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蛇足の先 クリストファー

レイナルドの息子の話です。

長くなりました。

朝の身支度は15分もあれば終わる。


顔を洗い、歯を磨き、貴族にしては短すぎる髪を簡単に後ろに撫で付け、服を着替える。服ももう長らく貴族然とした堅苦しいものは着ていないので、着替えるのも早い。


最後に念のため、数少ない使用人のうちの一人であるガランドにチェックをしてもらえばそれで終わりだ。


使用人に確認させるのは、俺の身の回りには鏡を置いていないからだ。髪を10年来短くしているのも、自分の視界に髪色が映らないようにするためだ。


それぐらい、俺はこの母に瓜二つの顔と髪が嫌いだ。



小さい頃はそうではなかった。おべっかを使う周囲の大人の容姿をほめる言葉を子供ながらに満更でもなく受け取っていた。


しかしそんな周囲の大人の視線の違和感に気付いたのは何歳の頃だったか。


何とも言えない、ベタつくような不快な視線をたまに感じるようになった。遠くからこちらを見る顔が笑っているのに何故か怖く見えた。


今なら十分に分かる。あれは不義の子を見る嘲笑の目だったのだ。



自分が不義の子であると理解したのは8歳のときだった。それまでも大人たちの視線や自分の周囲で囁かれる言葉で、漠然とした不安のようなものは感じていた。でもそれが確かな形になったのはあのときだった。



その日俺は街に出ていて、偶々買いたいものを一つ思い出し、予定になかった店に立ち寄った。店内に入ってすぐ使用人たちがざわつきだし、店を変えるよう促してきた。


不思議に思いながら店内に視線をやったそのとき、視界を塞ぐように立っていた使用人たちの隙間から、一人の女と目があった。

ひどく驚き、恐ろしいものでも見るような顔をしたその女は、俺と同じ顔と髪色をしていた。


「マリー様こちらへ」と手を引かれていく女の名を聞いて、その女が乳母であったことを思い出した。急にいなくなった一番懐いていた乳母だった。


ここから引き剥がそうと焦る使用人たち、どこか腫れ物のように接してくる陛下、ときどき何かを恐れるように俺を見てくる父、突然いなくなった俺とそっくりの乳母。


なるほど、あの女が俺の母親なのだなと誰に説明された訳でもなかったが、理解した。



それまでも不安は感じていた。けどちゃんと自分はどこかに立てていると思っていた。けれどその瞬間、自分の信じていたものが足元から崩れたように感じた。


そのまま動けなくなった俺の視界をガランドのしわの多い手がそっと塞いだ。その日、そこから城までどう帰ったのかは覚えていなかった。



気付いたら自分の部屋にいた。かなり時間が経っていたのか、テーブルに置かれた紅茶はすっかり冷めていた。喉がひどく乾いているように感じたので、淹れ直そうとするメイドを手で制し、そのカップへ手を伸ばしたそのとき、視界の端に動くものが目に入った。


そこには鏡があり、そこにさっき見た女と同じ見た目をした子供が映っていた。



その瞬間に湧き上がった感情のままに、カップを鏡に投げつけた。


悲鳴を上げたメイドを無視し、俺は立ち上がり書斎机の引き出しに手を伸ばした。そこからハサミを取り出し、自分の髪を掴み、乱雑に切り落としていった。


目に映る髪を全て切り終わる頃、護衛を連れたガランドが部屋に飛び込んできた。いつも穏やかな表情しか見せたことのなかった執事は泣きそうな顔でハサミを取り上げ、俺を抱き締めてきた。


細い老人の腕だった。でも振りきることもできず、俺はされるがまま抱き締められていた。



しばらくして俺が落ち着くと、ガランドは人払いをして老骨の独り言ですと前置きをしてからポツポツと話をしてくれた。


父のこと、母とされている人のこと、実母のこと。


そこから数年後に何故あのとき話をしてくれたのかと本人に聞いたことがあった。貴方には噂でも、他人の意図が入ったものでもなく、事実を知る権利があったからです、とガランドは答えてくれた。


全てを話し終えた後、ガランドは俺の目を真っ直ぐに見て、「クリストファー様はどうなさりたいですか?」と聞いてきた。


色々な考えが頭の中でグルグルしていた。けれども一つだけはっきりしていたことがあったので、俺はそれを口にした。



「父上のいるここにいたくない」



それを聞いたガランドは大きめの鞄を取り出し、手際よく荷物を詰めていった。着替え、本、その他色んなものを詰め終えた有能な執事は俺に向かってこう言った。



「では、家出と参りましょうか」




連れてこられたのは、母が最期を迎えた場所である物静かな離宮だった。


確かに客間を使うにも理由がいるし、別棟の建物で今空いているのはここぐらいだった。何とも皮肉だなと思いながら、俺はその離宮に足を踏み入れた。


何も聞いてこなかったが、ガランドは迷うことなく二階へ俺を案内してくれた。


階段を登った先、重たいドアの向こうは一見普通の屋敷と同じだった。でもさっき聞いた話のせいか、ひどく寂しく見えた。



主寝室に案内された後、しばらくすると風呂へ連れて行かれた。


バラバラになっていた俺の髪をメイドが整え、そのまま風呂に入れられた。いつの間に準備したのか浴室の鏡には全て布が掛けられていた。


寝室に戻ると、ベッドはすっかり整えられていた。本当に手配のいい執事だ。


ベッドのサイドボードには、母の遺品のオルゴールが置かれていた。ここ数年はただの置物にしてしまっていたが、その日は久々にあの音色が聞きたくなって、ゼンマイをジリジリと回した。


東国のものなのか、この国のものではない独特のメロディが静かすぎる離宮に響いていた。母はここで、どんな気持ちでこの曲を聞いていたのだろうかと思った。


眠れないかと思っていたが、オルゴールのメロディに誘われるように、俺は眠りに落ちていった。



そこから数日、俺は離宮に立て籠った。


幽閉に向く場所は立て籠りにも向いていた。大体の来訪者は階段の前のそのドアのところでガランドに追い返させた。しかしその守りは、予想外の人物によって破られることとなった。



その人物とは、従兄弟のハンクスだった。



「ずいぶん髪を短くしたな。まぁ似合ってるぞ」


応接室で私的な場では久々に顔を合わせた年上の従兄弟は開口一番そう言った。

嫌われていると思っていた従兄弟からの軽い挨拶に俺は思わず驚きを顔に出してしまった。


「驚くのも当然か。あの頃は俺も自分の感情が処理しきれずお前にひどく当たってしまったからな。すまなかった」


物心がつく頃からハンクスには辛辣に当たられていた。昔は理由が分からず悲しく思っていたが、今ならそれはよく分かった。

不義の証拠を顔に張り付け生きる俺は、王家からすれば忌むべき醜聞だったのだろう。


「ハンクス兄様が謝ることではありません。元は父の問題です」


「よく考えろクリス、お前の父親だけの問題である訳がないだろう。間違いなく王家の血を引くとはいえ、母親を偽ったのだ。叔父の一存でこんなことができるものか。


間違いなく陛下も関係しているんだよ」


ここは私的な場であるのに、ハンクスは吐き捨てるように『陛下』と言った。この人も父親に複雑な感情を持っているのかもしれないと漠然と思った。


「俺はもう18だ。今回の件も含めて、陛下に俺を立太子させ、譲位の時期を決めるよう圧力をかける。


一人の女性の犠牲ではこの国の体制は揺るぎはしない。だが、人の心にその所業は残るものだ。もう陛下の求心力は失われるばかりだろう」


そこまで言ってから、少し表情を和らげてハンクスは続けた。


「お前知ってるか?陛下たちのせいで、俺はこの年なのに婚約者候補はいるが、誰も内定してないんだぞ?まぁ娘親なら気持ちは分かるが、近隣諸国でこんなにモテない王子様も俺ぐらいなものだ」


わははとわざとおどけたように振る舞うハンクスに答えるように、俺は数日ぶりに少し表情を和らげた。



「俺は陛下の長子だ。感情は色々あれど、この国への責任から逃れることはできない。

けど、お前は違う。この国に縛られる理由はない。


だからクリス、お前隣国へ留学でもしてみないか?」



ハンクスからの思いがけない提案に俺は驚いた。

この国を出る。考えたこともないことだった。


「返事はいつでもいい。選択肢の一つとしてゆっくり考えなさい」


ハンクスは優しく俺を見つめながらそう言った。



そこから数日、一人の部屋で色々なことを考えた。

これが最善なのかは分からないが、俺はハンクスの提案を受けることにした。



決断を伝えてからは早かった。きっと俺が事実を知る前から少しずつ準備をしていてくれたのだろう。


一週間ほどで、俺は西国へと出発することとなった。



出国前に一度だけ父と会った。会えば殴ってしまうかと思っていたが、暗い目をした男を前に、そんな感情の揺らぎは起こらなかった。


ただ淡々としばらく帰国する気はないこと、できれば西国なり外国でずっと暮らしたいと思っていることを伝えた。


父は黙って聞いていたが、最後に絞り出すような声で「すまない」と言った。


許せるはずはなかった。

しかし同時にもうこの人に何か伝えたいという気持ちも湧かなかった。


だから俺は無言で彼に背を向け、その場を立ち去った。



そうして西国に来て、早いものでもう10年以上経っていた。


昔は言葉なり習慣なりで苦労をしたが、今やどちらも俺の体にすっかり馴染んでしまった。


西国の学園も卒業し、今は研究生という名目で文学の先生の元に出入りをしている。


かなり時間に融通が利く身分なので、その日も俺は日中にふらふらと街中の本屋を巡っていた。


三軒目に寄った本屋の店主から、最近近くの商会が外国語の本の扱いを充実させていると聞いたので、最後にその店にも寄ってみることにした。



雑貨や食品、衣類など色々なものがある店内の一角に書籍のコーナーを見付けた。なるほど、店主が言うように確かに珍しい本が沢山並べられていた。


タイトルを眺めていると、隣に俺より年若い女性の店員がやって来て、新たに本を並べ始めた。


作業が終わったらそれらのタイトルも見ようと、少し横にずれて待とうとしていた俺の耳に、突然懐かしいメロディが聞こえてきた。


それはあのオルゴールのメロディだった。


そのメロディを小さく口ずさむ少女の手を俺は思わず取ってしまった。



「あの、お客様?」


困った顔をした少女が俺を見上げていた。


俺は慌てて手を離したが、近くにいた彼女にどこか似た男性が急いでこちらにやって来た。


「お客様、彼女が何か無作法でも致しましたか?」


セリフは客に向けるものだが、視線はビシビシと俺を刺すような鋭いものだった。


子供の頃聞いていたオルゴールの音色と同じだったので思わず反応してしまった、だなんて、下心で彼女に声をかけようとしたと言うより何だか恥ずかしく思えた。


しかしこのまま黙っているとこの男性に店から摘まみ出されそうな気がしたので、俺は恥ずかしさを噛み締めながら正直に理由を告白した。



「陶器でできた小鳥のオルゴールとおっしゃいましたが、もしかしてそれは白色で小鳥は二羽いませんか?」


リディアと名乗った少女の問いかけに、俺はメロディを聞いたとき以上に驚いた。


「それはそうですが、何故分かったのですか?」


「多分、うちにも同じものがあります」


彼女のその答えに、俺は思わず身を乗り出して、そのオルゴールを見せてもらえないか頼み込んだ。


「うちのオルゴールは数年前に壊れて鳴らなくなってしまったんです。あれは母の形見なので、もし可能ならもう一度あのメロディを聞きたいんです」


そう頼むと、リディアと彼女の兄のジェームズは快く引き受けてくれた。



通された応接室でしばらく待つと、リディアがうちの物と全く同じオルゴールを持って現れた。


ゼンマイを回してもらうと、小鳥が舞い、懐かしいメロディが流れた。


この国に来てからも何度も聞いたメロディだった。


噛みしめるように聞いていると、ジェームズが俺に声をかけてきた。


「もしよろしければ、そのオルゴールお預かりしましょうか?陶器は東国の特有のものですが、オルゴールの機構自体はどこでもそう変わりませんし、ここにちゃんと動くものもあるので恐らく修理できると思います」


「本当ですか!?」


「はい。我々はあと一ヶ月はここにいるのでいつでもお持ちください」



ジェームズたちと明日にまた訪れる約束をし、俺はその日はすぐ家に帰った。

普段はふらふらと夜まで帰らないことも多い俺が日も高いうちに帰ってきたので、ガランドは何かございましたか?と聞いてきた。



「あのオルゴールを直してもらえそうなんだ」


「オルゴール、と申しますと……リリア様のオルゴールですか?」


「ああ、それだ。今日偶然立ち寄った店で同じものを持った兄妹に会ったんだ。久々にあの曲を聞かせてもらったよ」


この店だ、とカードを見せると、ガランドは珍しく感情をあらわにした。


「ここは何かあるのか?」


「……ええ、覚えておいででしょうか。あのときお話ししたリリア様の妹様が嫁がれた商会です」



オルゴールを聞いたときから浮き足立っていた気持ちが急に冷めさせられてしまった。


母の妹、つまり俺の出自に巻き込まれた人たちがあの店にはいるということだ。



今日会った兄妹は何も知らないようだったが、俺が訪れることで、折角塞がっていた傷が再び開く人がいるかもしれない。


「そうか、ならオルゴールの件はキャンセルをすべきだな」


久々に空しさを感じながら俺が言うと、ガランドは珍しく懇願するかのように俺に言ってきた。


「いえ、このオルゴールは妹様にお見せするべきなのです。ぜひこのオルゴールがリリア様に届いていたことを伝えていただけませんか?」


贈り物が届いていたことを伝える、当然のことではないかと思ったが、当時の母の環境を思うとそうでもなかったのかもしれないと思った。


そしてその伝言をする必要があるとガランドが思うということは、母の妹はその環境を知っていたということだ。つまり、恐らく俺のことも知っている。


久々に自分の正体を知る人間に会うのは怖かった。けれどそれより、普段は何より俺を優先しようとする老執事の願いを叶えてやりたいと思った。



翌日、俺は約束通りオルゴールを持ってフィルバード商会を訪ねた。


店員に約束をしていることを伝えると、昨日と同じく応接室に通された。


てっきりオルゴールを預けるものだと思っていたが、兄妹は技師を連れて応接室に現れた。


「一度調べて、簡単なものならここで直します」と言って技師はオルゴールを持って下がっていった。



修理を待つ間に、俺は兄妹にこのオルゴールは本国のこの商会で昔買ったこと、そのことでこの商会の夫人に伝言をしたいことを伝えた。


するとリディアは「それなら、母を呼んで参ります」と部屋を出ていった。


母親?と残された俺が疑問に思っていると、ジェームズが彼らが商会を経営する一家の人間であることを教えてくれた。



しばらくすると、リディアは彼女にどこか似た女性と共に戻ってきた。


母の肖像画は20年ほど前のものしかないため、俺が知る母の姿はその頃のものだけだった。目の前の女性はその母の面影を色濃く残していた。



何から話すべきかと俺が悩んでいると、アリアと名乗ったフィルバード夫人は兄妹に席を外すように言った。


ジェームズは少し訝しげな顔をしたが、リディアに袖を引かれながら出ていった。



少し沈黙が落ちたあと、意を決した俺は夫人に話しかけた。



「もしかしたら貴女に不快な思いをさせるかもしれません。それでも最後まで聞いてもらえればと思います。


今日修理を依頼したオルゴールは元は私の母のものでした。


母の名はリリア、旧姓はアーバインです。


ある者から、あのオルゴールは無事母の手元に届いていたことを貴女に伝えて欲しいと頼まれました」


俺が一息にそういうと夫人は目を潤ませ、そっと笑みを浮かべたあと、本当にお優しい方、と独り言のように呟いた。


そして俺に向き合い、こう言った。


「ご伝言、届けてくださってありがとうございます。私もご伝言を貴方に預けた方へずっとお礼を申し上げたかったのです。


あのときも、今回も、お気遣いくださったことに私が本当に感謝していたとお伝えいただけませんか?」


「分かりました。必ず伝えます」



そこからオルゴールの確認が終わるまで、夫人としばらく話をした。


この店には本目当てで来店したと話すと、あれは私のこだわりなんですと教えてくれた。


夫人は俺の存在に思うところがない訳ではないだろうに、そんな話題には少しも触れてこなかった。


あまりにもその対応が優しく、自然なので俺は思わず、「貴女は私という存在に思うところはないのですか?」と聞いてしまった。


声にしてからひどく卑屈なことを言ってしまったと思った。しかし声に出してしまったものは取り消せなかった。



少し考えたあと、夫人は俺にこう告げた。


「貴方の生まれた環境については色々とあります。しかし貴方は生まれてきただけでしょう?私の感情を向ける先は貴方ではありません。


それに貴方はこうして『母』の遺品としてあのオルゴールを持ってきてくれた。あのお城で姉をこんなに悼んでくれた人に感謝こそすれど、何かを言うことはありません」


「けれど私は……」


あの日までは本当の母だと信じていた。でも真実を知ってからは、『母』と呼びつつも同じ被害者として同情のような気持ちの方が強かったかもしれない。


夫人にそう言ってもらえるほどのものではないと、否定しようとした俺を遮り、夫人は言葉を続けた。


「私の目にはそう見えているんです。だから私にとっての貴方は姉の子としてただ生まれ、姉を母として愛してくれた甥っ子です。


ありがとう。私、今日こうして貴方に会えてよかったわ」




今までずっと自分は許されない存在だと思っていた。ハンクスもガランドもそれは俺の罪ではないと言ってくれていた。けれど彼らはこちら側の人間だ。ずっと罪悪感は胸の中に残っていた。


けど、今こうして死んでしまった母の半身たる夫人が、俺が生きていることを認めてくれた。罪はないと言ってくれた。


初対面のご婦人の前で、と脳内では冷静に思っていたが、目から溢れる涙を止めることはできなかった。


いい歳をして、ただひたすらぼろぼろと泣いた。


8歳のあの日、泣くことすらできなかった子供の頃の分を取り戻すかのように、しばらく俺は泣き続けた。



自分の物と、夫人が差し出してくれたハンカチがぐしゃぐしゃになる頃、やっと俺の涙が止まった。


落ち着いた頃を見計らい、夫人はお茶を新しくしますね、と店員に声をかけに行った。


しばらくして、新しい紅茶と共に、先ほどの技師が戻ってきた。


「ハンドルの根本が外れていただけでした。きちんと嵌め直しましたので、問題なく動くようになりました」


そう言ってオルゴールを俺に渡してくれた。


確認のためゼンマイを回すと、昨日も聞いたメロディが流れ始めた。


技師に礼を言おうとすると、彼はエプロンのポケットから一枚の金属のパーツを取り出した。


「これはオルゴールの底に嵌め込まれているパーツなのですが、内面に傷があったので新しいパーツと交換しました。ただ、この傷が何か書いてあるようにも見えるんです。

私はここの言葉しか分からないのですが、何か思い当たるところはございますでしょうか」


そう言って差し出されたパーツを受け取り、夫人と共に確認した。


これは物心つく前から持っているものだ。記憶はないが何かをしていてもおかしくはない。


光を当てて見てみると、確かにピンで付けたような傷で文字のようなものが書かれていた。それは久々に見る母国語だった。



「また……?私?『私とまた踊ってくれる?』か?」



解読した文字を読み上げると、目の前にあった夫人の手が震えだした。


視線を顔に向けると、何かに耐えるように、ぐっと目を瞑っていた。



「私には覚えがありません。オルゴールは直りましたし、古いパーツはそちらで処分をしてもらうため、お渡ししてもいいですか?」


彼女の手にそっとパーツを乗せながら、俺はそう言った。


夫人は少し息を吐き出した後、「承ります」とそのパーツをぎゅっと両手で握りしめた。



その後は二人でゆっくりと、無言でお茶を飲んだ。


お茶を飲み終わる頃、夫人が二人ともこんな赤い目では表にはご案内できませんね、と言って俺を裏口まで案内してくれた。


夫人にハンカチは後日洗って返すと約束をし、俺は商会を後にした。




赤くなった目とぐちゃぐちゃの二枚のハンカチ、これらをさてどう誤魔化したものかと考えたが、俺のことを俺以上に理解するあの執事を煙に巻くのは恐らく無理だろうと思った。


となれば、奴も道連れにするまでだ。


今日のことを全部話して、あの使用人の鑑みたいな男を泣かせてやろう、そう思いながら俺は家へと帰った。

評価、ブックマーク、コメントありがとうございます。


色々要素を詰め込もうとしたため長くなりました。

辻褄を合わせたらご都合主義にはなりましたが、温かく見逃してもらえたらと思います。


できればもう一話、彼を幸せにする話を書けたらと思っています。

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