迷い子
その晩は、日が暮れると共に風が強まり、化物じみた風の悲鳴が空を覆っているような晩だった。
吹けば飛びそうな下谷の長屋は、どこもしっかり戸を閉めきっている。しかし掘っ立て小屋に毛が生えたも同然の建物は、飛ばされそうだった。隙間風でぴゅうぴゅうと口笛のような音がするたび、庇や壁も軋んだ。
「どうだった今日は。暇だったか?」
頼りなく揺れるランプの小さな灯に照らされて、車夫の落口久孝老人がおっとり尋ねた。六畳一間の薄暗い室内には妻のお梅と、居候の少年がいる。
「今日はまず上野から、日本橋まで乗せたんです。その後、京橋から本郷まで乗せたお客が良い人で、少し弾んでくれました。そこから、両国へ行くお客を乗せて。また両国から、永代まで」
久孝の問いかけに答え、箸と茶碗を手にした狭霧の声が嬉しそうに報告した。山盛りの飯の上には焼きほぐした鰯が乗っており、小皿には焼いた味噌と沢庵が添えられている。
今日、初めて一人で人力車を牽いて出た少年は、ご祝儀のように客を拾えた。
「ひっきりなしか。有り難いなぁ」
縞のどてらを被った人は水っ洟をすすり、にこにこして頷く。重い人力車を引き摺って一日に何往復もするのは重労働だが、車夫は客が取れなければ稼ぎにならない。
「おかげで今日は、三十銭ばかりでした」
「そうかそうか、よく稼いだもんだ」
「忙しかったろ。狭霧、昼間にご飯は食べたの?」
嬉しそうに久孝が頷き、妻のお梅も横で笑った。
「神田の三河町に寄ったとき、馬肉飯を」
「馬肉? あんなもの食べたのかい? 臭くて、食えたもんじゃないだろう」
淡い苦笑まじりの少年の話しを聞いて、お梅は顔を顰める。
元気をつけるには、肉を食べるのが良いと言われていた。だが下層の民の口に入る肉などは硬くて生臭く、味も洗練されていない。正気の人間は食わないと、嫌う者もいる。それでも力仕事のためには、精のつくものを小まめに補給しなければ身体が追いつかなかった。それも一度に多く食べるのではなく、小食を何度もするのが倣いとなっている。
「苦手でしたが、慣れました。食べないと、僕はすぐ動けなくなってしまうので……」
動けなくなっては仕事が成り立たない。血生臭いのが苦手な少年を、車夫仲間が「つべこべ言わないで食え」と励まし、狭霧も口へ押し込んでやっと慣れてきた。
お梅が番茶を注いでやると、狭霧は湯気の立つ茶漬けを美味そうにかき込み始める。
「それだって、せめて天丼くらいにおし。いくら安くても、変なもの食べて病気になったらどうするんだい。衛生のあやしい店だって多いんだよ?」
少年が食べる姿に目を細め、年寄り車夫の古女房は注意した。
上流階級の世界と縁があるせいか、お梅は割と『衛生』が何かを理解している。衛生観念の普及は部分的で、そもそも人々の感覚において『清い』と『清潔』の線引きが危うい。
「狭霧は店を知らないんだ。鶏肉や玉子の入った雑煮が、安く食える店があった。今度教えてやろうな」
「はい!」
穏やかに久孝老に言われ、少年は聞き分けの良い返事をした。狭霧は誰に言われたわけでもないが、きっちり正座をしている。
「近頃は、何でも高くなっちまった。昔は腹ごしらえの天ぷら茶漬け一人前が、三百文もあれば旨く出したもんだったよ」
思い出す目で禿げ頭の人は湯呑みを手に取り、そこへお梅が蓋を取った折詰を持ち出した。
「狭霧、今日は男爵様のところで、お土産も頂戴したんだよ。ほら、こんなきれいな折でねぇ」
「この玉子焼が美味いんだ。食べてごらん」
「え? お二人は召上ったんですか?」
「あたしは沢山だから。さ、食べておくれ」
「働いたんだ、遠慮はいらないさ」
「はい……それじゃ、いただきます」
狭い長屋の中で、車夫の夫婦と少年とが、玉子焼きを間に挟んで話していたときである。
ことこと、戸を叩く音がした。
「いるんだろ? 開けとくれ」
夜の空で泣き叫ぶ風音に混じり、あどけない声がする。長屋の住人たちは最初空耳と思ったが、戸を叩く音は途切れない。
「はて、誰だろうな?」
「こんな時間にねぇ……?」
久孝が首を傾げ、お梅が沓脱ぎへ下りて突っかい棒を外し格子戸を開ける。開けた途端に長屋の奥まで、湿った風がひゅうと一気に吹き込んだ。細かい木っ端が、土間で小さな渦を巻く。
「おや……どちらさんだい?」
目を丸くするお梅に、狭霧と久孝も部屋の中から戸口の方を見る。
闇を背に立っていた来訪者は、柿色の帯をした十二、三歳の子どもだった。猫を思わせる大きな目をして、色黒の細い手足が麻の葉模様の着物から伸びている。ぼさぼさの髪は、頭の天辺で無理に結ってあった。
「何か用かい? 見ない顔だね?」
「何だ、どうした。迷子か?」
この長屋や、近所の子ではない。お梅と久孝が交互に問いかけると、子供は反っ歯の収まっている口を横に結んで、ぐいと顔を上げる。
「おいら、鹿目だ。御室の里の、おしんの子の鹿目だよ」
これで全て事情が通じると信じている口調で、あどけない客人は名乗りを上げた。
「ええ? どこだって? 里……?」
身を屈め、お梅が問い質した。すると子供は戸口で堰き止められるのに焦れたのか、痩せたお梅の陰から顔を出し、長屋の内へと呼びかける。
「ねえ、ひいさまがどこに隠れておいでか、知らないかい?」
尋ねた声と視線は真っ直ぐに、狭霧へ向かっていた。
視線を受けた当の狭霧は吃驚した顔をし、のろのろと茶碗を置く。久孝老人やお梅とも、無言で目配せし合った。それから三人の視線が再び来訪者の方へ戻り、沈黙が落ちる。
「ひいさま……?」
「どこか、訪ね違いじゃないのかね?」
長屋の三人は先ほど聞こえた単語を、人の名前か何かかと疑った。
「狭霧、この子知ってるのかい?」
お梅が室内へ向き直って確かめる。
「いいえ……? どこかで会ったかな?」
狭霧はきれいな眉を寄せ、お梅の傍らにいる膨れっ面を眺めていた。長屋へ来て半年ほど経つから、近所付き合いはそれなりにあるし、顔見知りも何人かいる。新米車夫の少年が考え込んでいるうちに
「今日の昼、両国橋のところで見つけた」
座ったまま動かない狭霧を、思い詰めた眼差しで凝視して子どもが呟いた。
「両国橋? 何だ、ずっと狭霧の人力車を追ってきたのか。まぁ、お入り。寒いだろう」
久孝が優しく呼びかけ、手招きする。戸口で突っ立っていた子供を、お梅が促して中へ招き入れた。
「お前、狭霧を……この兄さんを知っているの?」
手拭でぼさぼさ頭を撫でてやりつつ、車夫の女房は尋ねた。
「ううん、知らない。それでも、その人ひいさまとそっくりだ。似てないけど、そっくりなんだよ」
痩せっぽちの子どもは、頭を振る。背格好より、態度や口調が幼かった。
「それじゃアンタ、知りもしないのに、狭霧が誰かと似ているって、それだけで追いかけてきたのかい?」
成長途中の細い指を拭い、お梅が相手の目を覗き込んだ。子供は右の袖で自分の顔を拭い、こくんと頷く。
「うん。何だかね、古道具屋の場所が、わからなくなっちゃったんだよ。薬売りも、尼様もいなくて困ってたんだ」
子供なりに一生懸命、状況を喋り始めた。話しは自己完結しており、本人以外には通じない。お梅が、子供の華奢な両肩に手を置いた。
「ちょいとお待ち。さぁ、おばさんに順を追って話しておくれね。お前は、鹿目っていうんだね? 両国で、あの車夫の兄さんを見かけて、ここまで追いかけて来たんだね?」
「うん……ハイ」
お梅の質問を正面から受け、鹿目は神妙な面持ちになった。
「それで、その『ひいさま』っていうのは、どちら様なんだい?」
車夫の古女房は尋ねる。長屋の車夫夫妻と居候の狭霧とが、返事を待っていると
「子授け観音様だよ」
猫みたいな目を見開いて、鹿目は大真面目に答える。
「お前ね、大人をからかって遊ぶもんじゃないよ」
同じく大真面目な顔で、お梅がぴしゃんと更に言った。まだ二言、三言出そうだった女に先んじて、頬を膨らませた鹿目が口を開く。
「からかってなんかないや。おいら、ひいさまに会いたいんだ。一度は家に帰ったよ。でも……やっぱり、いけないようなんだ」
そこまで言うと、大きな双眸に諦めと似た影が過ぎった。ここだけ妙に大人びて、何もかもわかりきっていたという風な色彩だった。でもそれはすぐ消え、元の子供子供した顔が表れる。
「だから、本当に旅に出ることにしたんだ。今度こそひいさまにお頼みしようと思って、古道具屋を探していたんだよ。道はわかるんだ。でも、どうしてかお蔵が見つからなくてさ。探している途中で、ひいさまとそっくりな人がいたから、ここまで来たけど……」
ふん、と鼻から勢いよく空気を吹き出した鹿目は、恨めしそうに再び狭霧を睨む。近所の娘達は美しい狭霧を見ると騒ぐのだけれど、ちんちくりんの来訪者の目には失望しかなかった。
「ちぇ、何か違うや。知らないなら、もういいよ。おいら自分で探す」
ひどいことを言うと格子戸をパッと開き、桔梗色の着物は夜と風の吹き荒ぶ中へまた飛び出した。
「あ、ちょいと! お待ち! お待ちったら!」
お梅が慌てて外へ出て声をかけたものの、子どもはどぶ板を蹴って闇へ消えてしまう。照らす灯りもない。そんな暗い夜道を、素晴らしい速さで走って行ってしまった。
「せっかちな子だねぇ……こんな晩に外にいて、神隠しにでもあったらどうするんだい」
子供が見えなくなった方角を眺め、お梅は嘆息する。
「まぁ道は知っているようだし、迷子じゃなさそうだったな。……古道具屋と言っていたか?」
建てつけの悪い戸を閉めている女房に、久孝が声をかけた。
「言ってたね。もしかして狭霧の、伯父様のお屋敷じゃないのかい? きっと骨董でも扱っているんだよ!」
「ははあ、そういうことか。しまった、捕まえて場所を聞くんだったなぁ」
部屋へ上がり座ったお梅が手を打ち、久孝は自分の禿げ頭をぺしぺし叩いた。
「お姫様のいらっしゃる、由緒あるお屋敷なのかね。子授け観音だの何だの、いまいち難儀な子だったけど……」
帰り際さえ挨拶どころか、礼の一つもしなかった子供。しかしお梅の口調は呆れてはいても、目くじら立ててはいなかった。
「狭霧、あの坊主……いや、娘か? まぁ、どっちでも変わらなそうだな。アレの言ってた『ひいさま』とかいうのは、覚えはないかね?」
老人の日に焼けた顔が、隣にいる狭霧へ尋ねる。白面の少年は静かに首を振った。
「いいえ、知りません。でも僕を追ってきたからには、たぶん何か関わりがあるんだと思いますが」
狭霧は悩む気配も無く、淡々と言う。しかし老車夫夫婦の視線を浴び続けるうち、気付いた風に視線を上げた。
「あ、そうだ……今日、日本橋の辺りで人に会ったんです。お客にはなりませんでした。とても綺麗な、ご令嬢風の人で……その人に呼び止められたんです。『どこかで会った事がないか』と、尋ねられました」
昼間の道端での遭遇を語り出す。
「何だって?」
「僕はその人を知らなかったので、それきりになってしまったんです」
あんぐり口を開き、一膝繰り出す久孝へ、少年は真剣な顔で答えた。
「お前さん、こりゃ大変だよ! もしかしてお姫様の、傍付き侍女か何かだったんじゃないのかい?」
「狭霧が倒れていたのも、八丁堀の近くだ! 日本橋区の、あの辺りにあるお屋敷か!」
「ありそうな話しだよ! 早いとこ警察へ、尋ねてみなくっちゃ!」
急に回り始めた事態に面喰い、貧乏車夫とその女房は、あたふたしていた。
「良かったねぇ狭霧! これで少しは手掛かりになりそうだよ」
「ああ……はい、そうですね」
喜ぶお梅に合わせる感じで、狭霧は微笑んで見せる。
しかしどこか他人事といった執着の無さで、少年は折詰の卵焼きに箸を伸ばしていた。
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