1-5 魔術長官からの呼び出し
◇
爽やかでほんのりと甘い香りが鼻先をかすめ、マリエルの意識が浮かび上がる。
重い目蓋を押しあげると、見覚えのない天井が目に入った。
豪華な彫刻や金箔が施された格子天井に、ティアドロップ型のシャンデリア。
先ほどまでいた大広間のものでなければ、医療班の詰所のものでもない。
(どこ、ここ……)
マリエルはずきずきと痛む頭を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
その拍子に、一枚の青い花びらが袖からこぼれ落ちた。さっき感じたのと同じ匂いがする。
あたりを見回すと、ベッド脇のテーブルにひしゃげた眼鏡が置いてあった。
(……夢、じゃなかったんだ)
かけることのできなくなった眼鏡を手に取り、ため息をつく。
カインハルトの告白。
突然の爆発。
舞い散る青い花びら――頭の中で映像が奔流のように押し寄せる。
何から対処すればいいのかわからず、マリエルが頭をかかえていると、ノックが聞こえてきた。
「――あら、もう目を覚ましていたのね」
返事をするよりも先に、ひとりの女性が部屋の中に入ってきた。燃えるような赤色の髪が、起き抜けのマリエルの目に痛い。
「見た目のわりにずいぶんと頑丈ですこと」
かつかつと威嚇音のようにヒールを鳴らしてマリエルに近付く。
「ええと……クラリス、副班長?」
マリエルは顔をしかめ、自信なく女性の名前を呼ぶ。
なにせ今日が初体面だ。まだ上司や同僚の顔と名前がおぼつかない。
「ああ、眼鏡が壊れているから見えにくいのね」
クラリスは冷ややかな視線をマリエルに向けた。
マリエルは髪や服の乱れを直し、急いで姿勢を正す。
「着任早々、目立つことをしてくれたわね」
クラリスの声音には責めるような響きがあった。
マリエルは思わずシーツをきゅっと握りしめる。
「あの、私……」
「覚えていらっしゃらない? 大広間で爆発が起こり、天井が崩落したの。近くに居合わせた第二騎士団のカインハルト様が気絶したあなたを抱え、わざわざこの貴賓室へと運んでくださいました」
クラリスの言葉に、マリエルの心臓が小さく跳ねた。
(あの方が……)
カインハルトの冴え冴えとした美貌と、それとは対照的に熱のこもった声を思い出し、マリエルはうつむいた。頬が赤くなっているのが自分でもわかる。
そんな感傷を打ち消すように、眼鏡のレンズがひずんだ音を立てて砕け散った。レンズの破片に混じり、白い小さな花弁が舞う。
(うそっ!)
「きゃっ!? な、なに? 大丈夫?」
クラリスが心配そうにのぞき込んでくる。
「すみません、平気です! 元々ヒビが入ってたみたいで」
マリエルは素早く眼鏡と花びらをシーツで包んだ。
「……そう。怪我がないならいいわ」
クラリスはため息を漏らした後、すぐに表情を引き締めた。
「そんなことより、魔術長官がお呼びよ。体調に問題がなければ、すぐに向かってもらえるかしら」
腕組みをし、人差し指でトントンと叩く。
「長官が、どうして……」
魔術長官はその名の通り、国のすべての魔術部門を管掌する存在だ。マリエルのような着任したての治療術士が関われる人物ではない。
(もしかして恋衝のことが? やっぱり、隠しておくべきじゃなかったのかな……)
嫌な想像ばかりが巡り、マリエルは落ち着きなく髪を撫でつけた。
「ち、ちょっと、平気? 別にそんなに恐ろしい方ではないわよ」
クラリスは困ったように眉根を寄せ、扉の外に呼びかける。
「――タリア! この子を長官執務室まで案内してあげて」
「……うふふ。長官じゃなくてクララちゃんの言い方がアレだったのよぉ。嫉妬剥き出しにしちゃって怖ーい」
意味ありげな微笑を浮かべたタリアが中に入ってきた。
「その呼び方やめてって言っているでしょう。憶測で変なこと言わないで。あとは任せたわよ」
クラリスは眉と切れ長の瞳をきりきりと吊り上げ、部屋から出て行ってしまった。床を打つようなヒールの音がだんだんと遠ざかっていく。
「あらら。あの騎士サマのこと結構引きずってんのね」
タリアは肩をすくめた。
マリエルはわけがわからず、クラリスが出て行った扉とタリアとを交互に見る。
「ああ、ごめんね。大丈夫、怪我はない? 気分はどう?」
視線に気付いたタリアは優しげに尋ねた。
「大丈夫です。度々ご迷惑をおかけしてすみません」
マリエルはベッドから降り、折り目正しくお辞儀をする。
「新人なんだしいいのよ。っていうか爆発に巻き込まれたのは不可抗力だし」
タリアはからっと笑い、マリエルの肩を軽く叩いた。
「けどまぁ、あんなの見せつけられちゃあ、クララちゃんとしては面白くないわよねぇ」
明後日の方を向いて呟き、苦笑する。
「あんなの?」
「さぁさ、行きましょう。お偉方は時間にうるさいから、遅いと根に持たれるわよ」
タリアは問いかけを無視し、マリエルの腕を引いた。
白い花びらと青い花びらがひらりと舞い落ちる。
一瞬だけ強く甘い芳香が立ち昇ったが、すぐに遠ざかってしまった。




