その先で得たもの ベル
時系列は前話より後になります。
玄関のドアを開けると、そこには見知らぬ美しい青年が立っていた。
私の知り合いにこんな人はいないはずだ。まじまじと青年の顔を見ながらそんなことを考えていると、私の表情の変化に気付いたその青年は、どこか諦めたような顔で「やっぱり先生、連絡をしてないじゃないか」と呟いた。
「先生?」
「はい、私はマークス教授の研究室でお世話になっている者で、クリスと申します。今朝、教授からこの推薦状を持って貴女を訪れるよう言われたため、ここに来ました」
マークス教授は私が二年ほど前までお世話になっていた学園の教授だ。
あの人は決して悪い人ではない。が、確かにこういうことをしかねない人でもあった。
なるほど、どうやら彼は教授の大雑把な性格の被害者であるようだ。
とりあえず彼が私のお客様だということは分かったので、立ち話も何ですので、と言って私は彼を家に招き入れた。
事情を把握するため、まずは彼の持ってきた推薦状を読んでみた。すると、そこには挨拶文もそこそこに「君、東の隣国の言葉を使える人探してたよね。彼はそこで育ってるから。合いそうなら雇ってあげてよ」と書かれていた。
確かに先々月教授にお会いしたときに、そろそろ人を雇い翻訳の助けをしてもらおうかと考えていると雑談の中で話をした。
そんなちょっとしたことは覚えていてくれたのか。本当に気が利くのか、利かないのかよく分からないお人だ。
「このような形での訪問になりましたが、よければ検討してもらえないでしょうか?」
目の前で折り目正しくそう言う彼は、悪い人には見えなかった。
急な話だけど、折角の教授のご厚意だし、私は彼をまずはお試しで雇ってみることにした。
「ベルさん、終わりました」
そう言ってクリスが差し出した紙を、私は確認し始めた。
彼を雇用するにあたって、まずは試しに一つ翻訳をしてもらったのだ。
隣国にいたのは8歳までだったと聞いて少し不安に思っていたが、クリスは難しい言葉も問題なく翻訳していた。
私とは多少選ぶ言葉は違うが、まぁこの程度は許容範囲内だ。
教授は変わった人だが、学問に関してはシビアだ。
そんな教授の推薦だし、雇うことに問題はなさそうだった。
そこから数日、クリスと仕事をしてみたが、彼は中々にキチンとした男性だった。
雇うと決めた日、最初彼は私のことを『先生』と呼ぼうとした。いくら私の方がいくつか年上とは言え、私はそんな大層なものではない。
先生はいらないと言った私に、しかしお世話になる以上は、と彼は渋った。そこで妥協点として、お互いを『ベルさん』『クリス』と呼ぶこととした。
クリスは私に敬称を付ける、私はつけない。そこで納得をしてもらった。
他にも、私は机の上につい書類を乱雑に積み上げてしまうタイプだが、彼は一つ一つをきちんと片付けられるタイプだった。お陰で、書類を探す手間がぐんと減った。
妙な所作のきれいさといい、きっと育ちがいいのだろうなと思わせるような人だった。
この仕事を始めてから二年、ずっと一人で黙々と本に向かい合ってきた。他人と仕事をすることに若干不安があったけど、キチンと仕事をし、言うべきところは言ってくれるクリスとは中々上手くやれていた。
そんな風に仕事は順風満帆だったけど、一つだけ困っていることもあった。
「おはよう、クリス君。今日も相変わらず男前ねぇ」
「おはようございます、サマンサさん」
「こんな男前と一緒に仕事なんてしてたら恋に落ちちゃうわよねぇ、ベルちゃん」
「ソウデスネー」
その悩みの原因は隣の家に住むサマンサおばさんだった。
私のことを娘のように可愛がってくれてるおばさんだが、何を考えているのか私とクリスの仲を取り持とうとしてくるのだ。
確かに20歳前に嫁ぐ娘が多い中、22まで仕事ばかりしている私は行き遅れの部類だ。心配してくれているのだろうけど、仕事相手にこういうことをされるのは困る。
「ベルちゃんは外国語もスラスラ読めちゃうでしょう?昔からがんばり屋さんだったの」
「確かにベルさんの翻訳はいつも言葉選びがとても綺麗です。言葉が豊かでないとああいう文章は書けないと私も思います」
「そうでしょう~」
あとサマンサおばさんに合わせてくれているんだろうけど、クリスが私を褒めるのがどうにも居たたまれない。
青春時代から本を恋人にしてきた女に、あの笑顔から出る褒め言葉は刺激が強かった。
そんなことはありつつも日々順調に仕事をしていたある日、事件は起きた。
その日私は新しく届いた本入れるため本棚を片付けようとしていた。クリスに紹介してもらったお店の品揃えがよく、ついつい買いすぎてしまったのだ。
ここに残す本と、書庫と化しつつある隣の部屋に片付ける本をさてどう分けたものかと考えていると、ポタリと私のつむじに落ちてくるものがあった。
ん?と思いながら視線を上に向けると、天井に大きく広がる染みが見えた。
これはまさか、と思っていると、ここの管理人さんが私の部屋に走ってやって来て、こう告げた。
「ベルさん、ごめん!!上の貯水槽にヒビが入ったようで水漏れが起きてるんだ。手伝うから濡れたら困るものは、急いで庭にでも出してもらえるかな」
聞いた瞬間、気を失うかと思った。
私の家にあるのは本に書類に原稿に辞書にと、紙、紙、紙ばかりだ。
呆然としかけていた私の肩をそっと揺すり、クリスは「とりあえず大事なものから運びましょう」と言ってくれた。
近所の人にも手伝ってもらい、何とか半日で荷物を運び出すことができた。
ありがたいことに荷物はほとんど濡れずに済んだ。
そのことに心から安堵して、気が抜けていた私に、サマンサおばさんが心配そうに話しかけてきた。
「ベルちゃん、今晩からあなたどうするの?あなた自身の寝床もそうだけど、ここの荷物もいつまでもお庭には置いておけないでしょう。お天気もずっと晴れではないでしょうし。
もちろんベルちゃんだけなら泊めてあげれるのよ。でもごめんなさいね、これだけの荷物が入る場所はうちにはないのよ」
おばさんに言われ、我に返った。
改めて庭を見るとそこは私の荷物で溢れ返っていた。
いくつかは処分するしかないのかと考え出した私に、クリスが予想外の提案をしてくれた。
「ベルさん、よかったらここの荷物、うちで預かりましょうか?」
「ベルちゃん、それがいいわよ。もうあなたごと預かってもらいなさいな」とはしゃぐサマンサおばさんに背中をバシバシと叩かれながら、私は置ける分だけでもお願いします、と答えた。
結論から言うと、私と荷物は全てクリスの家で預かってもらうことになった。
あの後、一旦家に戻ったクリスが手配してくれた荷馬車が何台もやって来て、あれよあれよと言う間に庭にあった荷物を回収していった。
もちろんその中には私の私物もあったので、致し方なく私も一緒に預かってもらうことになったのだ。
私生活の話はあまりしたことがなかったが、クリスは何となく良いところの人間なんだろうとは思ってはいた。
けど今私の目の前にあるお屋敷はその想像を越えていた。
「知り合いの家を間借りしてるんです。住んでるのは私ともう一人だけなので、部屋は余ってたんですよ。なので気兼ねなく使ってください」
そう言われながらクリスに案内され玄関に入ると、そこには一人のおじいさんが立っていた。
「ガランドです。まぁ育ての親のような人です」
クリスにそう紹介され、どこか面映ゆそうな顔をしたその人は、年齢に似合わずピシリと背の伸びた立ち姿の人だった。
こうして私たちの同居生活は始まった。
仕事場で見るクリスはキチンとした青年というイメージだったが、家にいるときの彼は少し違った。
家賃を受け取ってもらえない代わりに食事作りを引き受けた私の作る普通の家庭料理を美味しそうに食べてくれる顔、「年寄りが無理をするな」と、生意気な口をききつつもガランドさんから重い荷物を取り上げる姿、好きな本の話をするときの屈託のない子供のような表情。
整った顔立ちと相まって、作り物めいたイメージをどこか持っていたのだけど、側で見る彼は普通の年相応の男の子だった。
そんな感情が私の中で募りつつあったある日、前日に本に夢中になって夜更かしをしてしまった私は、お昼の片付けが終わる頃にはひどい眠気に襲われていた。
これはいけないと思い、借りている自室に戻ろうとしたとき、リビングのソファで寝転んで居眠りをするクリスを見つけた。
彼も昼食のときに、私と同じ理由で夜更かしをしたと言っていた。昨夜お互いおすすめの本を貸しあったのだけど、これは気を付けないと翌日二人とも仕事にならないなと思いながら、何気なく彼の寝顔をちらりと覗き込んだ。
眠っているクリスは窮屈なソファで寝ているせいか、髪色と同じ柔らかな茶色の眉を、きゅっと寄せていた。
何だかそれが辛そうに見えたので、思わずその眉間にそっと手を伸ばし、指で優しくそこを撫でてみた。
するとクリスは少し身動ぎをした後、小さく寝息を吐き出しながら、表情を緩めた。
その穏やかな表情を目にした瞬間、私の心の中に言葉にできない温かな感情が生まれた。
彼にはこうして柔かな表情でいて欲しい。温かな幸せで満たしてあげたい。
自分の恋心に気付いた瞬間だった。
バクバクする心臓を抱えたまま、私は自室に駆け戻った。あんなにあった眠気は完全にすっ飛んでいた。
部屋のベッドでゴロゴロしながら、心の中で溢れる感情が落ち着くのを待った。
そして少し冷静になったとき、この感情は私の心の中に仕舞っておかなきゃいけないなと思った。
クリスと私は、今は偶然こうして側にいるけどただの仕事仲間だ。彼との仕事はこの気持ちを抜きにしても楽しい。それを失いたくないと思った。
その日からしばらく、側にいられる幸せと、気持ちに蓋をするちょっとした辛さを抱えながら、クリスとの同居生活を送った。
「ベルちゃん、やっと貯水槽と部屋の修理が終わったから、確認に来てもらえないかい?」
借りていた部屋の管理人さんが、クリスの家にやって来たのは、気持ちを自覚して一週間と少しほど経った日だった。
その日の午後は急遽仕事を休みにしてもらい、私は管理人さんと共に部屋に戻った。
そこにはサマンサおばさんもいて、部屋の確認に立ち会ってくれた。
結局水漏れはひどくなる前に止められたようで、家具もほとんどが無事だった。壁紙など一部ダメになったものはこちらで新しく買い換えると言ってもらった。
確認を終え、管理人さんと別れた後、サマンサおばさんは待ちきれんとばかりに私に話しかけてきた。
「ねぇクリス君との生活はどう?ちょっとは仲良くなったのかしら?また離れて生活するようになると寂しくなっちゃう?」
いつもなら呆れたような反応しか返さない私が、黙って何も言わなかったのでおばさんは私の顔を覗き込んできた。
自分がどんな表情をしていたのかは分からない。けどおばさんは私の手をそっと取りながらこう言ってくれた。
「人を好きになると幸せなことも、そうでないこともあるわよね。でも素敵なことだって私は思ってるのよ。
ねぇベルちゃん、気にかかってることが何かあるのなら、おばさんに話すだけ話してみない?」
誰だって本心ばかりで生きてはいない。だから気持ちにちょっと蓋をするぐらい簡単だと思ってた。けれど、恋心を隠すのは考えていたよりずっと大変なことだった。
小さく頷いた私の手を引いて、おばさんは私を自宅に連れていってくれた。
久々にお邪魔するおばさんちのリビングで、お茶を飲みながら私はポツポツと自分に起こったとこを話した。それは曲がりなりにも文章を扱う仕事をしている人間の話だとは思えないほど、まとまりのないものだった。けど、おばさんは最後まで黙って聞いてくれた。
「正解のないことだもの、難しいわよね。でも、だからこそ私は、ベルちゃんの気持ちを優先して欲しいわ。自分がどうしたいかしっかり向き合ってみて」
今の関係を失いたくないと思っていたけど、気持ちを押さえているのも辛かった。自分がどうしたいか。その日から私は自分の心にそれを問い続けた。
それからしばらく経った休日の前夜、私たちはすっかり恒例になったおすすめの本の交換会を行っていた。
今回の私のおすすめは私が初めて手にした物語だった。
「この本は絵本以外で初めて両親に買ってもらった本なの。あなたにはまだ早いわよって言われたけど、近所の憧れてたお姉さんが読んでたからどうしても読みたくて、ワガママを言ったの。結局一人じゃ分からない言葉が多くて少しずつ一緒に読んでもらったの。もちろん内容もすごくいいんだけど、思い入れのある作品なの」
私が差し出した本を受け取り、それをじっと眺めながら彼はポツリとこう言った。
「貴女は両親にとても愛されていたんですね」
その響きが余りにも寂しげだったので、私は思わず彼の顔をじっと見てしまった。
その視線に気付いた彼は少し苦笑いをして、「すいません、羨ましかったのでつい」と言った。
そうだ、クリスは最初にガランドさんのことを育ての親と言っていた。
「ごめんなさい、私無神経なことを……」
「大丈夫ですよ、気にしないでください。それに、あんな声音で言ってしまったのは俺ですから」
そう言って薄く笑う彼は、ひどく寂しげな顔をしていた。家に一人残されてしまった子供みたいな顔だった。
クリスにそんな顔をさせたくなくて、私は気付いたら彼を抱き締めていた。
関係性とか、私の気持ちとか、今まで色んなことを考え続けていたはずなのに、そんなことは全てどうでもよくなっていた。ただ、あまりにも寂しげなクリスに、貴方は愛されてると伝えたかった。
どうか貴方の心が少しでも満たされますように、そんな祈りのような気持ちを込めて、腕の中にいる彼に愛していると伝えた。
どれぐらいの時間が経ったのか、5分なのか、それ以上なのか、それとも一瞬だったのか、腕の中にいたクリスが身じろいだ。
ハッと我に返り、腕を緩めた瞬間、今度は彼に強く抱き締められた。
さっきまではあった隙間まで埋めるかのようにぎゅうぎゅうと抱き締められた。
抱き締めたまま私の耳の横ではぁと息を逃したクリスは、「ありがとう、ベルさん」と小さく呟いた。
この後私たちがどうなるかは分からなかった。けど私はそれでも彼に気持ちを伝えてよかったと思った。
しばらく無言で抱き締められていたが、最後にぎゅっとさらに強く抱き締められた後、クリスは腕を緩めた。
視線を上げると今までにない距離にクリスの顔があり、私の顔は一瞬で耳まで真っ赤になってしまった。
そんな私の反応を見て、クリスは俯いてくつくつと笑い始めた。
「悪かったわね!!」と自棄になって叫んだ私に、「俺は悪くない気分だよ」とクリスは返してきた。
「ベルさんの文章はいつも言葉が優しくて、この人はとても素敵な人なんだろうなってずっと思ってたんだ。
その気持ちはうちに来て、俺たちが料理を食べるのを優しく見守ってくれる顔とか、何でも自分でしようとするガランドをそっと手伝ってくれるところとか、本の話をするときのキラキラした顔とか、そんなのを見てるうちに膨らんでいったんだ。
ありがとう、ベルさん。俺も貴女の言葉で、貴女を愛してるって気付けたよ」
そう言ってクリスは今度は包み込むように、そっと私を抱き締めた。
そのまま、何をした訳でもなかったが、私たちは朝まで一緒にいた。
翌朝、ちょっと気恥ずかしい気持ちを抱えつつ、ダイニングに二人で降りると、そこには既にガランドさんが座り、コーヒーを飲んでいた。
並んで立つ私たちを見たガランドさんは、それは眩しそうに目を細めた後、こう言った。
「私はクリス様からお話を聞いていた頃から、似た者同士の似合いの二人だと思っておりましたよ」
ガランドさんはクリスのことをよく知っているとは思っていたが、まさかこんなことまですぐ見抜かれるとは思っていなかった。
真っ赤な顔で何も言えずにいる私たちをよそに、ガランドさんは今日はとびきりの茶葉を下ろしましょうかね、と微笑んでいた。
評価、ブックマークいつもありがとうございます。
クリスを幸せにしたいと思い書きました。
これで恋愛ジャンルと胸を張って言えるようになったかなと思ってます。
後ひとつ盛り込みたい要素があったのですが、取りこぼしたものは他にもあるので、シリーズ作品にして短編集を作りました。
そちらもお付き合いいただけますと幸いです。
感想を含め、何かございましたらお手数ですが下に設置しているWeb拍手か、マイページのメッセージよりお願いいたします。




