表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/164

Nostalgia

 癒天教の事件から一週間経った。

 その日、赤坂の長屋を引き払った長二郎は野村庵を訪ねた。前回ここを訪れてからそれほど経っていないはずなのに、随分懐かしい気がした。紺色の暖簾の前で佇んでいる鳶色の癖っ毛に、まだ炎天下というほどではない夏の午後の日差しが突き刺さる。蒸し暑い川風が、道の土埃を舞い上げていた。


 しばらく店の前で迷った後、長二郎は紺色の暖簾の端を捲って中を伺う。野村庵は昼間は親父が腕を振るう蕎麦屋だが、夜にはおかみが切りまわす縄暖簾へ変わるのだ。蕎麦屋はもうすぐ終いの時間で、客の姿は無かった。今の長二郎にとっては好都合である。

 まずは心の準備をしようと、一旦深呼吸した。が、準備が出来る前にパッと暖簾が捲れ上がり

「あ!」

暖簾を仕舞いに来た鈴と出くわした。双方、その場で固まる。


「あ、あの……」

 長二郎が言い出そうとした。それより早く

「お父っつぁん! おっ母さん! 田上さんが来たあ!」

鈴が背後へ向かって叫んだ。


「何だとぉ!? どこだどこだ!」

「マァ田上さん!? 良かった来てくだすってッ!」

 店の奥から親父とおかみが飛び出してくる。手に手に、ネギや大根を持っていた。手足の太い親父も、歳よりだいぶ若く見えるおかみも、掴みかからんばかりの勢いで押し寄せてくる。


「ここんトコ顔見せねぇから心配してたんだよ! 怪我はもういいのかい?」

「困った事があったら何でも言ってくれていいんですからね!? 朝晩もちゃんと食べてるの?」

「馬鹿、忙しくて悠長に飯食ってる暇なんか無かったンだよ! すいませんね、こいつはどうも昔からトロくせぇんですよ。おい、鈴! そこの座敷早く片付けろ!」

「はい!」

「あああ、あの……!」

 風呂敷包みを抱えた書生は、蕎麦屋店員達の勢いに飲まれ店の中へ引っ張り込まれた。それをどうにか途中で制止すると、どもりがちに切り出した。

「きょ、今日は、その……お、お詫びに伺っただけですので」

 顔を見合わせる野村家の人々の前で、長二郎は懐から小さな紙包みを取り出す。


「鈴、これ」

「え?」

「気に入るかわからないけど……夜学の先生の知り合いに、西洋の小間物を扱っている人がいてね」

 おさげ娘に包みを渡し、説明する。鈴は突然のことに吃驚顔しながら、小さな包みを受け取った。そろそろと包みを開いて、目を輝かせる。


「わ……綺麗!」

 出てきたのは掌に乗る大きさの、円筒形の小箱だった。漆に近い艶やかな光沢の青色で、蓋の部分には白いマーガレットの花が描かれている。

「小物入れか何かに、良いんじゃないかと思ったんだ」

 嬉しそうな鈴を見て、長二郎も少しだけ顔を綻ばせる。しかし、すぐ表情に影が差した。


「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げて言う。この小箱は先日の河童騒ぎで鈴を巻き込み、酷い目に遭わせてしまったことへの、長二郎からのせめてもの詫びだった。蕎麦屋の中がシンと静まり、長二郎は下を向いたままである。が、蕎麦屋の面々の方が何故か慌て始めた。


「い、いいんだよウチのガキなら! やめてくれよ俺そういうの苦手なんだよ!」

「そうそう! 頑丈だけが取り柄みたいな娘なんですから、酔客の相手で喧嘩には慣れてるしねぇ!」

「そ、そうですよ! あたしが勝手に首突っ込んだんだもの!」

「いや、しかし下手をすれば、お嬢さんは怪我じゃすまなかったかもし」

「そんなことより蕎麦しかないけど食べていくでしょ?! 今日はもうお代はいいからさ!」

「いつ来てくれても良いように支度してあったんだよ! 食ってってくんな!」

 口々に言い、長二郎は再び店の奥へ押し込まれる。


 今日は遠慮しようと考えていたのだ。でもこうして長二郎は、蕎麦屋の本日最後の客と相成った。

 そして出された以上、遠慮はしない。蕎麦はいただく事にした。久しぶりに食った蕎麦は無性に美味くて、真っ黒な汁につけた味の濃い盛り蕎麦を五枚も平らげた。


「はい、どうぞ」

 蕎麦を食べ終えた頃、いつものように鈴がお茶を運んできてくれる。

「何か悪いね。親父さん達にも、逆に気を使わせて……」

長二郎が言うと、蕎麦屋の娘は物凄い速さで首を横に振った。


「いえ! そんな! ホントに! ホントに! お気使いなく!」

「……そうかい? ありがとう」

 微笑んで礼を言い、お茶を一口含んだ。

 鈴が店の奥へ引っ込むと湯呑茶碗を置き、ゆっくり周囲を眺めた。室内に満ちているのは、ちょうど良い温度と光と静寂。優しい心地よさを伴って戻ってきた日常が、嬉しいようでそうでもないような。まとまらない気分で傍らの風呂敷包みを見下ろし、指先で撫でる。中には長屋から持ってきた数冊の書物と着物と、四つの位牌が入っていた。


 財産といえば、これくらいしか残っていない。膨大な数の河童の置物や書画は、全て燃やして捨ててきた。必ずしも憎悪で燃やしたわけではない。長二郎は、屋移りする事にしたのだ。そのため次の住居が見つかるまで、数鹿流堂に住まわせてもらうことにしたのである。今までも居候だったが、もっと本格的な居候だった。先日、しばらく頼めないかと千尋に尋ねたら、どうしてかあの友人は、やたらと張り切っていた。


 只でさえ物や道具で溢れかえっている古道具屋。大量の河童を持ち込むわけにはいかなかった。そこでこの数日を使い、どうにか長屋の片付けだけは終わらせてきたのだ。でもまだやらなければならない仕事は、山ほど残っている。


――――明日からは、待って貰っている賃訳をやっつけて、夜学の勉強も……。


 長二郎は壁に背を預け、溜まっているあれこれを頭の中で並べた。その思考も、次第に途切れ途切れになっていく。窓の格子から差し込む日差しと、舞い降りてきた午後の睡魔に負け、いつしか瞼は閉じていた。鈴が遠慮がちに呼ぶ声が聞こえた気がした時も、返事をしたつもりだったのだけれど、返事になっていなかったのだろう。親父の「疲れてんだろ。寝かせといてやんな」という声を最後に、周囲はすうっと静かになった。


 表通りのざわめきと、食器や鍋を片付けたり洗ったりする水音が遠くから聞こえる。

 どこかから、お囃子の笛と太鼓の音も微かに響いてきた。穏やかな雑音に耳を撫でられ、長二郎はまどろみを漂いまだぐるぐると考え事をしていた。


――――弥助さんは、本当にあれで良かったのかな……?


 閉じた瞼の裏に浮かんでいたのは、昨日のこと。


 長二郎は弥助に会いに行ったのだ。父の死体が逃げた晩の、真実のところを打ち明けたのである。数時間後には弥助と一緒に警察署へ赴き、禿頭の池内入道と、もう一人の眼鏡男とを交えて書類を作成した。長二郎としては、大変な覚悟の上での行動だった。どんな罰があるだろうと思っていたのだ。


 しかし警察署からの帰り道、小太り中年探偵に言われたのは

『嘘はいけねぇよ。嘘は。わかったか?』

それだけだった。大層拍子抜けして、長二郎としては今でも狸に化かされたみたいな感覚が抜けない。


――――あんな小言で終わらせていいのか?


 昼間の闇の中で、そう思っていた。


「……身内の偽証は、情状酌量の余地有りとされるんやろ」

 夢と現の境目にいた青年の耳へ、知らない声が話しかけてきた。低い声音で、口調は耳慣れない旋律。長二郎が重い瞼を苦労して薄く開くと、座敷の端に大きな赤毛の猫がうずくまっていた。緑柱石に似た瞳が、差し込む光を細く反射している。


「あれ……? お前、火乱か……?」

 長二郎は囁いた。こんな所に、雪輪の飼っている猫がいる。

 赤毛の大きなこの猫は、『火乱』と呼ばれていた。長二郎が縁側で書き物をしていると、横で寝転がって日向ぼっこをしていたりする。しかし雪輪以外の人間には金色の毛先すら触れさせない、可愛げの無い猫だった。その猫が現れ、長二郎に話しかけてくるのだ。


「逃亡を助けたんは悪いんやろうがな。お前の親父はもう死んどる。直接殺しに手を染めたわけでもない。それにあの死体の逃亡騒ぎが切欠で、癒天教の尻尾を掴んでお縄にしたようなもんや。それやこれやを天秤にかけて、これくらいの始末が丁度ええっちゅう事になったんとちゃうか?」


 男前な声で、火乱は長二郎の心の内にあったはずの疑問へ答えてくれる。声だけ聞けば二枚目の伊達男風で、役者のよう。そんな良い声をした猫の言葉に、「そうかもしれないなぁ」という簡単な感想を持っただけで、夢現の長二郎は普通に納得していた。気だるく視線を向け、赤毛の猫へ小さく笑う。


「お前、猫のくせに喋るのか」

 からかい半分で話しかけてみる。

「へん、人間のくせに生意気やな」

 書生の言葉に猫は蹲ったままで答えた。


「あのとき早桶の前へ飛び出してきたのは、お前かい?」

 父が死んだ晩、葬列の前へ飛び出してきた大きな影を思い出して尋ねる。直接見てはいないが、又一や五丈から『影』が猫によく似ていたとは聞いていた。

「まあにゃー」

 問いかけに、猫は猫らしい口調でこの時だけ返事した。


「どうしてあんな真似したんだ?」

 問いかけると、猫は緑色の目で瞬きし、長い尻尾をぱたんぱたんと左右に大きく動かした。

「やりたくてやったんちゃうわ。河童がおってな。ひいさんが用心棒せぇ言うて、きかへんかっただけや」

「ひいさん……て、雪輪ちゃんか? 用心棒……?」

 活動休止中の頭では、何が訊きたかったのかもわからなくなっていく。寝言状態の長二郎へ、火乱は忌々しげに言った。


「お前、眼鏡の兄ちゃんが犬に噛まれた時、『河童の塗り薬』使たやろ? あの時にな」

 猫が指摘したそれは、いつだか柾樹が黒い魔犬と大喧嘩をして帰ってきた、雨の夜の出来事だった。


「古道具屋に戻たら、屋敷中が河童臭うてなー。何やコレと思たら、『梅花皮の塗り薬』なんて使うてるやんか。さすがのわいも驚いてな。目に見える形の『誓約』なんて、今じゃ殆ど見ぃひんからな。古道具屋の周りで河童のチビどもがウロついとったのもあって、こら痩せっぽちの兄ちゃん、『神隠し』になるかもしれへんでて言うたんや。そしたらひいさん血相変えてなぁ……言うてもあのヒト、顔色は変わらへんが」

 赤毛の猫はぶつぶつと、迷惑そうに語っている。


「一応、わいも言うたんやで? 河童にも都合があるんやっちゅうてな。常世と関わった以上、しゃあないねん。もし人間側が何も知らんかったとしても、それが『誓約』っちゅうもんや。別に珍しくもあらへん。常世と映し世の間じゃ、こない小さい揉め事やったら、昔から数えきれんほどあるわ。『神隠し』や『怪談』、『奇譚』の名前でな」


 緑色の瞳に宿る妖しい光を揺らめかせて、猫は語る。不思議な猫の話しの意味の大半は、長二郎には理解できなかった。睡魔によって意識が途切れかけているのも手伝い、返事の無い青年の前で、大きな赤猫は白い髭をぴくぴくさせている。


「そんでも、ひいさん耳貸さへん。河童に神隠しやめさせぇだの、終いにはわいに用心棒せぇだの言い出しよってな。それで、わいも最後は根負けして、穴子の白焼きで手ぇ打ったっちゅうわけや」

 穴子で買収されたという猫はそこまで語り、物語を閉じた。


「はは……そうだったのか……」

 また一段と重くなってきた瞼を、重さに任せて閉じた長二郎は呟く。


 柾樹が寝込んでいた頃。雪輪が突然「穴子が欲しいのですが」と頼んできた事があった。長二郎はどうとも思わず、「いいよ」と答えて穴子を調達してきてやったのだ。そんなことをふわふわ考えているうちに、眠気が増してくる。眠くなるにつれて頭も重くなってきた。意識が閉じていく。


 やがて一旦辺りが暗くなり

「弟を思い出すんか何や知らんが……お前が気になってしゃあないらしいで?」

淡い闇の底で、火乱が言った。


 へぇ、あの人が? ……と、長二郎は淡く驚く。

 それから青年はまだ何か考えようとした。でもそれが何だったのかは、忘れてしまった。細くて優しい声が降ってきて、儚い物思いは夢より脆く掻き消されてしまったのである。


「あ、あの~、田上さん。田上さーん」

 呼ぶ声がする。知っている声だと理解しつつも頭が働かない。起きるのが猛烈に面倒だった。まろやかな良い匂いも漂ってくる。このままずっと目を閉じて、まどろんでいたかった。頑固に動かないでいる長二郎に、困り果てた声が躊躇いがちに言う。


「お……重いんですけど……」 


――――重い?


 そこでハッと目を覚ました。長二郎の目の前に現れた景色が、不自然なことになっている。横向きなのだ。固まって二秒後。横になっているのは景色ではなく自分であり、更に寝転がる自分の頭の下に、たんぽぽ色の着物にくるまれた膝があることに気がついた。


「うわッ!!」

 飛び起きた青年は勢いがあり過ぎて、背中と後頭部を壁に強打する。見開いた目の前には、ある意味飛び起きた人より驚いているおさげ髪の娘がいた。火乱の姿をそれとなく探したものの、影も形も無い。夢だったのか。黄昏の近付く蕎麦屋の店内で、長二郎と鈴は金縛り状態になった。そのうち鈴が、恐々と口を開いた。


「す、すみません……そろそろ起こして差し上げようと思ったら、田上さん倒れちゃって……支えようとしたんですけど、思ったより重かったというか……あの、すみませんでした。だ、大丈夫ですか?」

 鈴は申し訳なさそうな眼差しで、青年の様子を伺っている。茹でたみたいに首まで真っ赤になっている人を見れば、心配にもなるだろう。


「ああ、うん……なるほど」

 ようやく頭が追いついてきた長二郎は、もやもや頷いて声を漏らし、呼吸を取り戻した。短いうたた寝と思いきや、かなり深く寝てしまっていたのだ。それだけでも恥ずかしいのに、知らぬ間に倒れて鈴の膝を枕にしていた。通りで芳しい匂いがしたわけである。


 面立ちにあどけなさの残る娘の前で、一回大きく溜息をついた後、長二郎はその場に座り直した。それからガバッと土下座し

「面目ないっ!」

言うが早いか傍らの風呂敷包みを引っ掴んで、店から飛び出す。


「え!? た、田上さん!? あの!」

 吃驚している鈴の声も聞こえなかった事にして、逃げるはずだった。

 

 だが店を飛び出し、道の角を曲がった先。

 そこで目に飛び込んできたものが、歯の磨り減った下駄を急停止させたのである。雑踏の中。長二郎の目が自然と見つけてしまったそれは、痩せた男の背中だった。


――――父上……!?


 心臓が跳ね上がり、身体が痺れて動けなくなった。

 どこの誰とも知れない誰かの猫背が、一瞬、父の背に見えた。身形からして近くの縁日にでも行くのだろう。その人ははしゃぐ幼い子供達の手を引き、妻と談笑しながら道の向こうへ去っていった。


「……違うよな、うん……」

 呟き立ちすくんだ長二郎の前髪を、水っぽい風が揺らす。夕暮れの近付く町のざわめきが、耳の奥で反響した。遠くから風に乗って、また祭囃子が聞こえてくる。甲高い笛の音と、太鼓の響き。その音が引き金になったのかもしれない。


「ああ、そうだ……」 

 呟く声が漏れた。

 遥か上空から降りてくる夏の夜の匂いで、長二郎の脳裏に古い記憶が蘇る。


 思い出したのは、まだ故郷にいた頃。

 近隣の水神様の縁日に、家族で出かけた。その道々、両親が子供達に語って聞かせてくれた『梅花皮かいらぎ様』の昔話。河童の姿をした水神様が、旱魃に苦しむ民を救ってくれたというお話だった。キュウリをお供えして拝んだ御社。その奥で静かに蹲っていた神様は、石で出来た素朴な河童様だった。


 お参りの後、いつもは許してもらえない屋台の吹き矢を父が許してくれたのを思い出す。喜んで兄と一緒にやってみたが、まだ小さかった長二郎は一度も的を当てられなかった。べそをかく長二郎に、吹き矢を当てた兄が黒蜜のかかった新粉餅を分けてくれた。泣き虫はすぐ笑顔になり、赤ん坊の弟を抱いた母と、父と兄と、みんなで手を繋いで帰った。たったそれだけの思い出。


――――だから父上は、河童に興味を持ったのか?


 往来の真ん中で、突如その考えに行き当たった。

 長い間、どうして父はこんな馬鹿げた河童女に引っ掛かったのだろうと、長二郎は不思議でならなかった。


 父は、河童の置物を見て、懐かしくなったのではなかろうか。疲れきって弱っていた精神は、馬鹿げた河童の方へ傾いてしまった。傾いた心を、癒天教は引き摺り倒した。立て直してくれる人もいなかった。長二郎は逃げてしまっていたのだ。


 吐き気の如く湧き上がる猛烈な後悔で、膝ががくがく震え始める。

 そこへ追い付いてきた娘の華奢な手が、木綿絣の袂の端を掴んで叫んだ。


「た、田上さん! 田上さん待って! 待って下さいお願いッ!」

 鈴の声で、長二郎は記憶の彼方から帝都の往来へ帰ってきた。


 振り向くと、小柄な娘の目と目が合う。捕まえた長二郎を見上げる鈴の大きな瞳は、今日も真っ直ぐこちらの瞳の奥を見つめてきた。真っ直ぐ過ぎて、少し苦手な茶色の瞳。でも今は怖い夢から覚めた子供みたいに、ホッとしていた。目を逸らせなくなっている青年に、おさげ娘は声を落として訴える。


「気が緩む事くらいありますよ! 人間なんですもの! 居眠りなんて誰でもします! 心配しないで下さい。あたし誰にも言いませんから!」

「へ……?」

 どうやら鈴は、さっき長二郎が居眠りしたのを気にして逃亡したと思っているようだった。


「え、えーと……そうじゃなくてね……?」

 こんな時は何て言えば良いのか。今まで読んできた書物に、こういう方面の説明と対策は載っていなかった。ついさっきの記憶と悲しさと、混乱と滑稽に翻弄される頭で言葉を探す。書生の様子を見て、娘はきょとんとしていた。それから明るい笑顔を開いて薄い胸を叩く。


「あ! あたしだったら大丈夫です! ちっとも気にしてませんから!」

「気にしてないのかよ」

「はい?」

「何でもないデス……」


 長二郎は何だかもう項垂れてしまう。鈴の間抜けで的外れな気遣いに、笑い出しそうになった。同時に、凍りついて苦しかった胸が、少し軽くなる。呼吸が僅かに楽になった。紺絣に身を包む痩せた若者は顔を上げると、蕎麦屋の看板娘に向き直る。


「ありがとう。ごめん」

 そう言って、出来るだけ普段通りに微笑んだ。気恥ずかしかったが、そこは何とか出来た。

「い、いいえ!」

 言われた鈴も赤くなり、大急ぎで小さく首を横に振る。それを見てもう一度笑みを向け、長二郎は「それじゃ」と踵を返して歩き出そうとした。その足が、数歩進んで止まる。そろっと振り返り、鉢植えの夕菅が揺れる道端で、自分を見送っている娘へ、バツが悪そうに言った。


「……また来てもいいかい?」


 尋ねる声は聞き取りにくく、小さかった。娘が目を大きく見開いて、刹那の沈黙が落ちた後。遠くから拍手のような祭囃子を届けた夏の川風が、二人の間を通り過ぎて


「はい! もちろん! いつだってお待ちしてます!」

芯から嬉しそうに、鈴は大きく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ