夏の日
2015年三月後半
七月五日。夏祭り。
あの夜どうして、母さんの様子を見に行こうと思ったのかわからない。
アパートに灯りはついていなかったけど、気にせず、ドアを開けた。
気がついたら目の前にいたのは母さんの恋人。
散らかった部屋に母さんはいない。
伸びてきた手がこわかった。
次に映ったのはにーさんだった。それと。
「宗先輩?」
差し出されたのは薄いジャケット。
受け取って、悲鳴をあげそうになった。塞がれた口。ハンカチ越しにおさえて彼がにこりと笑う。
「こわかったですね。間に合って良かったです。いろんな意味で」
「おい、恭」
「ぶたれて、押し倒された段階でしたからね、未遂でしょ。殴ったのだって二発目で止めれましたから、ヤってませんし。千鶴さんも健も間に合ったワケです。越えるべきでない一線ってありますからね」
ぼーっと聞いてた。
いつしか声を出す気は失せていた。
なにも、なかった?
母さんは?
「ヤっちまうべきだったんだ。っくしょう」
にーさんが荒く吐き捨てる。
何があったのかわからない。
それが、夏の夜にあったこと。
あの日、母さんは私の中でいない人になった。
なかったように振る舞う。
隆維涼維はいない。ミアちゃんノアちゃんもいない。鎮さんは他に意識を向ける余裕なんかなさそうで、千秋さんは鎮さんに気をとられてて、ただ少し、碧君が不審げだったけど何も聞いてこなかった。
こわかった。
数ヶ月過ぎてしみじみとそう思う。
ようやく、母さんのことが気になった。
どこに行ったのか、とか。なにがあったのか、とか。
でも一番はにーさんが越えるべきでない一線を私のせいで越えなくてよかったなぁって思えた。
日生の家は彼ら自身のコトでいっぱいいっぱい。
どーして、隠して振る舞うのか。
なかったことにしておきたいからだ。
塞いでおきたい扉。
乗り越える。向き合って乗り越えるコトが正しく思えても、私にはできそうになかった。
塞ぎたいコトを乗り越えようと。向き合って飲み込もう納得していこうと模索する鎮先輩は痛々しく映る。
千秋さんもだ。
でも、良かったんだと思う。
だって、だから、私はそっとしておいてもらえる。傷は開かれない。
数ヶ月過ぎてる。
涙がこぼれた。
こわかった。こわかった。こわかった。
「こわかったですね。大丈夫ですよ」
遊びに来ていたらしい恭一郎さんが通りすがりに声をくれた。
見もせず、そばにいてくれるわけじゃない。
わからないことはわからないままになってる。
進まないといけないのかと不安になる。
大丈夫。
私は私らしくあればいい。
ゆっくり時間が動き出す。
高校最初の夏休み。
ほとんど記憶に残っていない。
凍った時間が動き出す。
「千鶴、どったの?」
ファミレスで苺パフェを食べては幸せそうに目を細める千佳。
私の前には抹茶プリン。
なんでもないと首を横に振る。
「問題は、どーやって来年どの部員を確保するか。よねぇ」
岡本先輩が苺のパンケーキにフォークを突き立てながらどうしようかと聞いてくる。
来年度のツテはほぼないらしい。
再来年にならなければ頭数だけでもと隆維や碧君を引き入れることもできない。
「尋歌ちゃん、イケるかなぁ?」
千佳の呟きに戸津アニマルクリニックの小姑的少女を思い出す。
「四月になってからだよなぁ」
早川先輩の言葉にみんなが頷く。
料理のランクが明らかに前年度より下がるのだ。
先輩達は上手とは言えず、私と千佳は家庭のお手伝いの域。
三月で卒業した先輩達が、『お前らプロか?』という高校生離れした実力を持っていただけだ。それでも村瀬先輩も千秋さんも料理を将来の手に職には選んでいない。
「来年の目標は美味しい簡単アットホームかなぁ」
早川先輩の乾いた笑い。
簡単は大事だと思う。
まだ高校生。
これからなんか考えていきにくい。
将来とか、したいこととか見えてこない。
ホントなら母さんの居酒屋手伝って、きっと、母さんの恋人がしようとしてたことくらい日常と受け入れられるようになってたんだと思う。
「先を思うと焦るよね」
しっかりめの抹茶プリンは口の中でとろけてほろ苦かった。




