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二十二夜

「開けて! 開けて! ねぇ誰か! 誰かいませんか!?」


 桜は声を張り上げ、冷たい扉を何度も叩いた。しかし返事は聞こえない。


 この扉が閉まる一瞬前、外にいた女中が、吹き飛ばされるように倒れるのが見えた。あれで気を失ってしまったのかもしれない。蔵の周囲には折悪しく、他に使用人もいなかった。


「誰か来て! 助けて!」

 諦めず扉を叩き助けを求めるが、答えてくれる人の気配はない。


 おかしいと思った。

 ついさっきまで普通に開かれていた、暮白屋の蔵。その重厚な扉が接着したように閉じきり、押しても引いてもびくともしない。何より、先ほどの閉まり方がおかしかった。


 屋内は真っ暗で視覚は殆ど役に立たないが、代わりに皮膚感覚と耳が鋭敏に働く。辺りで何か、ざわざわと蠢いている気配がする。収められている道具と埃と、土の匂いが鼻の奥をつき、暗闇が迫ってきた。


 どうしてこんなことにと、閉じ込められた闇の中でしばし呆然とする。

 桜は今日、お見舞いに来ただけだった。



* * *



 用事を済ませて買物も終わり、桜が日本橋区は今川橋の袂で人力車を降りたのは、午後二時頃だったろう。


 常盤橋からのびる本筋町と、日本橋からの通町には昔から大店が多かった。都市の中心と言っても良い繁華な場所で、河岸も近い。行き交う人の数と賑やかさは、帝都でも指折りだった。歴史のある立派な暖簾と、うだつの乗った黒い屋根が連なり、ガス燈と電信柱が並ぶ埃っぽい街並みが続く。


 林檎の入ったバスケットを抱え歩いていた桜は、そこで知人の後姿を見つけた。


「あら、お鈴ちゃん!?」

 雑踏の向こうに、たんぽぽ色の着物で包まれた少女の背中があった。

 桜の声は喧騒と重なり、おさげ髪の娘は反応が遅れる。でもすぐに気付いて振り向いた。


「わあ、桜さん! ご無沙汰をしております!」

 紺色の風呂敷包みを抱えた蕎麦屋の看板娘が、愛嬌のある笑顔を開いた。元気よく頭を下げるのと一緒に、濃鳶色の長いおさげ髪の先で紺色のリボンが揺れる。


「ホント、お久しぶりね! お元気そうで良かったわ。どうしたの今日は?」

 再会の嬉しさに、桜は下駄を鳴らして駆け寄った。


 幼馴染の下宿する古道具屋で顔見知りになって以来、二人は数回会っている。桜から見ると、鈴は年頃もちょうど妹くらいだった。ついついお汁粉など、ご馳走してあげたくなるほど可愛くて仕方ない。


昨夜ゆんべから、日本橋こっちへ来ていたんです」

 純朴そのものといった蕎麦屋の娘は、看護婦見習いを見上げて言った。


「それじゃ、泊り込みでこちらに? 何かあったの?」

「いえ、不幸があったとかじゃないんです。お月見にお呼ばれしただけなんですよ」

 桜が瞳に心配の色を浮かべると、鈴は健康的な顔でにこっと笑い、手を小さく振った。


「お月見?」

「はい。うちのおっ母さんが昔お世話になった、料理屋のお内儀かみさんが、そこの紺屋町にお住まいなんです。あたしも小さい頃から可愛がって頂いてる方で。そちらが、ご近所のお仲間と、二十二夜の『月待講』をしているんですよ。たまには鈴もどうだと、呼んで頂いたんです。おっ母さんたちも、泊まってきて良いって言うから……」


 小首を傾げた桜に、鈴は泊り掛けで知人宅へ遊びに来た理由を語る。

 料理屋の夫婦は鈴を孫も同然に扱って可愛がり、朝飯も出てきた。鈴はせめて後片付けと掃除と挨拶をして別れ、帰路の途中だったのである。


『月待講』という、古い風習があった。

 決まった月の日に、『講』と呼ばれる集団で月見をしたり、念仏を上げる。家族や近所で月を信仰し、眺めて楽しむ習慣だった。近頃はそういう月待講も、半ば年寄り同士の付き合いと見做されがちである。しかし客として招かれた鈴は、大いに楽しんできた様子だった。


「お団子や栗も、いっぱいいただいちゃいました。女の人ばかり集まってるから気楽で、夜中までみんなで寄席の物真似をしたりして」

「まぁ楽しそうね!」

 答える桜も、知らず唇に笑みが零れる。


 帝都の中でも特に、看護婦養成所周辺の新しい世界で、月を拝む旧弊は廃れつつあった。教会の教えが優先されるのもあり、まず耳にしない。新年の挨拶さえ、面倒がられる昨今である。『講』自体をわずらわしい、古臭いと嫌がる人はいた。けれど桜は月を愛でる風習も、そこで繋がる人付き合いも微笑ましく、素敵なものだと思っている。


「昨日は、良いお月様だったでしょう?」

「はい、お天気も良かったし! ……あ、でもたしか夕方に、神田の方で雷が落ちたみたいですね?」

「そうそう、私も聞いたわ。晴れているのに落雷があったんですってね? 青天の霹靂かしら?」

 鈴の話しに、看護婦見習いも頷いた。


 昨日の夕暮れ時、帝都で雷が落ちたと噂を聞いている。神田方面に大きな音と光が目撃され、近所の人達は軍の大砲や爆弾の暴発じゃないかと話していた。でも新聞には、被害も何も載っていない。やはりただの雷であろう、火事や死人も出なかったのだろうと、桜は今朝も家族と喋ったばかりだった。


「最近、変なお天気が多いですよねぇ?」

「そうよね。やっと涼しくなったけど、九月に入ってもいつまで経っても暑かったし。養成所の先生もね、このままだと、帝都の夏は毎年三十度以上になるんじゃないかって仰ってたわ」

「ええ~、三十度……!? そんなの大変!」

「まさか! 大丈夫よ、お鈴ちゃん、先生は学者様だから大袈裟なのよ」

 青褪めた鈴の不安を、楽観的な桜は明るく笑い飛ばした。


「桜さんは、今日はお休みなんですか?」

「ええ。昨日と今日とね。それで家に帰ったら、千尋のところのおかるおばさんが、身体の加減が悪いって聞いたの。だからこれから、お見舞いに伺うところなのよ」

 尋ねる蕎麦屋の娘に、桜はここで互いが鉢合わせるに至った経緯を語る。


「お内儀かみさん、ご病気なんですか? それとも、お怪我でもなすったんですか?」

 声を小さくする小柄な少女へ、薄茶色の髪をした娘は頭を振った。


「病気らしいわ。私も寝込んでいるとしか聞いていないから、詳しいことは何とも言えないんだけど……。それにしても、おかるおばさんが床に伏せるなんてねぇ?」

 珍しい事もあるものだと、桜は首を傾げる。


 小さい頃から、家族ぐるみで付き合いのある呉服屋。『暮白屋』のお内儀が、寝込んでいるとの話が聞こえてきたのは、数日前だった。桜も休暇で家に帰ったら両親に聞かされた案件で、細かい様子までは伝わっていない。一日二日ならまだしも、長引いているとのことまではわかっていた。こうなると一時的な体調不良ではなく、病気の気配がする。おかるが『具合が悪い』と口に出すのが、まず珍しかった。


「心配ですねぇ……お医者には?」

「おばさんが、呼びたがらないみたいなの。寝てれば治るから、いらないって。辛抱しちゃうのよねぇ。それでね、うちのお父っつぁんが来れば早いんだけど、おかるさんが気を使うだろうから。お前一先ず話しだけでも聞いてやっておいでと、言われて来たのよ。私が出来るのは看護で、治療じゃないにしても、体調や様子を見るくらいなら、まぁ……」

 桜は両親に促されたのもあって、息子の幼馴染が挨拶に来たという体裁で、具合を見に来たのだった。ぼんくらな幼馴染の書生に、久しぶりに会えるかもしれないという淡い期待も、実はある。


 と、娘たちが、そんな話しを道端で重ねていたときだった。


「あの…………お嬢様」

 横から、声がかけられる。

「え?」

 第三者にお喋りを中断された娘たちは、声のした方を同時に見た。


「お安く、お供致しましょうか?」

 そこには大き過ぎる半纏を着た少年が、はにかんだ笑顔を浮かべて立っている。

 数歩離れた場所で、廃車寸前みたいな人力車が停まっていた。


 少年の初々しい前髪は黒く艶やかで、身形は貧しくとも立ち姿に気品がある。切れ長の目元は端整な造形の中に、どことなく翳が漂っていた。小柄で色白で、車夫にしておくのは勿体無いほど美しい。娘二人が揃って返事をし忘れたその状態は、俗に見惚れると呼んだりもするだろう。


「……え? え?」

「……桜さんですよ!」

 周囲を見回している桜に、鈴が小声で教えた。

 今日の桜は、撫子色の小紋に黒の駒下駄。波打つ薄茶色の髪は西洋婦人のように可憐に編み込んで、白いリボンを結んでいる。手には西洋風のバスケットを持っていた。お嬢様と、それに従う女中と思われたのだ。


「え! お嬢様って、私ッ!? マァお上手だこと人力車くるま屋さん! 違うわよ! それに悪いけど、人力車はついさっき降りたばかりなの」

 桜は照れ隠しに一際威勢よく笑って、車夫の少年に向けバタバタ言った。


 他所へお見舞いへ行くので、普段より三割増しで洒落こんでいる。そうだとしても、正真正銘の『お嬢様』たちを知っている桜は、自分はお嬢様なんかになれないと承知していた。何よりもお嬢様にしては、元気が良過ぎると自覚もある。本物の御令嬢は礼儀作法は元より、大口開いて笑ったりはしなかった。


「あ……そ、そうでしたか。失礼を致しました」

 桜に笑顔で言われた少年はすぐさま侘びて、惜しまず頭を下げる。食い下がる気配もなしに引いてしまうとは、どう見ても商売慣れしていなかった。加えて何だか行儀が良い。やはり車夫にしておくのは勿体無い少年だった。


「申し訳ありませんでした。では……」

 色白の顔は恥ずかしそうに俯いて、逸らされてしまう。


「あの……」

 そこで何故か桜は、人力車へ戻って行こうとしていた人へ右手を伸ばした。薄茶色の髪をした看護婦見習いは半歩踏み出し、見えない力に引っ張られるようにして、少年を引き止めたのである。


「え……はい?」

「あの、あなた……どこかで、お会いした事がないかしら?」

 自分でも動機不明のまま、桜は尋ねていた。少年の驚いている顔を、まじまじと覗き込んでしまう。

「僕が? ……いいえ? 無いかと、思いますが」

 問いかけられた人力車夫の少年は娘の質問にも迷惑を見せず、黒々とした目で不思議そうに瞬きしていた。


「ああ、そう? ……そうね、そうよね。何言ってるのかしら私? ごめんなさい、変なこと言って!」

 我ながら困惑し、桜は慌てて相手に謝る。

「いえ、どうぞお気遣いなく」

 微笑んで再び軽く一礼を残し、人力車を引いた少年は道を北の方角へ去っていった。重そうで、車夫にしては力強さにも欠けているというか、他人事ながらやっていけるのかと心配になる。


 そうして一息ついて振り返った桜はそこに、風呂敷包みを抱えホケーッと佇む鈴がいるから、目を丸くした。


「お鈴ちゃん? どうしたの? 人力車、乗りたかった?」

「へ……? あ、違います! な、何だか乗り辛いからいいです……!」

 尋ねられた鈴も鈴で、大急ぎで手と首を横に振る。浅草近辺までなら乗っても悪くない距離だろうが、鈴はあの人力車に乗る気は無い顔だった。


「帝都広しといえど、あんな車夫さんがいるなんて驚いちゃったわ……」

「ハイ……」

 遠ざかっていく人力車を見送り、娘達は小声で言って頷き合う。


 美男に話しかけられて舞い上がるという気分には、程遠かった。美しい少年だったのは違いない。だが輝きで衆目を惹きつけ、黄色い歓声を上げさせるといった系統のそれではなかった。日常の景色に溶け込みながらも、物凄く不自然で恐ろしい存在とすれ違った後みたいな、変な気分を二人とも味わっている。


「桜さん、あの人知ってるんですか?」

 呼び止めた勇気に感心している眼差しで、鈴が尋ねてくる。少々疲れた桜は、肩の力を抜きつつ否定した。

「ううん、知らないと思うんだけど……見覚えがある気がしたの。どうしちゃったのかしらね?」

 曖昧に笑った桜は、林檎の入ったバスケットを腕に抱え直す。すると今度は鈴が、重い口を開いた。


「実は……あたしも一目見たとき、何だかあの人を知っている気がしたんです」

「え、お鈴ちゃんも!?」

 吃驚した顔を隠さない桜に、鈴は細い眉を寄せて首肯する。


「はい。でも役者さんて感じでもないし、どこで見たのかなぁ?」

「そうなのよ。それにあんな車夫さんなら、一度会ったら忘れそうもないのにね?」

 真昼間の日本橋の大通りで、蕎麦屋の娘と看護婦見習いは、狐に摘まれた人みたいに並んで立っていた。


 桜も鈴も、それをいつ見たか思い出せず、これから先もずっと知ることはない。

 しかし、知っているような気がした二人は間違っていない。


 桜は以前、古道具屋の押入れを開けた時。

 鈴は数鹿流堂の蔵二階の窓を眺めた時に、先ほど通り過ぎた少年と通じる、白い面影を見ている。

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