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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第1章「遥かなる旅路」
15/302

Lv15「隠れ里にようこそ」


 蔵人は瀕死の状態に陥っていた。

 峠を下って沢に降り、水を飲もうとしたところまでは覚えている。

 最後に食料を口にしてから、何日が過ぎたのだろうか。意識は朦朧として判然としない。

 マリカと別れて森を出て街道に出た。四度目の刺客の襲撃で地図を落としたのが、運の尽きはじめだったのだろう。闇雲に逃れて、気づけば現在地が把握できなくなっていた。

 十日近くも山中を彷徨し、人里にたどり着くことはもはや不可能に思えてきた。

 緊張感を保って斬り合いを続けていた時はいざ知らず、一旦気が抜けてしまうと途端に腹中が謀反を起こした。すなわち、下痢腹状態である。水分も、何度か沢の生水を飲んだだけである。ろくに胃の中には固形物など残っていないが、しゃがみたくなるのはどうにも我慢できなかった。踏ん張れば踏ん張るほど腹の痛みが増し、幾度か谷に落ちかけ命を失いそうになった。

 下痢で死ぬなんて情けなすぎだろう。蔵人は、苔むした岩の間で倒れたまま、指一本動かすことができず顔を伏せていた。本当のところをいえば、もう少しだけ歩こうと思えば立ち上がれないこともないのだが、すべてが億劫だった。

 深い木々の、濃い緑の匂いがあたりに充満している。幾重にも広がった枝の間から、空の青白い光が、川面のところどころに差しこみ、水面を魚が跳ねる音がした。

 そうだ、さかな。さかなを取って食おう。腹いっぱい。

 身体が綿のように疲れて、意識も徐々に薄れていく。視界に白い靄がかかったように、ぼんやりと風景が水を落とし込んだ水墨画のように淡く崩れていく。

 ふと、影が自分の頭上を覆うのを感じた。

 荒々しい、いくつもの足音がする。

「おい、こいつか」

「死んでるんじゃねえか」

「いや、違う。これは人間だ」

「本当にあってるのかよ、ここで」

 いい争いをしていた数人の男たちの声が遠ざかると、今度こそ人気が完全に消え去った。

 虫たちのさざめく声がしきりに耳につく。

 やがてゆっくり日が落ちていったのか、冷たい空気が周囲を包んでいった。

 どれだけの時間が経ったのだろうか。

 再び、倒れ込んだ蔵人を覗き込むふたつの影が、月明かりの中に浮かんだ。

 その気配に、消え去りそうな意識の糸をかろうじてつなぐ。

 蔵人は、耳元に入るささやき声をぼんやり聞きながら、深いまどろみに再び落ち込んでいった。






 耳元をこちょこちょくすぐられる感触。

 蔵人は顔を歪めながら目蓋を持ち上げると、煤けた木組みの天井が目に入った。

「おきたかなー」

「おきるよー、きっと」

「みみ、みじかいねー」

「ねー」

「だって人間族だもの、あたしたちとはちがうよ」

「ねぇね、ねぇね。めりもさわゆ。これ、さわゆのぉ」

「メリーはむこうにいってようね」

 耳元で甲高い子供のひそひそ声が聞こえる。

 なんだ、これは。

 蔵人は勢いよく毛布を剥ぎ取って身を起こす。枕元には部屋を埋めつくすほどの、たくさんの子供の目が好奇心一杯に自分を見つめていた。

 蔵人と子供たちの視線が交錯する。

 妙な空気が流れる。ドアを開けた少女の声がそれを一方的に破った。

「こらー、あなたたち勝手に入っちゃだめでしょーっ」

 一二、三歳くらいだろうか、細身ではかなげな雰囲気の少女だった。肩まである金髪はくせっ毛なのだろうか、軽いウェーブがかかっている。両手に持ったお盆には、ほこほこと湯気を立てるスープの入った椀と木製のマグカップが載っていた。

「ここは、どこだ」

 蔵人が少女に声をかける。

 はじめて男が起きていることに気づいたのか、青い瞳に怯えの色が滲んだ。

 少女は泣きそうに顔を歪めると、部屋には入らず勢いよく扉を閉めた。

 駆け出す足音がパタパタっと軽やかに鳴った。

 次いで、ものをひっくりかえした騒がしい音が部屋の中まで聞こえた。

「なーにをやっているのだ、おまえは」

「ごごごご、ごめんなさーい」

 少女の声とは違う、もうひとりの女性の声が響く。

 部屋の中に子供たちのくすくす笑いが漏れ出した。

「あーあ、リネットがまたやったー」

「やったー」

「どじだねー、ねー」

 蔵人があっけに取られていると、ベッドの上にまでいつの間にかのぼっていた幼児のひとりが、袖をくいくいとひっぱっている。大きな鳶色の瞳をきらきら輝かせた、やたらに容姿の整った子どもだ。

「ねーあそぼ」

 物怖じしない態度だ。

 うむ、もうわかっていることだが再確認する。

 彼女たちの耳は特徴的で、よく見覚えのあるものだった。

 つまりは、エルフ族である。

「む、もう起きたかの、人間族の男よ」

 蔵人が抱きついてくる子供たちをひきはがそうと苦心していると、今度は扉の向こうからさきほどの少女とは違う、蔵人と同年代程度、二十前後くらいの女性が入ってきた。

 輝くような金色の髪に、白人特有の色の白さ。

 髪は後ろでくるくるとシニヨンにまとめてある。白っぽい上着に、超ミニのスカート。焦げ茶の編上げ靴を履いている。深い青の瞳が印象的だった。

 それよりもなによりも、蔵人を驚愕させたのは、上着を前に突き立たせている、途方もなく大きな胸だった。

 おいおい、冗談だろ。ほとんど、メロンじゃねえか。

 蔵人は釘づけになった視線を外すと、咳払いをした。女は、男の視線に慣れているのか、意図を察したままニヤニヤと笑みまで浮かべていた。

「えー、なんか助けてもらったみたいで、いきなりモノを尋ねるのも申しわけないんだが」

「んじゃ、尋ねるな。愚か者が」

 にべもない返事に言葉がつまる。

「冗談じゃ、いきなり泣きを入れるな、鬱陶しい」

「アンタって、エルフだよな」

「あんたではない。わらわには、ドロテアという立派な名前があるのでの。隠れ里へようこそ、お客人。もっとも、招かれざる客じゃがな」

 ドロテアは両腕を前で組み、形の良い胸をつんと突き出して、さも自慢げに長い耳をぴこぴこ動かした。

 蔵人は自分の名前を名乗ると助けてもらった礼を述べ、ここがドロテアたちの住む村だということを聞いた。

 子供たちの数名は、最初こそおずおずとおっかなびっくりで緊張を隠さなかったが、時間の経過と共にそれらは解けた。いまや蔵人を遊びの対象とみなしたのか遠慮呵責もなく、飛びついたりひっぱったりしておもちゃにしている。

 ドロテアは、文机にある椅子に座るとその様子を楽しそうににこにこと眺めている。

 蔵人は、真面目に話を聞くふりをして、ドロテアの形の良い胸をじっくり視姦した。

「つまり、ここはいろんな村で行き場のなくなったハーフエルフの子供たちだけが集められてるってわけか」

「飲み込みが早くてけっこうじゃ。わらわは、その行き場のない子供たちを引き取ってこの村で暮らしておる。ただの変わり者じゃ」

「変わり者ねえ」

 蔵人は横合いから、頬をひっぱられながらもなるべく相手にしない方向で行くと決め幼児たちを無視している。

 ドロテアは、口元を手で覆いながら、上品にくふふと笑うと、走り回っていたひとりの子エルフを抱き上げ膝に乗せた。

「いや、滑稽な顔じゃな、と」

「あのな」

「いや、おまえは思ったよりいいブ男じゃ。なに、むくれるでない。つぶれたまんじゅうみたいでかわいいぞ。キモかわゆい」

「それフォローしてないよね、ぜんぜん人の気持ちおもんばかってないよね。むしろ、めっためたに小馬鹿にしてるよね」

「そんなこというな、わらわはキモかわゆいクランドは嫌いではない」

「マジかよ、モテ期到来。ドロテア、俺に惚れても無駄だぜ」

「クランド、お主はおもしろいやつじゃのう」

「サラッと流すなよな、傷つくだろう」

「ねーねークランド、クランド! あれやって、あれやって」

「うるせーガキだな、おらーっ」

 蔵人は、子どものひとりの脇に手を入れると持ち上げて、高い高いをする。

「オラー、東京タワーが見えるかっ」

 幼稚なあやし方だが、子供たちはかなり気に入ったのか、かわるがわる蔵人に高い高いをせがむ。

「しかし、この短時間での馴染みよう。脳みそが乳幼児並だからかのう」

「ビッグなお世話だ、この野郎」

 ドロテアはふうと息を吐き出すと、椅子から立ち上がり、んーと両手を上に突き出して伸びをした。

「いや。失敬、子らに好かれるのは、おまえが悪人ではないからじゃろう。気を悪くしたら勘弁せよ。の」

「お、おう」

 鼻と鼻とが触れ合うくらいに顔を近づけてきたドロテアに、蔵人はどぎまぎしながら応える。甘い女の匂いが漂い、意図せずして股間が硬化する。

「なんだ、照れておるのか、かわゆいの」

「うっせ」

 ドロテアは蔵人の張ったテントを見ると、鼻先で笑った。

「それって、立派なセクハラですよねぇ!?」

「いちいちうるさい男じゃのう。わらわの笑顔が気に食わんのかの」

「俺のマグナムを馬鹿にしすぎだからァ!」

「それにしても、せっかく助けたのが無駄にならずにすんだわ。悪党ならば、始末せねばならぬしのう。ん」

 蔵人は、ほんの瞬間的なことであったが、彼女の瞳に鋭い殺気が宿るのを敏感に感じ取った。膨らんだ股間も自然に頭を垂れる。喉がひりつくように乾いた。

「だから、そういうのやめようよ。なんで、この国の人たちは修羅の世界に生きてるん? ラブアンドピースでゆこうぜ」

「ラブねえ。クランド、お主はとことんおめでたいのう」

「ドロテアの変な穴に俺の変な棒出し入れしようぜ! もっと、仲良くなれるかも」

「わらわはこれでも純情可憐な乙女ぞ。あんまり無体な言葉で嬲られると、悲しくて、クランドの変な棒、うっかりもいじゃうかも」

 蔵人は速攻で謝罪した。

「おう、そういえば起きてから喉も潤してはおらなんだ、クランドも苦しかろう。腹も減っていようが」

「あー、べつに気を使わなくても。……やっぱ、お願いします」

 しゃべっている途中で、ぐうと腹の虫がかろやかに鳴り、強がりをやめた。

 ドロテアはいたずらそうに眉をぴくぴくさせると、ドアを開けて手招きをする。

 しばらくすると、先ほど逃げ出した少女が身を縮ませながら、おずおずと姿を見せた。

「リネット。こいつは人間の男じゃがおまえを獲って食わんて。ほら、こいつはクランド。少し話してみたが、人畜有害ではない、はず。おまえもあいさつくらいせい」

 リネットは気弱そうな子犬のように、蔵人の様子を窺いながらそっと盆の上のものを差し出した。

「こんどは、ひっくりかえさなかったー」

「ねー」

 子供たちがからかうように声を合わせると、リネットはもうっ、と手を挙げてぶつまねをする。小さな妖精たちはきゃっきゃっとはしゃぐと廊下に駆け出していった。

「あの子たち、本当にいたずら好きで困ります」

「あー、うん。子どもは元気な方がよろしい。メシ用意してくれたんだ、ありがとな」

 蔵人が礼をいうと、リネットは目を見開いて口元を隠し、ドロテアの顔を見つめる。

 ドロテアは、慈母の表情で目元を和らげるとかすかに首を縦に振った。

 リネットが用意し直してくれた野菜スープには、細かく切ったじゃがいもや人参、たまねぎがよく煮込まれ、コンソメの匂いが食欲をかきたてる。

 そういや、こっちの食材って地球と同じなのかな、ま、どうでもいいか。

 蔵人は、自分の理解の範疇にことが及ぶと、そんなこともあるだろうか、と思い自分を許すのが常だった。よくいえば、ポジティブ、悪くいえば思考停止なのだが。

「いただきまーす、あちちちっ」

 飢えた野獣のように椀にかぶりつくと、予想外の熱さに汁が溢れる。蔵人の右腕あたりがスープの汁で汚れる。

「あ、だいじょうぶっ?」

 リネットは、あたりまえのように蔵人の上着の付着部分をめくると、持っていたタオルで懸命に拭き始める。家族にすら甲斐甲斐しく世話を焼かれたことのない蔵人の胸に、熱い気持ちがこみ上げてきた。

 ええ子や、ホンマに。

「はーい、これでおしまいです。って、ええええっ!?」

 リネットは初対面の人間に自分がなにをしたのか気づくと、顔を真っ赤にして立ち上がり、失礼しますといってバタバタ駆け出していった。

「まっかだー」

「へんなの、リネットおかしいね」

 おいおい、今時清純すぎだろうよ。蔵人は、再び食事に戻ると、熱いスープをゆっくりすすり、ほとんど時間をおかずにすべて胃の中に収めた。

「うまかった、ごちそーさん」

「礼ならばリネットにいってやってくれ。さて、クランド。おぬしも今日は休め。明日から、やってもらいたいことはいっぱいあるからな。わらわたちが拾った命じゃから、生殺与奪の権はこちらにあるぞよ」

 ドロテアは、舌なめずりしながらウインクすると、まだ遊びたがる子供たちを部屋の外に追い出す。

「やだー、もっとクランドで遊ぶのー」

「カチアもロッテもユリーシャもまた明日じゃ。道具は譲り合って使わんとの」

「おいおい、俺はアイテム扱いかよ」

「それとな、クランド」

「なんだよ」

「女の胸はもそっと気づかれぬように見るものじゃ。あまりじろじろ見つめられると、わらわもさすがに恥ずかしいわ」

 蔵人は無言のまま下唇を突き出す。抗弁できなかった。

「見てませーん、自意識過剰でーす」

「そうか。じゃあ、次に妙な視線を向けたら、おまえの大切な部分に紐をつけて子供たちに全力でひっぱらせよう」

「うそです、見てました。あまりにドロテアお嬢さまの胸が魅力的すぎて」

「正直でよろしい」

 ドロテアは満足したのか、口元をつりあげながら笑みを押し殺し扉を閉めた。

 台風のようなエルフの一団が去ると、蔵人はベッドにひっくり返ってもみあげをいじる。

 もう、何日も風呂に入っていない。

 山野に伏していたときは気にならなかったが、全身が痒い。

 蔵人は、指を折りながら最後に入浴した日を正確に割り出そうとしたが、あまりの無意味さにやめた。

 さて、これからどうしようか。

 先の展望を深く考えようとしたが、腹の皮が突っ張ったせいで目尻が垂れ下がってくる。

 毛布を頭までかぶると目を閉じた。くんくんと鼻を鳴らすと、ミルクのような甘ったるい匂いが鼻腔に広がり妙な気分になった。

 突如として陰嚢の裏側に掻痒感を感じ、指を突っ込んで掻く。

 陰毛がぶちぶちと指にまとわりついたので、ベッドの外に腕を出し、息を吹きかけて飛ばした。繰り返していくうちに、陰茎が自然に硬化する。

 一発抜きてぇ。

 ドロテアのつんと張り出した巨乳と白いふともも、それにリネットの恥ずかしげな顔が頭の隅をちらつく。

 しかし、それってどうなんだ。行き倒れたところを助けられて、しかも親切に介抱さた上に、その恩人でヌくってのは。さすがに人非人すぎやしないか。

 蔵人は、深い闇の中で自問自答しながらまどろみ、明け方久しぶりに夢精した。

 朝が来て、どろどろになった下穿きと毛布がドロテアに見つかり、彼は今までの人生を見つめ直す旅に出たくなった。






 朝食を済ませたあと、蔵人はドロテアと連れ立って山の中へと狩りに出かけていた。

 竹かごを抱えてリネットがその後を少し離れて続く。

 一同は、村を出てから一様に無言だった。

 もちろん、原因は蔵人のせいだった。

「あのさ、なんかいってくれよ」

「ん、んん。そうじゃの、うむ。傷の具合はどうだクランド」

「ああ、だ、大丈夫だ」

「そうか、うん。そか、それはよかった」

 気まずい雰囲気が三人に立ちこめる。昨日はあれほど快活だったドロテアも、なんとなく恥ずかしがって蔵人から距離をとっているのがまるわかりだった。

「おい、悪かったっていってるだろーが。あれは自然現象、自然現象だから! べつにやましいことなんか全然ないからね! 若い男なんて、みんなあんなものだからね!」

「すまぬ。わらわもあまりなれておらぬでの。そうか、男はみんなそうなのか」

 ……しかし、あんなにこってり。

 とエルフ特有の長耳を先まで真っ赤に染めながら小声でつぶやくドロテアの後ろ姿を視線に置きながら、蔵人は無性に谷へと身を投げ出したくなる衝動がこみ上げてくるのをとめられなかった。

 しばらくなだらかな尾根を移動していると、ドロテアが急に身を低くして、し、と口元に指を当て一行を制した。

 リネットは慣れているのか、小動物のように身をすくませると、そっと音を立てずにしゃがみこむ。蔵人が真似て後に続く。

 獲物を注視するドロテアの瞳がすうっと細まる。

 蔵人は同様に、彼女の視線の先を見つめる。

 けれども、ただ緑の木々が生い茂っているようにしか見えない。

 ドロテアが、ゆっくりとした動作で弓に矢をつがえる。

 緊張感が高まるにつれて、陰茎にまたしても強い掻痒感を覚えた。

 かいぃ、掻きてぇ。

 慣れない山行の上に極端な綺麗好きの日本人である蔵人には、異常なまでの入浴願望があった。

 だが、それは満たされないまま十日近く経とうとしている。

 おまけに緊張から金玉の裏側に汗がたまり、それは我慢のできないレベルの不快感にまで育っていた。

「おい、なにをモジモジしている。獲物が逃げるではないか」

「いや、ちょっとタンマ」

「んん? こら、どこに手を突っ込んでいる! おまえという、男は」

「わ、バカ。急に振り向くなっての!」

 振り返ったドロテアのつがえた矢尻が蔵人のひたいを刺しそうになり尻餅をつく。

「ドロテア、しーっ、しーっ」

 リネットが口元に指を当てふたりを静止する。

 同時に、木々の向こう側の斜面が不意に動いた。

「ああ、もおおおっ。逃がしたらおまえのせいじゃぞ! クランド!」

 ドロテアは、叫びながらひょうと矢を放つと、動き出した獲物へと当ててみせる。

 獲物は、身体に矢傷を受けながらも、一直線にこちらへと向かって突進を始めた。

 両眼の赤い瞳がらんらんと光り、保護色のこげ茶色の全身が枝葉を打ち払いながらあらわになる。額には大きな一本の角がまがまがしくそびえている。ドロテアの狙っていたのは、このあたりの山河に生息する希少価値の高い、一角うさぎだった。

「あのぉ、ドロテアさん。あれってうさぎですよね」

「そうじゃ、来るぞ。身を伏せておれ」

「なんかむちゃくちゃデカいんですけど! 遠近感おかしくね! あれって牛ぐらいのおおきさじゃね!? 俺の知ってる生き物と違くね?」

「この山の食い物がよかったからかの」

 子牛ほどの大きさのある一角うさぎは地響きを立てながら蔵人たちに殺到する。

「リネットを頼む」

「想定外、想定外。畜生、かわいいうさぎちゃん狩りだからってついてきたのに。詐欺だ!」

 蔵人は、震えているリネットを引き寄せると守るように抱きしめた。

 恐怖のあまり、少女は必死で両手を伸ばし蔵人の胸元へと飛び込んだ。

 あんなバケモノにぶつかるなんて、ワゴン車に体当たりするようなもんだぞ。

 ドロテアは弓矢を投げ捨てると、腰に下げた長剣を抜き仁王立ちになる。

 柄頭にはめ込まれた宝石へと精神を集中する。

 一角うさぎが指呼の間に接近するやいなや、桜色のくちびるがゆっくりと動き、呪文の詠唱がはじまった。

守護の楯(プロテクト)

 ドロテアの全身を淡い緑の光が包む。同時に彼女の編上げ靴は地を蹴って、獣の上方へと躍りかかるようにして飛び上がった。

強化魔術(ストレングス)

 弧を描いた長剣が白く輝く。

 ドロテアは、自分の数倍もある一角うさぎの巨体を、溶けたバターを裂くように軽々しく正面から真っ二つにすると、身をひねって鮮血をかわしざま、返す刀で首だけを宙に跳ね上げた。

 あっけにとられる蔵人を目の前にして、ドロテアはいたずらそうに微笑む。

 それから、人間がひと抱えもするほどの大角を片手で軽々とつかみ、一角うさぎの首をかざしてみせた。

「これ、食うの」

「クランドはこんなものを食べてみたいのか。変わったやつじゃのう」

「いやいやいや。食わねえっての。んじゃあ、どーすんだよ、これ」

「角が高く売れるんじゃ。薬としての。街で換金して日用品を買う。当然じゃろう」

「いや、その当然が全然理解できないんだが。にしても、すげえ怪力だな」

「怪力? かよわい乙女に失敬な」

 ドロテアは、蔵人の言葉にさも心外だというふうに首を振ってみせた。

「かよわいって、エルフってもしかしてすべからく怪力な種族なのか」

「だから、違うと。それと、リネットはそろそろ離れたらどうじゃ。そんなに引っ張ったらクランドの服が伸びてしまうぞ」

「あ」

 にたにた笑いながら指摘するドロテアの言葉に、リネットは蔵人の胸から身体を離すと

 瞬間的に顔を真っ赤にさせながら自分の両頬に手をあてうつむく。

「いやー、服くらいどうだっていいって。むしろ、このボロ切れ着てられるっていうレベルじゃねーし。怪我はなかったか」

「あ、はい」

 背丈が百八十近い蔵人と自然に見上げる形になったリネットの視線が交錯する。

 少女は口をもごもごさせながら、ぐっと両拳を握りしめたまま再びうつむくと、首を何度か左右に振っていきなり駆け出した。

「あたし、先に帰ってますっ」

「えええ! おーい」

 蔵人が呼び止めようと伸ばした手の先に、リネットの背中がどんどん小さくなっていく。

「は、早い。呼び止めるヒマもなかった」

「うーん、妬けるのぉ。だがな、クランド。不用意に手をださんでくれよ」

「なにいってんだ、ありえねえぜ。まだほんの子どもろうが」

「子ども? なにをいっておるのだ。リネットは今年で十二じゃ。もう、子どもの作れる身体じゃし、本来ならとっくに嫁に行ってもおかしくない年頃じゃぞ」

「マジかよ」

 ドロテアの言葉に絶句する。現代日本と違い、ほとんどの庶民の平均寿命が四十前後のこの世界では十代前半で婚姻し子どもを産むことは別段不可思議なことではなかった。

 人口数が直接国力に反映する時代では、人の力がすべてでありそれだけ簡単に命が潰えるのが当たり前であった。

「実はな、最初にあの村は混血(ハーフエルフ)ばかりだといったじゃろ。あの話を聞いたおまえの態度次第では里を出て行ってもらうつもりだったのじゃ」

「差別、か」

「そうじゃ。あのこたちも好きで混血(ハーフエルフ)として産まれてきたわけじゃないのじゃ。このロムレス王国に住まうのは人間族だけではなく多くの亜人が別れて暮らしておる。王都の力が保たれていた時代は、いまよりはるかに治安はよく住みよい国だったというがの。相次ぐ飢饉や、街道の封鎖による物価の高騰。あらゆる亜人の部族は小競り合いが常に耐えず、場合によっては幾度も王国の政府高官に渡した袖の下で軍の介入を招いておる。その結果があの子たちじゃ。女を抱かぬ兵隊などおらぬ。娼婦を買える余裕のある騎士たちならともかく、末端の兵士には給料の遅配すら起こっているそうな。行きがけの駄賃に亜人の娘を慰みものにするなどなんの痛痒も感じんじゃろう。悲しいことじゃがな」

 ドロテアは、切り取った角を右手で弄び、木の根元に腰かけ、長いまつ毛を伏せた。

 蔵人は無言で両手を組むと、里のある方角へと視線を凝らす。長く裾野を引く山の上に灰色の陰鬱な雲が垂れこめはじめている。

 今朝、食事をともにした子供たちのはしゃいだ表情が途端に色あせた。

「わらわはおまえに、なんとなく異質なものを感じておる。普通の人間なら、ハーフエルフと聞けばなんらかの反応を示すものだがの。そういえば、やたらに触りたがっていたの。触るか、ん」

「いいんかよ」

「触ってよし。特別に許してしんぜよう」

「えっらそーに」

「ん」

 蔵人は敢えて空気に乗って、すっと頭を差し出したドロテアに近づくと手を伸ばした。

「おおー耳だ」

「ん、それはそうじゃ、んぅ」

 蔵人はドロテアの長く細い耳をふにふに両手でもみこみ感触を味わう。

「おまえはエルフなんだよな。はっきりいって違いなんかわからん」

「ハーフエルフの方が幾分耳が短いのじゃ。は、あああ」

 ドロテアは時折切なげな声を漏らすと、目を閉じたまま小刻みに震えている。

 喉がひくひく動き、次第に息が荒くなった。

「おいおい、あんまセクシーな声を出すなよ。誘ってるのか」

「だ、れが……あはぁ、ん」

 ドロテアの瞳がとろけたように熱を持って潤んでいる。蔵人は、ある程度満足したので耳から手を離すと、じっと彼女を見つめ鼻を鳴らした。

「もっとして欲しいか」

「ちょ、う、し、に、の、る、な」

 ドロテアが剣に手をかける。蔵人は飛びすさって距離をとると大樹の陰に隠れた。

「冗談じゃ。そう怯えるでないわ」

「無茶いうな。それにしても、さっきのちちんぷいぷいすごかったな」

「なんじゃ、精霊魔術も知らんのか。そういえば、ほとんどの人間は使えんし。それにしても世間知らずなやつよのう」

「いや、知らねえわけじゃねえがよ」

「知らんのだろう」

「いや……」

 ドロテアの顔が説明したがっていたので好きにさせた。南無。

 この世界では魔術は大きく二系統に分類される。

 神への信仰をもとにした神聖魔術と、精霊信仰をもとにした精霊魔術である。

 根本は解明されていないが、能力の発動条件は個人の適正によるものとされる。

 ロムレス教会の積み上げてきた歴史により、回復や補助を主とする神聖魔術の使い手はかなりの数がいるが、精霊魔術の使い手はごく少数であり、この世界ではあらゆる面で重宝されているのが常であった。

「特に人間族では精霊魔術を使えるものはほとんどおらんと聞く。魔術全般に適性を有し、かつ比較的に多いのが、亜人や我々エルフじゃ。もっともエルフであるからといって、全員が全員無条件に使えるわけではないからの」

 ドロテアがものすごい、どや顔で両腕を組む。ボリュームのある胸がはちきれそうに強調されぷるるんと震えた。

「さっき使ったってのも精霊魔術ってわけか。単におまえが馬鹿力出しただけじゃなくて」

 マリカの魔術は攻撃系に偏っており、他者の力を増幅させる補助系は見せなかったため、逆に目新しかった。

「とことん疑い深いやつじゃの。ようし、そこまでいうならかかってこい。軽く揉んでやろうかの」

 ドロテアが、へいカモンと手招きをしながら両手を前に突き出し構えた。

「おいおい、かよわい婦女子相手にこの俺がそんなことを。……やるに決まってるだろうが! 後悔しても遅いからな!」

 ひいひい、いわせてやるっ。

 ごしゅじんさまっ、しゅごいのおおっ、て叫ばせてやる。

 蔵人は、目を真っ赤に血走らせながら上着を脱ぎ捨てると、ドロテアに正面から組み付いた。女性らしい小さな肩と腰に手を回し、一気に押し倒そうと奥歯を噛み締める。

「ぬおおおおっ、なんじゃあこりゃああ」

 蔵人が意図せぬ力に叫んだ。

 額に細かい汗がぷつぷつと湧いた。

 ドロテアは口笛を吹きながら、根が生えたように微動だにしない。

 蔵人は、どっしりとした巌を前にした錯覚を覚えた。

 それでも満身の力を込め、押し倒そうとするがドロテアの身体は微動だにしなかった。

「なんじゃ、その抱きつき方は。もっと情熱をこめよ。子どもらの方がよっぽど気合が入っておるぞ、と」

「のわわわっ」

 ドロテアは、蔵人の右足首を、細いひとさし指とおや指でつまみあげると、そのまま八十キロはある成年男性の身体をさかさまに釣り上げた。

強化魔術(ストレングス)。肉体の基本性能を高める魔術じゃ。極めれば素手のまま大虎すら鼻歌まじりで絞め殺せる」

 ドロテアは、釣り上げていた蔵人をそっと下ろすと、自分の身体をくいくいと指差す。

「なに? あたし寂しいの、火照った身体をなぐさめて」

「また、妙な翻訳を。この話の流れでどうしてそうなる。どこでもいい、わらわの身体を突いてみい。あー、それから下履きは脱がんでいい。未使用のまま余生を暮らすことになるぞ」

 蔵人は、股間の防御姿勢をとると、すかさず両手を左右に広げ、鳳の構えを決めた。

「いや、べつに未使用じゃねーし。ようするに、かよわい女性に暴力を振るえってことですね。そんなこと、できませーん」

 といいつつ、蔵人はドロテアの白桃のようなたわわな胸にむかって両手を伸ばす。

 むんず、と鷲掴みにした途端、両指が岩石を掴んだ感触を覚える。

「まさか、入れチチっ!?」

「入れチチではない。すべて天然仕様じゃ。そうではなく、見よ」

「いつも見てますが、なにか」

「だれが、胸のことを。もおいい。ほっ」

「ちょっ、待てって、やめろー!」

 ドロテアは上着をめくると真っ白な腹を見せ、すらりと抜いた長剣を突き立てる。勢いのついた刃先がかつん、と硬質な音を立てて弾かれる。焦って真っ青になった蔵人の顔を満足げに眺めながら、剣は滑るように鞘に収められた。

「これが守護の楯(プロテクト)。身を守る防御魔術じゃ。生半可な刃物や打撃では傷ひとつつかぬよ。さて、目的の獲物も取れたし今日は帰るとするか」

「あぁ、てか一匹だけでいいのか?」

「リネットのことも気になるしの」

「そうだな」

「一角うさぎは希少での。幾日も山をめぐっては見つからんことが当たり前じゃ。その点今日はラッキーデーじゃった。にしても、本当におまえは弱いのぉ。里に帰ったらわらわが稽古をつけてやろう。うれしかろ」

「それって俺も魔術が使えるようになるのか?」

「それも含めてじゃ。にしても、ちと臭うの」

「しゃあねえだろ。この世界にスーパー銭湯とかないし」

「銭湯? 天然の湯なら、里からの近場に湧いておる。後で案内しよう。よっと」

「おいおい、待て待て。いまなにげに会話の途中でなにを背負わせた」

「いったいわらわがなんのためにここまで連れてきたと思っておる。食い扶持分は働いてもらわんとの」

「自分で運べばいいだろうが」

「クランド、おまえの思っておるほど魔術は万能ではない。長時間は使用に耐えんのだ。疲れるしの」

「へいへいわかりましたよ」

 この、怪力エルフが。

「なにかいったかの」

「おら、なにもいっておりゃせんがね。お美しいエルフさま」

 ドロテアが、ずいと顔を寄せる。

 まつ毛同士が触れ合う距離で見つめ合うふたり。

 蔵人は沈黙に耐え切れず、ドロテアの胸を揉んだ。

 ドロテアは無言で蔵人の脛を蹴った。






 蔵人たちは里に向かって黙々と距離を稼いだ。

 先行したリネットの姿は影すら見えない。ドロテア曰く、足の丈夫さは一族でもとびきりだったらしい。蔵人は、前かがみになりながら、背負子に乗せた一角うさぎの重さに汗を流しながら、それでも投げ出すような言葉は一度も吐かなかった。

 これには、ドロテアも驚いたのか感心し、何度か交代の意を伝えたが頑として蔵人は譲らなかった。

 時折、歩みを止めるたびにドロテアは甲斐甲斐しく蔵人の額に伝う汗をいとうことなくぬぐい、ふたりは協力しながら支えあって進む。

 実際、数十キロに近い荷物を持って傾斜のある山道を移動することは慣れた人間ですら苦痛である。

 ましてや、少々体力に自信のあった程度の現代人である蔵人では推して知るべしだ。

「のう、わらわがいうのもアレじゃが。無理せず休まぬか?」

「子供たちが待ってるだろうが」

「それをいわれると、のう。おそらくリネットも着いておるだろうし」

「それでも、暗くなれば心細くなるのが人情だろう」

 ドロテアはそっと目を細めると、もうなにもいわず肩をすくめてみせた。

 蔵人の筋肉は数時間で乳酸がたまり、足を上げることですら億劫なほど疲労が蓄積している。ふと、斜面のガレ場に差しかかったとき、人の声が耳に入った。

「なんだ、っととと」

 ドロテアは真っ青な顔で蔵人を草むらにひきこむと、がっしり抱きついて口元に指を当てた。いつもの強気な瞳はなりを潜め、肩を震わせている。

 こいつがビビるって、バケモノってレベルじゃねえぞ。

 先ほどの一角うさぎを屠殺した手並みを見ていた蔵人にとってこの怯えようはただごとではなかった。五人ほどの男の足音が、谷側の道をきざんでいく。

 男たちは全員雲を突くような大男で、それぞれ抜き身の剣や槍で武装している。

 言葉遣いこそ荒れたものであったが、身なりはそれなりに整った革製の防具を付けており山賊には見えない。

「おい、本当にこのあたりなんだろうな。これでひと月になるっていうのに、影も見つからねえや」

「こっちも遊びでやってるわけじゃねーんだ。もし、おまえのいうことが嘘だったら」

「嘘じゃありませんよ。ただ、ドロテアは魔術も得意だったから、きっと隠れ場所自体に目くらましを掛けているのかも」

 男たちは誰もがイラついた口調で、もっとも華奢な男に詰め寄り罵声を浴びせている。

 道案内を務めているのは、女と見紛うような整った顔立ちの男で、なめらかな髪から突き出す長い耳からエルフ族だと思われた。

「くそっ、なんでだよ。僕がこんなに苦しんでるのに。あいつ」

 エルフの男のつぶやきが吐き捨てるように耳に落ちる。ドロテアが身をいっそう固くしたのがわかった。

「いっちまったぜ」

 男たちの姿が完全に消えても、ドロテアは草むらに両手をついたまま顔を伏せていた。

 蔵人が腰を浮かせかけると、彼女はしがみつくようにして顔を胸元に埋める。

 それから、暗い表情のままゆっくりと独り言のように覇気のない声で語り始めた。






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