ひと夏の
「だいたいひと夏。エシレには得るものはあった?」
軽い口調で告げられて、見上げれば夕方の海を眺める彼がいて。
「俺は、エシレに会えて関わって良かったと思っているかなぁ」
無理やりに、選択肢なんて与えずに『おつきあい』
それはとても一方的だった。
良かったなんて感想をもらえるようなものではなかったはずだった。
だから、私は困惑する。
「千秋さんにとってなにが良かったんですか?」
だから、話題をそらしてなぜそうなったかを考えようと思った。
「んー、やっぱり、兄さんと兄弟なんだなぁって自覚したかな?」
は?
千秋さんの回答はどこか斜めに予想外。
「だってさ。結局、やってることは同じなんだ。ただ一人の特別だけが特別で、それ以外をその位置に持ってくるような真似はできないんだよ」
笑いを含んだ言葉。
それは私を特別の位置には置けないという事実であり、宣言。
そのことを、私との関係で気がついた?
わけが分かりません。
「私にとって、千秋さんは特別ですよ」
「んー、エシレは自分で自分が欲しいと思えるもの見つけられたの?」
含みのある言葉。
お互いに答えたくないコトは濁して質問で返している。なんだかずるい会話。
「エシレは、本当はなんとも思ってないよね。エシレにとってお母さんは特別だって知ってる。でも、そのお母さんは血のつながりのないお母さんだから、エシレにとって恨むべきだって言われても、実感ないんじゃないかなぁ。エシレが俺にぶつける言葉はすごく借り物な気がするんだ。『その感情をぶつけるべき』って誰かに言われているようにね」
そういえばいろんなことを話したと思う。お母様じゃなかったお母様のこと。お父様に無邪気に甘える弟のこと。別宅にいる生気のないお父様の愛人と思ってた正妻。
わからず、見つめていると視線が返された。深い緑色。
「だって、エシレは躊躇ってる。その言葉も行動も迷ってるから」
「迷ってなんか!」
「そう?」
迷ってなんかいない。
「だって、弟たちに知られたくないって希望も、兄さんに関わらないって希望もきいてくれたし」
「それは!」
弟さん達はなにも悪いわけじゃないし、お兄様には恋人がいて、何かしたらその関係のない女性が哀しむから。
「だってさ。あの男の血を持った存在が幸せでいるのが許せないっていうのにエシレは優しい」
優しい?
そんなはずない。
「許せないっていうなら、全部壊さなきゃ。せめてひとつ壊して、壊すことができないなんてバレちゃいけない。エシレは躊躇ってる。だからエシレには選べない」
鮮やかに笑って言う。
ぜんぶ?
「私が甘いからできないって言うんですか?」
「違うよ。ただ、エシレにとってそれほど『そうしたい』ことじゃないだけだと思うなぁ」
「そんなこと!」
ない!!
私にできないって言うんですね。
私じゃなにも満足に出来ないって!
くやしくて、言い返したいと思うのにふさわしいと思える言葉が思いつけないもどかしさで、目元が熱い。
「だってエシレ、エシレが嫌だと思うことはなに?」
イヤなコト?
「置いて、おいていかれたんです。誰も帰ってこなかった」
思い出すのはあの日のコト。
誰も帰ってこなかった。父も母も弟も。水を差すのは冷静な突き放すような声が私を引き戻す。
「それって俺の父親関係ないよね」
え?
「自分の人生が崩れたきっかけを俺の父のせいにはしてないだろう?」
だって、対処できないのは私だもの。悪いのは私のはずだった。
「それに、満足感は得れた?」
「え?」
満足感?
自分の予定を通しつつ、彼はかなり私をそばにいさせてくれた。
困らせてみようとしても、普通に要求は叶えてくれた。
ひと夏の恋。
夏が終わったら、そばにいてくれない。
だれも私のそばにいてはくれない。
いやだ。
「ごめんな。俺はエシレに答えなんか出してやれない」
「置いていくんですね」
「俺はしたいコトも欲しいモノもあるから。それに向かうよ」
視線はどこか遠い。
「エシレが欲しいのはなに?」
「千秋さん」
「ホントに?」
「千秋さんがいいです」
うん。きっと、そう。
千秋さんがなにが欲しいかなんて関係のないこと。
そうでしょう?
「俺が許せない?」
千秋さん?
「大切な女性を傷つけて捨てるような男の血を引いたのが存在することが許せない?」
大切なヒト?
許す?
きっとすれ違ってる。それでもそばにいてくれる彼を手放したく思えない。
「俺はエシレを特別には見ない。誰でも一緒って告げ続けると思う。これって、兄さんと同じなんだよ。エシレが俺を欲しいっていう姿は同時に俺と同じ姿なんだ。すごく身勝手な理由で俺はエシレと関われたコトを喜んでいるんだ」
同じ?
不安を知ってる?
特別でなくていいんです。一緒でいいんです。千秋さんの特別がお兄様なら他を特別にしないなら。
恨むべきだって教わったんです。
そうしてかまわない相手だと教わったんです。それを間違いかもなんて認めたくないんです。
産んでくれた母に触れられた記憶はなくて、子供を、誰も愛せない母は父や弟、お母さまを連れて逝ってしまったんです。
すべてが狂った起因。
その血を引いた存在が笑って幸せに過ごすことなんて許せないコトだと囁かれて、ああ、そうだなって思えたんですよ。
「解放したりしませんよ?」
おいていかないで。
「ダメだよ。俺を所有しているって言うのはエシレだけじゃない。ひと夏くらいは目を閉じてくれるけどね」
え?
なにを、言ってるんですか?
「俺は弱いから」
知ってるだろと問うように柔らかい笑顔。
弱くていいんですよ?
弱いんだから、かごの中にいればいいんですよ?
「だからって、できないから手を伸ばさず、縮こまり続ける気にはならないんだ。できるコトを、不満なら今を変えていきたいからさ」
どうやったら、私を見てくれますか?
「終わらせようと思わないんですか?」
ぜんぶの苦痛が消えるように。
「思わねーよ」
声に棘があった。
怒らせれた?
「終わったら終わった時だけどさ、なにをさ、得るわけ?」
得る?
「生きるってことの意味はなになんてよくあるお題だけどさ、生きること。死ぬため。出会って別れて、出会うため。悔しかったり、嬉しかったり、自分が持ってる感情を伸ばしたり、抑えたりさ。思いもしないコトがたくさん転がってる」
「ただ、ここにあることに意味なんてないと思います」
ただ、生きてるだけ。与えられた役割りを全うするだけ。
だから、私は母の良い息子として、あなたを許しちゃいけないんです。
「そう?」
「はい」
「エシレとの出会いは意味のあるものだと思うよ?」
「たまたまでしょう?」
あそこに居てあなたが他の誰かよりまだ綺麗そうだっただけ。
「たまたまでもだよ。出会えた。この事実は動かない。そして、俺はエシレから得れるものがあったんだしね」
弱いと自嘲しながら私を見る瞳。
揺れる感情にそれ以上に弱い自分を意識する。
千秋さんと知り合って一緒にいて、理解したのは自分が『家族』を嫌って憎んでいたコト。そして、置いていかれたくないくらい彼らを求めていたコト。
こんなことに気が付きたくなんかなかった。
「何よりも俺は後悔するって好きじゃないんだ。同時に得るものがない時間も好きじゃない」
「じゃあ、好きじゃない時間の方が多くないですか?」
髪に差し込まれた指の感触につい体を震わせる。
「そう? 俺は得るものがない時間の方が少ないよ?」
「わかりません」
私は、知りたくなかった。
わからないまま流されていたかった。
「苦しいだけなら、知りたくなんかないです」
手に入らない。
欲しかったと思っていたことを失った後に気がついても何もできない。
「それを知らなきゃ手に入らないものもあるさ」
苦しい思いをしなければ、つらい思いをしなければ手に入らないもの。
「そんなものいらない」
柔らかく髪を撫でられる。
「それも、全部エシレの選ぶことだよ」
私の選ぶこと?
「全部、エシレが決めてきた。生きてきたから今があるんだよ」
決めてない。
私は自分でなんか決めてない。
ただ、言われるままに流されて従って、それだけ。
「私は自分で選んでも決めてもいないです」
「それも、それを受け入れることもエシレが決めたことだよ」
わからない。
「抗わないと、流されると決めたのはエシレ自身だよ。他の誰でもないし、正解なんてどこにもないのが人の生き方だと思うな。人それぞれ、たどりつく正解が違うんだよ」
悔しいんだ。
何がかわからないけれど悔しかった。
「じゃあ、現状も千秋さん自身が望んで選び取った今なんですか?」
答えはすぐには返ってこない。
ほら言い切れない。
「そうだよ。きっと、これからも不本意な決断や流されたりはすると思う。誰かに間違ってると言われても、それが俺自身にとって正しいと思うなら、間違っていても進むよ」
わかりません。
理解できません。
知りたくなんかないんです。
「俺にとって、エシレを知ることはとても有意義だったと思ってる。生きている限りいつだって今がスタート地点になるんだ。エシレは自分がしたいことを、やりたいことを選んでいいんだよ?」
そんな言い方されたら、まるで私の方が囚われているようじゃないですか。
「そばにいてください」
「それは、ダメ」
したいことがあるからと笑う。
拒否権なんかないはずなのに。
満足感なんかどこにもなくて。ただ、心を焦らす焦燥感と空虚感がのこる。
この人も私をおいていく。




