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【書籍化】婚約破棄のその先に~捨てられ令嬢、王子様に溺愛(演技)される~【3巻10/10刊行】  作者: 森川茉里
心の行方

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73/97

01

 成年王族であるアークレインのスケジュールは色々な公務で埋め尽くされて案外忙しいのだが、週に一日か二日の割合で公休日が設けられていて、休みの日にはエステルをあちこちに連れ出してくれる。


 今日は珍しく二日連続で休暇が取れた為、エステルはアークレインに連れられて、首都郊外に王室が所有する別邸へと向かっていた。


 警備上の理由から自由にどこにでも出かけられる訳ではないけれど、ローザリア国内には王室やアークレインが個人で所有している建物があちこちに点在している。


 気軽に街や領内を出歩いていたこれまでに比べると不自由だが、宮殿の中の施設など、一介の貴族令嬢では入れない場所を利用したり、王室が所蔵する様々な宝物を身近に見たり手に取ったりできるようになったのはメリットでもある。

 いや、メリットはそれだけではない。王室との婚姻関係がフローゼス伯爵家にもたらす利益は計り知れない。


 無意識のうちに不自由さとそれに代わる利益を秤にかけていた事に気付いたエステルは軽く頭を振った。計算高い人とずっと一緒にいるから、その思考回路が移ったのかもしれない。


「エステル」


 アークレインに促され、馬車を降り立ったエステルは目の前の景色に息を呑んだ。


「すごい、綺麗なところですね」


 白亜の邸宅の傍には大きな池があり、水面が鏡のようになって池の中にもう一つの世界があるような景色が広がっていた。

 建物の白に新緑の緑、目の覚めるような青空のコントラストにエステルは目を奪われる。

 今日はこの瀟洒な別邸に一泊する予定だった。


「この邸も宮殿と一緒で、古代ラ・テーヌ王国の遺構を利用して建てられているんだ。外壁には侵入者を感知する古代遺物(アーティファクト)の警報装置がついているから、敷地内なら自由に歩き回ってもいいよ。王妃の手の者がどこにいるかわからない宮殿よりもある意味安全かもしれない」


 同様の装置はアルビオン宮殿にも付いてはいるのだが、確実に安全と言えるのは、アークレインの管理下にある天秤宮の中だけだ。


 天秤宮は過去、リーディスの侵入を許しているが、それは彼が空間転移の異能を持つ《覚醒者》だったためだ。


 宮殿内のそれぞれの宮は高い外壁に覆われ、普通の人間が侵入しようとすると外壁を乗り越えるしかない構造になっている。そして壁を乗り越えようとすると警報装置に引っかかってその宮の主人に伝わる仕組みになっている。


 思い返してみるとエステルが以前クロスボウで襲われたのは天秤宮の外にある馬場だった。

 こちらの方が宮殿よりも安全と言われると、アークレインが置かれている立場の厳しさを改めて思い知らされる。


「エステル、せっかくだから少し散策してみる?」

「はい、是非」


 エステルはアークレインへの同情を心の奥に押し込めると、笑顔を作って差し出された手を取った。




   ◆ ◆ ◆




 この別邸の庭園の主役は大きな池で、池の中央には中洲があり、そこには小さなガゼボが建っていた。

 池の中には様々な水生植物が見られ、水面を覗き込むと色鮮やかな観賞魚がひらひらと泳いでいる。


「ボート遊びもできるようになってるんだけど乗ってみる?」


 アークレインが指差した方向を見ると、小さな桟橋があり小型のボートが浮かんでいた。




 誘われるままにアークレインの手を借り、ボートに乗り込んだエステルは、不安定な足場にふらりとよろめいた。

 すかさずその体をアークレインが受け止めてくれるが、エステルは彼の体にしなだれかかるような体勢になる。


「大丈夫?」

「はい。ありがとうございます」


 お礼を言いながらもエステルは疑問を抱いた。

 やんわりとだが体を引き離されたような気がしたのだ。


 最近のアークレインの行動はよくわからない。

 優しさも紳士的な態度もいつも通り変わらないのに、何となく避けられているような気がする。


 エステルに向けられる感情にもわずかな陰りが見られるのは何故だろう。

 以前に熱を帯びた視線を感じたのなんて無かったかのように、今のアークレインの態度はどこかよそよそしい。


 はぐれ竜の事件からほぼ一ヶ月が経ち、もう既に体は完全に回復したのに、アークレインは共通の寝室で眠っていても指一本として触れてこない。もしかして何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか。


 エステルは当たり前のようにオールを握ったアークレインの向かい側に座り、視線を水面に落とした。


 池のほとりには睡蓮が群生していて、赤みがかった新芽が水面に顔を出している。その傍を赤と白のまだら模様の鑑賞魚が通り過ぎて行く。


 小さな水音がしてボートが動き出した。


「あまり身を乗り出さない方がいい。危ないから」


 ゆっくりとした速度でオールを漕ぎながら、アークレインが声をかけてきた。

 エステルは目線をアークレインに戻すと淡い笑みを浮かべた。


「もし落ちてもすぐに助けて下さいますよね?」

「助けるけど、暖かくなったとは言えまだ水の中は冷たい。落ちたら風邪を引いてしまう」


 どこかぶっきらぼうな口調に、やはりこれまでとは違うと感じてしまう。

 いつからだろう。思い返せば、ここ二、三週間……狩猟大会の事件の少し後からだ。


 リーディスからのお見舞いの手紙が来て、大使館での夜会に参加したあたりから少しずつアークレインの態度が変わってきた気がする。


 いまだに飛竜をけしかけた黒幕は判明していないしネヴィルも療養中だ。すでに骨は繋がったけれど、今は復帰の為のリハビリ中と聞いている。

 ネヴィルの抜けた穴は、アークレイン付きの護衛官でキアンという青年が務めてくれている。


 大使館での夜会でワインをかけられた件に関しては、表向きには女中(メイド)の粗相をアークレインが寛容に許したという美談として報道された。

 その裏にはアークレインと前フランシール大使ジスカール伯爵による情報操作があった。下手をすると外交問題にもなりかねなかったため、当事者全員の合意のもと全力で揉み消したのだ。


 そして、後日ウィンティア伯爵を交えた話し合いが行われ、セシリア・ウィンティアにはエステルへの今後の接近禁止が言い渡された。


 前大使夫妻に関しては既に隣国へ帰国しているので、今後はそうそう顔を合わせる事はないと思われる。

 仮に外交の時に顔を合わせた場合は、周囲に不自然に思われない程度に接するという事で話がついた。


 ウィンティア伯爵夫妻は、酷く反省した様子で両者とも話し合いの間終始俯いていた。

 セシリアの行動についてはライルの現状を考えるとあまりきつくは責められず、話し合いの時間はひたすら気まずかった。


「エステル、もしかしてあまり楽しくない?」


 ぽつりとアークレインから声をかけられ、エステルははっと現実に引き戻された。


「いえ、そんな事は。少しぼんやりしていました。申し訳ありません」


 気がついたらボートは池の中央まで移動していた。

 ゆらゆらと揺れるボートと日差しの照り返しを受けて輝く水面が、日常を少しだけ忘れさせてくれる。


 エステルが空を仰ぐのと、ぽつりと頭上から水滴が降ってきたのはほぼ同時だった。


「やだ、雨?」


 天気雨だ。上空には青空が広がっているのに、ぱらぱらと雨粒が降り注いでくる。


「すぐ止むと思うけど戻ろうか。ごめんね、雨よけの壁を異能で作れない事もないけど、ボートを漕ぎながらだと難しい」

「そうなんですか?」

「壁を作ろうと思ったら集中しないといけないんだ。慣れてない動作をしながらだとちょっとね」


 申し訳なさそうな顔をするアークレインにエステルは首を横に振った。


「そんなに酷い雨じゃないから大丈夫ですよ。少しくらい濡れても平気です」


 晴れているのに雨が降るというのは珍しくて不思議な感じがする。それに、水面にぽつぽつと雨粒が落ちる様子を観察するのも悪くない。




 アークレインはボートをいったんガゼボのある中洲に着けた。

 しかし、陸に上がった途端にざあっと雨足が強くなる。

 エステルはアークレインに手を引かれ、ガゼボの屋根の下へと避難した。


「急にこんなに降るなんて……」


 日除けのボンネット帽を被っていたおかげで髪は無事だったが、ドレスは結構濡れてしまった。


 顔をしかめるエステルの肩にアークレインの上着がかけられた。いつの間に脱いだのだろう。


「これも濡れてるけどないよりマシだと思う」

「でも、それではアーク様が……」


 雨のせいで気温が下がってきている。肌寒くないのだろうか。


 上着を返すために脱ごうとすると手で制された。そしてアークレインは顔を背けて小声で囁く。


「透けてるから」


 その指摘に自分の体を確認すると、確かにデイドレスの生地が肌に張り付いて、その下に身に着けたコルセットが透けて見えていた。


 最近昼間は汗ばむ陽気が続いていた。そのため上着で調節できるよう、薄手のドレスを身に着けていたのが仇になった。


 エステルは慌ててアークレインの上着の前をかきあわせた。上着はエステルの体には大きくて、体格差がある事を思い知らされる。そしていつもの香りがした。爽やかで少し苦いベルガモットの香水の香りだ。


 アークレインはまだ顔を背けたままだ。その頬がほのかに赤く染まっているのに気付き、心が波打った。

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