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おとなりさんの診療所  作者: 蒼空チョコ
第三章 鉄鎖の化け物

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あやかし街と急患の言霊

 あやかし街の夕市というのは、それこそこの世あらざる幻想に満ちていて、とても魅力的な場所でした。

 ですが、それ以降もまたあやかしクオリティー満載なのが曲者です。

 魚を盗むどら猫ならぬ猫又が現れるのも、それを追う獄卒っぽい鬼が現れるのも、その大捕り物の末にハリウッド映画じみた乱闘、爆発が起こるのもご愛敬。

 あやかしが空に吹っ飛び、家屋の残骸が雨の如く降り注ぐ様に私が声を失っていても、つららさんやミケさんは気にすることなく市場を練り歩いていました。

 超常の力を持つ彼らにとってはこれもまた日常なのです。

 騒ぎがあった後は総出で片付けとなり、大工仕事をするあやかしが修理する――これも江戸情緒じみた空気なのでしょうか。

 温かくも、人間には御しきれるか不安になるスケールでした。

 こんな様を見せたのも、もしかすると社会科見学の一環だったかもしれません。

 大丈夫。膝が少し笑っていますが、私たちは無事に買い物を終え、あやかし診療所に帰り着きました。

 望む道に足を踏み入れた感動?

 もちろん忘れちゃいませんが、それとこれとは別です。

「お、おばあちゃん。ただいま帰りました……」

「おかえり。いいものが見れたようだね」

「はい……」

 娑婆で斑さんが兄の肩を借りて歩いたあの光景。あれが今の私の姿です。

 おかえりー! と玉兎くんも元気よく迎えてくれたのですが、私はなけなしの作り笑いを返すのみでした。

 ぼろぼろな私を放置して、つららさんとミケさんは歩み出ます。

「美船先生、小夜ちゃんは課題をこなしたって聞きましたぁ。お祝いさせてくださいー」

「にゃあ!」

「ああ。この日が脳裏に焼き付くよう、ぜひ祝ってやっておくれ」

 やはりこれは教育だったのでしょう。このやりとりで確信します。

 私は近くの椅子にもたれかかるのが限界で、普段のように口は回りませんでした。

「主役や美船先生にご飯を作らせるわけにはいかないし、今日は僕が用意しよう。慣れない場所で小夜ちゃんも疲れただろうし、ゆっくりしておくといいよ」

「はい……。予想外の事件でした……」

 驚愕に続く驚愕でアドレナリンが大放出した反動でしょう。斑さんが言うように意外なほど疲れが出ています。

 つららさんとミケさんはここによく出入りすることもあり、そのまま斑さんの調理を手伝いに行きました。

 特にミケさんは焼き鳥など鳥料理の名人です。

 素焼きが振る舞われることも多く、私にそのままべったりとついてきているぬえちゃんのみならず、声を聞きつけた刑部も姿を現しました。

 私は深呼吸で息を整え、祖母を見つめます。

「驚きました。これもまたあやかしの世界なんですね」

「京都も含めてね。まあ、あやかし街は土地柄で特に騒がしいのは確かだよ。診療所ではそこまでの騒ぎを見たこともないだろう?」

「そうですね。あるとすれば注射が嫌だと駄々をこねるとか、急患の慌ただしさくらいでした。今日は静かなままで何よりです」

 何気なく――。

 そう、何気なく放った私の言葉で祖母と玉兎くんは急に真面目な顔になって病院の受付の方に視線をやりました。

 待ってください。たった今のは不意に出た失言です。

 しかし現実は私の思いとは裏腹に進行していきます。

 どっどっど……、と。最初は小さかった音が徐々に大きくなり、地震のように振動まで伝わってきました。

 一瞬、音が途切れたかと思うと、猛烈な音と揺れが入り口の方から襲ってきます。

 玉兎くんは落ち着きつつも素早く行動し、その正体を確かめに行きました。

 直後、声が返ってきます。

「美船先生、急患でーす」

「……小夜。言霊」

「あああああっ、ごめんなさいぃーっ!?」

 今日は静かだとか、急患がどうのとか。そういう言葉をぽろりと零すと来院があるのが医療系にかけられた呪いです。

 雷獣の時には見逃されたのですが、お祝いごとを控えている程度では許されませんでした。というより、より濃厚なフラグが潜んでいたタイミングでしたね。

 ともあれ、そんなジンクスがあっても来るものは来るのです。私と祖母もすぐに現場の確認に向かいます。

 私たちが玄関で前にしたのは巨大な鬼でした。

 頭にハチマキ、腹かけ、ふんどしなどと不審な出で立ち――いえ、これは飛脚の服装です。彼は玄関の柱をこんこんとノックし、こちらを覗き込んでいます。

 総出で迎えると鬼は身を引き、玄関前を指差しました。

 そこにいたのは首に鎖をじゃらじゃらと巻いた馬です。全身から血を流し、いかにも重傷という様子でぴくりとも動きません。

 この鬼はこうして急患を送り届けてくれる存在の一つです。

 筋骨隆々の彼は、あとは任せたと言うように指を立てると、また地鳴と共に去っていきました。

 さて、いろいろ起こりましたが頭は謎の馬に切り替えなければなりません。

 この姿に覚えはありませんが、正体ならすぐにわかりました。『鉄鎖の化け物』と言われたあのプーカです。

「娑婆でまた騒ぎを起こしていたら、ついに魔祓い師と遭遇しちゃったって話です」

 飛脚の鬼から話を聞いたらしく、玉兎くんは祖母に概要を伝えました。

 祖母は嘆息を吐きます。

「いつかなりかねないと思ったけど、指図する間もなかったねえ」

 あやかしは基本的に騒ぎを繰り返すことはありません。こうなることがわかっているからです。

 岸本さんの家に残った馬がプーカであり、何かできることはないかと呼びかけてからほんの半日程度です。私も動揺が隠せませんでした。

「小夜。話を聞く限り、あんたは十分に気を遣っていた。それより、輸液とアドレナリンの準備! あんたが反省するのは自分が用意した薬が間違いだった時だけで十分だよ」

「はっ、はいっ!」

 何はともあれ、まずは処置です。

 私は処置室に戻り、騒ぎを聞きつけた斑さんに急患の旨を伝えて指示を果たします。

 輸液は血圧の維持。アドレナリンは心停止からの治療や血圧の維持のために必要な薬です。あれだけの出血で心臓が止まったり、血圧が下がったりしていることに備えての指示でしょう。

「はーい、ごめんよ。患者が通りまーす」

 私が輸液のパックと点滴器のラインを繋いだ時には、玉兎くんがプーカを背負って手術室に運び込みました。

 純粋な神使なだけあって玉兎くんの腕力は見た目の何倍もあります。

 心電図がすぐに取りつけられ、斑さんが血管に留置針を入れます。

 そうして輸液を繋いでいる間に祖母は術衣に着替えて始めていました。

 手術帽を被ったり、ガウンに袖を通したりするのと並行して心電図の数値を確認しています。

「ふむ。体が大きいし、騒ぎを起こしていただけあって力が充実しているのか見た目より状態が悪くないね。小夜、アドレナリンはいらない。玉兎、レントゲンを撮りな」

「りょーかいです!」

 馬の体を平気で担いだように、玉兎くんは体位変換もお手の物でした。

 私は指示されずともレントゲン処理用のパソコンの前に立ち、患者の情報を打ち込んで準備します。

「ほい、小夜。横臥位ラテラルね」

「わかりました」

 レントゲンの機械から投射された放射線を患者の体越しに受け取るフィルムを受け取り、それを読み取り機に差し込んで造影を待ちます。

 がん検診や骨折の確認に使うイメージしかないかもしれませんが、とんでもありません。これほど素早く、多くの情報を得られる医療器具はないでしょう。

 レントゲンは空気なら黒く、水や固いものなら白く映る仕組みです。

 その影の濃淡によって体内で出血があるのか、臓器が捻じれていないか、骨折があるかなどが即座に把握できるので、祖母と並んで確認します。

「よし、傷は体表くらいだね。幸いだ。止血と縫合だけするよ。斑は補助。小夜は電気メスの準備! あと高齢の馬だから手が空いたら尿検査とエコーをしていくよ」

「はい!」

 小さな血管からの出血は基本的に焼いて止めることが多いです。

 このプーカも筋肉の傷から出血しているだけなので、血管からの出血を焼いて止めた後は縫合という方針になりました。

 今まで私服でほんわかと会話していたのが嘘のようです。

 処置がなければ入れ替わり立ち替わりスクラブや術衣に着替えるという具合であっという間に手術風景となり、つららさんやミケさんは私語も謹んで遠くから見つめていました。

 近寄りがたい空気だったのでしょう。壁の影からひっそりと覗く。そんな姿がここにはありました。


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