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幽明境

 雪輪が雨戸を開くと、風と雨は凪いでいた。

 花簪屋の奥座敷。時刻はいわゆる丑三つ時だった。鹿目はいない。今朝、自宅へ帰って行った。


「捜していたようだ」

 仄かなランプの灯りに、左半身を照らされて浄蓮尼が言う。朝のうちに高田の家を出た尼は、少女を送り届けてきてくれた。


「もっと早く、戻すべきでしたか」

 枕屏風や座布団を片付け、白い娘は尋ねる。

「それが……それほど悲痛でもない。此度は少し家出が長いと、そんな調子で」

 首を傾げて尼僧は答えた。帰ってきた鹿目を迎えた両親に、「うちの子が何ぞご厄介をおかけしましたか」と、浄蓮尼の方が心配されたというから本物だろう。


「あの子は……何処かへ行ってしまう癖でもあるのでございましょうか?」

 家出癖のある人なら、雪輪も他に心当たりがなくはなかった。

「山の神の子であるからな」

 尼は思案気な顔で呟いている。


「母親の……おしんの話しだと、鹿目は山猿だそうな」

 ふっと笑った尼僧の話しによると、両親から鹿目はそう評されていたという。都市部の勝気なお転婆娘は、『おきゃん』と呼ぶ。だが、おきゃんではなく、山猿。


「書物は嫌いだと塵箱へ捨てる。川辺で八艘飛びをして、舟を引っくり返す。算盤は蹴とばして壊す。

他所のいけすの魚を、全部逃がしてしまったりと、まぁ……」

 魚の件では、いけすの持ち主が家へ怒鳴り込んできたらしい。親たちは、いくら言って聞かせても耳を貸さない自由気ままな『山猿』の娘に手を焼いていた。


 こういう鹿目と反対に、弟妹は都市育ちらしい子供たちだった。弟は読み書きが得意で、賢いと褒められる。妹は縫い物が上手で、気が利くと褒められる。鹿目だけ、褒められるところがない。それで「己はどうにも出来が悪い」と考え『旅』に出る事にした鹿目は、雪輪のところへ来たのだった。


 尼の話しを聞きながら、雪輪は考える。

 ここで共に過ごした日々のどの時だったか、鹿目は言っていた。


『おいらが楽しいときと、みんなが楽しいときが違うんだ』


 だから飛んだり跳ねたりしていると、母のおしんは怒るのだろうと。日頃は実年齢より幼く見える横顔に、子供らしからぬ諦観さえ漂っていた。愚鈍な子ではないと、雪輪は見ている。


――――お芋の唄と踊りは、上出来でしたよ。


 サツマイモを相手に歌い踊っていたのを別れ際に褒めてやると、鹿目はニヤッと笑っていた。どう受け取ったかはわからないが、気休めの励ましや慰めで言ったのではない。ただのサツマイモへ捧げられていた即興の唄に、滅びた里の『麦打ち唄』の残響を感じた。あの子供は生涯それを知ることはないが、嬉しいものだと思ったのである。チョコレートの黄色い缶を土産替わりに渡してやり、「踊る場所だけわきまえなさい」と、注意はしておいた。


 そのとき奥座敷の軒先で、巨大な翼の羽ばたく音がする。

 待っていた雪輪は、縁側へ出た。


「仙娥」

 名を呼んだ白い娘に、青黒い大きな鴉が秋の庭で飛び跳ね近付いてきた。


「お達者にお暮らしだべよ。車夫仲間にも入れてもらえるようになったんだぁ」

 夜に溶けそうな鴉は、頭を上下させて長閑に報告する。鴉の注進に、雪輪はつり上がった黒い目の緊張が少し薄れた。この報せを聞きたかった。

「ご苦労でした」

 言うと同時に、部屋の火が消える。闇に包まれた数秒後には、天上の月が雲間から現れた。


「では、参ろうか」

 浄蓮尼が囁き、縁側で草履をはいて降りる。俄か弟子も従い、狭い箱庭へ降りた。荷物は元々、無いに等しい。白頭巾だけ被るか迷うくらいだった。


 高田屋の人々へ、これ以上の挨拶はしない。

 旅の尼は長年こういうやり方で来たそうなので、雪輪も倣う事にした。庭の左奥には戸が隠されている。狭い扉を潜り外へ出て、板塀と建物の隙間を抜けた。大通りでは濡れた地面や道端の木に、月影が色濃く陰影を落としている。地表の風は平らかだが、上空を流れる雲はまだ速い。


「私の“憑き物”もいなくなっていた……諦めたらしい」

 椿の杖の先端で地面を突き、月を見上げて浄蓮尼が呟いた。今朝の鹿目との外出のとき、“憑き物”の動向も探ってきたのだろう。

「浄蓮尼様に、付き纏っていたという者でございますね」

 月光を眩しいほどに反射している白い頭巾を眺めて雪輪が言うと、中背の尼は笑った。


「八百比丘尼であると知れるとな……不老不死を乞う者が、憑いて来てしまうことがあるのだ」

 口調は『困ったものよ』、と言いたげだった。


 珍しい存在を神仙の類とし歓迎する古い習俗は、今も僅かに残っている。しかし長寿を祈願して拝む者達ばかりではなかった。

「それだけではない。死なずの尼を、うまく使うてやろうという者まで現れる」

 尼僧は気にしていない風に先を続けた。


「ハア~、磔の身代わりにでも、されてやったんだべか?」

 屋根から地面へふわりと舞い降りた仙娥が、口を挟んだ。

「他にも、私が身代わりとなり、斬首や八つ裂きを逃れた女もいた。嵐を鎮めるためと、船の人身御供になったこともある。御仏に仕える身。何を惜しむことがあろうぞ?」

 浄蓮尼は静かに微笑んで答えた。

 何事も命で贖おうとする、思想や時代は長かった。目の前に『死』を提示されるほど、わかりやすい説明もない。それらをあしらってきた死なずの尼の口調は、寄り付く羽虫を追うようだった。


「斬られても頭や手足が生えんのかぁ。クラゲかイモリみてぇだべなぁ」

 放言する化物鴉を、「仙娥」と雪輪が叱る。浄蓮尼は、また微笑んだ。


「そして此度、帝都へ向かう道中……東海道近くの尼寺に立ち寄った。そこでまた“憑き物”に気に入られてな」

 雨上がりの道で立ち止まり、浄蓮尼は語る。


「老いさらばえるのが、恐ろしいそうだ。煩悩の炎を消すために、尼寺へ入ったと言うておったものを……私が老いぬと知り、欲の炎が燃盛ったのだろう。哀れよな」

 浄蓮尼の不老不死に魅了された女は、ご利益に預かろうとしたが、無駄と悟ったか何処かへ姿を消したのだった。


「憑き物とは、土々呂かと思うておりました」

 雪輪が呟くと、浄蓮尼の柔らかそうな頬が微妙に俯く。


「『土々呂』……土々呂か。今は薬売りとなっているな。昔は、違う姿をしていたぞ」

 水溜りに映る月を見つめて言った。

「ある時は、東国へ下る『旅の人』……ある時は市で噂を流し、私に『憑いてきた者』と、様々に。この二百年ほどは、『薬売り』になっておるな」

 語られたのは、薬売りの過去だった。


「昔の浄蓮尼様へ、『人魚の肉』を持ち込んだのは、土々呂でございましたか」

 静かに雪輪は頷く。同時に僅かに身構えると、周囲の空間が凍るように緊張し始めた。


「そう……奴らは死を忘れた狂女を、うまく使ったのだ。狂った女は、いつか必ず御室の山へ流れ着く。それにより、封印の守りを崩さんと」

 浄蓮尼は、全て我関せずといった単調さで言っている。

「……もしや、誓約を食い潰す『霧降』を、使うおつもりだったのでございますか?」

 雪輪が小さな声で向けた質問に、浄蓮尼が振り向いて笑う。笑顔は妖異の相へ崩れ始めていた。


「ああ、その通り。私は山へ忍び込み、要岩の封印を解こうと試みて、里人達に捕らえられたのだ。だが殺しても死なぬ。これは何事ぞと、湾凪様が出てきてくだされた」

 尼僧は土々呂に利用された過去を、苦笑してみせた。


 無論、死にたがっている尼のために、御室の山の封印の一部である神刀『霧降』を解除して使うなど許されない。それでも、もし何か可能性があるとすれば、長い時の果てに『再び会う日』となるだろう。そなたなればあるやもしれぬと、湾凪家の者は告げたのである。


「雪輪様……? 『土々呂』は、山のようにおるのだ。あれは、神であったもののなれの果て」

 語りかける尼僧の薄墨の衣が、反射する水月の光に照らされていた。


「土々呂は、言霊により映し世へ現れた神が、常世へ渡る事が出来なくなり、滅びる間際の姿。滅びを先延ばしせんと、あの姿形になっている。映し世に有る限り、常世の者とて時と縦横に縛られるゆえにな。長い時の間に、奴らは『術』を編み出した。だが土々呂となった神は、『土々呂』に塗り替えられてしまう。それがため、みな同じようになり、映し世のあらゆることを知っておる。しかし、元の己が何者であったかはわからなくなる」


 八百比丘尼の眼が、人ではない黒い光を宿すのを雪輪は見ていた。

 土々呂たちは非常手段で延命し、塗り替えられて自分が何であったか、わからなくなっているという。『映し世は時と縦横に括られている』という浄蓮尼の言葉は、雲竜天狗のそれとも合致していた。


「土々呂の目的は、常世へ渡る事……あやつらは映し世を彷徨い、『針の先』を探し回ってきた。だが、もはや残された時間は僅か。人間側の記憶も薄れた。雪輪様に付き纏うのは、『針の先』である貴女様に、早う映し世の見切りを付けさせんがため。帝都の鹿目に、子授け観音がおると囁いたのも、さような目的であろう」

 浄蓮尼は土々呂たちの行動理由を、さらさらと解いてみせた。


「では……浄蓮尼様が鹿目を誘い、わたくしに会いに来られたのは、何のためだったのでしょう?」

 尋ねた雪輪に続いて、大きな黒い翼を広げた仙娥がカアーと啼く。

「こっちが騙されると思ってんだべか? おめぇこそ土々呂に、封印さ二つ解けた『針の先』で千載一遇。『ひいのこと』と、目覚める古い神の力を持ってせば……とか何か、言われたんでねぇのか?」

鴉から言われても、尼僧は小首を傾げただけだった。


「そうか……存じておられたか……いつから?」

 恥らう少女の唇と同じ動きで、罪悪感も無い声が問うてくる。

「火乱より、尼様が『八百比丘尼』であるとは聞いておりました。何ぞあるとは……。それに浄蓮尼様は、わたくしへ『御室の里へ戻るのか』と何度も促し、尋ねておられました」

 答える雪輪の口は、心境と同等に重かった。


「浄蓮尼様。雲竜天狗は、『針の先が何処にいても、何も変わらぬ』と申しました」

「んだ!」

 月の光で一際肌も青白い娘の横で、黒い翼を青紫色に光らせて仙娥も頷く。


「先刻ご存知の通り、わたくしは『ひいのこと』さえ伝え聞いておりません。このようなわたくしが、御室の里へ戻ろうと……貴女様の約を解く術はお示し出来ますまい」

 雪輪の言葉に、傍らの仙娥が続いた。


「呪禁師の華厳なら、出来たかもしれねぇなぁ。でもあいつが最後だったっぺよ。術が使いこなせる者も、言霊も、とっくに映し世からは消えだんだぁ。華厳も『針の先』の宿木になるため、何千と人間さ捕らまえて、黒団子の『失敗』さ拵えて、外道呼ばわりされたやつだもんなぁ。正気の沙汰じゃねぇべさー」

 華厳の鬼畜の行いも、仙娥の口に乗ると呑気になってしまう。


 千年前の都で忌み嫌われた呪禁師は、神々の棲む常世へ渡る野望のために、人の形も心も命も捨て去った。危うい奇跡を起こした術者は、簪の碧玉となって眠りながら『針の先』がもたらす次の奇跡を待っている。そして外道の呪禁師のわざは、その後の世で必要とはされず失われた。


「マァ、何と。また……叶わぬのか?」

 一呼吸後、浄蓮尼から放たれた声が高くなる。やがてケタケタと笑い始めた。


「では、私はどうすれば良いのであろうな? 首を撥ねられようと四肢が千切れようと、我が身は死なぬ。嵐の海に投げ込まれようと、火炙りにされようと、気付けばまたどこか別の場所におる。何だ、やはりそうなのか? 愚かの報いと、このままひとりで、永遠に彷徨っておるのが相応しいのか」


 土々呂に踊らされた尼僧の高い笑い声を、雪輪は黙って聞いている。『人魚の肉』という誓約の復元力は、凄まじいようだった。


「それに……何より私は、何が大事であったのか……死が消えたとき、もろとも消えたようでな?」

 次第に嗄れはじめた八百比丘尼の呟きが、湿った風に流されていく。


 高田屋の妻は、理不尽への嘆きと問いの途中で引き返してきた。

 だが遠い昔の浄蓮尼は、中途半端な納得や折り合いを許さず、執着の果てに『人魚の肉』を口にしたのである。無力を覚える事象に対し、曖昧にせず情緒へ逃げず勇敢に挑戦した。だがそうして手に入れた不老不死は、彼女の期待を裏切った。


「飢えがなければ、食欲も消えるようにな? 同じ姿でいつまでも保たれ続ける我が身から、他の者への愛着は消えたのだ。欲も何も消え失せた。色彩も凹凸も無い……世界はまるで、のっぺらぼう」

 失われても復元し続けるだけの存在になった女は、くすくす笑う。

 五百年前、御室の里を頼って徒労に終わったとき。尼の袖を濡らした涙の理由が絶望だったとすれば、その頃まで浄蓮尼は人の情や愛着を、理屈だけでも保っていたのだろう。


「つまらぬものよな……骨肉が少しばかり異形と化しただけで、全て変わってしまうとは」

 あれほど『絶対』と信じ、しがみついていた執着の対象は容易く無価値化して、動力そのものが消えた。

「それでも尚、『人』だった頃の記憶は残りおる。これが何ともいえず、心地がわるい」

 浄蓮尼の言を聞き、雪輪は目を伏せる。眠る安息もない中、自意識ばかりが膨張していく。時間感覚は消え、浄蓮尼にとっては千の秋も一日と同じ重さしか持たなくなった。それはどんな世界だろう。


「十万億土を行くのと同じ」

 地獄への道さえ遠過ぎた。

 残された観念的な欲求は『終わらせること』だけとなったが、世界も時間も無慈悲に延々と伸び続けていく。身命を惜しまず、身代わりとなって斬首に晒し、人身御供に捧げても終わらない。


「遠からず、正気も失せよう……失せた果てに、私は『何』になるのだろうな」

 尼僧の目から白目の部分が消えてゆき、笑顔は更に崩れ始めた。

「まぁ~、頭でっかちになった分、人の限界はせいぜい二、三百年だぁ。それ以上の時間に耐える支度は、されでねぇべさ」

 美しい漆黒の烏が、気楽に頭を振った。


「だからこそ、もう終わらせたいのだ。それだけであるのに、わたしはまた……」

 呟いた尼は石になった如く動かず、衣の裾を夜の風に揺らしている。雪輪は一層深く黙り込んだ。白い手を見つめ考えていた娘の頭には、ある手段があった。


――――非道な手である。


 だが他に無い。

 そうして顔を上げた雪輪は、文字通り絶句した。


「柾樹さま……?」


 黒い布を取ったように、浄蓮尼の背後へ現れた、長身を包む濃色の袴と黒の兵児帯。黒い紬の着物に、琥珀色の髪をした青年が立っていた。


 見通しの良い往来。現れた人は銀縁眼鏡の向こうの瞳も沈黙し、尼僧を見下ろしていた。月光で伸びる影と気配に気付き、振り向いた八百比丘尼が長身痩躯の青年を見上げ、一歩二歩と後ずさる。

雪輪は違和感を覚えた。「仙娥」と、目付けの烏天狗を呼ぶ。


「あじゃあー……まぁた、おっとろしいのが出で来だぞ。ううん、何だぁ? 空が、風が……おかしいぞ?」

 柾樹以外の何かの来訪をも感じ取ったらしい大鴉は、しわがれた声まで毛羽立っていた。

 外見は柾樹であるが、別人だと雪輪も勘付く。青年は水底の夜も罅割れんばかりに、手懐けられそうもない荒々しさを伴い立っていた。


ダイダラボッチの……?何故……」

 浄蓮尼が言い終わる前だった。

 柾樹の手が伸びて、相手の胸の中心へ銀色の拳銃が突きつけられる。突きつける青年は、開いた目も何を見ているか知れない。刹那の空虚があって、通常の拳銃の音とは違う爆音が響いた。放たれた青白い稲妻が、浄蓮尼に突き刺さる。


「浄蓮尼様!?」

 背後にいた雪輪には一瞬、尼僧の身体全体が数倍に膨らんで見えた。

 崩壊する間際、聞こえた「あ」という小さな声。倒れる音に人間の質量はなかった。駆け寄った雪輪は、不死の尼が倒れたはずの場所を撫でる。


「消えた……」

 地面に残ったのは、白い頭巾と墨色の衣。薄紫の小さな袈裟行李。古い古い椿の杖。手や足のあった場所には、黒焦げになった荒縄に似た残骸のみが僅かに残っていた。

水溜りを踏む音がして、娘は訪れた青年を仰ぎ見る。


 西に傾く月を頂き、迎えに来たとも思えない目がこちらを見つめていた。異国の拳銃から、紫銀色の細かい稲妻を走らせている。


「“のんでんぼう”でねぇか!」


 首の羽毛を逆立てて仙娥が声を上げると、世界が眩しい白一色になった。

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