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追想

“打てや小麦よ 片蔭恋し 見やれ真麦の のぎが舞う

芽吹けば踏まれ 実れば刈られ 扱かれ打たれる 粉の身よ”


“山風吹けば 急げ急げよ 落穂に里に 霧が降る

霧の守るは お山の要 泣くな毀つな 血を塗るな”


“棒を振る手の 辛さ重たさ 降りて来たるな ハタタ神

ぬしが帰らぬ 憎さ恋しさ 娘十七 女郎花おみなえし……”



 遠くから唄が聞こえる。

 夏になると聞こえるこの唄は、長閑な麦打ち唄だった。男の声と女の声とが重なり合い、どこか物悲しげな歌声は、風に巻かれ土と響き合う。


 その唄声が、ぷつんと途切れた。

 今度はどこからか、子供の泣き声が聞こえてくる。誰が泣いているのだろう? と考えていた雪輪は、途中でそれが自分の泣き声であることに気がついた。


 いつの間にか視界が開け、雪輪の頭上を鴉が旋回している。


一大事いぢでーじ! いぢでぇじぃー!」

 青空の中で胡麻粒のような鴉達が、喚きながらぐるぐると飛び回っていた。これはどこかで見た景色。


 雪輪は母の腕の中にいて、しきりにしゃくりあげていた。大人達の顔がこちらを覗き込んでは、交互に何か言っている。顔は逆光で影となり、何を言っているのかも、よく聞き取れない。首を少し横へ向けると、父のざんぎり頭が見えた。羽織袴の父を見るのは久しぶりだったのだと思い出す。雪輪は涙で滲む目で、大きな背中を見上げていた。


「鬼だと?」

 押し殺した父の声が、奇妙な明瞭さでもって雪輪の耳に聞こえてきた。父と話しているのは、質素ながら小ざっぱりした身形の中年男性。名を六郎右ろくろえもんといい、家によく出入りしているから雪輪も顔を知っていた。


「ひいさまが、そのように仰っているのでごぜぇます……『鬼が来た』と」

 白髪の目立ち始めている大柄な農夫は、答えている。日に焼けた黒い横顔には、険しい表情が浮かんでいた。父は僅かに俯き、力無く首を横に振る。


「幼子のことだ。何か見間違えたのだろう。余程恐ろしい思いをしたか……哀れにな」

 その呟きを聞くなり、父より頭一つ分はたっぷり背の高い男が、一際声を落として言った。


「九之丞様。『御室のお山』をご検分なされませ」

「山?」

 六郎右ヱ門の急な提案に、父は怪訝そうな声で尋ね返す。


「お山の霧が晴れております。おかしいとは思うておりましたが……嫌な予感がするのでごぜぇます……すぐにも『要岩』のご検分を」

 農夫の声には、表情と同様の暗い緊張が潜んでいた。雪輪は母の腕の中でそれを遠く眺め、何故六郎右ヱ門はあんなに怖い顔をしているのだろうと思っていた。六郎右ヱ門は無口で愛想は良くないけれど、今までこれほど恐ろしい目を見せたことはない。


 黙っていた父が、極僅かに溜息を吐いた。


「今はそのような話しをしている場合ではなかろう」

「お言葉ではごぜぇますが、ウチの倅が最近、妙な噂を聞いているのでごぜぇます。宿場で、『白い刀』の噂が流れているそうで」

 言葉を半ば遮るように、六郎右ヱ門は続ける。


「『白い刀』……? 平蔵がそう申しておるのか? どこでそのような噂を聞いた?」

 聞くなり、父の反応が変わった。


「……詳しくは聞いておりませぬが……何でも、『帝都では“白い石の太刀”が、目の飛び出るような値で売れる』という、そんな噂があるらしいと」

「石の太刀!?」

「『霧降』か!?」

 六郎右ヱ門の言葉で、里人達が一気に気色ばんだ。


「霧が晴れたのも噂話も、偶然と思うておりましたが……」

 何を警戒しているのか周囲へ素早く目を走らせ、更に声を低く落とした農夫は言う。俄かに人々がうろたえ始めた。


「まさか、どこぞの他所者が金目当てで盗んだか」

「馬鹿こくな! 里のモン以外、誰が『霧降』を知ってるってんだ?」

 誰かと誰かの言い合う声に、横からもう一人の誰かが口を出した。


「そんなもん昔はともかく、『霧降』を知ってそうな他所者なら、今はいくらでもいるべ? 外の村へ嫁いだ女だとか、九之丞様の前の御家来衆だとか……」

「おい、口が過ぎるぞ!」

 六郎右ヱ門が慌てて叱りつける。父は黙って腕を組み、里人たちの応酬を聞いていた。しかし先ほど叱られた男は引き下がらない。


「だ、だけんど、霧が晴れたんだぞ? そいつは要するに、御神刀の封印が破られたってことでねぇのか……? ひいさまが見た『鬼』は、お山の『ムミョウサン』で……」

言いかけた。

その途端、ざわついていた人々が凍り付く。上空のカラスの鳴き声が辺りを覆い、一瞬後

「お無名様が……!?」

怯えた声が、そこかしこで上がり始めた。目に見えて伝播し始めた恐れと動揺に、六郎右ヱ門は「静まれ!」と命じる。


「九之丞様、どうかお早く」

 焦りすら混ざっている顔で提案する。だが父は動かなかった。何度か頷いて

「……わかった、六郎右ヱ門。山は後で必ず検分に行く」

「九之丞様!」

食い下がる農夫に、落ち着いた口調で答えた。


「案ずるな。考えてもみよ。『霧降』には、特別な石造りのからくり仕掛けが施されておる。あれの解き方を伝えられておるのは、『九之丞』のわし一人。里に長く住むそなたらですら、知らぬであろう? それとも、わしが他所で封印の解き方を軽々に口外したと申すか?」

 冷静に言う。このように説き伏せられては、六郎右ヱ門も返事に窮しているようだった。


「それは……いや、そのようなことは決して……」

 これ以上は言わず、大柄な男は引き下がる。うろたえていた他の者達も、やり取りを聞くうちに、次第に落ち着きを取り戻していった。

「今は、娘をかどわかそうとした者を探すのが先だ」

 父はあくまで物静かな態度を崩さず言うと、近隣の村へ医者を呼びに行けと周囲に指示した。


「誰か早う、隣村さ行って医者様呼んでこい!」

「でも、今日はもうすぐお客人が……」

「そんなもん後だ後! その辺で待たせとけ!」

 雪輪の耳に、走り回る人々の騒々しい声や音が戻ってくる。


 そこへ父が歩み寄ってきて、雪輪の顔を覗き込んできた。この地へ来てから少し痩せたという顔の中、優しい眼差しが娘を見る。


「大事ないか」

 囁いて、涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっている雪輪の顔を、拭ってくれた。

「どこにも怪我はしていないようなのですが、ひどく怯えております」

 娘の身体を抱きしめる母の腕の力が、さっきより強くなった。


「おしん! おめぇ、この役立たずが……ッ!」

四郎左しろざえもん、やめぬか」

 雪輪と母の後ろで子守り女を叱りつけている羽織姿の初老の男を、父が止めた。小柄な男は口を歪め、髪の薄くなってきた丸い額を手で押さえている。子守のおしんはさっきから同じ場所で立ちすくみ、唇まで真っ青になって震えていた。庇ってくれた殿様を見上げると、視点の定まらない目をうろうろ動かし、うわ言のように喋り始める。


「わ、若さまのお世話をしていたんです……そうしてパッと見たら、ひいさまがお部屋にいらっしゃらなくて。慌てて探したんだけんど、家の中にも外にも、どこにも見当たらなくて」

 近所の女の背に預けられ眠っている狭霧と、母親の腕に抱かれた雪輪を交互に見ておしんは言う。


「それで、もう一度お庭を見たら、ひいさまがあの木の下に倒れてて……はじめに見たときは、確かにいなかったのに」

 一月前に子守役となったばかりの娘は、話すうちに涙声になってきた。

「本当に、本当に申し訳ございません……! で、でも、ほんのちょっと目を離しただけなのに、どうしてこんな……!」

 呟き、桃割の鬢を両手で掻き毟っている。


「ちょっと目を離したと言うがな。おめぇ台所で菓子食ってたそうでねぇか。もっと長いこと、ひいさまホッタラカシにしてたんでねぇのか?」

「それは、そんなこと……だ、だって、だって……!」

 必死に頭を下げていたおしんは、四郎左ヱ門に言われると両手で顔を覆い、しゃがみこんでしまった。


「京のお干菓子など、ここでは珍しいですからね……大丈夫。大丈夫ですよ、おしん」

 母は泣き出した子守娘に向け、辛うじて冷静さを保った声で励ましていた。そんな母が、雪輪の顔を覗き込む。涙で濡れた幼い娘の顔を指で拭うと、黒目がちの目を細めて微笑んだ。


「雪輪、雪輪。さぁ、お父様も皆も来てくれました。いつまでもそのように泣かないのですよ」

 やさしい声で言い、白くひんやりした手が雪輪の小さな手をぎゅっと握る。

「雪輪、鬼なら遠くへ行ってしまったからな。もう心配はいらんぞ」

 そう言って父の大きな手も、力強く何度も頭を撫でてくれた。雪輪はそれで十分安心したし、嬉しかった。でも、身体が動かない。


「どこか痛いのですか? 何があったのです? 話して御覧なさい」

 母の問いかけに答えたいのに、声が出ない。何かがおかしい。身体が今までと違う。それを訴えたくて、雪輪は懸命に母を見つめた。しかし目が合った母の顔が、みるみる強張っていく。


「雪輪……? 何故震えているの?」

 困惑の滲む母がそう言ったところで



――――……ああ、夢か。



 真っ暗な部屋の中、雪輪は目を覚ました。


 場所は、古い田舎普請の家の中。辺りには水底のような冬の冷気と、重苦しい暗闇が広がっている。耳を澄ませても風の音しか聞こえなかった。まだ鳥も鳴かない時刻なのだろう。それでも闇に慣れた目には、夜より黒く煤けた古い梁が縦横に並ぶ天井が見えた。


 静かに起き上がると、隣では弟が薄い衾に菰を重ねて眠っている。二人とも身体の下には、使い古した茣蓙ござを敷いていた。


 雪輪は自分の右手を目の前に掲げてみる。色が抜け落ちていくように、皮膚は年々白さを増していた。血の気さえ失われ、異様なほど真っ白な右手は間断なく震えている。手だけではない。全身がずっと小刻みに震え続けている。昔は寝ているときは治まっていたらしいのだが、最近は眠っているときも止まらない。


 その耳に、外でゴトゴト鳴る音が聞こえた。弟を起こさないようそっと床を抜け出た雪輪は、部屋を出て土間へ降りる。戸を開けると、そこには大根やカボチャ、豆の入った袋が積まれていた。


 地面に置かれた食べ物を見つめ、さっき見た夢をなぞりながら雪輪は考える。あの日を境に自分の身辺も、何もかもが変わってしまった。あれは十数年も前のこと。


 父も母も、今はもういない。

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