家族団欒
プーカの騒動が終わってから、岸本さんは無事に退院しました。
病院に救急車で搬送され、心不全の悪化が見込まれた――そのはずが、全身の検査結果はあの年齢には珍しいほど健康的な数値が並んだそうです。
「その状態なら無論、酸素療法なんていりません。継続的に検査しつつ、奇跡みたいな健康を維持するために運動も取り入れていこう。そんな方針に落ち着いたそうです」
私はこの話を、情報提供してくれた喫茶店のマスター相手にしていました。
幸い、昼前の時間帯なので客もバイトも少なく、プライバシーを気にするほどではありません。不思議なほどの静けさに包まれた一対一での対話です。
淹れてもらったコーヒーを休み休み口にしながら、ゆったりと語らいます。
「おやおや。そこまで深い話は控えたいところだけれど、幸せそうで何よりだ。それにしても、やっぱり君は怪談を解決する文学少女じゃないのかい?」
「いいえ、まさか。今日持ち込んだ大きなバッグはマスターに作ってもらったオードブルを持ち帰るための代物ですよ?」
私は空っぽのバッグを叩き、そんな不思議な存在ではないことをアピールします。
マスターは肩を竦めながらもせっせとオードブルを詰めてくれていました。
「ところで、ご贔屓にしてもらっているのはありがたいんだけど、この料理は何かパーティ用か何かかい?」
「はい。私がいろいろと頑張ったご褒美として、おばあちゃんを家に招いてパーティを開くことになりまして。我が家の敷居をまたぐのは約十五年ぶりにもなるんですよ?」
「それはまた随分と疎遠だったんだね。しかし、込み入った話をこの場でしても大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ、魔祓い師さん。そもそもおばあちゃんとは知り合いですよね?」
これだけ深い話をしたのは当事者相手だったからです。
口にしてみるとマスターの表情こそ変わりませんでしたが、オードブルを詰める動きが一瞬鈍っていました。
彼は何事もなかったかのように作業を継続しながら問い返してきます。
「どうしてそう思ったんだい?」
「兄たちとご飯を終わらせて清算する時、私の守護霊がお釣りを猫パンチで落とさせちゃいました。咄嗟に私が謝ったけれど、マスターは全く怪訝そうにもしないで受け答えしていましたよね」
「そんなことがあったんだろうか。この歳になると、数日前にもなる記憶はね……?」
「あ、それはすみません」
むむと真剣な面持ちで呟いた辺り、本気で忘れていたのかもしれません。
別にこれでどうこうするわけではないので、私も砕けた表情を返します。
「実はプーカの望みに付き合う際、物や人に危害を加えないなら大丈夫だから、我を通してみなさいと言われたんですよね。どうして大丈夫かわかったらお願いを聞いてあげると言われまして」
「なるほど。それがパーティへの招待と」
そこまで受け答えすると、私がもう真相を祖母から聞いていることがわかったようです。
マスターは納得するように何度か頷きました。
「この娑婆だと、あやかしはすぐに疲れちゃいます。私のお守りをつけてくれることはありましたが、あのおばあちゃんがそれで安心するかといえば疑問だったんですよね。その点、魔祓い師さんがこっそり見ていたのなら納得かなと思いまして」
「はっは。名推理だよ、お嬢ちゃん。やっぱりお孫さんだねえ」
祖母が思慮深いのは共通認識なのでしょう。
マスターは親戚のおじさんのような顔で認めます。
「魔祓い師もあやかしも、互いを全否定しているわけじゃない。もちろん、診療所もだ。折り合いがつけられる範囲で協力しているんだよ」
「じゃあマスターは私のお守りをする代わりに何をしてもらったんですか? おばあちゃんもそれは教えてくれなかったんですよね。気にする必要はないって」
「それは君のスカウトだよ。私たち魔祓い師は神様の力を借りたり、神使のような獣を使役させてもらったりしてお役目を果たす。その点、霊をいくらか見える上に強い守護霊が憑いている君は非常に有望株だ。大成するのは保証しよう。こちらで働く気はないかい?」
「ごめんなさい。私、診療所で働くと決めていまして」
なるほど。私が診療所で働く意気込みを聞いていればこうして勧誘を袖に振るのも予想できるでしょう。道理で気にする必要はないと言ったわけです。
確かに魔祓い師も人のために必要だとは思いますが、その道を歩もうとまでは思えません。
「ふぅむ、やっぱりそうかぁ。あの華麗な呪符捌きや式神にも興味はないかい?」
「ごめんなさい。今は薬剤師と診療所の勉強だけでもひぃひぃ言っていまして……。おばあちゃんと同じくできる範囲ではお手伝いしますし、卒業後くらいにでもまたお話を聞かせてくれませんか?」
「ああ、いいとも。その時は歓迎しよう。この子たちも待っているよ」
「この子たち……?」
マスターが呟くと、その背後からひょっこりと顔を出すものがいました。
雪山でひょっこり顔を覗かせるオコジョのようで――しかし、耳も大きく尻尾もふっさりと大きなあやかしです。これはいわゆる管狐でしょうか。
その気配を感じるや、私の肩にセンリが飛び乗り、睨みを利かせます。この子の動物嫌いは魔祓い師さんのお供相手にも健在でした。
センリに気圧され、管狐はマスターの背に隠れます。
そんなやり取りを苦笑で見つめていたところ、オードブルが完成して目の前に差し出されました。
「お世話になりました。では、また来ます」
「ああ、またおいで」
ここは大学からもさほど遠くないので、ふらっと立ち寄るにはいい立地でした。お世辞ではなく、数日中にはまた寄ることでしょう。
会計を済ませた私は手早く家に帰りました。
自宅にオードブルを置き、まほろばにいる祖母を迎えに行きます。
しかし、わざわざ診療所まで行くには及びませんでした。
家の裏庭まで出ると祖母と斑さん、玉兎くんがすでに到着していた様子です。
この場所に初めてやって来たらしい玉兎くんは物珍しそうにあちこちを見て回っており、斑さんは縁側に座り込む祖母を気にしながらも玉兎くんについています。
私とセンリの事故を境にして十五年ぶりの我が家なのです。感傷に浸るのは無理もありません。それこそ祖母にとってはトラウマとなった傷でもおかしくないでしょう。
ええ、はい。この時が来ました。
最初から決めていたことです。
過去が尾を引いているのは私よりむしろ祖母の方でした。
大切な家族で、憧れの人。その胸に深く刺さったトゲは、私でないと抜けないのです。
「おばあちゃん、懐かしいですね。お父さんやお母さんは病院の切り盛りで忙しくなって、私はよくここで遊んでもらっていました」
五歳かそれ以前の話です。
記憶としてはかなりおぼろげですが、ここで書斎にある本の読み聞かせをしてもらったり、一部の心優しいあやかしと戯れたりした覚えだけはありました。
思い出に浸りながら、祖母の横に座ります。
……そう。
刑部は当時も私が抱き締めようとすると脚をつっかえ棒にして拒否した気がします。
記憶があらぬ方向へ脱線した時、祖母は口を開きました。
「何でもかんでも、やればやるだけ誰かのためになると思い上がっていた時期だね。小夜、あんたはそういう失敗をしちゃいけないよ」
表の動物病院の営業は両親に任せ、祖母は裏であやかしの治療。そんな両立をしていた気がします。
そうして出入りするあやかしが、動物病院に現れる悪霊という噂となってセンリが生まれました。
そのセンリに憑りつかれた私を神様が助けてくれて、祖母と斑さんはもうこんなことが起こらないようにとまほろばへ行ったのです。
「はい。おばあちゃんが教えてくれることは今まで学んできたことなんですよね」
「そうだよ。今のところ、小夜はかなりよくやってくれていると私でも思う。安心しな」
「私はおばあちゃんに教えてもらってばかりですね。でも、待っていてください。私だって勉強して、助けられる立場になりますから」
そのために薬剤師としての知識を身につけようとしているのです。
無論、医療系として同じ分野は触れているので画期的な提案というのは難しいでしょうが、日々の小さな助けにはなれるでしょう。
そうして頼もしくあることも、祖母の記憶に残る私を書き換えるチャンスです。
けれども私の意気込み表明に対して祖母はくすくすと笑いを零しました。
「小夜は一つ間違っているよ。あんたは教えられているばかりじゃない」
「それはもう薬の面で役に立てているってことですか?」
「いや、もっと前の話だよ」
「えっと……?」
もっと前となると、私が五歳の頃まで遡るわけです。
当時の記憶なんて確かなものは残っていないので、こんな言われ方をしても全く身に覚えがありません。
自分だけ納得して笑っていた祖母はようやく説明してくれる気になったのか私に目を向けてくれました。
「確かに私は小夜のことで罪悪感に駆られていたんだよ。家族に迷惑がかかるくらいならいい歳だし、あやかしのことも放って引退してしまえばよかった。そうすれば、アレルギーを患うようになった小夜を家で一人にすることもなかったからね。だけど、そうはしなかったんだ。どうしてだと思う?」
「ええっと……」
言われてみれば、そんな選択肢もあったかもしれません。
しかし祖母は傷ついた動物を拾い上げ、「仕方ないねえ」とぼやいて癒してきました。選択肢はあっても、それを選ぶとは思えないのです。
何故かと言われれば困りますが、祖母はそうして命を助けられる理想像でした。
だからこそその選択肢を選ぶのは当然で、私よりあやかしを取ったと思うこともありません。
答えを出せずにいたところ、祖母は眉をひそめました。
「てんで覚えがなさそうな顔だね。私は小夜から学んだと思っていたのに、こんな顔をされる方がショックだよ」
「……え? 待ってください、おばあちゃん。ヒントをください。ヒントを!?」
祖母が心に負った傷を癒そう。そう思ったはずが、雲行きが怪しくなってきました。
玉兎くんはこちらに気付くとさも楽し気に観戦ムードで、斑さんは私と目を合わせてくれません。
あれは絶対に答えを知っている様子です。
私が困惑していると、祖母はため息を吐きます。
「あんたがセンリに憑りつかれた時を思い出そうか。私にも、誰にも見えやしないもののせいで小夜は苦しんでいたんだよ。そんなもの、守護霊にするなんて回りくどい方法なんて取らず、すぐさまお祓いをして助けたかったところだった。その時、あんたはどう言った?」
「……覚えていませ――痛ぁっ!?」
真剣に考えた後に答えたところ、太ももに痛みが走りました。見れば、影から顔を覗かせたセンリが噛みついています。
祖母も眉間を押さえていますし、これでは私だけ薄情者です。
待ってください。熱病に侵されて唸っているときの発言。それも五歳の頃の記憶を掘り返せなんて無理があります。
うーうーと唸るセンリを抱きかかえていると、祖母もようやく妥協してくれたように口元を緩めました。
「この子のことは私にしかわからない。私しか助けられない。だから殺さないでって言ったんだよ」
「そ、それはまあ、おばあちゃんが言いそうですし、私も言うと思いますけど……」
「いいや、私ならさっき言った通り、家族を選ぼうとしたんだよ。でもその時に思ったんだ。あんたが慕ってくれる私が、そんな消極的に引退していいのかってね。こうして十五年経って思うよ。あの言葉がなければ、私は後悔していたと思う。だからね、ありがとう。小夜」
感謝されても複雑な気分です。
とどのつまり祖母は過去を克服していて、私はセンリに噛まれ損でした。
「じゃあ、おばあちゃんはどうしてここでしんみりしていたんですか?」
半ば涙声で問いかけてみると、祖母は肩を竦めます。
「引退していたらどうなったか考えていたんだよ。斑もまほろばでの基盤作りに苦労しただろうね。失敗を顧みるのはいいけど、ありもしなかった顛末を考えて落ち込むなんて、いかにも無駄な時間を使ってしまったよ。それより小夜。私が十五年も往来しなかったように余計な出入りは面倒事を呼ぶかもしれない。あんたはそこも考えて注意すべきだ」
「で、でも治療で頻繁に出入りするならともかく、私が通るくらいは……」
「先日はつららも通って、今回は雷獣とプーカも通ったんだろう? 本当に大したことがないって言えるのかい?」
「うっ……。その辺り、対策は考えます。講習会のためによく通るようになった斑さんも巻き込んでいい案を出します」
「ああ、そうしな」
先程から助け舟を出してくれなかった斑さんに仕返しをするためにも、袖を握り込んでおきました。
対応策を考案するのにとても苦労しそうですね。死なば諸共です。
彼に濁った目で恨みを訴えていると、祖母は立ち上がりました。
「さて、久方ぶりに家族団欒といこうかね。小夜、案内しておくれ」
「あ、はい。じゃあ行きましょう!」
まあ折角の祝いの席ですし、ひとまずよしとしましょう。
祖母の声に応じ、私は飛び石を渡って先導するのでした。




