Lv13「終焉魔女」
結界を素通りできる存在がこの世に存在するなどと夢にも思わなかった。
私は読みかけの本を置くと、上半身をベッドから起こした。
昨晩も夜ふかしして、書物を読みあさっていたせいか、頭が重い。
「めんどうね」
宙に指先で円を描くと、仕掛けておいた遠見の紋章陣が繋がり、居ながらにして外の景色が見えた。くり抜いた窓から見えたのは、バカっぽい顔で石に座ったまま食事をする若い男だった。見た目は人間族、だと思う、たぶん。
私は、書物の知識以外に若い男を見たことがない。村の人間は迷いの術でどんなことがあってもここにはたどり着けないようにしているし、そうなるとどこか遠くからやってきた旅人で、なんらかの加護を得ているということになる。
まったくもって面倒な話。男の顔は浅黒く、どこか間が抜けていた。全体的に弛緩しているというか、張りつめたものをまるで感じないのだ。身につけているものは、上等ではなく野良着に近い。長いだけの安っぽい剣を腰に下げていた。無警戒さからいって達人とは思われない。色々と考えたところで、バカらしくなった。本当。加護持ちの人間くらい、たまには結界をくぐり抜けることもあるだろう。それに、私は眠りから目覚めてから、適格者を探すため、防御の層をわざと薄くしてある。いえいえ、ただの愚か者ではいけません。それなりに、腕が立って、意志が強く、魂の質が高くなければアレを制御することは不可能でしょう。本当に自分でも損な性格だと思う。狂った母の尻拭いにどれだけの時間をかければいいのやら。私はベッドの水差しをとって唇を湿すと、ごろんと転がって本を顔に乗せた。この冬からずっと考えてはいたが、アレのシステムはお母さまが構築しただけのことはあって、中々に完璧だった。外部から手を加えて破壊する、ということはちょっとばかり無理そうである。むにゃむにゃと顔をしかめていると、ドアの向こうから激しい警戒信号が発せられた。
「なんなのよ、もう」
遠見の窓を見ると、先ほどの男が丸見えの状態で小屋ににじり寄っているのがわかった。
なにこいつ、アホかしら。
辺りに気配を払っているつもりだが、動きが素人同然だ。
こんなやり方では、うさぎ一匹狩ることはできないだろう。
もお、いい。頼むからこれ以上私の邪魔をしないで欲しい。
「こんにちわー」
願いも虚しく、男は訪れを告げた。
一瞬前までなかった殺気が激しく放射されているのを感じ、ガバっと毛布を跳ね上げた。
スカートがまくれて、下着が見える。あらやだ、はしたない。
私は裾を直すと、杖を手にした。
殺気を完全に殺していた? いままでのは完全に擬態?
敵が一流の腕を持つ冒険者なら、狙いはひとつ、私の首であろう。
アレから放射された、人類以下皆さま方殺せ殺せ光線(※私が命名したナリ)のせいで、森に住む動物さんやバケモノさんが活性化し、「よーし、おじちゃんがんばっちゃうぞぉ」とばかりに村を襲っているのを知っていた。
そして、それがすべて私のせいになっているという不愉快極まりない事実に。
なぜなの?
ま、誰も答えてはくれないんだけどね。人間て、ホント、単純な頭してる。
そんなことを考えていると、こんこんとノッカーが鳴らされた。たぶん、あの私が作ったクマちゃんノッカーが使用されたのははじめてだろう。なんとなく感慨深い。
とりあえず、出かけていますと答えると、外からは怒り狂った野卑な声が弾けた。
調子に乗っている。かなりイラっときたので、強烈なのを一発お見舞いしてやったわ。
これに懲りたらレディの家にはもう少しスマートに訪問することを学習なさい。
男はかなりの時間が経っても起きる気配を見せなかった。
ちょ、ちょっとばっかりやりすぎたかしら。
殺す気はもちろんなかったが、家の前で死なれると、少しだけ気分が悪いのだ。
私は、ドアを薄目に開けて、男にそろそろと近づいた。
ぐうぐうと健康的な寝息をかいている。さすがにちょっと蹴り飛ばしたくなった。
よく見れば、随分と若く見えた。十五かそこらだろう。私が千年眠りについていたことを差し引いて、うーんだいたい十九とすれば、幾つか年下になると思う。かなり大柄で、顔の色艶はいい。もしかしたら、かなりいいところの生まれなのかもしれない。
いつまでも見ていても仕方ない。
私は、一旦部屋に戻ると男が目を覚ますまで研究に没頭しようとして、なぜか手鏡を片手に眉を寄せていた。
もしかしたら、お父さま意外と話す男性は、あれがはじめてになるのかも。
なんとなく落ち着かなくなった。
男の名はクランドといった。彼の性質は基本的に善である。本質的になぜかわかった。
話をしてみれば、予想通り村人に踊らされて魔女退治に来た旅の者らしい。やたらと物わかりがいいのは、逆に怪しかったが、なんとなく信じていいような気がした。
この時点で、私はクランドをアレの贄にすると決めた。
心がチクリと罪悪感で疼く。
そのあと、クランドが私のむむ、胸を触ったことで、その思いも晴れたのだった。
二、二回も触られた!
夫になる人にしか許さないと決めていたのに。許さない。
村を襲うモンスターの元凶は、森の最深部にあるダンジョンに住む邪神である。
クランドは私を手伝って、邪神を止めるべき。
なーんで、こんな胡散臭い話乗ってくるのか。
えっちなのを除けば、この男は人がよすぎるような気がした。
こんなやり方で、どうしていまのいままで生きてこられたのだろうか。
ほとんど人生経験のない私にまでコロッと騙されるなんて。
カモである。いいカモ。それも脂の乗り切った。
胸を触った仕返しに、電撃を浴びせたら、さすがに一晩起きてこなかった。
マリカ、猛省。
ちょっとやりすぎた。自分でもそう思う。
でも、根幹の問題はクランドにあると思うの。
なんだかんだ、理由をつけて森に出発するのを二日停滞させた。
私は、ハイエルフとしては不完全である。根源的には、祖先にあった利点をすべて失っている。おまけに、魔力を月の満ち欠けに左右されるのでは、常に同じパワーで戦えないという不利が生じる。しかも、ひと月に必ず訪れる新月の日は魔力がゼロに近くなり完全に無防備になる。知られてはならない。場合によっては、誰が敵になってもおかしくないのだ。でも、彼とかわすたわいのない会話は中々に気持ちを和らげてくれる。いっしょに食事をとったりするのは、どのくらいぶりだろうか。すごくしあわせな気分になった。
そのあとで寝込みを襲われて、産まれたままの姿を見られたときは、恥ずかしすぎて狸寝入りを決め込むしかなかったけど! なんで、乙女の部屋に堂々と乗り込んでくるの、あいつは! 信じられない!! 変態!!
森での冒険ではクランドは思った以上に役立った。道々で聞いた話によると、冒険者としては駆け出しらしい。剣は幼い頃、祖父に習ったが、すぐに投げ出してしまったとのこと。明るい彼が、家族の話になると、妙に口ごもる。きっと聞かれたくない話なのだろう。お互いに、家族には恵まれていない。そう思うと、悲しいことだが、ちょっとだけ彼と距離が近づいたような気がして、胸の奥がザワザワとした。
森では軍隊飛蝗と戦うことになった。事実、モンスターを見るのも、その命を奪うのもはじめである。クランドは前衛でかなり頑張っていたが、あちこちに激しい傷を負っていた。私は、空を飛びながら、風の魔術を使ってモンスターたちを薙ぎ倒していたが、一箇所だけカスリ傷を受けた。けど、血でドロドロになった彼を見た途端、そんなことは忘れてしまった。
人間は弱い。人間はすぐ死ぬ。人間など愛すべきではなかった。
お母さまがよくいっていた言葉だ。
お父さまは、ある日を境に、骸となった。
あの日が、しあわせだと思えていた人生最後の日となったのだ。
傷の手当をしようと彼に駆け寄ると、クランドの胸元から自動回復の魔術が再生された。
これほど強力無比なものは中々お目にかかれない。
聞けば、彼は王女に召喚された伝説の勇者らしい。
正直、ピンとこなかった。
目の前にいるクランドの顔が古書で読んだ伝説の勇士とはまったくもって思えないのである。それどころか、ちょっと凶暴なバッタにすら殺されそうになっている。
「マリカ、ちなみに容姿だけならおまえもストライクゾーンになるぞ。俺と契約して淫靡な主従関係を結ばないか」
結ぶわけないだろ。アホか、こいつ。
クランドは自分の命をなんとも思っていない部分がある。
私は人間のこういうところが大嫌いだ。弱いくせに、無理をする。自分の力以上のことを成し遂げようとする。そもそもが、己の力量を超えた事績など、普通の人間に成せるはずがないのだ。稀にいるのは、数万分の一の確率で成功した、奇跡の星の元に生まれた者たちである。私はクランドに、危険だと思ったら迷わず逃げるようにと、伝えていた。
邪神の復活は近い。もう、他の贄を探している暇はないのだ。どんな手を使っても、彼を箱の中に汲み入れて、動作不良を起こさせなければならない。
世界は破壊してはならない。それは、きっと母が最後に行なった無意味な行為を補完することになるはずだからだ。
あれだけ注意したのにも関わらず、このアホは無軌道な行為を取り続けた。
蛾の怪物に向かって、考えなしに突撃を行ったのだ。おまけに、人の心配をよそにヘラヘラと笑い続けている。もう知るか。本気で頭にきた。色々と気を使って話しかけてくるが、私はまるっきり無視してやった。こんなにも腹が立ったことは生まれて初めてかもしれない。プリプリしながら歩いているうちに、もう二度と会えないと思っていたエントに再会した。エントはクランドを一瞥すると、伴侶かと問うた。
ありえない。ありえん。ありえんし。
どうして、高貴なハイエルフの私が、この男と……。
ほら、いわないことじゃない。
あまりにもくだらないことをいうから、頭がカッカッしてきた。
意識などしていないし、断じて照れたりもしない。
彼はそのような対象ではない。アレを封じるために見繕った装置のひとつである。
絶対に。
でも、エントのおかげで、またいつもどおり喋れるようになったのは、うん。ちょっと感謝かも。私は誰かと喧嘩らしい喧嘩もしたことがないので、鉾の収め方も知らなかった。
帰りは空間歪曲の魔術で小屋に戻った。ついつい、クランドの手を取った。分厚くて男らしいもので、ちょっとだけドキドキした。
間違いない、毒にやられた。そう思ったときは、もう遅かった。頭がぼうっとなって、ふにゃふにゃと足が崩れていく。まともに立っていられないなんて。自分の身体の弱さが情けない。私はありとあらゆる魔術を使えるといったが、一部訂正したい。回復系統は苦手なのだ。特に、向かないと思って大雑把に読み飛ばした。
ふん、天才にはチャチな小ワザなんか必要ないのよ。至言ね。
嘘です。強がってました。もし、次があるなら、きちんと勉強しておこうと思うの。
通常のハイエルフならば、少々の毒など基礎的な力で無力化する。
なんという最強生命体なのですか、ああ。
夢を見た。ずっと、幼い頃のなつかしい夢だった。やさしい父と母に挟まれてテーブルを囲んでいる。広く大きな胸に抱かれ、父の白くなった髭を引っ張っている私。母は私と同じ真っ赤な目をキラキラさせながら、湯気の出るあたたかい料理を並べていく。それはすべて完全だった。他には何も望まなかった。しあわせな光景は、四辺が音を立てて崩壊し、裏返りながら剥落し、地の果てに墜ちてゆく。奈落に飲み込まれていくイメージ。
「あ、ここは……?」
気づけば、自分のベッドに横たわっていた。寄り添って握る手はあったかくて、お父さまと同じくらい力強かった。
クランドの心配そうな目を見ると、思わず涙がこぼれそうになった。
激しく自制する。
情を移してはならない。この男は、生贄にするため篭絡したてきたのだ。
なんのために?
疑問を抱くなと、自分にいい聞かせる。
つらくて仕方ない。
なんで、こんなにも心が動揺するのだろうか。
私は、思う存分泣き喚いて子供のようにクランドへとすがりつきたかった。
これは、きっと軍隊飛蝗の毒だ。頭が上手く機能しない。
自分の中のやわらかい部分が崩れ、ポロっと僻み根性が漏れ出す。
酷いことをたくさんいった。殺せとか、いまが隙だとか。彼は、こんな見も知らない私を助けてベッドにまで運んでくれたのだ。恩人に後ろ足で砂をかけるような真似をした。
いつの間にか甘えが出ていたのだ。彼なら、どんなひどいこといっても許してくれる。
そう、やさしかったお父さまやお母さまのように。
だから、ものすごく怒鳴られたときはショックだった。涙目になった。モンスターに襲われたり、クランドが傷ついたときとはまた別種の恐怖だ。
怒らないでよ。怖いのよ。やさしくして欲しいの。
クランドは怒鳴ったあとすぐに、声を和らげて頬を撫でてくれた。
頭の奥が安堵でじんわりと温まってくる。
私は風邪だと偽って、薬を取ってもらって飲んだ。ただの昆虫毒なら、寝ていれば治ることもある、らしい。自分の身体で実験するのは、リスクが大きすぎる。けれども、下手にクランドに伝えて、彼を狼狽させたくない。彼に迷惑をかけたくない。悲しませたくないのだ。たかが、自分の身体ひとつで。完全に頭が回っていない。そして、また少しだけ意識が途切れた。無情にも、一瞬だけ目が覚めたとき、クランドの姿が枕元から消えていた。
……なんで、なんで?
理由なんてわかってる。きっと、めんどうになったからだ。それに、私は彼に好かれる要素なんて微塵もない。自分がすごく無価値なものに思えてみじめな気持ちになった。
「やだ、やだ!!」
私は子供に還ったように、わんわんと声を上げて泣いた。
涙が制御できないほど流れ出る。不安と悲しみで全身が押しつぶされそうになった。
もう、使命も、アレも、なにもかもがどうでもよくなっていた。
泣き疲れて、どうにでもなれ、という気持ちになっていく。
涙ですべて、溶けてなくなってしまえばいいのに。
そして、絶望から覚醒した。時間はそれほど経っていない。
「どうして?」
胸にかかる重みを感じ、サッと顔が青ざめた。
そこには血だらけになったクランドが倒れ込んでいたのだ。
瞬間的に彼がなにをしたのか悟った。そして、深い愛を感じずにいられなかった。
よろこびと恐怖が混在して、魂が攪拌される。
「クランド! クランド!!」
私は取り乱したまま、彼に取りすがってまたもや、泣き喚いた。
ここまで来ると恥も外聞もないものだ。クランドが目を覚ましたときは、本当に腰が崩れ落ちそうになった。そして、この人がいないと、私ダメだと、強く感じたのだった。
予想通り、彼は身を挺して森に分け入り、解毒剤を手に入れてきたのだ。
私はどうして、そこまでして助けてくれたのか、と訊ねた。
俺がそうしたかっただけだ、と彼はいった。
そのセリフは、期待していたものと少々違っていたけど、彼のはにかんだ笑顔がくっきりと脳裏に焼きついて離れなくなった。
数日はおままごとのように自分たちを夫婦になぞらえて暮らした。
その、愛の交わりはかわさなかったけど、私は完全に彼にイカレていた。
クランドは私の大好きなサーラの花について語ってくれた。
深い学問の素養を感じる話し方だった。
彼が卑賤の出ではない高貴な生まれである証拠だ。
なんというか、はじめて会ったときの印象とはどんどん違って見えていく。
彼の闇のように深い黒髪が、黒目が好きだ。髪をかきあげる仕草が好きだ。厚い胸板も、太い腕も、ゴツゴツした手のひらも、ちょっかいを出してくる、部分も大好きになった。
クランドにずっと仕えたいと思った。
深く、彼を欲している自分に愕然とし、けれどあらゆる意味で納得した。
彼に妻や子供がいないとわかると、私の胸は翼が生えて飛んで行きそうになった。
我ながら節操がない。気づけば、彼のたくましい腕や胸に抱かれ、無理やり組み伏せられている妄想をたくましくして、その、引き締まったお尻とか、大事な部分を知らないうちに目で追っている自分に気づき、怖くなった。私は欲求不満の変態なのだろうか。断じて、そうではない、と思いたい。
しあわせな停滞は続かなかった。
クランドは思った以上に責任感の強い男だったのだ。
彼は、私の身体を心配しながらも、邪神の災厄の恐怖も明確に感じ取っていた。
森の攻略は半ばを超えていた。
けれども、魔力の枯渇も顕著になってきた。疲れが溜まっている。
そんなときに現れたのは、ゲルタという村娘だった。
この女はなんだかんだと理由をつけて、私たちの間に首を突っ込んできたのだ。
忌々しいことこの上ない。
怒りで肝が焼き切れそうになった。
下品で土臭い土百姓の娘!
頭の中がカッと燃え盛って、周りが見えなくなった。
聞けば、魔女討伐(※かわいそうな私)をクランドに頼んだのは、この娘である。
あろうことか当てこするように、クランドに抱きつき、頬ずりをしくさった。
失礼。
私は、ゲルタという下賤の娘を脳内で切り刻んで網の焼き目をつけて針で隙間なく突き刺して棍棒ですり潰すように滅多打ちにして最後は刻んで豚の餌にした。
想像だけで済ませた寛大な私に感謝して欲しい。
これより苦悶の時間が続いた。私は当てこすりに、ルークというどうでもいい男を当て馬にしてみたが、ダメだった。効果は認められない。クランドはゲルタという淫売に完全に熱を上げてしまっていた。
その上、私はあの女がジョージという下男とイチャついているのを見てしまった。
ゲルタはあさましく、自分から衣服をくつろげると、ジョージという男を迎え入れた。
二匹のつがいは、獣のような咆哮を上げ、ひとかたまりになった。
信じられない。あれだけ、クランドに媚を売って真実はこれだった。別にそれはそれでいい。淫売と作男などお似合いである。問題は、彼女がクランドをいいように振り回しているという事実だった。情事が終われば、ふたりは寄り添ってキスをかわしていた。
私にとってそれは愛などではなく、非常に汚らしい排泄行為にしか思えなかった。
立ち聞きした話によれば、ふたりはクランドを上手く使って功績を挙げ、村の人たちに仲を認めてもらおうという魂胆だった。この場でふたりを八つ裂きにするのは簡単だったが、それではクランドの目が覚めることはないだろう。
そして、私の中にも若干残酷な気分が沸き起こっていた。一度、大きく裏切られて痛い目を見ればいいのだ。そうすれば、彼もきっと自分以外の女に目を向けることはなくなるだろうし、これぞ一石二鳥というものだ。けれども、この私のいやらしい策謀は数十倍にもなって自分自身に跳ね返ってくる結果となった。エビルエントが野営地を襲撃し、クランドが大怪我をしてしまった。ゲルタは形勢不利と見れば、さっさと逃げた。ルークは発狂し、ヒュドラという化物に食われてしまった。その上、クランドは傷つき倒れた。彼を助けるのは自分しかいない。朽ちた猟師小屋から戸板を引っペがし、樹木のツルを通したタンカに気を失ったクランドを乗せて引いた。私は、生まれてから一度も肉体労働なんかしたことない。普通に歩くことだって、満足にできやしない。それでも、傷つき倒れた彼を安全に運ばねばならなかった。つらかった、苦しかった。一歩進むごとに息が切れ、硬い木のツルは手のひらを千切ってズタズタに切り裂いた。私は、泣きながらクランドを引いた。胸がドコドコ鳴っている。全身が汗でまみれ、倒れては起き上がり、倒れては起き上がった。それでも、彼を死地に置いていこうなんて、カケラも思わなかった。私が動けなくなれば、無防備なクランドはあっさりと死んでしまう。自分の中の、執念だけが身体を限界まで突き動かしていた。彼は、目覚めたとき、抱きしめて「ありがとう」といってくれた。それだけで、もうすぐにでも死んでいいとさえ思った。
さらに、私を打ちのめしたのは、エントの死であった。
邪神の波動を受けて惑乱したゲルタが彼に火を放ったのである。
あとのことは、もうよく覚えていない。
いや、忘れたい、というのが本音だった。
彼女は私が殺した。
この手で岩を叩きつけた。何度も何度も。
理由はクランドを手にかけようとしたからだ。
ほかのことは大目に見ても、それだけは絶対にしてはならないことだった。
崩れ落ちたゲルタの身体を見たとき、爽快感すらあった。
すごくすっきりした。きっと、最初からこうしていればよかった。
けれど、すぐに後悔した。クランドが泣きそうな顔で、私を見ていたからだ。
なんてやさしい人なの、あなたは。
こんな虫けら、悼む価値などまるでないのに。
ああ、もしかしたら、私も、アレに侵食されてしまったのかもしれない。
それから、ずっと深い森の中にいた。石を投げても底にまで届かない、永劫の闇だ。
膝を抱えてうつむいてる。どうして、ここまで頑張らなくてはいけないのか、もうわからなくなっていた。私が、ひとり、努力してアレを止めても、世界の誰ひとりとして、褒めてはくれない。そうだ、私はいままで誰にも関わらずに生きてきた。これからもずっとそうだった。だから、誰も私を知らない。私も誰も知らない。誰にも知られない人間なんて消えてしまっても、不都合など何もない。なにせ、消えたことすらわからないなら、それは生きているとはいえないのではないだろうか。アレを上手く止められたとしても、完全に破壊することは不可能だろう。いつの日か、誰かが掘り起こし、動作させるという恐怖を抱えながら、ずっと生きていかなければならない。私は、ハイエルフだ。それも、この地上に残った最後のひとり。けど、その血を伝える意味合いもないし、誰もそれを望んでいない。凍りついた索漠とした森の風景が心の中に広がっている。
けれど、そんな私を闇の中から引きずり出してくれたのも、またクランドだった。
だから、もう私は、彼を贄とすることなど絶対にできなかった。
ついに、封印のダンジョンに到達した。最後まで本当のことをいえなかった。
いえるはずない。
世界を破滅に導く邪神という機構は、お母さまが精魂を込めて構築した屈指の魔術理論の真髄である。これを、動作不良に追い込むのは、自らの肉体を脱ぎ捨てて、魂魄となって霊子世界に飛び込み、なんとかして機構を停止させなければならない。それには、強い意志が必要だった。当初の計画では、この時点で世界崩壊の秘密を暴露し、魔術洗脳によって贄の魂を外側からコントロールして邪神を自壊に導く予定だった。それには、双方における一定の信頼感がなければ洗脳が進まない。けれど、私自身が邪神に挑むなら、導き手の存在は必要ない。もう、戻ってこられない。そう思えば、素直に愛していると伝えることができた。クランドは案の定びっくりしていた。後悔はなかった。
箱の外蓋に手をかけ、身を乗り出す。
さよならはいらない。
最後に上手く笑えたか、自分でもわからなかった。
クランドの動きは素早かった。私が、電撃を放って自由を奪ったはずなのに、それを意に介せず、俊敏な獣のように、しなやかな動きで私を突き飛ばしたのだ。
なにがおこった?
なにがおこったの?
外蓋がバタンと閉められ、部屋に静寂が戻った。
――そして、私は、たぶん発狂した。
時間の経過もわからない。数時間、経ったのか。それとも、数日か。
この苦悶の時間は永遠に続くのか。涙も枯れ果てた、というのが正解だった。
私は一番大切な魂を不注意で井戸の底に落としてしまった。
泣き疲れて、小さな女の子のように丸まって眠る。
両の爪は残らず剥がれて血が流れ出ていた。
邪神の箱は、無数の引っかき傷を残して、静かに眠っている。
クランドはもうここから出てこない。
なら、私はずっとこの柩のそばで、あとどのくらい命がもつかわからないが、過ごすと決めた。
冷たい箱に寄り添って、頬ずりをする。
箱は答えない。ぬくもりもくれない。黙りこくっている。
でも、そばにいる。
ずっといる。
なにもいらない。
そばにいる、こうしている、私たちはいっしょだ、誰がなんといおうと。
世界はようやく完全になったのだ。
「ずっといっしょにいるわ、クランド」




