異常
利根川を渡り丸一日歩いた末、三人はK宿という宿場まで辿り着き、そこで宿をとることにした。日本橋から数えて、四番目の宿場にあたる。
おちやが加わった効果は覿面だった。宿探しの僅か二軒目で、入ることが出来たのだ。おちやが介添えの如く雪輪の傍らに付き添っているだけで、相手の態度は格段に軟化した。もっとも食事は出ず、建物も古くて寝るのがやっとだった。しかし木賃宿の戸を潜って間もなく、この時期には珍しいどしゃぶりの雨が降り出したのである。三人とも、荷を下ろして安堵した。
「危ないとこだったねぇ。こんな大雨の中で野宿なんて、考えたくもねぇや」
激しく屋根を叩く雨音の下で足を拭き、おちやはぺろっと舌を出して笑う。そして買ってきた田楽を平らげ、荷物を抱えて寝てしまった。
「この図太さだけは、見習わないといけないな」
手拭で顔を拭い、狭霧が呟いていた。雪輪も同感だった。
つい先頃まで、おちやは湾凪の姉弟と口もきかなかったのだ。姿を見れば目を逸らし、背を向けていた。それが『帝都へ行く』という目的一つで、十年来の友人かの如く振舞っている。
「わたくしが恐ろしかったのではないのですか?」
翌日、夜明けと同時に街道を南下し始めた道すがら、雪輪はおちやに尋ねてみた。問われたくない事柄だったのだろう。おちやは日焼け顔をやや伏せがちに
「そりゃ……ちょっとはおっかねぇよ」
口籠りながらそう答えた。
「今も?」
「う、うん」
雨上がりの道で質問を重ねる雪輪へ、隣の田舎娘は手甲の手を握り締めて頷く。
「ひいさまは、オムミョウサンに魅入られてるべ? 近付いたら、それだけで罰が当たりそうで……」
言葉を探すおちやの視線は、地面を忙しく動いていた。
昨晩の雨など嘘だったかと思う程、空は冬の武蔵野らしく晴れ上がっている。先頃まで背後にあった山々は、遥か遠くで霞んでいた。まだ人も殆どいない道を先導していた狭霧が、振り向いて言う。
「何が罰だ。どうせそんなの、僕らを村八分にするための口実だろう」
馬鹿にした態度の若様の言葉を聞き、おちやはむくれて言い返した。
「そ、そったら事ねぇよ! ひいさまの『神通力』は霊験あらたかだ! 恐れるのだって、当たり前だべ?」
正しさを主張し、ぬかるむ道の水溜りを飛び越える。
「恐れ……か」
二人のやり取りを聞いていた雪輪の口から、言葉が零れ出た。
「昔は恐れも知らず、皆が子授けの祈祷を受けに来ていましたけれどね」
かつての『騒動』を回想し、呟いた。
「『養子に出す』、『親戚の頼み』……理由を付けては外で子を手放し、金子を受け取り、またしばらく経つと、子を授けて下されましと願い出て来る……」
立ち止まった三人の頬や鼻先を、湿った土と枯れ草の匂いが風に乗って流れていった。いずれの口も黙り込む。何度考えても、過去のあれは異常としか言いようがなった。
ほんの数十年前まで、山奥の小さな集落は自分達だけで飯を食い、ほぼ完全に自己完結してきた。これが変わった。変化の切欠を作ったのは、“外”から戻った九之丞様であったと、きっと里の者達は口を揃えるだろう。それはそれで事実であるかもしれない。
里でこれまで然程用事の無かった、金が必要になった。産業も特産品も無く、富国強兵や近代産業から縁遠い地において、子授けの神通力によって都合よく生まれる赤ん坊は、手っ取り早い金の入手手段に成り下がったのだ。当初素朴に子宝を喜んでいた人々の目の色は、次第に変わっていった。
「人買いに知られたのも悪かったのでしょう。里の者に、次々声がかかったそうですから」
雪輪が言うと、「ああ、そうだったね」とおちやも答える。
『女はいらない』
『どうにも面が気に入らない』
そんな理由で赤ん坊が消える。
『入用になったら、また産めば良いだけのことよ』
という言い草がまかり通った。急に黄金を手に入れた里人たちは、黄金の虜になってしまった。富への警戒と免疫が無さ過ぎた。僅かな古老を除き、儲け話に乗り遅れるなと、我も我もと押し掛けてきたのである。
「あの頃は仕方無かったんだ。少なくとも五人は産まなけりゃ、産んだ数に入れてもらえなかったって」
再び歩を進め、おちやが零した。
「何だそれは?」
「『子授けのお騒ぎ』の時は、そうだったのですよ」
意味がわからないといった顔の弟を促し、歩き始めた雪輪が説明する。
「そうさ。神通力を受けて身籠った女は『正道』で、そうでなけりゃ『邪道』だって、みんな必死だったんだから」
狭霧に代わって先頭を進むおちやが、空へ向かって声を放つ。顔は見えないものの、おちやの声は悲しげだった。
雪輪は十歳のときに神通力を使うのをやめている。
でも雪輪が『女の腹に触れる』という形で子授けの祈祷をしなくとも、里の中では神通力の名の下に、赤ん坊が生まれ続けた。何故なら里の女達は懐妊するたびに、『神通力』の介入を強く主張したのである。
――――ひいさまと同じお部屋にいただけで授かった。
――――ひいさまにご挨拶をしたら孕んだ。
等々、雪輪の知らないところで、赤ん坊と共に『神通力』の理由は次々と生まれた。どこまでが神通力の仕業だったかは、確かめようもなく。互いに競い合い煽り合い。お墨付きか何かを欲しがる如く、女達は『神通力で子を授かった』との肩書を欲しがった。
「どうしてあんなことになったのか……」
雪輪が独り言を漏らすと
「……うちは、すこーし分かるよ」
足を止め追いつくのを待っていたおちやが、声を落として言う。
「うちが産んだ子はすぐ死んじまったけどさ。子授けの神通力で赤ん坊を身籠るってことは、オムミョウサンを身籠るのと同じ事だ。山ン神様に連なる、“特別な女”になれるんだ。そんな気になれたんだよ」
農夫の娘は、連れの二人へ寂しげな目を向けた。
「それに一体何の意味があるのです?」
雪輪は尋ねる。聞いたおちやは、ぼさぼさの眉をハの字型にして笑った。
「ひいさまも若も、お生まれから『特別』だもんねぇ。うちらみてぇな下々の気持ちは、わからないかもしれないねぇ。不思議な力があって、色が白くて、きれいなべべ着て……」
剽軽な笑みで語る娘の声の末尾には、微妙な拗ねと諦めが滲んでいる。
「うちもちょっとくれぇなら、『特別』に生まれてみても良かったかなぁ」
空を見上げて、そう言った。
神憑かった気配を纏い、屋敷の奥で老若男女に恐れられ敬われていた雪輪の存在は、それ自体が非日常だった。毎日土を掻いて暮らしていたおちやの目には、時に羨ましくも映ったのだろう。
するとおちやの話しを聞いていた狭霧が、「ふん」と鼻先で笑った。
「そうやってさんざん“子授けの神通力”で騒いでおきながら、父上の事業が失敗したら金の切れ目が縁の切れ目で、一斉に反対へなびいたというわけか。神通力を良く思っていなかった年寄り達の背後へ逃げ込んで、祟りだ何だと……」
突き放した口振りで過去を並べ立てる。
鉱山開発の前から既に、里人達と湾凪家の間で齟齬はあったはず。しかし雪輪以上に幼かった狭霧の目に、そこは見えなかったのだろうと姉姫は思った。狭霧には、突然周囲の人々に裏切られたという感覚しか無かったに違いない。
「そ、そんなに言わないでおくれよ……これまでのご無礼は、うちも申し訳なかったと思ってる。だけんど、ちっとも助けなかったってわけじゃねぇべさ? 米も野菜も、お供えしてたべ? それに六郎右ヱ門のお婆が怒るから、誰も逆らえなかったんだよ」
後ろめたさもあるおちやは謝るのと同時に、弁解めいた事を口にした。それから
「で、でも里を出る前、みんなが話してるのを聞いたよ? 『若とひいさまを追い詰めちまった』、『申し訳ねぇことをした』って」
思い出した顔で口にする。
「里の皆が?」
雪輪が尋ねた。おちやの色黒の丸顔が、強く頷く。
「うん。みんな悔やんでた所もあったんだよ。まさかお二人揃って里を出るほど、思いつめていたとは思ってなかったっていうか……まぁ、うちの言う事なんて、信じて貰えねぇかもしんねぇけど」
おちやは懸命に、故郷の人々を弁護している。狭霧が雪輪の方を見た。
――――平蔵の話しと、何か違う?
弟の表情はそう言っている。けれど、雪輪はあえて黙していた。
とそこで、三人の方へと久々に人の影が近付いてくる。
街道沿いに建つ、打ち捨てられた掘っ建て小屋の影から、男ばかり五人。ぞろぞろと下駄や雪駄を履いている。
「やあ、こんにちは。旅行ですか? どちらまで?」
手に杖を持ち、茶色い帽子を被った中央の男が声をかけてくる。
「帝都です」
一歩進み出た狭霧の返事を聞くと、帽子の男は歯並びの悪い口を開け破顔した。
「それはちょうどいい。私たちも帝都へ行くところなんです。これも何かのご縁だ。ご一緒しませんか」
帽子の男が言い終えるか終えないかの内に、別の男がすり寄って来る。
「さあ荷物を持ってやりましょう」
にこにこ言って荷物にかけようとする男の手を、狭霧は素早くすり抜けた。
「いいえ結構です」
少年が涼やかな目が鋭く睨むも、雪輪とおちやを含めて三人は男達に取り囲まれてしまった。
「いいからいいから!」
男達は口々に言い、娘たちの腕や肩を乱暴に掴んで、建物の方へ引き摺って行こうとする。
「離せ! 離せ!」
喚いておちやが暴れた。
「やめろっ!」
叫んだ狭霧が男の手からおちやを力尽くで引き離し、姉と連れを庇って立ち塞がる。
「やりやがったなこのガキ!!」
勢い突き飛ばされた格好の男がたちまち激昂し、匕首を取り出して構えた。おちやが「きゃッ!」と叫んで雪輪の後ろへ隠れる。
「騒ぐんじゃねぇぞ!」
「おい、女どもは売り飛ばすんだからな。殺すなよ」
匕首を持った男に、別の男が言う。女衒か、ただのならず者か。いずれにせよ卑しい人々を前に狭霧は杖を構え、雪輪もゆっくり懐剣を抜いて切っ先を相手へ向けた。雪輪は自分がまともに戦えるとは思っていない。まず懐剣自体が基本的に、辱めを受けないよう、自ら決着をつけるために所持しているものである。それでもこの場合、多少の時間稼ぎくらいは出来るだろうかと思った。
「おちや、逃げなさい」
「で、でも……」
青褪めている娘へ雪輪は声を潜めて命じるが、おちやは怯えて離れようとしない。そんな雪輪の様子を、男達がじろじろ伺っていた。
「何だこの女? 震えてるぞ」
「顔色もおかしかねぇか? ちぇッ、病人かよ」
「どうせ売るなら、こっちの小僧の方が高く売れそうだな」
笑いながら言い合っている。
が、一瞬後、帽子の男の合図で、ならず者達は一斉に飛び掛かって来た。狭霧が一人の懐へ飛び込み、胸倉を掴んで背負い投げを食らわせる。後に続いていた二人が巻き込まれて転がり、掘っ建て小屋の壁に男三人、揃って強かに打ちつけられた。
「おちや、姉上を連れて行け!」
隙を付いて狭霧が叫んだ。弱いとばかり思っていた小僧の意外な抵抗に驚いたのだろう。
「畜生めッ!」
もう一人が吐き捨て、掴みかかってくる。狭霧は決して体格的に恵まれているとは言えない。狭霧の背後へ回り、帽子の男が持っていた仕込杖から刃を抜き放つと
「けっ、生意気なガキが! もういい、死ねッ!!」
怒鳴り声と共に斬りかかろうとした。
「狭霧……ッ!!」
反射的に飛び出して叫んだ雪輪を、今まで感じた事のない目眩と、寒気に似た感覚が包んだ。次の瞬間、傾いだ掘っ立て小屋の壁という壁を
ギョロッ
と現れた大小の赤い目玉が埋め尽くした。
――――何?
雪輪はぞっとした。
これまで実家の床や天井に現れていた目玉とは、桁違いの数だった。そして赤い目玉が無数に飛び出た建物は、男達の方へ雪崩を打って倒れ掛かったのである。瞬きする間の出来事だった。
「ぎゃあ……!」
との叫びは、土埃と大音響に掻き消されていく。
やがて風で土埃が晴れてみれば、帽子の男も匕首を持っていた男も。四人が壁の下敷きになって動かなくなっていた。狭霧と取っ組みあっていた男一人が無事で、それでも驚き過ぎたか、地面にへたり込んでいる。
「な、何だ? ……何なんだよ、クソ……!」
狭霧と娘達を交互に見て、男は震え声で言った。そうしてヨタヨタ立ち上がるや、仲間を見捨てて帝都とは反対の方角へ逃げていく。
「待て!」
「狭霧。捨て置きなさい」
後を追おうとした弟を止め、何はともあれ雪輪は建物の残骸に埋まっている人々の上から、板をどけてやった。
「気を失っているだけのようですね」
様子を見て言った。男達は見た限り、大した怪我は無さそうである。でも「うーん」と唸るばかりで動かない。
「見るからにボロ家だったからな……崩れる寸前だったんでしょう。さっきこいつらがぶつかったせいで、倒れたのか。運が良かった。もう少しずれていたら、僕も家の下敷きになっていた」
倒壊した家屋を見下ろし、狭霧が溜息をついた。
「おちや、怪我は無いか?」
さっきから青い顔で座り込んでいるおちやの所へ行き、少年は手を差し伸べる。
「は、はあ……腰が抜けたみてぇで……」
「しっかりしろ」
さっき暴れたせいで、おちやの髪はかなり乱れてしまっていた。少し離れた場所にいる二人の無事に胸を撫で下ろし、雪輪は足元を見る。
「……」
地面に散ばっているのは、古びて所々苔の生えている屋根板や壁板。そこに数百もの赤い目玉達が、うじゃうじゃと蠢いていた。目玉は泡のように現れては消えていく。こんな異常な情景に、あの二人は何も言わない。見えていないらしい。
そして、今感じたおかしな感覚は何だったのか? 考えていた雪輪の耳に、声が届いた。
「こりゃ『九十九神』だんべなぁ」
いつ舞い降りたのだろう。すぐ近くに、大鴉の仙娥がいた。壁板の赤い目玉を突っついては食べている。あまり気持ちの良い光景ではなかった。
「おやめなさい」
娘に言われると仙娥は、何故? と言いたげに、くりっと首を傾げる。でも逆らうことなく雪輪の言葉に従い、目玉を食べるのをやめた。
「これは何なのですか?」
鴉へ向けて、娘は囁く。雪輪も『九十九神』というものが、古くから存在する妖怪の名であることは知っていた。平蔵はじめ里人の中にも、雪輪が見聞きしている『物の怪』を『九十九神』と呼ぶ者はいたが。
「『九十九神』は古い“モノ”に宿る、一番軽い“神”だぁ。人の世でも名が知られてるべ? こいつらは時間が経てば常世さ戻るがら、心配はご無用だぁ」
告げた大鴉は、間延びした調子でカアーと鳴く。
「招き寄せたひい様を、お守りしようどしだんだべなぁ。感心感心」
仙娥は頭を何度も上下させ、頷いている。
「招き寄せた?」
雪輪は驚いた。呼んだ覚えは無い。それにこの赤い目玉達がそんな『意思』を持つとは、考えた事もなかった。
「んだ。ひい様は他の人間より常世に近え。小せぇ刺激や感情の起伏で、何でもねぇ言葉に『力』が宿る。力有る言葉は“言霊”だぁ。言霊も今の映し世じゃ奇特だぁ。それが九十九神を招き寄せだんだべ」
鴉は紫色の光を宿した黒い羽を震わせて言う。雪輪の胸に、心当たりが浮かんだ。これまでも自分が発した言葉に反応するように、『目玉』は出現する事が多かった。けれど
「今までこのような事はありませんでした。何故……?」
出現した目玉。『九十九神』の数が、今回は多すぎる。一度にこんなに大量に出現したことは無かった。その雪輪の耳に
「若?! どうしたの?!」
おちやの声が突き刺さる。見返れば、狭霧が地面に膝をついていた。
「狭霧……?!」
怪我を負っていたかと驚いて駆け寄り、顔を覗き込んだ姉に
「な、何でもない……」
狭霧はそう言ってみせる。でも急速に顔色が悪くなっている。雪輪は震える手で弟の額に触れた。
「熱がある……具合が悪かったのですか?」
そういえば今朝の狭霧は、食べる量が微妙に少なかった。変なところで辛抱強いのは、血筋だろうか。姉の声を聞き、病人はバツが悪そうに目を伏せていた。
「ひいさま、早いトコ次の宿場へ行こう。若を休ませねぇと……それにこいつらが起きると厄介だ。この家は、仕方ねぇよ。悪いけど、先を急ごう」
おちやの提案に、雪輪も「そうですね」と同意する。
狭霧を支えて立ち去る寸前。雪輪は山となっている家屋の残骸を振り返る。
仙娥がいない。
そして柘榴のような赤い目玉は一つ残らず消え去って、元の古びた壁板に戻っていた。




