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日高川という名の大蛇に抱かれて【続・安珍清姫伝説】  作者: 尾妻 和宥


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11.カタストロフィへの招待状

◆◆◆◆◆


 二カ月間、職員室で同僚たちの好奇な眼にさらされてきた。

 が、光宗の心は鋼鉄でできているらしく、痛くもかゆくもなかった。

 またぞろしつこく、教育委員会やらPTA連合会がスクラムを組み、教師を辞めろと圧力をかけてきたら今度こそ従うしかない。


 となると再就職は、彩香あやかが頼りだ。

 大阪の天満の高級クラブ。ウエイターでも皿洗いでも、なんだってやる。

 きっと一からのしあがってみせる。

 落ちたら浮上あるのみだ。




 いまだ由海と交際していた決定的な証拠は見つかっていない。せいぜい状況証拠のみである。

 猫も杓子もSNSが盛んなご時世、よくも盗撮されなかったものだ。

 当面は監視の眼も光らせているようなので、光宗は耐え忍ぶことにした。


 ガードを固め、相手が接近戦を仕掛けてきたら、そのたびにクリンチで逃げ、ゴングが鳴るのを待つしかない。

 十二ラウンドはすぐそこだ。


 壁時計に眼をやった。

 五時をすぎている。

 ようやくテストの作成を終え、次回の授業内容のプログラムとレジュメ作りもひと区切りがついた。


 まわりを見まわしても、同僚たちは机に向かい、雑務に没頭している。

 定時で帰宅できる雰囲気ではない。

 フロアの向こうで、教頭が睨みを利かせている。

 その教頭と眼が合った。

 猜疑心さいぎしんに満ちた眼つきをよこしてくる。


 ――光宗、おまえ、ほうとうはクロ(、、)なんだろ? 庄司 由海とねんごろ(、、、、)になったな? この野郎、うまく手玉にとりやがって。


 だったらいの一番にあが(、、)ってやる。慣例なんてクソくらえだ。

 なんとか抜け出せないものか、スマートフォンを手に取ったときだった。

 ほぼ同時にLINEが入った。

 由海からだった。


 日高川の、とあるバス停留所まで来てほしいとのメッセージ。

 いくぶんためらってから、光宗はなぜ?と問いかけた。

 教え子を奈落の底に突き落としておきながら、恐るべき鉄面皮ぶりだった。


 すぐに返事が来た。

 指定したバス停留所まで来てくれなければ入水自殺するから、と脅してきた。

 光宗との関係を事細かに書いた遺書を残すつもりだ。

 これが世間の明るみに出たら、アカデミー主演男優賞のあなたでもさすがに弁解はできやしまい、と付け加えていた。


 大きなため息をついた。

 由海ならやる。もともと思い切りのいい娘だ。

 純情ゆえに針がふり切れたとき、ためらいもなくやってのけるにちがいない。


 せっかくおたがい沈黙を貫いてきたのに、ほころびが生じると思った。

 もういちど由海に謝り、説得するしかない。

 これからは前を向いて生きるべきではないか。金銭面で支援しよう。精神的なケアもするから、お願いだからおれを困らせないでくれ、とメッセージを送った。


 必ず来て、と返信があったきり、ウンともスンとも言わなくなった。

 反応がなくなると、かえって不安をかき立てられ、行かざるを得なくなる。

 みごとな駆け引きだった。

 光宗はかばんをつかむと、「お先」と告げて、職員室をあとにした。教頭は仏頂面でそれを見送った。


◆◆◆◆◆


 バスに揺られること十五分ばかり。

 光宗は目的の停留所で下車した。

 たしか最後のLINEには、河原におりてきて、とあった。


 おりたが、由海の姿はない。

 まさか待ちくたびれて、ほんとうに死んだのではあるまいか?

 日高川の下流を見たが、それらしき遺体は浮かんでいない。

 それともはるか川下かわしもにまで流れてしまったわけでは……。


「由海、どこだ? いたら返事しろ」


 光宗は貨物コンテナのそばに近づいた。

 由海がいるとすれば、コンテナの陰か、あるいは内部かもしれない。

 じっさい、両開きの扉の片方が半開きなのだ。


 あいにくコンテナの周囲には隠れていなかった。

 とすれば、中か? 光宗は扉の取っ手に手をかけた。


「由海、いるのか?」


 コンテナの入り口に足をかけ、耳をそばだてた。

 暗闇を透かし見た。

 異臭が鼻を刺した。


 濃密な油の匂い。

 これはふつうじゃない。

 かすかに声がする。


「センセ……光宗センセ」と、暗い内部のどこかで由海の声がした。「ここだよ。私はここにいる」


「おいおい、子供のかくれんぼじゃあるまいし。そんなところに入ってないで、出てこい。だいじな話があるんだろ? 外でしよう」


「センセ、だいじな話があるの。最後の話になるかもしんない。聞いてくれるかな?」


 光宗は入り口で粘った。

 メガネの奥の切れ長の眼を細める。


「最後の話?」


「光宗センセ、コンテナの奥だよ。大きな荷物に足を挟まれて、動けなくなった。痛い……。お願い、助けて。引っ張り出してよ」と、由海が軽い悲鳴を放った。「ここ、なんだかものすごく臭い。油の匂いがいっぱいで、危険だと思う」


「おい――。なにやってんだ。おれは暇人じゃない。今日だって仕方なしに駆けつけたが、明後日は出張も控えてるんだ。勘弁してくれ」


「センセは身勝手だ。さんざん私の心をもてあそんどいて、助けてもくれない。この二カ月のあいだ、私がどれほど一人で辛い思いをしたか。センセはひと言も声をかけてくれなかった」


「その件についてだが」と、光宗は扉に手をかけ、もたれたまま言った。「ほとぼりが冷めるまで待ってたんだ。こんなに騒がれて、接触してるところを誰かに見られてみろ。蒸し返されるに決まってる。おまえには気の毒なことをしたと思ってる。ほんとうだ。反省してる」


「センセ、ここ暗くて、なにがどうなってるのかわかんないの。足が挟まって痛い。助けてったら」


 光宗は一抹の不安を憶えた。

 先ほどから会話がかみ合っていない気がしたのだ。

 扉のすき間からコンテナ内部をのぞいた。


 LEDポケットライトを点灯させて、光を向けた。

 六メートルもの細長い空間に、異様な数のガラクタがひしめき、床には紙の束が散乱している。

 そして鼻をつく異臭。

 ただごとではない。


「どこだ。返事しろ、由海。位置がわからない」


 不法投棄した業者は最初からこんなふうにしてお置き去りにしたというのか?

 揮発した蒸気を充満させて?

 あまりにも危険すぎる。


 光宗は、一歩、また一歩と内部へ踏み込んだ。

 しめった靴音がした。

 さっさと由海をつかまえて、説得させ、こんなメロドラマを幕引きすべきだ。


 もはや高校教師に未練はない。

 生まれついての女癖の悪さから、なるべくして最悪の事態になってしまった。

 小さな火遊びのつもりが、とんでもない大火災になり、職を追われかねないほど延焼してしまいそうだった。

 三十二にもなって、軽率すぎた。これも不徳の致すところ――。


 さらにコンテナ内部に進んだ。

 床がぬかるんでいる。

 これは灯油の匂いだ。

 断じてガラクタの機械の類からマシンオイルが流れ出したわけではない。


「センセ……光宗センセ。ここだよ。私はここにいる」と、由海がオウムのようにくり返した。「センセ、だいじな話があるの。最後の話になるかもしんない。聞いてくれるかな?」


「わかってる。さっき聞いた」


「光宗センセ、コンテナの奥だよ。大きな荷物に足を挟まれて、動けなくなった。痛い……。お願い、助けて。引っ張り出してよ」


 おかしい(、、、、)

 由海のイントネーション、セリフがさっきと堂々巡りをしてやしないか?

 本能的に、まずいと思った。

 立ち止まり、警戒したときだった。

 背後で砂利を踏む音がしたと思ったら、聞き憶えのある声。


「光宗センセ、この奥に隠してあるのはボイスレコーダーだよ。エンドレスで再生されるようになってる」


 背筋が泡立つ思いにかられた。


「まさか、おまえ」と、しゃがれた声をしぼり出した。「おれをハメやがったな!」


 形はちがえど(、、、、、、)これでは(、、、、)安珍が(、、、)焼き殺される(、、、、、、)シチュエーション(、、、、、、、、)そのものではないか(、、、、、、、、、)


 ふり返った。

 戸口に立つ女子高生のシルエット。

 すかさず光宗はLEDライトの光を向けた。

 思わず息を飲んだ。

 身体つきや髪型は由海だった。


 だがその顔は般若はんにゃだった。

 なんのお遊びか、文字どおり般若の仮面をつけていたのだ。由海なりの粋な演出のつもりだろう。

 恐るべきは、その手には――なんと炎のついた松明たいまつが握られていた。

 いささか悪趣味な聖火ランナーにも見えた。


「悪い冗談」


 と、光宗は身を硬直させた。

 般若の少女は松明を持った手とは反対の腕を伸ばした。

 その手にはフラッシュライト。

 あの日(、、、)、由海に貸したままだった軍用ライトだ。


 光を向けられた。

 光宗は眼に受けると幻惑された。

 あまりの眩しさに、思わずたじろぐ。


「センセ――バイ!」


 松明が投げ入れられた。

 スローモーションの動きで放物線を描いてガラクタの陰に落ちる。

 由海のプリーツスカートが花開き、メリーゴーランドのように回転した。


 ひどく懐かしいと思った。

 これと同じ光景をどこかで見たはずだ。それもさほど昔のことではない。

 ――そうだ、由海と視聴覚室での一件だ。疑り深い桂木先生を出し抜き、駅まで仲良く歩いて、別れ際見た場面。

 ひどく初々しい姿だった。

 スカートがまくれあがり、ひざ裏のくぼみが見えた。すでに女の色香の兆しがあった。

 扉が閉まった。すぐにガチャン!と閂のかかる音が響いた。


「ウソだろ!」


 扉に取りつくより先に、火を消さなくては!

 LEDポケットライトを当て、ガラクタとガラクタの間に落ち込んでしまった松明を取ろうと手を伸ばした。


 すでに紙類に火が燃え移っていた。ちろちろとトカゲが舌を出し入れするように燃えているだけだったが、じきに大きく床一面にその勢力を広げていった。

 しかもこの密閉空間だった。

 揮発した蒸気に燃焼し、たちまちコンテナ内は炎で満たされた。

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