01
はぐれ竜の事件から一週間が経過し、エステルの体調は随分と良くなった。まだ完治した訳ではないけれど、背中や太ももの内出血は随分と色が薄くなってきたし、左手の包帯も取れた。平民よりも回復が早いのは豊富なマナの賜物である。
この間、シリウスがやってきて大騒ぎして帰って行ったという事件はあったものの、天秤宮の中はおおむね平穏だった。
ネヴィルは療養中だがニールとメイは復帰したし、エステルの傷が快方に向かった事でアークレインも公務に戻った。
左手には残念ながら痕が残りそうな状態になっている。
マナを暇を見ては左手に流してみた効果が出たのかはわからないが、予想していたほど酷い状態ではなく、レースの手袋で充分に誤魔化せる程度ではある。だからエステル自身はそこまで気にしていない。というか、飛竜にあの至近距離で対峙してこの程度で済んだのはむしろ幸運だったと思っている。
ただ、アークレインが傷痕を見る度に申し訳なさそうな顔をするから居た堪れない気持ちになった。
飛竜の姿を見て慌てて引き返したものの、間に合わなかったという事が相当に堪えているようだ。
また、あの時エステルを守れなかった事を相当負い目に感じているらしく、これまで以上に輪をかけて過保護になった。
傷痕を薄くするというクリームを手に入れてきたり、一緒に歩く時の歩調やら食事をしっかり摂れているのかなど、事細かに確認してくるのが少し鬱陶しい。
そして今も。
「久しぶりに外に出るんだから疲れたらすぐに教えて欲しい」
「そこ、石が落ちてるから気を付けて。後で庭師に言っておかないと……」
「今日は日差しが強いけど大丈夫? まぶしくない?」
単に庭を散策しているだけなのに、妙に気を遣われるのが嬉しいとは思うものの息苦しくもあった。今までの真綿の檻の密度が上がったような錯覚を覚え、いつか窒息しそうな不安を覚える。
(こんな事思っちゃ駄目よね……)
心配してくれるのはありがたい事なのだから。
狩猟大会の時に外出した時も思ったが、首都はフローゼス伯爵領よりもずっと春の訪れが早く、少し暖かい日が続くと春の花が少しずつ順を追って咲き始める。
庭には冬の間目を楽しませてくれたビオラに混じり、水仙や木蓮といった春の始まりを告げる花が色鮮やかに咲き誇っていた。
外に出るのは一週間ぶりなので、確実に体力が落ちている。少し歩くだけで息が上がってきた。
「少し休もうか」
アークレインはエステルをよく見ている。すぐに気付いて小径の途中にあるベンチへと誘った。
アークレインはベンチにハンカチを敷いてくれる。
「ありがとうございます」
エステルはアークレインにお礼を言いながら微笑みかけると、ありがたくハンカチの上に座らせてもらった。
手袋に覆われた左手に視線を感じ、エステルは憂鬱になった。
「傷痕がやっぱり気になりますか?」
「え? いや、違うんだ」
エステルが尋ねると、アークレインは明らかに動揺した。
「そろそろ指輪の話をしてもいいのかなって……魔導具の指輪しか今付けてくれていないよね」
手袋の下には指輪を付けてはいるが、それはこの宮に入る時、不審なマナを感知した時にアークレインに知らせる為に渡された魔導具の指輪だ。
飛竜を撃った時にも婚約指輪と重ね付けをしていたのだが、さすがは魔導具というべきかこちらだけは無事だった。
「この指輪はアーク様のカフスと繋がっていますから。これが婚約指輪でも構わないくらいなんですが……」
「エステルは王子妃としての品位も保たなくてはいけないから駄目だよ。宝石商を呼んでもいい?」
エステルはため息をついた。魔導具も決して安いものではないのだが、どうしても新しく大きな宝石の付いた指輪をあつらえないといけない雰囲気だ。
「……新しい宝石を買うのではなくて、アーク様が今現在お持ちの宝石を何か一つ賜って、この指輪の石と合わせてリメイクする、というのではいけませんか……?」
瑕が付いてしまったロードライトガーネットの指輪には鎖を通し、ネックレスとして常に身につけるようにしている。エステルはその指輪を服の下から引っ張りだした。
「できればこの石と合わせてもおかしくない色合いの……アメジストとかダイヤモンドなどの宝飾品がいいんですが……ほら、わらべ歌にもありますよね? 『何か一つ古いもの』って」
エステルが口ずさんだのは古い童謡の一節だ。
何か一つ古いもの
何か一つ新しいもの
何か一つ借りたもの――
結婚式で花嫁が身につけると、生涯幸せになれるという言い伝えと共に親しまれている童謡である。
本当はアークレインの瞳と同じロイヤルブルーのサファイアが欲しい。しかし最高級のサファイアはこの国では王族にのみ着用が許される宝石なので、婚約期間中は身に着ける事ができない。
ならばせめて、このロードライトガーネットと色の相性がいい石にしたかった。
「瑕が付いてしまってもこの石はアーク様に頂いた一番最初の宝石ですから、別のアクセサリーにするのは少し嫌なんです。リカットで小さくなっても婚約指輪として身に着けたいです」
「新しい宝石を買い足すのは気が進まない?」
「アーク様にはドレスとか靴とか、既にたくさん頂いていますから。それに、アーク様が普段使いされていたものとこの指輪の石を合わせて新たな婚約指輪とすれば、支出を抑えながらいいアピールができると思いませんか?」
「アピール……か」
マナが陰った。
「お気に召しませんか?」
「……いや、発想はとても素晴らしいと思う。そうじゃなくて……」
アークレインはどこか沈んだ表情を見せた後、がしがしと髪を掻き回した。そして大きく息をついてから、改めてエステルに向き直ると、フロックコートの襟元を飾るラペルピンを外した。それはアークレインが好んでよく身に付けているもので、大粒のダイヤモンドがあしらわれていた。このサイズだと三カラットはあるのではないだろうか。
「もしエステルが嫌でなければこれを使って欲しい」
アークレインはエステルにラペルピンを手渡した。こうして手に取ってみると本当に大きなダイヤモンドだ。手の平に乗載せると太陽の光を受けてまばゆく輝いた。
「母上がロージェル侯爵家のお祖母様から受け継いだ指輪をリメイクしたものなんだ。気に入らなければ後で一緒に他の石を探しに行こう」
「気に入らないなんてとんでもないです! でもミリアリア陛下の指輪だなんて……そんな大切なものを頂いてもよろしいのでしょうか?」
「エステルに身につけて貰えるなら母上も喜んでくれると思う」
熱のこもった真剣な眼差しに見つめられ、心臓がどくりと跳ねる。
今まで以上に過保護な態度に時折向けられる切なげな色を帯びた瞳。その二つから導き出される結論に気付かないほどエステルは鈍くない。
(もしかしてアーク様は……)
いや、まだ断定するには早い。
エステルは自分に都合のいい推測を戒める。
目の前のこの人は、エステルの異能を利用するために強引に婚約を迫り、溺愛しているという残酷な演技をこれまで行って来た人だ。
アークレインの生い立ちが持つ悲しさや孤独、そして紳士的な優しさに惹き付けられているのは事実で、彼が好きだという気持ちは自分の中に確かにあるのだけれど――
簡単に信じては駄目。心が警鐘を鳴らす。
だからエステルは、アークレインが見せる熱から目を逸らした。
ローザリアも含めた近隣諸国において、深い青は王家の貴色とされているのでこの世界にサムシングブルーはありません。




