゃんがしばらくは俺らの面倒見てくれるわけよ。とりあえず、上げ膳据え膳は期待できるんで、しばらくはのんびりすれば。そりゃ、帝国ホテルのスイートとはいかないけどよ、案外悪かないだろ」
おまえさえいなければな。
シズカは、心の中でつぶやくと顔を背けて、寝藁に倒れ込んだ。続けて、背中にぴっとりと張り付いてくる感触があった。うなじを嗅ぎ回る荒々しい男の鼻息が大きく響いた。
得物はすべて隠されている。シズカは武術には自信があったが、組み打ちになってはおそらく単純な腕力で負けるだろう。下手に怒らせて絞め殺されてもつまらない。ため息を突きながら、顔を反転させると目の前にバカ面が目を血走らせていた。
「興味ないのではなかったか」
「そんなわけないだろ。ジュッテェーム、トレビアーン」
「ちょっと、こら。待て、タコのように口を突き出すのはやめろ!」
発情して伸し掛ってくる男の顔はわかりやすいほど発情していた。
シズカは、くちびるを突き出す蔵人の喉仏に手刀を叩き込むと、仰向けのまま、乱れた胸元を直した。暗殺稼業を続ける上で、男達に何度か迫られた経験がないわけではないが、大抵の貴族は対面を重んじ、ここまでストレートに求めてくることはまずなかった。シズカは、強く脈打つ胸元をぎゅっと握ると動揺していることを悟られぬよう平静を繕った。ふと、蔵人が無言なのに気づき顔を上げる。怖いぐらい真剣な表情で、一瞬ぎくりとした。
「なんで?」
いや、なんでじゃないだろう。
むしろ、今のタイミングで女が受け入れると思う方が異常だろう。
シズカが視線をしたに向けると、蔵人の股間が不自然に盛り上がっているのが目に入った。咄嗟にうつむいて顔を前髪で隠す。自然にわなわなと口元がゆがんだ。
本当に、男っていう生き物は――。
しばらく考え込み、やがてひとつの結論に達した。知らず、ためいきが漏れる。
「おいおい、ためいきばっかりつくとしあわせが逃げちゃうんだぜい」
おまえのせいだ。
「下手に、襲いかかられて孕まされてもたまらないからな。その、鎮めてやるから。出せ」
「え、出せって。もしかして……」
「口でしてやる。それで、我慢しろ」
シズカはなんで自分からそんなことをいいだしたのか、のちのちまでわからなかった。




