柳生但馬守
辺りは夜闇が包む、暗黒の世界と化した。
と、その瞬間、陸郎の鏡の先が、急に『無』となった。
何もない。
映し出すものがなければ、鏡には何も映らない。
しかし陸郎はそれを『驚』とはせず、まだ鏡であることを守り続けた。
二人が歩み寄る。
二人の身体は闇のなかで、ほぼ触れ合うほどに近づいていた。
月を覆っていた雲が流れると同時に、二人は互いの背後へとすり抜けていった。
見ていた十兵衛が、驚愕の声を洩らす。
「まさか……父上と相身して『抜ける』など――父上と同格ということなのか…?」
「!」
左門がきっとした目つきで、十兵衛を振り返った。
「……私の…負けでした」
陸郎が静かに言った。
「一瞬、私は但馬守様が『無』になられた時……『虚』を持ちました。けど、但馬守様は敢えてそこを見逃しました……。私の完敗です」
「久澄陸郎――よくそこまで新陰流の奥義に達したな。恐るべきものじゃ」
ふっ…と、但馬守が微かに笑いを洩らした。
陸郎は頭を下げた。
「失礼をお許しください、但馬守様。私の誤解でした」
「うむ……」
陸郎の突然の謝罪に、美木はその意味が判らなかった。
「久澄! いったい、どういう事だ?」
陸郎は美木と、そよに向かって話し始めた。
「但馬守様には……邪心がありませんでした」
「な――んだと?」
「もし、但馬守様が陰謀を企み、意図的に他家を潰しておいでならば、必ずその邪心が剣に現れます。――けれど、但馬守様の剣には、その邪なところがなかった……。私の誤解でした」
陸郎は目を伏せた。
美木は納得しかねるように、但馬守に口を開いた。
「しかし、そうならそうと…何故、最初に仰られなかったのですか?」
「証のない事を言い立てて何になろう。人は己が信じたいことを信ずる。時には証があったとて、その証に反してでも自分の信じたいことを優先するものじゃ。語ることは時に無力にすぎる」
但馬守の言葉の真意を図りかねて、美木は黙った。
「将軍様の噂のことを知っておろう」
「はい」
「――その家光様の他ならぬ相手が、この左門だとしたらどうじゃ?」
陸郎も美木も、そよも聞かされる事実に驚いた。
左門は口惜しそうな表情で横を向く。
「惣目付が息子の色仕掛けで政の権勢を握ったなどと世に騒がれててはならんのじゃ。わしは真面目に家光公の嫁を探し、春日から妹が左門に似ておると聞いて、これなら…と思い輿入れの件を達之丞に申し入れたのじゃ。そして実際に目にして、この娘ならばあるいは…と思った。――しかし、それがその娘には災いとなったようじゃの。……すまなんだ」
但馬守は達彦の亡骸の傍にいる、地面に座ったそよに頭を下げた。
そよは動揺して声をあげた。
「そんな! おやめください、但馬守様!」
但馬守は顔を上げた。
「お前たちの動向は探らせていたが、途中で黒川らの襲撃に合い、お前たちを見失ってしまったのじゃ……遅かった。それがお前たちをさらに危険に晒してしまった…」
但馬守は虚しさを隠し切れない表情で言葉を続けた。
「――幕府は自らの体制を不動のものにしようと必死じゃ。特に、老中の土井殿は手段を選ばず、各大名の力を削ぐことに躍起になっておる。各大名の家族を江戸に住まわせる参勤交代も、土井殿の思案じゃ。しかし、これとて一概に非難できようか。それもこれも幕府による泰平のためと、老中殿は心得ておる」
但馬守は息をついた。
「……しかし、そんな武断の政治で、いつまでも人が従うはずはない。やがて押さえつけられ、積み重ねられた不満と怒りを持つ人々が、反逆ののろしをあげる時が来るであろう……。しかしそこで手をこまねいていては、世はまた乱世に戻ってしまう。わしの役目は、少しでもその動向をいち早く察知し、未然に防ぐこと。そして幕府の膝元である、江戸の治安を守ることじゃ。
――わしの力はごく一部。逆に、土井殿の力とてごく一部。全てをほしいままにできる者などおりはしない。その働きかけと働きかけが拮抗し、様々な事が起こる。今回の一件も、まさか土井殿に知られようとは思わなんだ――」
「そうでしたか……」
陸郎はその惣目付の姿に、一人の苦悩する人間の姿を見た。
但馬守は改まって二人を見て、心苦しそうに言った。
「しかし――実は、もうその必要もなくなったのじゃ。この内密に進んできた輿入れの話は、実は取りやめることになった。明日、それを佐久間家に伝えにいく予定だったのじゃ」
「……なんですって!?」
陸郎もそよも、驚きの声を隠せなかった。
「いったい……どういう事ですか?」
「わしとは別に家光様の性癖に憂慮されていた春日局様が、お振という娘を男装させて近づけたところ、そこにお手付きになったということが知らされた。そのお振を輿入れさせるため、今回の輿入れの件は取りやめることになったのじゃ」
「そんな――_」
陸郎はあまりの急な話に、ただ絶句するしかなかった。
「こんな馬鹿な話で……こんなに大勢の人が亡くなったというのですか?」
「すまぬ――としか言いようがない」
但馬守は陸郎とそよに詫びた。
「せめてもの事だが、今回の騒ぎでお家騒動沙汰にしないことだけは、わしが確約する。また久澄陸郎、そなたの家老殺しの嫌疑もわしから佐久間家へ証をたてよう。……それで、国元へ戻ってくれ」
但馬守の言葉を聞いて、陸郎は少し考えていたが、やがて口を開いた。
「ありがとうございます……が、私は国へは戻りません」
「陸郎さま、何故ですの!?」
そよが陸郎に問うた。
陸郎はそよを見つめながら言った。
「私は鳥山さんを死なせ、多くの国の人と争ってしまった…。そんな私が国で暮らすのを、面白く思わない人も出るだろう。――私は、武士を捨てる」
「久澄! 貴様、それほどの腕になって、剣を捨てるつもりなのか?」
美木が驚きと怒りを含んだ声をあげた。
「いえ、武士を捨てるだけです。剣を捨てるのではありません」
「では――この先、どうするつもりだ、久澄?」
「空斎先生の処へもう一度行き、今度は医術を学ぼうと思います」
そう美木に告げた陸郎に、但馬守が口を開いた。
「久澄陸郎、わしの下で働く気はないか?」
「…影廻としてですか? ――すみませんが、お受けできません。私は、何が国の大事か、誰を斬ってよい人間かということを選ぶことはできません。私は、人を守るためにしか剣を抜けないのです――」
陸郎の柔和だが、毅然とした態度に、但馬守は残念そうに微笑んだ。
ではいくぞ、と息子たちに告げ、但馬守はその場を去った。
「――美木どの、そよ殿を国屋敷までお願いします。後のことも――」
「お前はどうするつもりだ?」
「私は、蛍庵先生の処へ行き、それから空斎先生の処へ旅立とうと思います」
「そうか……判った」
美木は頷いた。
「陸郎さま……」
そよが涙ぐむ目で陸郎を見つめた。
陸郎は、軽く微笑んで、そよを見つめ返した。
「実は、今回の一件がもし無事に済んだら、武士を捨てて医者になろうと心中で決めていたのだ。……そよ殿、国に戻っても達者で暮らすように」
そよはそれ以上何も言えなくなって、ただ顔を伏せた。
*
陸郎は蛍庵の処へ帰る前に、葦原に足を延ばした。
赤い格子で彩られた遊郭は、侍や商人たちの男が大勢でやってきている。
陸郎は案内役らしい男を捕まえると、その男に訊ねてみた。
「すみませんが、静という女性はいますか?」
「お侍さん、客かい?」
「いえ――堀田左近の使いの者だと、そう伝えてほしいのです」
左近の名を聞いて、男の様子が少し変わった。
「おう、そうかい。んじゃあ、ちょっと待ってな」
男は店の中へ消えていく。
陸郎は場違いな雰囲気を感じながらも、ただ待っていた。
しばらく待っていると、一人の艶やかに着飾った遊女がやってくる。
遊女は陸郎の処までくると、まだあどけなさの残る声を出した。
「堀田様のお使いの方?」
「はい、そうです。静さんですか?」
「そう」
静はにっこりと微笑んだ。
「これを――左近から預かりました」
陸郎は懐から、かんざしを取り出して渡した。
静はそれを受け取ると、僅かに微笑んだ。
「それで……堀田様は次はいつ見えるんですの?」
「左近は……もう、来れません」
陸郎は、隠しようもなく正直に言った。
静はそれを聞いて、急に不機嫌な声を出した。
「じゃあ何? これは手切れか何かのつもりなの?」
「……左近は死にました」
「嘘――_」
静に何と言っていいか判らない陸郎は、ただそのままを伝えた。
「本当です。今日のことです。息を引きとる時に、貴女にこれを届けてくれと言われて、持ってきたんです」
静は陸郎の顔をじっと見ていた。
「……嘘つき」
「いえ、嘘じゃないんです」
陸郎は言った。
静は後ろを向いて背中を見せた。
「嘘つきよ――だって、迎えに来るって言ってたのに」
静は言った。
「貴女のために家を借りてました。左近は、嘘をつくつもりじゃなかった。本当なんです」
「――けど来ないんじゃない!」
静が急に振り返って、陸郎に抗議した。
その瞳には、涙がにじんでいた。
「結局、来ないんだったら嘘つきよ! もういいわ、帰って!」
「……ホオズキの鉢植えを、左近に渡したのは貴女ですか?」
陸郎は不意に思い出して、静に訊ねた。
静はそうだけど、と答えた。
「貴女から貰った鉢植えを、国の家に持って帰って、庭の片隅に植えてました」
それを聞くと、静は妙な笑い声をあげた。
「馬鹿みたい! それが何だって言うのよ」
「……それだけです。すみません、それじゃあ――」
陸郎はきびすを返して、その場を立ち去ろうとした。
その背中に、静の声がかかる。
「ホオズキの意味、判ってないんでしょ?」
陸郎は振り返った。
「ホオズキの意味?」
「ホオズキはね――堕胎に使う薬なのよ」
静は涙の滲んだ眼で、口元で自嘲めいた笑みを浮かべた。
(それじゃあ、あの鉢植えは……)
子どもの墓標だったのか、と陸郎は思い至った。
「……さよなら。貴方の顔、二度と見たくない」
静はそう言うと、きびすを返してその場を走り去っていった。
陸郎の胸に、痛切な寂しさがこみ上げてきた。
翌朝早くに、陸郎は蛍庵とお園に見送られ、京橋のたもとまでやってきていた。
まだ朝もやが残り、人気はまったくない。
「――蛍庵先生、お園さん、お世話になりました」
陸郎は礼をした。
蛍庵は陸郎に微笑みながら言った。
「まあ、親父どの下で医術を学んだら、今度はうちに来るといい。実地で二、三年やりながら、じっくり医の道も見つければいいさ」
「蛍庵先生、ありがとうございます。その時は、よろしくお願いします」
「うん、達者でやりな。親父どのに、よろしく」
「はい。お伝えしておきます。それでは――」
陸郎は礼をすると、木造で大きな弧を描く京橋を上がり始めた。
(――どうするべきか判らないが…歩いてみよう。この道を)
陸郎はふと胸のうちで呟いた。
陸郎は歩き進んだ。
その視線の先に、逆の橋のたもとに立っている人影がある。
そよと美木利光だった。
陸郎は驚きのなかで、二人に近づいた。
「……お園さんが、教えて下さいましたの。今朝早くに出立するって」
「そう…か」
陸郎は、見上げてくるそよの瞳を見つめ返した。
そよがその唇を開いた。
「陸郎さま……わたくし、陸郎さまと一緒に行きます。行かせてください」
そよの真剣な眼差しを、陸郎は不思議な気持ちで見守っていた。
胸のなかに、陽だまりができたように、凍てついたものが溶けていった。
(ああ……そうか――_)
陸郎は悟った。
「そよ――」
陸郎は、その口から出る言葉を、その自然に任せてそよに告げた。
「そなたを、誰よりも愛おしいと思っている。……私とともに、歩いてくれ」
「陸郎さま!」
そよが陸郎の胸に飛び込んだ。
陸郎は優しく、その細い身体を抱き寄せた。
あふれる気持ちが、こぼれていくようだった。
(判りました――和尚様)
『 氷柱は折れ 雪はとけ 水は流るる 』
(そういう意味だったのですね――)
陸郎は、深い喜びのなかで僅かに微笑んだ。
「久澄……達者でな」
美木が二人に声をかける。
二人は気づいたように、その身体を離した。
美木が笑ってみせた。
「美木どのも――ありがとうございました」
陸郎が礼を言うと、美木は頷いてみせた。
陸郎は、そよに向き直った。
「それじゃ…行こうか、そよ」
「はい、陸郎さま」
陸郎とそよは互いを見合うと、その長い旅路を二人で歩き始めた。
春の陽射しが、二人の行く末を照らし出そうとしていた。




