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おとなりさんの診療所  作者: 蒼空チョコ
第一章 開かずの風穴と母の愛

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行灯油と化け猫

 二月中旬、大学生は後期試験を終えた頃のこと。

 私は一部科目の追試とたまに催される大学のセミナーを終えると、夕食を買ってから帰宅しました。


 忙しなかった一日が終わり、ようやく家族との団欒を迎える夕方から夜の境目ですね。

 私は以前、この時間が嫌いでした。


「ただいま」


 別に大きくもない私の声がやけに響きます。


 それもそのはず。

 父母に加えて八歳離れた兄まで階下の病院にいるからです。


 入院室で不安がる犬の鳴き声。

 従業員の忙しない足音。

 患者の来院に合わせて鳴る電子音。


 床を隔てているだけなので、静かな室内ではよく聞こえます。

 午後七時半には閉店するものの、それまでに入った患者を捌いたり、入院動物の世話をしたり、レジの金額改めをしたり――。


 家族の帰宅は八時から九時になります。


 幼い時から動物アレルギーだからと締め出されていた私にとって、この時間は友人とも家族とも会えない孤立の時間でした。


 祖母が家族との関係を断った小学生の時から私の毎日はこうだったのです。

 夕食作りに没頭することで気を紛らわせたものでした。



 まあ、診療所で働けるようになってからはむしろ待ち遠しくなったわけですが。

 今日もあやかし診療所の午後の診療からお手伝いをする予定です。


 しかしその前に一仕事といきましょう。

 大学帰りに買ってきた春の食材をテーブルにどっさりと並べます。


「ふきのとうの天ぷらに、レンコンのきんぴらと春菊の胡麻和え、鰆の西京焼き、お味噌汁。そして白米といったところでしょうか。日本酒も欠かせませんね」


 冷蔵庫や食品棚のラインナップを確認して頷きます。


 冬はおでんや鍋と体が温まる煮物系が多かった反動でしょうか。


 時期はまだ二月。

 旬には少々早くても、春の気配が目に留まると手に取らずにはいられませんでした。


 ほろ苦いふきのとうをまず塩で楽しみ、お次はつゆと大根おろしで味わい深くもさっぱりと頂くのが今日の献立です。


 いいですね。

 これぞ季節を感じる食卓です。頬張る瞬間を思うと口元が緩みます。


 あと日本酒については方々から送られてくるのですが、家族は急患対応に備えて禁酒日が多いために余るのです。

 これはいけませんね。


 火入れをしていない生酒は冷蔵庫保存が鉄則ですが、食品を置くスペースも占拠してしまうのは由々しき事態です。

 というわけで、我が家では消費する役割も重要でした。


 成人してすぐに日本酒の舌が肥えてしまったのも、もったいない精神の賜物です。


「おばあちゃんたちの分も下ごしらえしてまほろばに向かいましょう」


 あちらは自然の恵みはあっても流通が乏しいので、多彩な食材は喜ばれます。


 天ぷらは揚げたてを味わってこそなので調理は直前がいいでしょう。


 胡麻和えは春菊を茹でるくらいで、西京焼きは火を通すだけ。

 天ぷらとのタイミングさえ計れば平行作業できます。


 今日の献立なら白米と味噌汁、きんぴらを仕込んでおき、閉店頃に調理を開始するくらいがいい配分です。


「あ、そうそう。情報収集も欠かせません」


 食材を自宅用と祖母用に取り分けていた時、ふと思い出します。


 ゴシップ記事同様、テレビで特集される奇妙な事件も実はあやかしが絡む案件だったりするので役に立つのです。

 ニュース番組をつけてみるとキャスターが大学の映像を交えて話すところでした。


『先月、日本に持って来られたヒマラヤのイエティの皮。それが大学の研究でDNA鑑定され、ユキヒョウであると判明した件も記憶に新しいですね。しかしその貴重な品が先週辺りに紛失したのが明らかになりました。大学内には電子ロック等もあるため、紛失のみならず窃盗の線も考えて捜査が進んでいます』

「あらら……。こんな大事なんて管理者さんは胃が痛いでしょうね」


 映し出される会見現場に並ぶのは学長と保管責任者の教授でしょうか。

 四十代くらいと教授にしては若い一方、藤原巳之吉と古風な名前の男性が頭を下げています。


「なにかこう、既視感がある気がしますね?」


 パッと思いつきませんが、何かが心に引っ掛かります。


 例えば青酸カリなど毒劇物の紛失はしばしば耳にするので、それを思い出しているだけでしょうか。


 思考と感覚が繋がらないもどかしさは二十歳を過ぎてから増えた気がします。

 『アレ』とは何だっけと唸る父母や兄に仲間入りするかと思うと少々複雑ですね。


「おっと、いけません。お手伝いの時間がなくなってしまいますし、出発しましょう」


 疑問もそこそこに仕込みを終えた私は食材を手に家を出ます。


 我が家は古い日本家屋でしたが、十数年前に増改築して今風の動物病院と、二階にこの自宅が設えられました。

 外観に昔の面影は見られませんが、ごく一部は手つかずのまま残されています。

 それが仏間と書斎、そして庭です。


 玄関を出て、家を囲う塀沿いに歩くと南京錠付きの仕切りに行き当たります。

 ぐるっと塀に囲まれたこの空間が芹崎家で唯一変わっていない場所です。


 南京錠を開けると、目の前に広がるのは日本庭園です。

 植えられた松や紅葉の枝葉が作る影には苔がびっしりと生え、シダもそこかしこで顔を覗かせています。

 甘く、しっとりとした緑を感じさせるこの空気は立派な神社や名所でもなければ味わえません。



 この聖域を傷つけないために敷かれた飛石は三つの道に分岐します。


 一つは木製の雨戸と障子が仕切る古風な造りの仏間。

 その奥にある書斎には祖母が残したあやかしの資料が壁一面に並べられ、隙間もありません。


 あとは古い蔵と、何の文字も掘られていない石碑に繋がっています。

 この石こそ我が家からまほろばに行くための道です。


 私が石碑に二礼二拝すると一陣の風が吹き、風景は移り変わりました。

 辿り着いた先はいつもの稲原です。


 先日と同じく視線をくれるミシャグジ様に会釈し、私は丘の石階段に向かいます。

 すると、階段前で行き倒れている化け猫を見つけました。


 着物をまとった等身大の三毛猫、ミケさんですね。

 当院には火傷の治療や歯石除去に訪れる常連で、つい先日も元気な姿を見せてくれました。



 一見、緊急事態にも見えますが落ち着いて観察しましょう。

 ミケさんが灯篭の火受け皿を手にしたまま倒れた点にメッセージ性を感じます。


 ある程度状況を察した私は腕に下げたカバンに手を突っ込みました。

 取り出したる道具を手にしゃがみ込み、距離を保ったまま突いて様子を見ます。


 まずは先端を押し付けない位置でスイッチオン。


「もしもーし、ミケさん?」

「はにゃっ!? えげつないバチバチ音がするんにゃけど!?」

「あ、元気ですね」


 魔法のステッキ――バトン型スタンガンのスパーク音で飛び起きてくれました。

 やはり狸寝入りだったようです。


「物騒なものを取り出して! こういう時は優しく介抱するべきじゃなーのかにゃ!?」

「うずくまる子供に化けたのっぺらぼうだとか、ホラー映画の化け物だとかいるじゃないですか。第一接触は気をつけなさいとおばあちゃんに教育されていまして」


 スタンガン、催涙スプレー、防犯ブザーは三種の神器です。

 口述する代わりに取り出してみせるとミケさんは引きつった表情でした。


「それでミケさん。どうかしたんですか?」

「う、うにゃあねぇ、特になぁんも用事はないんだけど、この灯篭。昔は油を置いてあったにゃぁと思い出してうずうずしちゃったんだよ」

「油を足す度に舐め取られたから鬼火に変えたとおばあちゃんが言っていましたね」

「惜しいことだにゃあ」


 諸悪の根源は肉球を頬に当てて唸ります。


 昔の猫は行灯に使われる魚油や菜種油で栄養不足を補っていたという話です。

 人は油を舐めようとする猫を障子越しに見て、二本足で立つ化け猫がいると考えたそうな。



 はい、実はここにあやかし特有の注意点が潜んでいます。


 状況をよく捉え直しましょう。

 そもそも真っ昼間は室内に日差しが入らず、障子越しに姿は見えません。

 障子越しにシルエットが見えるならば、映写機のように真横からの光源が必要です。


 つまり夜に火がつけられた行灯の油を舐めにいく猫の姿こそ、化け猫の正体でした。

 よって物語を忠実に再現するなら、化け猫は火がついた行灯にも強く惹かれるのです。


 そんな出生が関わるため、化け猫さんは行灯の油を舐めようとして額に引火。

 火傷の治療に来るという事故がしばしば起こります。


 なんとも奇妙な流れですが、これがあやかしにとっての『生活習慣病』なのです。


「口にしたらダメですよ。この皿に乗せてあるのは似ても似つかない塩です。化け猫さんは猫と同じく泌尿器系の病気も多いですし、こんなのを舐めちゃ大変です」


 そういう事件に擬態していたのでしょうか。

 私は地面に落ちていた火受け皿を手に取りました。


 石階段の両脇にある灯篭には赤色の鬼火が揺らめいています。

 これは休診中を意味する色です。


 診療再開辺りに患者が飛び込んできて忙しくなり、色変えを忘れたのでしょう。


 灯篭の屋根にしまってある空の皿と交換してみると、あら不思議。

 色は赤から標準の青色へと変じました。


「鬼火の色変えなんてよく思いつくにゃあ?」

「私としてもあやかしにまで通じるとは少々驚きでした。でもこれは炎色反応と言って、花火にも利用される割と有名な現象ですよ」


 鬼火でもその性質は火と似ているし、化け猫であれば猫と似た性質を持つといった具合で、あやかしには案外、現代科学が通じます。

 意外にも思えますが、これこそ現実に空想が混じってあやかしになった証拠のようです。


 しかし、まほろばでは現代知識があまり浸透していません。

 あやかしに現代知識を説くのは田舎のおばあちゃんに最新の電子機器のお話をするようなものです。


「花火は江戸時代からあったと聞きますが、馴染みないですか?」

「その頃は色を変えないただの火花って感じでにゃあ。そもそもあやかしは昔の人間の生活に寄り添って生まれたもの。ここの住民の大部分は文明開化で住みづらくにゃったから移住してきたくらいだし、現代知識を取り入れようって発想がそもそもないのにゃ」

「なるほど。ミケさんも行灯がない文化だと困りますもんね」

「そういうことにゃ」


 ミケさんたちの居住区はそれこそ江戸の長屋や茶屋などが並ぶ歴史風景です。

 あやかしにとっては当時のままこそ生きやすいのでしょう。


 また一つ勉強になったと頷いていると、ミケさんはにんまりと口元を緩めます。


「あやかしはどーしても習性には抗えんものなのにゃあ。昔の光景に突き動かされて塩を舐めんためにも、ツナ缶をもっと入荷してくれにゃいと」


 食材が入った手提げに視線を落とされ、ようやく理解できました。

 つまるところ、これを言いたいがための前振りだったのかもしれません。


 ミケさんはツナ缶を思い描いているのか、舌なめずりしています。


「あやかしの習性って、人にとってのお酒や煙草みたいなものなんですか?」

「いやぁ、もっとにゃ」


 ミケさんは真剣に私を見つめてきます。


「まほろばにいれば単なる癖くらいだけど、下手に我慢をすると禁断症状が出かねにゃい生活の一部。それどころか、意識もせず行動してもおかしくにゃいもんでにゃあ」

「液体でもないんですが、塩と油を見間違えます?」

「ないとは言えんにゃ」


 そうなんですか。そうなんにゃ。

 と、即座に肯定されますし、化け猫さんたちが幾度となく額を焼いた来院歴を思い出すとより一層真実味が深まります。


 そして、ミケさんは真顔から一転、破顔しました。


「ツナ缶は人もよく作ってくれたにゃあ。ツナにわざわざ油を足す発想を褒めたい!」

「私たちの世界は皆さんにとって気軽に出歩けるところでもないんですよね。わかりました。今後はできるだけ融通しておきます」

「おおー。話がわかるお孫さんにゃあ!」

「その代わり、こちらの名産品でもごちそうしてくださいね?」

「タケノコ、キノコ、山菜、魚、山鳥……。いくらでもにゃんとかしてあげよう!」

「いいですねえ。日本酒と一緒に頂きたいです」


 どんと胸を叩くミケさんに私は垂涎の顔で頷きかけます。


「それにしても、小夜ちゃんは本当に食べるのが好きな人だにゃぁ」

「ちょっと違いますね。私は単に食べることじゃなく、誰かとご飯を食べにいったり、料理を作ってもらったりすることが好きなんです」

「流石、美船先生のお孫さん。図太いにゃ」

「料理には誰かが作ってくれたものだからこその美味しさがあるじゃないですか。それがいいんですよ」


 なにかこう、誤解をされている気もしますが先を急ぐので置いておきましょう。

 ミケさんはその肉球でぎゅっと握手した後、去っていきました。


 若かりし頃の祖母がどんな風にあやかしのお願いを聞いてきたのか想像できます。

 せっかく同じ場にいるのですから、付き合いも悪くはありません。


 その後、私は診療所の裏口から入って着替えを済ませて仕事場に向かいます。



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